法政大学社会学部准教授
白田 秀彰
(SHIRATA Hideaki)
2012年10月に著作権法が改正されたことにより、インターネット上に違法にアップロードされた映像や音楽などをダウンロードする行為に対して、2年以下の懲役または200万円以下の罰金、もしくはその併科という刑事罰が科せられるようになった。
しかし、この改正には違法コピー排除の実効性に乏しいこと、警察の捜査権の濫用につながることなどから日本弁護士連合会(日弁連)やインターネットユーザー協会(MIAU)などが反対を表明していた。
この問題には、実は私たちが法というものに向き合うことについて、現代社会が抱える問題があらわれている。それが何であるのか、知的財産を専門とする法学者の白田秀彰氏にお話をうかがった。
(春近 敬)
【今回はインタビューの後編を掲載、前編はコチラから】
■法律と善悪の観念
――しかし、この著作権法改正の問題性に関して、インターネット上の議論では話題となったものの、社会全体としては大きな声とならなかったように思います。むしろ、「罪を犯した者に厳しくあたって何が悪いのだ」というような意見が多く聞かれます。このような風潮はどういうことによるのでしょうか。
白田 物事の善し悪しを考えるというのは、かなり大変な作業なのです。ある行為が正しいかそうでないかというのは、複雑に絡み合った物事のなかでなかなか一義には決まりません。仏教では縁起ということを言って、善いも悪いもないという立場だと思いますが、私もそういうものだと考えます。ところが、法律学というものは、それを何らかの努力によって一定の枠として基準を定めていく営みです。
日本も江戸時代までは、善し悪しを自分たちで決めたうえに秩序がありました。しかし、明治維新を経てヨーロッパから法律を輸入しました。これは当時の記録を見ると明らかなのですが、それまでの日本の善悪の観念を西洋的な善悪の観念で上書きしていくときに、「なぜ悪いのか」に対して「法律がだめだと言っているからだ」という説明を受け入れてしまったのです。自分たちで善し悪しを判断するのでなく、法律にそう書いてあるから悪いのだと。
――自分たちの判断よりも、輸入してきた法律によって善悪を定めたのですね。
白田 それでわれわれは思考停止になっているわけです。われわれが生きているなかで、これは抑止したほうが良い、これはやめたほうが良い、ということを「悪いこと」と定義して、法律によって禁ずるというのが手続きとして正当であるのに、われわれは、誰かが決めた法律で「悪い」とされていることを「悪い」としてしまいがちなのです。ですから、法律に少しでも引っかかることをすると「この人は悪い人なのだ」と決めつけて、日ごろの恨みつらみや鬱憤(うっぷん)をその人にたたきつけて、あしざまに罵(ののし)るようなことが起きるのです。
例えばアメリカならば、議会が法律をつくっても、国民がその法律の合憲性を問う訴訟を起こし司法過程を経ることで、その法律を停止するようなことが起こりえます。しかし、日本ではいったん国会が通した法律に対して人々が反旗を翻すということは、まず起こりません。法律自体が正当かどうかを問い直しません。むしろ、日本においてはそのような問い直しを一般の人はやってはいけないかのような風潮があります。
そうなると、法律をつくる人間が「これは悪いことですよ」と決めることができて、みんなが「そうなのか」となびいてしまいます。法をつくる側になれば、悪い人間を名指しすることもできる状況になっているのです。これは、あやうい事態ではないかと思います。われわれは怠っているのだろうと思います。われわれは、人間や社会に関する洞察を踏まえ、全体状況をみながら善悪の判断をしなければならないのに、法律家ですらも、全員がそうであるとは言いませんが、法律の条文にこう書いてあるからこうなのだ、となりがちです。
■判断の基準
――法律にあるからだめなのだ、という考えが明治からの近代化の過程に組み込まれているとするならば、それは非常に根本的なところからとらえ直されなければならない問題ですね。
白田 本当はそうなのです。教育で改善するという手段があるのですが、著作権の話で言えば、現在の流れは、むしろ子供たちに知的財産権の啓発教育をする流れになっています。これは現在の著作権のあり方が自明であることを前提としてそれを教えることです。これでは、著作権のあり方それ自体が、いまの人や社会の状況と調和しているのかという問い直しがされないまま固定化してしまうことになります。
マイケル・サンデルの正義論が注目を集めたように、おそらく人々のなかに「正義とは何か」ということに対する飢餓感があるのだと思います。学校では「何が正しいことか」ということを自分で判断する訓練がまったくなされません。それは、学校で教えられることはすべて正しいことだと信じなければ、受験に勝てないという考えが一般的なためです。ところが、学校を出て世の中に放り出されてみると、それまでの規範や正しさの基準が崩れてしまい、善悪の区別が立たなくなります。本来ならば、そのときに「私はこのような理由でこれが正しいと思うのだ」という判断力がなければならないのですが、その訓練をしていませんから、法律に善悪を委ねることになるのです。逆に、ある人々は、善悪が複雑に絡み合う世の中で、何物も基準とならない底の抜けたような感覚にとらわれてしまい、引きこもってしまうということも起こるのだと思うのです。世の中の善悪は、簡単に答えの出る問題ではない、ということを若い人は知らないのです。もし、一人ひとりの中に正義とは何かを考える基準があれば、今のように雪崩を打って誰かをバッシングするということにならないと思います。
――明治時代の仏教者は、法律と道徳と宗教との関係をどのように考えるかを大きな課題としていました。
白田 おそらく明治の仏教者たちにしてみれば、自分たちとまったく違った価値観で組み立てられた西洋法が入ってきて、しかもそれが明治政府の「正統教義」になったことで困ったのだと思います。しかし、お寺の住職が人から何かしら相談を受けたときに、「民法第何条によってこうなっているのだから、我慢しなさい」とは言わないと思うのです。それだと、おそらく相談した人も納得できないでしょう。権力をもって強制されてくるルールが、明らかに自分たちが先祖代々継承してきたルールと合わない、それを受け入れなければならないということで、いろいろと立ち位置を模索したのだと思います。
■自ら選ぶということ
――何かに任せずに善悪を考えていくために、私たちはどのような意識づけが可能でしょうか。
白田 一般に当たり前のように言われていることを「本当か」と問うことです。例えば、物の所有権は当然に保証されなければならない、とわれわれは思っています。そこを「本当かな?」と思って、歴史を調べてみるとそうでない時代があったことがわかります。知的財産権についても、調べてみたら所与のものでなく、歴史のなかで人工的に作りあげられてきたことがわかります。ある判断がなぜ起きたのか、ということを考えて、自分で説明できなかったら、それはなぜだろうと問うことがひとつのきっかけになると思います。
それから、西洋哲学でも東洋哲学でも、長い歴史のなかで考えを導くための手順や方法が積み上げられてきました。それを学ぶことです。そのことによって、「誰かの意見だから」でなく、ひとつひとつ積み上げるかたちで、ある物事は善いのか悪いのか、ということを判断するように心がけるしかないでしょう。われわれには、根拠無く教え込まれたことがたくさんありすぎるために、それが目くらましになっているということがあります。
――考えないほうが楽である、ということが経験知とされていると言いますか、そのほうが生きていきやすいと思われているかのような風潮があります。
白田 その話で思いつくのが、古代ローマです。 古代ローマ人は、長い期間にわたって経験と判断を積み重ね、正義について検討し法を生み出し、それを体系的に構造化していきました。ところが、その法の構造がしっかりしたものになると、それを導き出した考え方を時代に合わせて検討する手間を、次第に省き始めたのです。これは古代ローマ人に限らず誰でもそうで、社会が安定して規範が確立してくると、「まあ、こうなっているのだから」と、その規範がなぜ始まったかということを顧みなくなります。社会が安定している間は、それで十分に社会は回りますし、手間がかかりませんから、その傾向はどんどん加速していきます。
ところが、いったんそのような考えの土台となっていたものが崩れたときに、そこで何も考えていなかった人間は、何が当てになって何が当てにならないか、何が正しくて何が正しくないかがわからなくなってしまいます。ヨーロッパの場合は、ローマ帝国が滅びた後にローマ法の基本的な考え方や形式は残るのですが、結局はその後に支配したゲルマン系の民族が、自分たちの慣習からもう一度法を作り直すことになりました。
今の社会は非常に緻密(ちみつ)に組み立てられていて、それがもともと何だったのかをもう一度問い直す手間や苦労が非常に大きいです。ですから、誰もがそれを怠っているのかもしれません。今の学生を見ていると、誰かに与えられたたくさんの観念に支配されていることを感じます。しかし、人間が生きていく過程というものは、人間の想像力をはるかに越えた多様性があります。人の生き方に決まった道のりなどないのだということを踏まえて、そのうえでなおかつ自分はこのように考え、選んだのだ、ということができるのが望ましいあり方なのではないでしょうか。
(文責:親鸞仏教センター)
(前編はコチラ)