愛知県立大学文学部准教授
與那覇 潤
(YONAHA Jun)
近代日本の歩みは、しばしば西洋の文明をどのように受け入れたかという「西洋化」の文脈で語られる。これに対して、『中国化する日本』(文藝春秋)の著者である愛知県立大学准教授(日本近現代史)の與那覇潤氏は、むしろ「中国化」という概念から近代を読み解こうとする。
明治以降の日本社会は「中国化」する動きと、再び「江戸時代化」しようとする動きの間で揺れ続けているのであり、現代の社会もなお、この構図の中にあるのだという。そのような日本の近代化は、今日の私たちにどのような影響を与え続けているのだろうか。お話をうかがった。
(春近 敬)
【今回はインタビューの後編を掲載、後編はコチラから】
――日本において近代とは「西洋化」であるといわれます。その西洋化に対してどう応答したかということが、明治以降の日本史の語り方でした。近代の仏教について考えていく際にも、この枠組みは非常に重要なものです。ところが、『中国化する日本』などの先生のご著書によれば、日本の近代とは単純な西洋化ではなく「中国化」であるとお書きになっておられます。まずは、このあたりのことについてお聞かせください。
與那覇 明治維新によって「西洋化」したといわれることのかなりの部分は、実は「中国化」だったのではないか。実は宗教の問題は、このような捉えなおしによってこそ、よりよく見えてくるものの典型です。
西洋的な近代化であれば、それにともなって世俗化が進みます。つまりヨーロッパにおいては、人々がキリスト教的な世界観から自由になっていった。そのあらわれが政教分離ですね。政教分離と世俗化の進行によって、思想や言論の多様性も拡大します。それまで許されなかった宗教的な教えに逆らう思想も、自由になっていくわけですから。これが西洋的な近代化です。
ところが日本の近代を考える際に多くの人を悩ませてきたのが、江戸時代と明治以降とを比べたときに、後者の方が明らかに思想的に不自由になっているという問題です。たとえば天皇の存在について、江戸時代の人々は特に気にかけたり、タブーに気を遣ったりする必要がなかった。逆に明治から戦前にかけての方が大変で、しばしば「不敬事件」が糾弾されたり、弾圧されたりしたわけですね。
この「近代化したにもかかわらず、思想的には不自由になった」という史実をどう解釈するかということで、さまざまな論争がありました。一方の極には、戦前の日本はいわば天皇教の宗教国家で、国家神道という画一的な宗教が全国民に強制された暗黒の時代だった、と書く人がいる。もう一方の極には、別に国家神道なんてなかったのだと。あれはヨーロッパの近代国家にも存在する市民宗教の一種で、国家という公共性を支えるためのルールだったのだから、戦前にも「日本的な政教分離」が達成されていたと見るべきだという意見がある。しかし、どちらも多くの人を説得するのは難しいでしょう。
人々が身分制から解放され、職業の選択や経済的な取引も自由になったのに、思想的には画一化されて不自由になっていくというのは、近代化を「西洋化」として捉えている限りは、説明できないのです。だったらむしろ、明治以降のプロセスを「中国化」として把握してみませんか、というのが、私の『中国化する日本』の提案なんですね。西洋化であれば、経済が自由になっているのに思想が不自由になるのは矛盾です。しかし、中国化では矛盾しない。
中国では特に宋朝以降、経済的な自由化が世界に先駆けて進みました。科挙が導入されて身分制がなくなり、貨幣経済が普及して、村落共同体に縛られずに個人がお金で自由にビジネスをする社会になった。しかし思想的には多元化ではなく、むしろ画一化が進行したのですね。科挙とは儒教道徳をどれだけ身につけたかを判定する、一種の思想試験ですから。特に南宋に朱熹(朱子)が出て以降は、儒教の諸派の中でも朱子学のものが公定の正しい解釈とされ、それに沿った答案を書いた人が選抜されるようになりました。社会的に正しいとされるイデオロギーが、一つに定められていったわけです。
このような「経済だけは自由化、思想的には不自由化」が、よくも良くも悪くもヨーロッパとは異なる、東アジア独自の社会の発展経路なのだと思うのですね。だから現在の中国共産党も「市場取引は自由、体制批判は厳禁」のままで、しかもそれが通ってしまう。このような状態は対岸の火事ではなくて、近代日本も実はヨーロッパではなく、東アジアの発展経路に乗ってきただけなのではないか、というのが私の見立てです。
――儒教ということから一つお伺いしたいのが、明治中期の宗教界にあったひとつの議論についてです。当時、倫理道徳に対して仏教は、あるいは宗教はいかにあるべきかという議論がなされていて、ここでいう倫理道徳もやはり仁・義・礼・智・信であり、忠孝です。日本の近代化において、儒教道徳はどのような役割を果たしたのでしょうか。
與那覇 実際、私が「中国化」の概念を構想するときにいちばん参照したのも、明治維新を儒学者の役割に着目して描きなおす思想史の研究動向でした。しごく乱暴に要約すれば、たとえば近代天皇制は「天皇制の儒教化」としても位置づけられる。
そもそも儒教には、ほとんどギリギリのところまで「世俗化した宗教」ともいうべき性格があります。それを国家の骨格として最初に採用したのが、宋朝以降の中国やいわゆる李氏朝鮮に代表される、近世東アジアの諸王権です。これに対して江戸時代の日本は、強いていうならば仏教国家でしょうね。檀家制度があって、すべての国民は寺に帰属させられることになっていたわけですから。
中国思想史の立場から刺戟的な日本史論を発信している小島毅先生は、徳川時代の途中から「仏教を倒すために儒教・神道が連合した」という理解をされています。もともと神仏習合と呼ばれる混淆状態にあったはずが、「正統と異端」を厳しく切り分ける儒教の発想が神道に入ることで純粋主義化し、仏教を駆逐してゆく。その結果、明治維新の初期には「神道だけを取り出して、仏教は排除しよう」とした廃仏毀釈などの、大混乱が起きたわけですね。いまふうにいえば儒教を触媒として、神道の原理主義化が起きたとみなすことも可能でしょう。
しかし、これはアカデミズムの外部で評論家の山本七平などが生前強調したことですが、戦前の日本人は後になって「それが儒教であること」を忘れてしまった。むしろ自分たちの信仰の対象は日本の「国体」であり、100パーセント日本原産のオリジナルで中国のものも西洋のものも混ざっていないのだと、誤認されるようになったのです。その行きついた先が、戦時中に猛威をふるった日本主義や皇国史観でした。
――もう一つ問題となったのが、学問と宗教の問題についてです。近代仏教の嚆矢である井上円了は、学問的真理と宗教的真理は一致すると考えていました。しかし、清沢満之や村上専精といった仏教青年たちが活動する明治30年代ごろになると、そのような素朴な理解は受け入れられなくなってきます。
この問題を、日本の近代化を西洋化への応答とみる図式で考えれば、西洋の学問を仏教者がどのように受け止めるかという形で理解できます。先生のおっしゃる中国化という文脈では、学問と宗教との関係をどのように考えることができるでしょうか。
與那覇 国家神道(と呼ばれるもの)がそれまでの神道と比べて異質なのは、教育勅語のような「教典」らしきものができてしまったところです。それをもたらしたのが、先に述べた天皇制の儒教化、すなわち中国化ですね。それこそ大陸では科挙とワンセットになっていたように、儒教文化には文字化されたテキストに典拠を求めて、理屈で押していくという「学問」的な側面がある。そこが、同じ神道といっても村の氏神様にお参りするような、いわゆる民俗宗教とは違うところです。
もっともそれでは儒教的な経典の重視を、キリスト教における聖書やイスラームにおけるコーランと同じといってよいかというと、そこは難しいのですね。経典の文言を逐語的に解釈しているのは儒学者くらいのもので、中国ですら多くの人は儒教といっても、葬式のときはマニュアルに従ってこう振る舞う、といった儀礼的な部分でしかつきあっていないといわれますから。つまり、学問的な営為の対象となるようなテキストはあるものの、セム系一神教ほど教典主義が徹底していたともいいにくい。そもそも教典のない日本の民間信仰と、プロテスタンティズム的な聖書至上主義とのちょうど中間くらいに、儒教が入るのかもしれません。
このように見た場合、教育勅語のような「明文化された教え、徳目」の制定に至った近代日本の中国化は、教典を設けるという意味ではあるところまで西洋化と合致していた。それが、もっぱら慣習に立脚する民俗宗教では統合できない「国民」という範囲での統一を可能にすると同時に、イデオロギー的な思想統制という負の側面も招いた、とみるべきかなと思います。
(後編へ続く)