親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い 第223回「ブッダの中にアイはない!?」

伊藤研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

 9月末、長期に及んだ首都圏一都三県への緊急事態宣言がいったん解除となったが、相変わらず生活はストレスフルである。そんな中、少しでもすっきりしたいと、雑然としたデスクの片付けを試みた。するとある小さなピンバッジがどこからか出てきた。数年前に開催された仏教学に関する学会で、記念品として一人ひとつずついただいたもので、ありがたい仏像が描かれている……のではなくて、仏教に関するジョークまたはアフォリズムのような一節などが英語で記されている。学会主催校の事務局長を務められ、ジョークの達人として知られるケネス・タナカ博士が米国から取り寄せたものだという。


 私がいただいたバッジの文言はあとでご披露するとして、学会の懇親会でほかの参加者の方々とバッジを見せ合ったとき、思わず「くすっ」と笑ってしまった例をまずご紹介したい(恐縮ながらこのピンバッジが今月の「出会い」なので、あまり「ピン」とこないかもしれないが、今回は「くすっ」と言うと同時にコロナ禍のストレスもほんの少しでも「すっ」と吐き出しながらお読みいただきたい)。さてそのバッジの文言は——


 There is no I in Buddha


 直訳すれば「ブッダのなかにアイはない」。ジョークを解説するなんて「冗談だろう?!」という読者の声は聞こえないふりをして敢えて説明すれば、”Buddha”という単語の綴りのなかに”I”という文字はない、というのが文字面(もじづら)の意味。だがオチは”I”には「私」「我(われ)」という意味もあること……。なんとも洒落た「無我」の表現である。「ユーモアは仏教の教えを伝える効果的な手段でもあるのです」と、タナカ博士は言う。

 これに類したものでインターネットでもたくさん見かける有名なジョークがある(ジョークの常として、出典や創作者は不明・匿名のまま、いま風に言えばあちこちに「拡散」されている)。


 Why can’t the Buddha vacuum clean corners?(なぜブッダは掃除機で部屋の隅っこを掃除できないのか?)

 Because he has no attachments!(彼にはアタッチメントがないからさ!)


 ここではattachment は掃除機の先端に取り付ける隙間ノズル。でももう一つの意味は……「執着」だ。私たちも心の隅々にまで掃除機をかけたいものだが、掃除機自体も心だから、そこにはどれほど、どんなノズル(attachment)が付いているだろうか。


 数年前に欧州評議会を訪れたダライ・ラマ法王のニュース映像がある(これは冗談抜きで実話です)。神妙な顔つきで居並ぶ評議会のお偉方を前にして、ダライ・ラマ法王は「私はスマイル(笑顔)が大好きです。相手が笑顔になると私もとてもハッピーになれます」と切り出した。「でも相手があんまりまじめくさった顔をしていたら、こうすればいいんですよ」と言うなり、隣に座っていた理事の脇腹をいたずらっ子のように指で「つんつん」とひと突き、ふた突き!会場は爆笑に包まれた。「神秘の国の法王」に対する評議員たちの先入観というattachmentが一気に消えてなくなったに違いない。

 そんなダライ・ラマ法王が登場するジョークもある。誕生日プレゼントをもらったダライ・ラマ法王。だが箱を開けてみれば中身は空っぽ。そこでひとこと——”Just what I wanted, nothing!”(ちょうどほしかったもの、無(む)だ!)。


 笑いは消化によい、と哲学者のカントが言ったらしいが、確かにしょうかもしれない(え?誤植ですって……?)。だが笑いは一歩間違うと恐ろしい凶器にもなる。人を軽蔑し、文字通り笑い者にして傷つけるようなジョークは許されない。そうしたジョークを聞いてどっと周囲が笑えば、それはもう集団暴力だ。ぜひ心して「消化によい」笑いを噛みしめたいものである。

 もちろん仏教は人間の深い苦悩に救いの手を差し延べるものであり、特にコロナ禍で悲しみや不安が世を覆う中、切実な思いで宗教に向かう人も多いだろう。だがそんなときにも、ちょっとした笑いが、心を一瞬でも明るくするささやかな燈(ともしび)になることもあるのではないだろうか(今回の本欄もそんな思いで書いた)。


 最後に、学会で私がいただいたバッジに何が書いてあったか。それはジョークではなかった——Outside Wise, Inside a Fool(外見は賢人、中身は愚者)。心の奥底をグサっとひと刺し。みずからの存在の真実に対し深き反省を迫られるピンバッジであった。

(2021年11月1日)

追記:ケネス・タナカ博士の著書、Kenneth Tanaka, Buddhism on Air (Buddhist Education Center発行)の第40話や、同書の一部の拙訳書『アメリカ流 マインドを変える仏教入門』(春秋社)のコラム欄で、ほかにも仏教のユーモラスなお話が紹介されています。

 ※追記

ケネス・タナカ博士の著書、Kenneth Tanaka, Buddhism on Air (Buddhist Education Center発行)の第40話や、同書の一部の拙訳書『アメリカ流 マインドを変える仏教入門』(春秋社)のコラム欄で、ほかにも仏教のユーモラスなお話が紹介されています。

最近の投稿を読む

越部良一顔写真
今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」
今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  デヴィッド・ボウイの1973年のアルバム『アラジン・セイン』の最終曲「Lady...
青柳英司顔写真
今との出会い 第232回「漫画の中の南無阿弥陀仏」
今との出会い 第232回「漫画の中の南無阿弥陀仏」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi)  日本の仏教史において、南無阿弥陀仏という言葉が持った意味は極めて重い。  この六字の中に、法然は阿弥陀仏の「平等の慈悲」を発見し、親鸞は一切衆生を「招喚」する如来の「勅命」を聞いた。彼らの教えは、身分を越えて様々な人の支援を受け、多くの念仏者を生み出すことになる。そして、現代においても南無阿弥陀仏という言葉は僧侶だけが知る特殊な用語ではない。一般的な国語辞典にも載っており、広く人口に膾炙(かいしゃ)したものであると言える。...
加来雄之顔写真
今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」
今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi) 「また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆえに、「善知識」と名づく。何をもってのゆえに。病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆえに。」(『教行信証』化身土巻、『真宗聖典』354頁)...
中村玲太顔写真
今との出会い 第230回「本願成就の「場」」
今との出会い 第230回「本願成就の「場」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 中村 玲太 (NAKAMURA Ryota)  「信仰を得たら何が変わりますか?」――訊ねられる毎に苦悶する難問であり、断続的に考えている問題である。これは自身の研究課題とする西山義祖・證空(1177...

著者別アーカイブ

今との出会い 第212回「疫禍の師走に想う「思い出の国」の人たち」

伊藤研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

 今年も師走を迎えた。本文執筆時点では、清水寺で毎年発表される「今年の漢字」はわからないが、多くの人がいくつかの共通の漢字を思い浮かべているのではないだろうか。今年は歴史に刻まれる疫禍の年となった。そんな一年を振り返って思うことは多々あるが、緊急事態宣言や外出自粛などの政策により、スポーツ、コンサート、舞台、展覧会や映画などを会場で「生(なま)」で体験する機会が失われたことも大きかった。もちろん命があってのことではあるが、文化・芸術にじかに触れることで触発されるものは大きいと改めて感じる。今回は、行政の、そして自分自身の気分的な規制もようやく緩和されつつあった10月に、地元横浜のKAAT神奈川芸術劇場で観ることができた2本の舞台作品について述べたい。


 1本は同劇場芸術監督・白井晃演出の『銀河鉄道の夜2020』。25年前の作品の再演となる音楽劇だが、楽団のライブ演奏をバックに、「語り部」的な(賢治の妹トシの?)精霊・アメユキ(さねよしいさ子)の歌がイーハトーブの物語を引き出していく。原作もこの舞台作品も解釈は色々できるだろうが、脚本の能祖將夫は「亡くなった人はもちろん、生きている人の中にも、どれだけ会いたいと切望しても2度と叶わぬ人がいる……賢治は銀河鉄道を『思い出の国』に走らせたのだ」と述べている(同作品パンフレット)。『銀河鉄道の夜』には私自身の記憶と交錯する場面も多い。それが音と光の中で役者たちが躍動する舞台上の銀河鉄道に同乗してみると、本にも増して、時空を超えた感慨を呼び覚まされた。二十数年前、豪州の冬空高く輝く南十字星やさそり座を共に眺めた人たち。さらに遡れば、タイタニック号の悲劇の夜を語り聞かせてくれた生存者の英国の老婦人。鳥捕りの男がジョバンニらに雁を試食させるシーンでは、お菓子のような味だと言っているのに、なぜか番茶に浸したタラの塩漬けの一片を美味そうにしゃぶっていた(私が幼かった頃の)祖母を思い出した……。人の人生は多くの出会いと別れで紡がれているという当たり前のことを、舞台上の、そして私の心の中の「思い出の国」の人たちと出会って改めて感じた。


 もう一本の舞台作品は、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』に想を得て、「人類すべての成長物語」を構想したという谷賢一の作・演出による『人類史』。第一幕は人類が言葉や文化・芸術を生み出すまでを、イスラエルのダンサー、エラ・ホチルドがオンラインで振り付けたという身体表現(ダンス)で描き、権力の発生とその犠牲になる青年を描いた場面はギリシャ悲劇を思わせた。そして科学革命から現代までをエネルギッシュな群像劇で描く第二部はミュージカル仕立て(作品全体の音楽は志磨遼平)。200万年の時を3時間弱に詰め込む難しさは否めないが、ストーリーも演出もてんこ盛りの贅沢なこの作品で印象に残ったのは、人類が死者の追悼を始めた太古の葬送のしめやかな場面だった。村の長老と司祭を兼ねた役回りの「老人」(山路和弘)が、われわれの生は多くの死者たちの上にあることを残された者たちに語る。その意味で、壮大な「人類の成長物語」はまた、人類にとっての「思い出の国」の住人たちに対する、挽歌であり、讃歌でもあると感じた。


 席は一つ空きで会話も控えめ、当然ながら常時マスク着用、飲食も禁止だから幕間のロビーでのグラス一杯のワインもおあずけ…。そんな中でも劇場で「生(なま)」で触れることができた二本の作品が私の心身に沁み渡らせてくれたのは、私たちの今が、私たちの人生や人類の歴史を形作って「思い出の国」へと去っていった人たちと共にあるということ。疫禍に揺れた今年、そのことのかけがえのなさに力を得つつ、同時にまたその切なさをも噛みしめる師走である。

(2020年12月1日)

最近の投稿を読む

越部良一顔写真
今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」
今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  デヴィッド・ボウイの1973年のアルバム『アラジン・セイン』の最終曲「Lady...
青柳英司顔写真
今との出会い 第232回「漫画の中の南無阿弥陀仏」
今との出会い 第232回「漫画の中の南無阿弥陀仏」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi)  日本の仏教史において、南無阿弥陀仏という言葉が持った意味は極めて重い。  この六字の中に、法然は阿弥陀仏の「平等の慈悲」を発見し、親鸞は一切衆生を「招喚」する如来の「勅命」を聞いた。彼らの教えは、身分を越えて様々な人の支援を受け、多くの念仏者を生み出すことになる。そして、現代においても南無阿弥陀仏という言葉は僧侶だけが知る特殊な用語ではない。一般的な国語辞典にも載っており、広く人口に膾炙(かいしゃ)したものであると言える。...
加来雄之顔写真
今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」
今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi) 「また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆえに、「善知識」と名づく。何をもってのゆえに。病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆえに。」(『教行信証』化身土巻、『真宗聖典』354頁)...
中村玲太顔写真
今との出会い 第230回「本願成就の「場」」
今との出会い 第230回「本願成就の「場」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 中村 玲太 (NAKAMURA Ryota)  「信仰を得たら何が変わりますか?」――訊ねられる毎に苦悶する難問であり、断続的に考えている問題である。これは自身の研究課題とする西山義祖・證空(1177...

著者別アーカイブ

投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第206回「明日、生きて再び夕日をみることができるだろうか?」

伊藤研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

 東京オリンピックの延期が決まってから2カ月余り。延期を発表した安倍首相は「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証しとして完全な形で東京大会を開催するために」と述べた。つまり来年の東京オリンピックは、人類がウイルスとの戦いに打ち勝ったことを誇り、祝福するイベントとなる。私はこれに違和感を覚える。もちろん首相としては、前向きな力強いメッセージを打ち出す必要があったのだろうし、苦難を乗り越えたアスリートたちの活躍は観る者の心に響くだろう。しかし、ウイルスに「打ち勝つ」前に多くの人がすでに亡くなってきたし、これからも亡くなってしまうだろう。世界の感染者数は6月上旬時点で700万人に迫り、死者は40万人超、二日に約1万人(地域によってはもっと多い)のペースで人々が亡くなっているのである。そんな中で私たちは勝利を証しだてするばかりのオリンピックを心待ちにし、その凱歌に酔うことができるだろうか? 日本では大規模感染の「終息」が云々され始めたとはいえ、私たちは果たして来年の夏に自分自身が祝福する側に加わっていられるという確信を持てるだろうか?

 私は以前訳出した英書の一節を思い出した。第二次世界大戦中、一兵卒としてパラオ諸島ペリリュー島の強襲上陸作戦に参加した米兵の回想録だ。1万人を超える日本軍守備隊との死闘を翌朝に控えた日の夕刻、ペリリュー島の沖合に集結した米艦隊の戦車揚陸艦(LST)に乗り組んでいた著者は、こう語る——。

夕食を済ませた私は、仲間と二人でLST 661の手すりに寄りかかり、戦争が終わったら何をしたいか語り合った。私は翌日のことは気にかけていないふりをした。相手も同じだった。二人とも、相手と自分を少しは欺くことができたかもしれない。だが、本心を隠し通すことはできなかった。夕日が水平線のかなたへ沈み、鏡のような海面に照り映えていた陽光も闇にのみ込まれていく。これまで眺めてきた太平洋に沈みゆく夕日は、いつ見ても美しかったことを私は思い起こしていた。故郷のモービル湾に沈む夕日よりもさらに美しかった。そのとき、ある思いが稲妻のように私を貫いた——自分は明日、生きてふたたび夕日を見ることができるだろうか? パニックに襲われた私は、膝から力が抜けそうになった。私は手すりを握りしめ、会話に夢中なふりをした。 (E・B・スレッジ著、『ペリリュー・沖縄戦記』)

 各国の多くの人たちと同様、私たちもまた、こう自問せざるを得ない状況にあるのではないだろうか——「自分は明日、生きてふたたび夕日を見ることができるだろうか?」。私たちは報道などで目にする感染者数や死者数をつい統計数字として扱い、「何十人」を下回ったとか、日本の死者数は世界的に見て極端に少ないなどと、他人ごとのように考えてしまう。しかし実際は、その数字の裏には一人ひとりの掛けがえのない生があり、みずからもその一人になるかもしれない。この現実を「気にかけていないふり」をし通すことはできるだろうか? いざ自分や近しい人が当事者となった時、落ち着きや思いやりをもって向き合えるだろうか?

 先日、大学がオンライン授業となって在宅中の娘が遠藤周作の『沈黙』を読んでいた。激しい苦しみの渦中にあるキリシタンたちに、神はなぜ沈黙したままなのか? 実は先の米兵は戦場で、「おまえは生き延びる」という神の声を聞いている。極限状況に立たされたとき、人は何に救いを見出し、明日に向かって歩むことができるのか……今、宗教研究者のはしくれとして、改めて宗教の意味を問わざるを得ないと感じている。

 

 安易なことを言えば、誰かを傷つけたり、厳しい非難に直面するかもしれない。だが問いをやめれば「気にかけていないふり」に逆戻りだ。今、漠然と感じているのは、祈りの力、そして聖典の力を見直してみてはどうかということだ。祈りの力とは、物理的に疫病を取り除くマジカルな力ではなく、何か大きな存在に手を合わせるという行為が持つ力だ。神や聖人、仏菩薩など聖なるものへ語りかける祈りもあれば、ただ内奥の思いを心の中で唱える祈りもあるだろう。同じく祈りを捧げている人たちとのつながりを感じることもあるだろう。日常の中に祈りという要素があることがポイントだという気がする。聖典の力も、それを読誦したからといって疫病神が物理的に退散するわけでもない。私は普段は難解な経論書や論文を読み、小難しい概念をこねくり回している。しかしそんなことよりも聖書なり仏典なりを静かな心で読むというそれだけのことに、むしろ何か深大な力が秘められているような気がする。祈り(そこには諸宗教それぞれの形の瞑想を含めてもいいだろう)や聖典に、とてもシンプルな形で改めて向き合ってみてはどうかと思っている。

 

 夕日を見ながら「稲妻」に打たれたあの米兵は幸いにして、神の声のとおりに第二次大戦を生き延びた。だが多くの戦友は(そして日本軍の将兵も)ある日を境に二度と夕日を見ることはできなかった。私たちもまた、多くの人々とともに、自分がそのどちら側になるかわからない中で来年のオリンピックまでの日々を過ごす。そんな中、少なくとも確かだと思うのは、「完全な形で東京大会を開催する」ことなどあり得ないということだ。来夏、全競技・全日程を無事に消化できたとしても、コロナ禍により何十万もの人たちが目にすることのできなかったオリンピックが「完全な形」なわけはない。自分が幸いにしてその「打ち勝った証し」を祝福する側に入れたとしても、開会式の晴れやかな光景を見ることができなかった多くの人のことを忘れないでいたい。だから東京オリンピックは、その欠落に思いを向ける祈りの催しにもなるはずだ。

(2020年6月15日)

最近の投稿を読む

越部良一顔写真
今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」
今との出会い第187回「「彼女」はやって来て、そして去っていく――または、生きている終り」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  デヴィッド・ボウイの1973年のアルバム『アラジン・セイン』の最終曲「Lady...
青柳英司顔写真
今との出会い 第232回「漫画の中の南無阿弥陀仏」
今との出会い 第232回「漫画の中の南無阿弥陀仏」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi)  日本の仏教史において、南無阿弥陀仏という言葉が持った意味は極めて重い。  この六字の中に、法然は阿弥陀仏の「平等の慈悲」を発見し、親鸞は一切衆生を「招喚」する如来の「勅命」を聞いた。彼らの教えは、身分を越えて様々な人の支援を受け、多くの念仏者を生み出すことになる。そして、現代においても南無阿弥陀仏という言葉は僧侶だけが知る特殊な用語ではない。一般的な国語辞典にも載っており、広く人口に膾炙(かいしゃ)したものであると言える。...
加来雄之顔写真
今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」
今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi) 「また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆえに、「善知識」と名づく。何をもってのゆえに。病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆえに。」(『教行信証』化身土巻、『真宗聖典』354頁)...
中村玲太顔写真
今との出会い 第230回「本願成就の「場」」
今との出会い 第230回「本願成就の「場」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 中村 玲太 (NAKAMURA Ryota)  「信仰を得たら何が変わりますか?」――訊ねられる毎に苦悶する難問であり、断続的に考えている問題である。これは自身の研究課題とする西山義祖・證空(1177...

著者別アーカイブ

投稿者:shinran-bc 投稿日時: