親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い第233回「8月半ば、韓国・ソウルを訪れて」

伊藤研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

 8月のお盆休み中、学会発表のために韓国・ソウルを訪れた。海外へ渡航するのも、「リモート」でなく「対面」で学術大会に参加するのも、コロナ禍以来初めてだから実に3年ぶり。ビザの申請に韓国領事館前で炎天下に3時間並び、渡航前・ソウル到着時・帰国前と1週間で3度の規定のPCR検査に緊張し、日韓双方のアプリの登録や電子証明取得など、渡航は苦労の連続だったが、それだけの甲斐はあったと思う。今回は韓国で体験したさまざまな「出会い」について書いてみたい。

 私が参加したのは国際仏教学会(IABS)が3年に一度開催する学術大会で、当初2020年の開催予定だったがコロナ禍で延期され、5年ぶりに開催にこぎつけたものである。最終的には「リモート」と「対面」を併用する「ハイブリッド」型の大会となったが、世界中から集まる数百名の研究者や学生たちが直に会って仏教について論じ合い、親交を深めることにこだわった開催校・ソウル大学の皆さんに賛辞と謝意を贈りたい。私は「現代社会における仏教」という部会で「印陀羅網のメタファー再考―井上円了の思想を手がかりに」という華厳思想と近代仏教に関連する論題で発表した。休憩時間や部会終了後にも、各国の参加者の方たちと発表内容やお互いの研究について貴重な情報交換をすることができた。人と人が直接触れ合うありがたさ、コロナ禍で失われていたものの大きさを実感した5日間だった。

 今回は職場からの出張ではなく自主的な自費渡航だったため、日程は比較的自由で、寺院や博物館見学の時間も作れた。韓国最大の宗派である曹渓宗の本山・曹渓寺では、大音量のマイクで僧侶が詠唱をリードする中、本堂を埋めた信者さんたちが五体投地をする法要に出会うことができた。ソウル中心部の繁華街の一角の、生きた信仰の場であった。一方、軍事博物館である「戦争記念館」では、遥か先史時代と三国時代に始まり、同館の中心とも言える現代の朝鮮戦争の一部始終、そしてベトナム戦争への韓国軍の派兵まで、3階建ての巨大な博物館に展示室がずらりと並ぶそのスケールに圧倒された。ユーラシア大陸と地続きの地政学的な事情からも、朝鮮半島の人々がいかに歴史を通じて戦争と向き合ってきたか、改めて突きつけられる展示には重みがある。日本による植民地支配や秀吉の朝鮮出兵(壬申倭乱)には当然多くのスペースが割かれていたが、倭寇に関するかなり詳しい展示や、朝鮮戦争に国連軍として参加した16カ国の派遣部隊すべてについて、それぞれ丁寧な展示があったことも、ハッとする出会いであった。

 そして今回の旅で学会以外で一番印象深かったのは、北朝鮮との国境地帯の「非武装地帯」(Demilitarized Zone、通称DMZ)へのバスツアーに参加したことである。私はかつて北朝鮮による拉致被害者・曽我ひとみさんの夫で元米兵の故チャールズ・ジェンキンスさんの自叙伝『告白』(角川文庫)を訳出させていただいたから、ぜひ国境の「38度線」は訪れてみたかった。首都ソウルからわずか45キロ北方のDMZへは、通訳ガイドが同行する半日の大型バスツアーを数社の旅行社が毎日運行している。南北のバッファーゾーンであるDMZは「38度線」から南北それぞれ2キロの幅で朝鮮半島を東西に貫くが、板門店(パンムンジョン)付近の韓国側の一部は観光客の立ち入りが可能だ。もちろんバスに兵士が乗り込んできてパスポートをチェックしたり、大型観光バスの立ち入りは1日5台の制限があったりはするのだが(そのため各社の先陣争いでツアーは早朝6時半に出発して猛スピードで高速道路を飛ばす)。なお、板門店は残念ながらコロナ禍以来、観光客は入れない。

 ツアーではまず、北朝鮮側が囚人を動員して国境を越えて韓国側まで掘削した極秘襲撃作戦用の「南侵トンネル」を見学(高さ・幅約2メートル、全長約1.6キロ。韓国側約450メートルの半分ほどが公開)。地下75メートル、へっぴり腰の私たち見学者がコツン、コツンと次々と天井に安全用ヘルメットをぶつけるようなトンネルで、3万人の襲撃部隊を韓国側へ瞬時に送り込む目論見だったというから驚きだ。ダイナマイトで岩盤を爆破しつつ手掘りで仕上げたというそのゴツゴツした壁面を見て、囚人たちの作業の過酷さと、それを強いた者の恐ろしい執念が感じ取れるように思えた。

  続いて、北朝鮮側が遠望できる「DMZ展望台」を訪れた。デッキへ出ると、運良く快晴となった青空の下に緑の大地が北方へと続いていた(曇天だと国境の向こうは見えないという)。手すりに沿って何台も並ぶ見学用の双眼鏡で覗くと、北朝鮮側のDMZの内外に作られた国策村の家々や、DMZの向こう側の高層住宅、さらには南北融和の象徴だったが今や機能停止している開城(ケソン)工業団地の一部が遠望できた。銃声もプロパガンダ放送の音もしない、静かな美しい緑豊かな大地のわずか数キロ先に、政治的・経済的統制下で暮らすことを強いられている人々の日常がある……それを想像するのは何とも非現実的な感覚だった。57年前の厳冬の夜、「38度線」から転戦してベトナム戦争の前線へ派遣されるのではとの恐怖に、やむにやまれず徒歩で密かに国境線を越えて逃亡したジェンキンス軍曹の姿も、思い浮かべることは難しかった。見学を終え、「今晩は繁華街の明洞(ミョンドン)でどんな韓国料理を食べようかな」などと考えながら、韓国の自由のすばらしさを思ったが、その自由の裏には時が止まったように70年間も続く南北の分断と対立・緊張の現実があること、そして自由な韓国に暮らす人々の「同胞」が(さらに拉致被害者の方たちも)北朝鮮の圧政下に日々を送っていること、そんな影の部分とのコントラストを真夏の強烈な太陽が却って鮮明に感じさせる気がした。

 最後に付け加えるならば、IABSの大会初日は8月15日、日本の「終戦記念日」は韓国では日本の支配を脱して国権を回復した「光復節」だった。DMZに隣接する見学施設には日韓で論争の絶えない「慰安婦問題を象徴する少女像」もあって、初めて実際に目にして強い印象を受けた。日韓の歴史と現実に「出会う」旅でもあったが、日本をはじめ各国の研究者や観光客を温かく迎えてくれた韓国の多くの人たちに直接出会うことができたことに、心より感謝したいと思う。

(2022年10月1日)

 8月のお盆休み中、学会発表のために韓国・ソウルを訪れた。海外へ渡航するのも、「リモート」でなく「対面」で学術大会に参加するのも、コロナ禍以来初めてだから実に3年ぶり。ビザの申請に韓国領事館前で炎天下に3時間並び、渡航前・ソウル到着時・帰国前と1週間で3度の規定のPCR検査に緊張し、日韓双方のアプリの登録や電子証明取得など、渡航は苦労の連続だったが、それだけの甲斐はあったと思う。今回は韓国で体験したさまざまな「出会い」について書いてみたい。

 私が参加したのは国際仏教学会(IABS)が3年に一度開催する学術大会で、当初2020年の開催予定だったがコロナ禍で延期され、5年ぶりに開催にこぎつけたものである。最終的には「リモート」と「対面」を併用する「ハイブリッド」型の大会となったが、世界中から集まる数百名の研究者や学生たちが直に会って仏教について論じ合い、親交を深めることにこだわった開催校・ソウル大学の皆さんに賛辞と謝意を贈りたい。私は「現代社会における仏教」という部会で「印陀羅網のメタファー再考―井上円了の思想を手がかりに」という華厳思想と近代仏教に関連する論題で発表した。休憩時間や部会終了後にも、各国の参加者の方たちと発表内容やお互いの研究について貴重な情報交換をすることができた。人と人が直接触れ合うありがたさ、コロナ禍で失われていたものの大きさを実感した5日間だった。

 今回は職場からの出張ではなく自主的な自費渡航だったため、日程は比較的自由で、寺院や博物館見学の時間も作れた。韓国最大の宗派である曹渓宗の本山・曹渓寺では、大音量のマイクで僧侶が詠唱をリードする中、本堂を埋めた信者さんたちが五体投地をする法要に出会うことができた。ソウル中心部の繁華街の一角の、生きた信仰の場であった。一方、軍事博物館である「戦争記念館」では、遥か先史時代と三国時代に始まり、同館の中心とも言える現代の朝鮮戦争の一部始終、そしてベトナム戦争への韓国軍の派兵まで、3階建ての巨大な博物館に展示室がずらりと並ぶそのスケールに圧倒された。ユーラシア大陸と地続きの地政学的な事情からも、朝鮮半島の人々がいかに歴史を通じて戦争と向き合ってきたか、改めて突きつけられる展示には重みがある。日本による植民地支配や秀吉の朝鮮出兵(壬申倭乱)には当然多くのスペースが割かれていたが、倭寇に関するかなり詳しい展示や、朝鮮戦争に国連軍として参加した16カ国の派遣部隊すべてについて、それぞれ丁寧な展示があったことも、ハッとする出会いであった。

 そして今回の旅で学会以外で一番印象深かったのは、北朝鮮との国境地帯の「非武装地帯」(Demilitarized Zone、通称DMZ)へのバスツアーに参加したことである。私はかつて北朝鮮による拉致被害者・曽我ひとみさんの夫で元米兵の故チャールズ・ジェンキンスさんの自叙伝『告白』(角川文庫)を訳出させていただいたから、ぜひ国境の「38度線」は訪れてみたかった。首都ソウルからわずか45キロ北方のDMZへは、通訳ガイドが同行する半日の大型バスツアーを数社の旅行社が毎日運行している。南北のバッファーゾーンであるDMZは「38度線」から南北それぞれ2キロの幅で朝鮮半島を東西に貫くが、板門店(パンムンジョン)付近の韓国側の一部は観光客の立ち入りが可能だ。もちろんバスに兵士が乗り込んできてパスポートをチェックしたり、大型観光バスの立ち入りは1日5台の制限があったりはするのだが(そのため各社の先陣争いでツアーは早朝6時半に出発して猛スピードで高速道路を飛ばす)。なお、板門店は残念ながらコロナ禍以来、観光客は入れない。

 ツアーではまず、北朝鮮側が囚人を動員して国境を越えて韓国側まで掘削した極秘襲撃作戦用の「南侵トンネル」を見学(高さ・幅約2メートル、全長約1.6キロ。韓国側約450メートルの半分ほどが公開)。地下75メートル、へっぴり腰の私たち見学者がコツン、コツンと次々と天井に安全用ヘルメットをぶつけるようなトンネルで、3万人の襲撃部隊を韓国側へ瞬時に送り込む目論見だったというから驚きだ。ダイナマイトで岩盤を爆破しつつ手掘りで仕上げたというそのゴツゴツした壁面を見て、囚人たちの作業の過酷さと、それを強いた者の恐ろしい執念が感じ取れるように思えた。

   続いて、北朝鮮側が遠望できる「DMZ展望台」を訪れた。デッキへ出ると、運良く快晴となった青空の下に緑の大地が北方へと続いていた(曇天だと国境の向こうは見えないという)。手すりに沿って何台も並ぶ見学用の双眼鏡で覗くと、北朝鮮側のDMZの内外に作られた国策村の家々や、DMZの向こう側の高層住宅、さらには南北融和の象徴だったが今や機能停止している開城(ケソン)工業団地の一部が遠望できた。銃声もプロパガンダ放送の音もしない、静かな美しい緑豊かな大地のわずか数キロ先に、政治的・経済的統制下で暮らすことを強いられている人々の日常がある……それを想像するのは何とも非現実的な感覚だった。57年前の厳冬の夜、「38度線」から転戦してベトナム戦争の前線へ派遣されるのではとの恐怖に、やむにやまれず徒歩で密かに国境線を越えて逃亡したジェンキンス軍曹の姿も、思い浮かべることは難しかった。見学を終え、「今晩は繁華街の明洞(ミョンドン)でどんな韓国料理を食べようかな」などと考えながら、韓国の自由のすばらしさを思ったが、その自由の裏には時が止まったように70年間も続く南北の分断と対立・緊張の現実があること、そして自由な韓国に暮らす人々の「同胞」が(さらに拉致被害者の方たちも)北朝鮮の圧政下に日々を送っていること、そんな影の部分とのコントラストを真夏の強烈な太陽が却って鮮明に感じさせる気がした。

 最後に付け加えるならば、IABSの大会初日は8月15日、日本の「終戦記念日」は韓国では日本の支配を脱して国権を回復した「光復節」だった。DMZに隣接する見学施設には日韓で論争の絶えない「慰安婦問題を象徴する少女像」もあって、初めて実際に目にして強い印象を受けた。日韓の歴史と現実に「出会う」旅でもあったが、日本をはじめ各国の研究者や観光客を温かく迎えてくれた韓国の多くの人たちに直接出会うことができたことに、心より感謝したいと思う。

(2022年10月1日)

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今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu) 「あわれ、生きものは互いに食(は)み合う」 (なんと悲しいことか、生きものはお互いに争い食らい合っている)    それは、お釈迦さまの少年時代、農耕祭に臨まれた時のことである。土の中から一匹の虫が這い出てくるところに、一羽の鳥がやって来て、ついばむやいなや、飛び去っていった。それをじっと見ておられた悉多太子(しったたいし、釈尊の成道以前の名)が、深い悲しみの中より発せられた言葉であると、仏伝は伝えている。(以上、信國淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収「「個人」と「衆生」」、26頁取意)  大谷専修学院という場の基礎を築いた信國淳先生は、以下のように、「生類相克(そうこく)」を目の当たりにした少年太子の胸中に思いをいたす。   この場合太子の胸は、すべての生きものへの同苦共感の世界に生きたのである。鳥からついばまれる虫と、虫を食っていのちを養う鳥と、そのいずれにも与することなく、そのいずれをも生き、そのいずれにおいても、太子自らが生きている生命との交感、交流を感じつつ、そこに衆生世界を感得し、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と、その如実知見を表白したのである。 (同前、26頁~27頁)   「そのいずれにも与(くみ)することなく」という一言が、私の心に残っている。食われ殺される側、食い殺す側、そのどちらか一方を支持し、正当化するというのではない。そのようなメッセージとして受け取った。思い起こされるのは、私自身の少年時代、遠足に出掛けた時のことである。一羽のアゲハチョウが、カマキリに捕まり、今まさに食われようとしている場面に遭遇した。それを見て私は、「かわいそうに。なんてひどいことをするんだ」と思い、蝶の羽からカマキリの鎌を引き離し、助けてあげた。すると、蝶はすっと飛び立っていったが、今度は、カマキリがぐったりとして動かなくなってしまった。それを見て私は、「なんてことをしてしまったんだ」とショックを受けた。カマキリは、力尽きて死んでしまったのかもしれない。どうなったのか、その顛末を見届けることはできなかった。その時のことが思い起こされてくるのである。    その時のカマキリと同じように、私自身は平生、食い殺す側になっている。自分が直接手を下さずとも、誰かに頼って、他の生き物のいのちを奪っている。他の生き物を殺して食べなければ、自身のいのちを継ぐことはできない。自分という存在は、無数の生き物たちの犠牲の上に成り立っていると言える。    さらに言えば、私は、ゴキブリやムカデなどのいわゆる害虫は、容赦なく殺してきている。害をもたらすと感じるものを何であれ、都合によって殺すような自分だから、もしも戦場に出るようなことになったら、ためらいなく人を殺してしまうのではないかと危惧している。    一方で時には、食われ殺される側に自分の身を置くということも起こり得るのかもしれない。しかし、正直に言って、食われたくないし、殺されたくない。要するに、あきらめが悪いのである。その心中は、仏陀釈尊が、『法句経』(ダンマパダ)に説かれている通りである。   一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 (中村元訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』ワイド版岩波文庫、28頁)    私自身は、自分にも、他者にも、殺されたくないのである。存在を尊重されたい、尊重したいと願っているのである。同じようにして、他者の上に私自身のすがたを見出すのであれば、他者を殺したくない、誰かに殺させたくない。その存在を尊重したいのである。  たとえ戦禍に巻き込まれたとしても、できることならば、殺されていくよりも、殺していくよりも、誰かに殺させていくよりも、どこへでも逃げ出して生き延びたいと願っている。それは、誰も皆、一人一人、仏法がはたらく器であると信じるからなのだろうか。    いま現在、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する戦争の惨状を、映像で目の当たりにしている。周辺国の脅威とも相まって、日本でも武器保有、防衛費の問題が急展開してしまっている感じがする。「敵基地攻撃能力(反撃能力)」という言葉が象徴しているように、「敵」という文字が露骨に表れるようになってきている。敵と見なされたものは、当然、警戒心、不信感を抱くに違いない。それは結局、お互いを尊重して協力し助け合うような関わり合いを放棄するという方向になるのではないか。ここにきて、守るための戦いを正当化することは、極めて危険だと感じている。日本は、かつての戦争を通して、大空襲や原爆投下による被害の悲惨、苦痛、そして加害性について、身をもって知ってきたのだから、同じあやまちを繰り返してしまわないように、メッセージを発信し続けていくべきだと考える。被害の側、加害の側、どちらにもならないように模索するということがあって然るべきだと思うのである。    仏教が重んじる精神は「不害」であると聞いてきた。私自身の在り方を振り返れば、前述した通り、それを実行できてはいない。背いてばかりであると言わざるを得ない。しかし、その精神には賛同したい。誰も、傷つけない、傷つかない解決の道がある。それを探求していったのが、少年悉多太子の仏に成る歩みではなかったか。    一切の苦悩する衆生を摂め取って捨てないと誓う、本願の光に照らされて、自己中心的に分別する、執着する心の否定をくぐる。阿弥陀如来の大いなる慈悲・浄土の光に包まれて、存在の本来性に帰る。「一つである」という道理にまっすぐ順い、現実の「食み合う」世界に責任を取って生きる。それは、本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけを聞く、信心をいただくというところに帰着する。    尊ぶべきは法である。本当に守るべきものを明らかにしたいと思った次第である。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」
今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」 親鸞仏教センター嘱託研究員 飯島 孝良 (IIJIMA...

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今との出会い 第223回「ブッダの中にアイはない!?」

伊藤研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

 9月末、長期に及んだ首都圏一都三県への緊急事態宣言がいったん解除となったが、相変わらず生活はストレスフルである。そんな中、少しでもすっきりしたいと、雑然としたデスクの片付けを試みた。するとある小さなピンバッジがどこからか出てきた。数年前に開催された仏教学に関する学会で、記念品として一人ひとつずついただいたもので、ありがたい仏像が描かれている……のではなくて、仏教に関するジョークまたはアフォリズムのような一節などが英語で記されている。学会主催校の事務局長を務められ、ジョークの達人として知られるケネス・タナカ博士が米国から取り寄せたものだという。


 私がいただいたバッジの文言はあとでご披露するとして、学会の懇親会でほかの参加者の方々とバッジを見せ合ったとき、思わず「くすっ」と笑ってしまった例をまずご紹介したい(恐縮ながらこのピンバッジが今月の「出会い」なので、あまり「ピン」とこないかもしれないが、今回は「くすっ」と言うと同時にコロナ禍のストレスもほんの少しでも「すっ」と吐き出しながらお読みいただきたい)。さてそのバッジの文言は——


 There is no I in Buddha


 直訳すれば「ブッダのなかにアイはない」。ジョークを解説するなんて「冗談だろう?!」という読者の声は聞こえないふりをして敢えて説明すれば、”Buddha”という単語の綴りのなかに”I”という文字はない、というのが文字面(もじづら)の意味。だがオチは”I”には「私」「我(われ)」という意味もあること……。なんとも洒落た「無我」の表現である。「ユーモアは仏教の教えを伝える効果的な手段でもあるのです」と、タナカ博士は言う。

 これに類したものでインターネットでもたくさん見かける有名なジョークがある(ジョークの常として、出典や創作者は不明・匿名のまま、いま風に言えばあちこちに「拡散」されている)。


 Why can’t the Buddha vacuum clean corners?(なぜブッダは掃除機で部屋の隅っこを掃除できないのか?)

 Because he has no attachments!(彼にはアタッチメントがないからさ!)


 ここではattachment は掃除機の先端に取り付ける隙間ノズル。でももう一つの意味は……「執着」だ。私たちも心の隅々にまで掃除機をかけたいものだが、掃除機自体も心だから、そこにはどれほど、どんなノズル(attachment)が付いているだろうか。


 数年前に欧州評議会を訪れたダライ・ラマ法王のニュース映像がある(これは冗談抜きで実話です)。神妙な顔つきで居並ぶ評議会のお偉方を前にして、ダライ・ラマ法王は「私はスマイル(笑顔)が大好きです。相手が笑顔になると私もとてもハッピーになれます」と切り出した。「でも相手があんまりまじめくさった顔をしていたら、こうすればいいんですよ」と言うなり、隣に座っていた理事の脇腹をいたずらっ子のように指で「つんつん」とひと突き、ふた突き!会場は爆笑に包まれた。「神秘の国の法王」に対する評議員たちの先入観というattachmentが一気に消えてなくなったに違いない。

 そんなダライ・ラマ法王が登場するジョークもある。誕生日プレゼントをもらったダライ・ラマ法王。だが箱を開けてみれば中身は空っぽ。そこでひとこと——”Just what I wanted, nothing!”(ちょうどほしかったもの、無(む)だ!)。


 笑いは消化によい、と哲学者のカントが言ったらしいが、確かにしょうかもしれない(え?誤植ですって……?)。だが笑いは一歩間違うと恐ろしい凶器にもなる。人を軽蔑し、文字通り笑い者にして傷つけるようなジョークは許されない。そうしたジョークを聞いてどっと周囲が笑えば、それはもう集団暴力だ。ぜひ心して「消化によい」笑いを噛みしめたいものである。

 もちろん仏教は人間の深い苦悩に救いの手を差し延べるものであり、特にコロナ禍で悲しみや不安が世を覆う中、切実な思いで宗教に向かう人も多いだろう。だがそんなときにも、ちょっとした笑いが、心を一瞬でも明るくするささやかな燈(ともしび)になることもあるのではないだろうか(今回の本欄もそんな思いで書いた)。


 最後に、学会で私がいただいたバッジに何が書いてあったか。それはジョークではなかった——Outside Wise, Inside a Fool(外見は賢人、中身は愚者)。心の奥底をグサっとひと刺し。みずからの存在の真実に対し深き反省を迫られるピンバッジであった。

(2021年11月1日)

追記:ケネス・タナカ博士の著書、Kenneth Tanaka, Buddhism on Air (Buddhist Education Center発行)の第40話や、同書の一部の拙訳書『アメリカ流 マインドを変える仏教入門』(春秋社)のコラム欄で、ほかにも仏教のユーモラスなお話が紹介されています。

 ※追記

ケネス・タナカ博士の著書、Kenneth Tanaka, Buddhism on Air (Buddhist Education Center発行)の第40話や、同書の一部の拙訳書『アメリカ流 マインドを変える仏教入門』(春秋社)のコラム欄で、ほかにも仏教のユーモラスなお話が紹介されています。

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今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」
今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu) 「あわれ、生きものは互いに食(は)み合う」 (なんと悲しいことか、生きものはお互いに争い食らい合っている)    それは、お釈迦さまの少年時代、農耕祭に臨まれた時のことである。土の中から一匹の虫が這い出てくるところに、一羽の鳥がやって来て、ついばむやいなや、飛び去っていった。それをじっと見ておられた悉多太子(しったたいし、釈尊の成道以前の名)が、深い悲しみの中より発せられた言葉であると、仏伝は伝えている。(以上、信國淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収「「個人」と「衆生」」、26頁取意)  大谷専修学院という場の基礎を築いた信國淳先生は、以下のように、「生類相克(そうこく)」を目の当たりにした少年太子の胸中に思いをいたす。   この場合太子の胸は、すべての生きものへの同苦共感の世界に生きたのである。鳥からついばまれる虫と、虫を食っていのちを養う鳥と、そのいずれにも与することなく、そのいずれをも生き、そのいずれにおいても、太子自らが生きている生命との交感、交流を感じつつ、そこに衆生世界を感得し、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と、その如実知見を表白したのである。 (同前、26頁~27頁)   「そのいずれにも与(くみ)することなく」という一言が、私の心に残っている。食われ殺される側、食い殺す側、そのどちらか一方を支持し、正当化するというのではない。そのようなメッセージとして受け取った。思い起こされるのは、私自身の少年時代、遠足に出掛けた時のことである。一羽のアゲハチョウが、カマキリに捕まり、今まさに食われようとしている場面に遭遇した。それを見て私は、「かわいそうに。なんてひどいことをするんだ」と思い、蝶の羽からカマキリの鎌を引き離し、助けてあげた。すると、蝶はすっと飛び立っていったが、今度は、カマキリがぐったりとして動かなくなってしまった。それを見て私は、「なんてことをしてしまったんだ」とショックを受けた。カマキリは、力尽きて死んでしまったのかもしれない。どうなったのか、その顛末を見届けることはできなかった。その時のことが思い起こされてくるのである。    その時のカマキリと同じように、私自身は平生、食い殺す側になっている。自分が直接手を下さずとも、誰かに頼って、他の生き物のいのちを奪っている。他の生き物を殺して食べなければ、自身のいのちを継ぐことはできない。自分という存在は、無数の生き物たちの犠牲の上に成り立っていると言える。    さらに言えば、私は、ゴキブリやムカデなどのいわゆる害虫は、容赦なく殺してきている。害をもたらすと感じるものを何であれ、都合によって殺すような自分だから、もしも戦場に出るようなことになったら、ためらいなく人を殺してしまうのではないかと危惧している。    一方で時には、食われ殺される側に自分の身を置くということも起こり得るのかもしれない。しかし、正直に言って、食われたくないし、殺されたくない。要するに、あきらめが悪いのである。その心中は、仏陀釈尊が、『法句経』(ダンマパダ)に説かれている通りである。   一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 (中村元訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』ワイド版岩波文庫、28頁)    私自身は、自分にも、他者にも、殺されたくないのである。存在を尊重されたい、尊重したいと願っているのである。同じようにして、他者の上に私自身のすがたを見出すのであれば、他者を殺したくない、誰かに殺させたくない。その存在を尊重したいのである。  たとえ戦禍に巻き込まれたとしても、できることならば、殺されていくよりも、殺していくよりも、誰かに殺させていくよりも、どこへでも逃げ出して生き延びたいと願っている。それは、誰も皆、一人一人、仏法がはたらく器であると信じるからなのだろうか。    いま現在、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する戦争の惨状を、映像で目の当たりにしている。周辺国の脅威とも相まって、日本でも武器保有、防衛費の問題が急展開してしまっている感じがする。「敵基地攻撃能力(反撃能力)」という言葉が象徴しているように、「敵」という文字が露骨に表れるようになってきている。敵と見なされたものは、当然、警戒心、不信感を抱くに違いない。それは結局、お互いを尊重して協力し助け合うような関わり合いを放棄するという方向になるのではないか。ここにきて、守るための戦いを正当化することは、極めて危険だと感じている。日本は、かつての戦争を通して、大空襲や原爆投下による被害の悲惨、苦痛、そして加害性について、身をもって知ってきたのだから、同じあやまちを繰り返してしまわないように、メッセージを発信し続けていくべきだと考える。被害の側、加害の側、どちらにもならないように模索するということがあって然るべきだと思うのである。    仏教が重んじる精神は「不害」であると聞いてきた。私自身の在り方を振り返れば、前述した通り、それを実行できてはいない。背いてばかりであると言わざるを得ない。しかし、その精神には賛同したい。誰も、傷つけない、傷つかない解決の道がある。それを探求していったのが、少年悉多太子の仏に成る歩みではなかったか。    一切の苦悩する衆生を摂め取って捨てないと誓う、本願の光に照らされて、自己中心的に分別する、執着する心の否定をくぐる。阿弥陀如来の大いなる慈悲・浄土の光に包まれて、存在の本来性に帰る。「一つである」という道理にまっすぐ順い、現実の「食み合う」世界に責任を取って生きる。それは、本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけを聞く、信心をいただくというところに帰着する。    尊ぶべきは法である。本当に守るべきものを明らかにしたいと思った次第である。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」
今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」 親鸞仏教センター嘱託研究員 飯島 孝良 (IIJIMA...

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今との出会い 第212回「疫禍の師走に想う「思い出の国」の人たち」

伊藤研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

 今年も師走を迎えた。本文執筆時点では、清水寺で毎年発表される「今年の漢字」はわからないが、多くの人がいくつかの共通の漢字を思い浮かべているのではないだろうか。今年は歴史に刻まれる疫禍の年となった。そんな一年を振り返って思うことは多々あるが、緊急事態宣言や外出自粛などの政策により、スポーツ、コンサート、舞台、展覧会や映画などを会場で「生(なま)」で体験する機会が失われたことも大きかった。もちろん命があってのことではあるが、文化・芸術にじかに触れることで触発されるものは大きいと改めて感じる。今回は、行政の、そして自分自身の気分的な規制もようやく緩和されつつあった10月に、地元横浜のKAAT神奈川芸術劇場で観ることができた2本の舞台作品について述べたい。


 1本は同劇場芸術監督・白井晃演出の『銀河鉄道の夜2020』。25年前の作品の再演となる音楽劇だが、楽団のライブ演奏をバックに、「語り部」的な(賢治の妹トシの?)精霊・アメユキ(さねよしいさ子)の歌がイーハトーブの物語を引き出していく。原作もこの舞台作品も解釈は色々できるだろうが、脚本の能祖將夫は「亡くなった人はもちろん、生きている人の中にも、どれだけ会いたいと切望しても2度と叶わぬ人がいる……賢治は銀河鉄道を『思い出の国』に走らせたのだ」と述べている(同作品パンフレット)。『銀河鉄道の夜』には私自身の記憶と交錯する場面も多い。それが音と光の中で役者たちが躍動する舞台上の銀河鉄道に同乗してみると、本にも増して、時空を超えた感慨を呼び覚まされた。二十数年前、豪州の冬空高く輝く南十字星やさそり座を共に眺めた人たち。さらに遡れば、タイタニック号の悲劇の夜を語り聞かせてくれた生存者の英国の老婦人。鳥捕りの男がジョバンニらに雁を試食させるシーンでは、お菓子のような味だと言っているのに、なぜか番茶に浸したタラの塩漬けの一片を美味そうにしゃぶっていた(私が幼かった頃の)祖母を思い出した……。人の人生は多くの出会いと別れで紡がれているという当たり前のことを、舞台上の、そして私の心の中の「思い出の国」の人たちと出会って改めて感じた。


 もう一本の舞台作品は、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』に想を得て、「人類すべての成長物語」を構想したという谷賢一の作・演出による『人類史』。第一幕は人類が言葉や文化・芸術を生み出すまでを、イスラエルのダンサー、エラ・ホチルドがオンラインで振り付けたという身体表現(ダンス)で描き、権力の発生とその犠牲になる青年を描いた場面はギリシャ悲劇を思わせた。そして科学革命から現代までをエネルギッシュな群像劇で描く第二部はミュージカル仕立て(作品全体の音楽は志磨遼平)。200万年の時を3時間弱に詰め込む難しさは否めないが、ストーリーも演出もてんこ盛りの贅沢なこの作品で印象に残ったのは、人類が死者の追悼を始めた太古の葬送のしめやかな場面だった。村の長老と司祭を兼ねた役回りの「老人」(山路和弘)が、われわれの生は多くの死者たちの上にあることを残された者たちに語る。その意味で、壮大な「人類の成長物語」はまた、人類にとっての「思い出の国」の住人たちに対する、挽歌であり、讃歌でもあると感じた。


 席は一つ空きで会話も控えめ、当然ながら常時マスク着用、飲食も禁止だから幕間のロビーでのグラス一杯のワインもおあずけ…。そんな中でも劇場で「生(なま)」で触れることができた二本の作品が私の心身に沁み渡らせてくれたのは、私たちの今が、私たちの人生や人類の歴史を形作って「思い出の国」へと去っていった人たちと共にあるということ。疫禍に揺れた今年、そのことのかけがえのなさに力を得つつ、同時にまたその切なさをも噛みしめる師走である。

(2020年12月1日)

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今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」
今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  私はいったいいつから哲学し出したのか、という問いに、私はこう考えることにしている。それは12歳の時、ビートルズの「A...
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今との出会い第238回「寺を預かる」
今との出会い第238回「寺を預かる」 親鸞仏教センター嘱託研究員 田村 晃徳 (TAMURA Akinori)  学ぶ喜びは知識を得ることであるが、学びにより発見されるのは自分の無知であろう。人は無知と言われないように学ぶ面がある。「無知の知」とは古来より伝わる大切な言葉だ。しかし、この言葉には無知である自分を蔑むニュアンスはない。それどころか、無知であることに気づいた自分のことを誇ってさえいるようにも聞こえる。学びとは知識を得ることではない。知識を得ることを通じ、自分を知ることにその目的はある。    歴史を学ぶ喜びも同様である。歴史的事項を知ることはとても楽しい。しかし事項を知るだけではただの物語だろう。それが、どのように今日の自分と関わりをもつか。このことを考えることにより自身に肉薄した事実として理解されるだろう。その時に、気づくことはただ一つ。私は先人達の努力により、今ここで生きていることができているということである。    その先人とはもちろん、祖父や父も含む。しかし、寺を支えてくれた門徒の皆さんも当然入る。門徒の方を支えてくれた、そのご家族も含むだろう。さらには、信仰を伝えてくれた先人達も含まれるだろう。このように遡っていくならば、いつかは親鸞聖人や釈尊にもつながるに違いない。    そのように考えるときに、住職達がよく使う大切な言葉を思い出した。それは「お寺を預かる」という表現である。当然のことであるが、住職が「ここは自分の寺だ」などと言い出したら、そのお寺はおしまいである。そうさせない大切な発想。それが「預かる」というものだろう。つまり、私は今、預かっているお寺において、先人達により伝えられた仏法に出遇うというご縁をいただいているのだ。親鸞聖人も『歎異抄』でお釈迦様や善導大師の名を挙げて、伝えられてきた仏法に出会えた喜びを述べている。そこに浄土真宗は自分の教えだ、といった傲慢さは皆無である。親鸞聖人もいただいた法を後世に伝えられた。それが今、私にまで伝わっている。ならば私のやるべき事も同じである。法を後世に伝えることである。    寺の歴史を学ぶ。それは知的関心だけではない。一つのお寺が誕生するまでには、悠久の仏法や、人々の歴史が必要であったことを知る。それは住職としての責任感を改めて自覚させる気づきなのである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」
今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu) 「あわれ、生きものは互いに食(は)み合う」 (なんと悲しいことか、生きものはお互いに争い食らい合っている)    それは、お釈迦さまの少年時代、農耕祭に臨まれた時のことである。土の中から一匹の虫が這い出てくるところに、一羽の鳥がやって来て、ついばむやいなや、飛び去っていった。それをじっと見ておられた悉多太子(しったたいし、釈尊の成道以前の名)が、深い悲しみの中より発せられた言葉であると、仏伝は伝えている。(以上、信國淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収「「個人」と「衆生」」、26頁取意)  大谷専修学院という場の基礎を築いた信國淳先生は、以下のように、「生類相克(そうこく)」を目の当たりにした少年太子の胸中に思いをいたす。   この場合太子の胸は、すべての生きものへの同苦共感の世界に生きたのである。鳥からついばまれる虫と、虫を食っていのちを養う鳥と、そのいずれにも与することなく、そのいずれをも生き、そのいずれにおいても、太子自らが生きている生命との交感、交流を感じつつ、そこに衆生世界を感得し、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と、その如実知見を表白したのである。 (同前、26頁~27頁)   「そのいずれにも与(くみ)することなく」という一言が、私の心に残っている。食われ殺される側、食い殺す側、そのどちらか一方を支持し、正当化するというのではない。そのようなメッセージとして受け取った。思い起こされるのは、私自身の少年時代、遠足に出掛けた時のことである。一羽のアゲハチョウが、カマキリに捕まり、今まさに食われようとしている場面に遭遇した。それを見て私は、「かわいそうに。なんてひどいことをするんだ」と思い、蝶の羽からカマキリの鎌を引き離し、助けてあげた。すると、蝶はすっと飛び立っていったが、今度は、カマキリがぐったりとして動かなくなってしまった。それを見て私は、「なんてことをしてしまったんだ」とショックを受けた。カマキリは、力尽きて死んでしまったのかもしれない。どうなったのか、その顛末を見届けることはできなかった。その時のことが思い起こされてくるのである。    その時のカマキリと同じように、私自身は平生、食い殺す側になっている。自分が直接手を下さずとも、誰かに頼って、他の生き物のいのちを奪っている。他の生き物を殺して食べなければ、自身のいのちを継ぐことはできない。自分という存在は、無数の生き物たちの犠牲の上に成り立っていると言える。    さらに言えば、私は、ゴキブリやムカデなどのいわゆる害虫は、容赦なく殺してきている。害をもたらすと感じるものを何であれ、都合によって殺すような自分だから、もしも戦場に出るようなことになったら、ためらいなく人を殺してしまうのではないかと危惧している。    一方で時には、食われ殺される側に自分の身を置くということも起こり得るのかもしれない。しかし、正直に言って、食われたくないし、殺されたくない。要するに、あきらめが悪いのである。その心中は、仏陀釈尊が、『法句経』(ダンマパダ)に説かれている通りである。   一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 (中村元訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』ワイド版岩波文庫、28頁)    私自身は、自分にも、他者にも、殺されたくないのである。存在を尊重されたい、尊重したいと願っているのである。同じようにして、他者の上に私自身のすがたを見出すのであれば、他者を殺したくない、誰かに殺させたくない。その存在を尊重したいのである。  たとえ戦禍に巻き込まれたとしても、できることならば、殺されていくよりも、殺していくよりも、誰かに殺させていくよりも、どこへでも逃げ出して生き延びたいと願っている。それは、誰も皆、一人一人、仏法がはたらく器であると信じるからなのだろうか。    いま現在、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する戦争の惨状を、映像で目の当たりにしている。周辺国の脅威とも相まって、日本でも武器保有、防衛費の問題が急展開してしまっている感じがする。「敵基地攻撃能力(反撃能力)」という言葉が象徴しているように、「敵」という文字が露骨に表れるようになってきている。敵と見なされたものは、当然、警戒心、不信感を抱くに違いない。それは結局、お互いを尊重して協力し助け合うような関わり合いを放棄するという方向になるのではないか。ここにきて、守るための戦いを正当化することは、極めて危険だと感じている。日本は、かつての戦争を通して、大空襲や原爆投下による被害の悲惨、苦痛、そして加害性について、身をもって知ってきたのだから、同じあやまちを繰り返してしまわないように、メッセージを発信し続けていくべきだと考える。被害の側、加害の側、どちらにもならないように模索するということがあって然るべきだと思うのである。    仏教が重んじる精神は「不害」であると聞いてきた。私自身の在り方を振り返れば、前述した通り、それを実行できてはいない。背いてばかりであると言わざるを得ない。しかし、その精神には賛同したい。誰も、傷つけない、傷つかない解決の道がある。それを探求していったのが、少年悉多太子の仏に成る歩みではなかったか。    一切の苦悩する衆生を摂め取って捨てないと誓う、本願の光に照らされて、自己中心的に分別する、執着する心の否定をくぐる。阿弥陀如来の大いなる慈悲・浄土の光に包まれて、存在の本来性に帰る。「一つである」という道理にまっすぐ順い、現実の「食み合う」世界に責任を取って生きる。それは、本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけを聞く、信心をいただくというところに帰着する。    尊ぶべきは法である。本当に守るべきものを明らかにしたいと思った次第である。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い 第206回「明日、生きて再び夕日をみることができるだろうか?」

伊藤研究員のエッセイ

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

 東京オリンピックの延期が決まってから2カ月余り。延期を発表した安倍首相は「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証しとして完全な形で東京大会を開催するために」と述べた。つまり来年の東京オリンピックは、人類がウイルスとの戦いに打ち勝ったことを誇り、祝福するイベントとなる。私はこれに違和感を覚える。もちろん首相としては、前向きな力強いメッセージを打ち出す必要があったのだろうし、苦難を乗り越えたアスリートたちの活躍は観る者の心に響くだろう。しかし、ウイルスに「打ち勝つ」前に多くの人がすでに亡くなってきたし、これからも亡くなってしまうだろう。世界の感染者数は6月上旬時点で700万人に迫り、死者は40万人超、二日に約1万人(地域によってはもっと多い)のペースで人々が亡くなっているのである。そんな中で私たちは勝利を証しだてするばかりのオリンピックを心待ちにし、その凱歌に酔うことができるだろうか? 日本では大規模感染の「終息」が云々され始めたとはいえ、私たちは果たして来年の夏に自分自身が祝福する側に加わっていられるという確信を持てるだろうか?

 私は以前訳出した英書の一節を思い出した。第二次世界大戦中、一兵卒としてパラオ諸島ペリリュー島の強襲上陸作戦に参加した米兵の回想録だ。1万人を超える日本軍守備隊との死闘を翌朝に控えた日の夕刻、ペリリュー島の沖合に集結した米艦隊の戦車揚陸艦(LST)に乗り組んでいた著者は、こう語る——。

夕食を済ませた私は、仲間と二人でLST 661の手すりに寄りかかり、戦争が終わったら何をしたいか語り合った。私は翌日のことは気にかけていないふりをした。相手も同じだった。二人とも、相手と自分を少しは欺くことができたかもしれない。だが、本心を隠し通すことはできなかった。夕日が水平線のかなたへ沈み、鏡のような海面に照り映えていた陽光も闇にのみ込まれていく。これまで眺めてきた太平洋に沈みゆく夕日は、いつ見ても美しかったことを私は思い起こしていた。故郷のモービル湾に沈む夕日よりもさらに美しかった。そのとき、ある思いが稲妻のように私を貫いた——自分は明日、生きてふたたび夕日を見ることができるだろうか? パニックに襲われた私は、膝から力が抜けそうになった。私は手すりを握りしめ、会話に夢中なふりをした。 (E・B・スレッジ著、『ペリリュー・沖縄戦記』)

 各国の多くの人たちと同様、私たちもまた、こう自問せざるを得ない状況にあるのではないだろうか——「自分は明日、生きてふたたび夕日を見ることができるだろうか?」。私たちは報道などで目にする感染者数や死者数をつい統計数字として扱い、「何十人」を下回ったとか、日本の死者数は世界的に見て極端に少ないなどと、他人ごとのように考えてしまう。しかし実際は、その数字の裏には一人ひとりの掛けがえのない生があり、みずからもその一人になるかもしれない。この現実を「気にかけていないふり」をし通すことはできるだろうか? いざ自分や近しい人が当事者となった時、落ち着きや思いやりをもって向き合えるだろうか?

 先日、大学がオンライン授業となって在宅中の娘が遠藤周作の『沈黙』を読んでいた。激しい苦しみの渦中にあるキリシタンたちに、神はなぜ沈黙したままなのか? 実は先の米兵は戦場で、「おまえは生き延びる」という神の声を聞いている。極限状況に立たされたとき、人は何に救いを見出し、明日に向かって歩むことができるのか……今、宗教研究者のはしくれとして、改めて宗教の意味を問わざるを得ないと感じている。

 

 安易なことを言えば、誰かを傷つけたり、厳しい非難に直面するかもしれない。だが問いをやめれば「気にかけていないふり」に逆戻りだ。今、漠然と感じているのは、祈りの力、そして聖典の力を見直してみてはどうかということだ。祈りの力とは、物理的に疫病を取り除くマジカルな力ではなく、何か大きな存在に手を合わせるという行為が持つ力だ。神や聖人、仏菩薩など聖なるものへ語りかける祈りもあれば、ただ内奥の思いを心の中で唱える祈りもあるだろう。同じく祈りを捧げている人たちとのつながりを感じることもあるだろう。日常の中に祈りという要素があることがポイントだという気がする。聖典の力も、それを読誦したからといって疫病神が物理的に退散するわけでもない。私は普段は難解な経論書や論文を読み、小難しい概念をこねくり回している。しかしそんなことよりも聖書なり仏典なりを静かな心で読むというそれだけのことに、むしろ何か深大な力が秘められているような気がする。祈り(そこには諸宗教それぞれの形の瞑想を含めてもいいだろう)や聖典に、とてもシンプルな形で改めて向き合ってみてはどうかと思っている。

 

 夕日を見ながら「稲妻」に打たれたあの米兵は幸いにして、神の声のとおりに第二次大戦を生き延びた。だが多くの戦友は(そして日本軍の将兵も)ある日を境に二度と夕日を見ることはできなかった。私たちもまた、多くの人々とともに、自分がそのどちら側になるかわからない中で来年のオリンピックまでの日々を過ごす。そんな中、少なくとも確かだと思うのは、「完全な形で東京大会を開催する」ことなどあり得ないということだ。来夏、全競技・全日程を無事に消化できたとしても、コロナ禍により何十万もの人たちが目にすることのできなかったオリンピックが「完全な形」なわけはない。自分が幸いにしてその「打ち勝った証し」を祝福する側に入れたとしても、開会式の晴れやかな光景を見ることができなかった多くの人のことを忘れないでいたい。だから東京オリンピックは、その欠落に思いを向ける祈りの催しにもなるはずだ。

(2020年6月15日)

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今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」
今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu) 「あわれ、生きものは互いに食(は)み合う」 (なんと悲しいことか、生きものはお互いに争い食らい合っている)    それは、お釈迦さまの少年時代、農耕祭に臨まれた時のことである。土の中から一匹の虫が這い出てくるところに、一羽の鳥がやって来て、ついばむやいなや、飛び去っていった。それをじっと見ておられた悉多太子(しったたいし、釈尊の成道以前の名)が、深い悲しみの中より発せられた言葉であると、仏伝は伝えている。(以上、信國淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収「「個人」と「衆生」」、26頁取意)  大谷専修学院という場の基礎を築いた信國淳先生は、以下のように、「生類相克(そうこく)」を目の当たりにした少年太子の胸中に思いをいたす。   この場合太子の胸は、すべての生きものへの同苦共感の世界に生きたのである。鳥からついばまれる虫と、虫を食っていのちを養う鳥と、そのいずれにも与することなく、そのいずれをも生き、そのいずれにおいても、太子自らが生きている生命との交感、交流を感じつつ、そこに衆生世界を感得し、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と、その如実知見を表白したのである。 (同前、26頁~27頁)   「そのいずれにも与(くみ)することなく」という一言が、私の心に残っている。食われ殺される側、食い殺す側、そのどちらか一方を支持し、正当化するというのではない。そのようなメッセージとして受け取った。思い起こされるのは、私自身の少年時代、遠足に出掛けた時のことである。一羽のアゲハチョウが、カマキリに捕まり、今まさに食われようとしている場面に遭遇した。それを見て私は、「かわいそうに。なんてひどいことをするんだ」と思い、蝶の羽からカマキリの鎌を引き離し、助けてあげた。すると、蝶はすっと飛び立っていったが、今度は、カマキリがぐったりとして動かなくなってしまった。それを見て私は、「なんてことをしてしまったんだ」とショックを受けた。カマキリは、力尽きて死んでしまったのかもしれない。どうなったのか、その顛末を見届けることはできなかった。その時のことが思い起こされてくるのである。    その時のカマキリと同じように、私自身は平生、食い殺す側になっている。自分が直接手を下さずとも、誰かに頼って、他の生き物のいのちを奪っている。他の生き物を殺して食べなければ、自身のいのちを継ぐことはできない。自分という存在は、無数の生き物たちの犠牲の上に成り立っていると言える。    さらに言えば、私は、ゴキブリやムカデなどのいわゆる害虫は、容赦なく殺してきている。害をもたらすと感じるものを何であれ、都合によって殺すような自分だから、もしも戦場に出るようなことになったら、ためらいなく人を殺してしまうのではないかと危惧している。    一方で時には、食われ殺される側に自分の身を置くということも起こり得るのかもしれない。しかし、正直に言って、食われたくないし、殺されたくない。要するに、あきらめが悪いのである。その心中は、仏陀釈尊が、『法句経』(ダンマパダ)に説かれている通りである。   一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 (中村元訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』ワイド版岩波文庫、28頁)    私自身は、自分にも、他者にも、殺されたくないのである。存在を尊重されたい、尊重したいと願っているのである。同じようにして、他者の上に私自身のすがたを見出すのであれば、他者を殺したくない、誰かに殺させたくない。その存在を尊重したいのである。  たとえ戦禍に巻き込まれたとしても、できることならば、殺されていくよりも、殺していくよりも、誰かに殺させていくよりも、どこへでも逃げ出して生き延びたいと願っている。それは、誰も皆、一人一人、仏法がはたらく器であると信じるからなのだろうか。    いま現在、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する戦争の惨状を、映像で目の当たりにしている。周辺国の脅威とも相まって、日本でも武器保有、防衛費の問題が急展開してしまっている感じがする。「敵基地攻撃能力(反撃能力)」という言葉が象徴しているように、「敵」という文字が露骨に表れるようになってきている。敵と見なされたものは、当然、警戒心、不信感を抱くに違いない。それは結局、お互いを尊重して協力し助け合うような関わり合いを放棄するという方向になるのではないか。ここにきて、守るための戦いを正当化することは、極めて危険だと感じている。日本は、かつての戦争を通して、大空襲や原爆投下による被害の悲惨、苦痛、そして加害性について、身をもって知ってきたのだから、同じあやまちを繰り返してしまわないように、メッセージを発信し続けていくべきだと考える。被害の側、加害の側、どちらにもならないように模索するということがあって然るべきだと思うのである。    仏教が重んじる精神は「不害」であると聞いてきた。私自身の在り方を振り返れば、前述した通り、それを実行できてはいない。背いてばかりであると言わざるを得ない。しかし、その精神には賛同したい。誰も、傷つけない、傷つかない解決の道がある。それを探求していったのが、少年悉多太子の仏に成る歩みではなかったか。    一切の苦悩する衆生を摂め取って捨てないと誓う、本願の光に照らされて、自己中心的に分別する、執着する心の否定をくぐる。阿弥陀如来の大いなる慈悲・浄土の光に包まれて、存在の本来性に帰る。「一つである」という道理にまっすぐ順い、現実の「食み合う」世界に責任を取って生きる。それは、本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけを聞く、信心をいただくというところに帰着する。    尊ぶべきは法である。本当に守るべきものを明らかにしたいと思った次第である。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...
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投稿者:shinran-bc 投稿日時: