親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

【特集趣旨】仏教と現代文化―新しい仏像からマンガやゲーム、ネット空間の最新表現まで―

【特集趣旨】

仏教と現代文化

―新しい仏像からマンガやゲーム、ネット空間の最新表現まで―

――新しい仏像からマンガやゲーム、ネット空間の最新表現まで

嘱託研究員

青柳 英司

(AOYAGI Eishi)

 現代の多くの日本人にとって、仏教は縁遠いものに感じられるかもしれません。ですが、博物館で開催される仏像の展覧会はとても人気が高く、マンガやゲーム、音楽やYouTubeといったものの中に、仏教的な要素が見られることも決して珍しいことではありません。現代の日本人が、仏教的な「何か」に魅かれることがあるのは確かなようです。また、様々な現代文化のコンテンツを通して、仏教を少しでも身近に感じてもらおうとする実践も、積極的に行われています。

 そこで今回の特集では、現代の文化的事象の中に見られる仏教的な要素と、現代文化を通した仏教の発信について、様々な立場の方々からご論考・エッセイをお寄せいただきました。

 長い歴史と伝統があり、ともすると古いものと思われがちな仏教と、最先端の現代文化との接点について、改めて考えてみたいと思います。

(あおやぎ えいし・嘱託研究員)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

浄土双六とのご縁をいただいて

アンジャリWEB版

臨済宗妙心寺派 陽岳寺住職・クリエイター

向井 真人

(MUKAI Mahito)

 平成27(2015)年より毎年1作品以上、お寺や仏教をテーマにしたカードゲームやボードゲームを製作している。またお寺の本堂で市販のカードゲームやボードゲーム、けん玉などで遊ぶ会を開催している。おもちゃで遊ぶ会ではあるが、実際には遊ばずにお茶を飲みに来るだけでも良く、遊ぶことを主題にすることで気兼ねなくお入りいただけるような手立てである。そもそもの発端は、聖書のカードゲームを初めに知り、ついで浄土双六というものとの出会いをいただいたことである。


 双六と聞くと、どのような形を頭に思い浮かべるだろうか。スタートとゴールが設定されており、途中に分かれ道がありつつも一本道。サイコロなどを使い推進力を得て、自分の分身であるコマが道を進み、上がることを目指す。ゴールへと一路邁進する双六のはじまりは出世双六と言われる。まるで出世街道を突き進むかのようだからだ。そんな出世双六よりも前には、飛び双六という種類があった。自分の分身であるコマがマス目を飛んで移動するため飛び双六といい、浄土双六もそれである。ふりだしが人間、サイコロを振って、地獄に落ちたり、餓鬼・畜生を転々としたりしながら、修行の道を進んで、成仏を目指すのだ。ゴールが仏のいらっしゃる国土、すなわち浄土であるため、浄土双六と呼ばれている。

 

 浄土双六の前身として証果増進之図(仏法双六)があり、そこからさまざまな亜種が生まれ、今では日本全国の美術館や博物館に所蔵されている。ここでは東京国立博物館所蔵の『双六類聚(すごろくるいじゅ)』にある彩色された浄土双六について取り上げる。その中身を見ると、縦長の紙に、碁盤の目のような縦横並行の規則正しい線が引かれている。区分けされた箇所が双六のマス目で、須弥山世界観が振り分けられている。約100あるマス目には、仏教語、仏教語に関連した絵、そしてサイコロの出目による移動先が記載されている。遊び方はもともと口伝であったが、後の世には双六の紙自体に記載されたり、別紙が用意されたりしたようだ。

 

 浄土双六は、マス目が仏教の世界観から妖怪や高僧に取って代わられたり、あるいは仏教とは関係のないテーマの飛び双六が流行していったりする中で、姿を消してしまう。いまでは仏教関連の展覧会の展示品として見ることはできるが、浄土双六は歴史の遺物として認定され、遊ばれなくなってしまったのだ。しかし近年、様々な取り組みがなされている。お寺で遊ぶ会を催したり、現代語訳・海外対応版が製作されたりしている。拙作『浄土双六ペーパークラフト』では、マス目の用語解説集をつけて、須弥山世界観を模したペーパークラフト上で遊ぶことができるようにした。

 浄土双六の中身を見れば、仏教に精通している者が製作しているであろうことは推察される。江戸時代以前にそのような人物がいたことに驚かされる。しかも、浄土双六は見るだけで学びを得られ、遊んでも学びを得られるように作られているのだ。見て得られる学びとしては、マス目の配置がある。ふりだしは南閻浮州であり、世界の中心軸である須弥山の南方にある、人の住む島だ。経典に書かれている内容を見れば、その島の下部に地獄があるとされ、浄土双六でも南閻浮州の下部一列全てが地獄となっている。また、南閻浮州周辺や海に様々な生き方が散らばっているとされ、畜生・修羅・魚類・鳥類・虫類や天竜八部衆などのマス目の配置もそのようになっている。南閻浮州上部には須弥山内の天があり、欲界・色界・無色界へと天が上位になるにつれて、双六の上位にマス目として配置される。無色界の天のマス目は名前だけが書かれており、物質的なものからも欲望からも離れている無色界であるからこそ絵は描かれていない。須弥山世界観をマス目の配置や表記にしっかり落とし込んでいる。また、ゴールである仏のマス目のような箇所はあるのだが、実際にはゴールである仏のマス目は盤上に存在しない。なぜなら浄土双六の盤上とは三界、すなわち迷いの世界であり、そこから解脱しているのが仏であるからだ。

 

 実際に遊んでみると分かるのだが、自身の分身であるコマの移動が大変である。各マス目には、そのマス目でサイコロを振った結果なんの目が出たらどこへ飛ぶかが書いてある。指定先のマス目がどこにあるか探すことは難しく、慣れてきても動かすには苦労するのだ。コマが飛び回っている様子とは生まれ変わり死に変わりする輪廻の苦しみのダイナミックさ、はたまた生きている時のこころの変わり様である、と表現できるかもしれない。どちらにしても、ままならなさに振り回されている私たちの現実の在り様だと実感できる。各マス目の飛び先については適当に配置されているのではなく、経典や説話集など出典があるようだと分かる。たとえば、無色界のマス目。得意の絶頂にいることを表す有頂天とは本来仏教語であり、無色界の最上の天のことである。そんな有頂天の無色界のマス目には地獄の列へと移動する可能性が含まれている。

 

 広辞苑第五版「遊ぶ」欄を見ると、日常的な生活から心身を解放し別天地に身をゆだねる意、とある。真剣に遊びと向き合っている時は無我夢中になり、遊びへ引き込まれているように思う。そんな中ふと我に返ると文字通り「この私」に立ち戻る。ずいぶん夢中で遊んでいたな、と先ほどまでの自分の姿を客観視することとなる。遊びの良さはここにある。遊びとは日常の中の出来事ではありつつも、そんな日常やこの私自身を離れた場所から観察する視点を提供してくれるのだ。遊びは、気持ちの余裕・ゆとりや、ギチギチとした日常のすきまになってくれる。外からの視点を持ってきてくれる貴重な存在なのだ。

 

 私たち人間は必死に毎日を生きている。必死に生きているからこそ、この日常から離れることを自分で自分に許さない。そんな自縄自縛を解き放つためには、外からの視点を持ってくることだ。仏教で言えば、三界から離れた仏を礼拝したり念じたりすること、先に逝った親しい人々にお参りすることで完遂されるだろう。遊びは非日常を作り出し、自身を俯瞰して見ることを可能にする。時間や場所を区切って遊ぶことで、自分と向き合いやすくなるだろう。その点、浄土双六のような仏教を楽しく学びながらできる遊びは、ままならなさに振り回されている自身の姿、自分とは何者なのか、仏教と遊びの相乗効果でより俯瞰視することができる。出世間の僧侶や仏教とは社会から離れた視点を与えてくれる存在であり、「遊び」との親和性も高い。「遊び」にはとても大きな力があると私自身感じている。

(むかい まひと・臨済宗妙心寺派 陽岳寺住職、クリエイター)

 自坊でようがくじ「不二の会」を立ち上げ、坐禅会・ヨガ・ゲーム部・お茶の会などを企画開催。

 2015年からは「御朱印あつめ」「檀家-DANKA-」「浄土双六ペーパークラフト」「おえかきネハンズ」などのお寺系ボードゲームを製作している。

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東日本大震災後の仏像

アンジャリWEB版

和光大学 表現学部 講師

君島 彩子

(KIMISHIMA Ayako)

 「仏像」と聞いて何を思い浮かべるだろうか?  あまり興味のない方は、歴史の授業で出てきたのを、ぼんやりと思い出す程度かもしれない。逆に美術が好きな方は、博物館や美術館に展示された仏像、そして京都や奈良の有名寺院に安置された仏像などをすぐに思い出すだろう。美術ファンの間で仏像の展覧会の人気はとても高い。2000年以降の美術展の入場者数のベスト3を見てみよう。1位が「国宝 阿修羅展」(2009年、東京国立博物館)、2位が「国宝 薬師寺展」(2008年、東京国立博物館)、3位も「国宝 阿修羅展」(2009年、九州国立博物館)、いずれも仏像がメインの展覧会だ。仏像を鑑賞するため、1日平均1万人以上の人々が博物館に足を運んでいる。

 

 仏像の展覧会に「国宝」という言葉がつけられていることからも分かるように、人気を集める仏像の多くは国宝に指定されている。例えば東大寺の毘盧遮那仏(奈良の大仏)、興福寺の阿修羅像、広隆寺の弥勒菩薩像など、著名な仏像の多くが国宝だ。日本において国宝に指定された彫刻の大半が仏像であることからも、仏像が日本美術を代表するものであることが理解できるであろう。葬儀や法事などの「仏事」の次に仏教に触れる機会になっているのは、仏教美術と言えるかもしれない。

 

 明治期、美術や文化財という概念によって仏像がとらえられるようになったことで、仏像は鑑賞の対象となった。だが仏像が鑑賞の対象となっても、仏像における宗教的役割が消えることはなかった。筆者は10年以上にわたり東京国立博物館において接客に携わり、多くの来場者を目にしてきた。「国宝 阿修羅展」や「国宝 薬師寺展」などの混雑する仏像展においても、展示された仏像に手をあわせる来館者が多かったことが印象的だった。仏像に対する祈りが根づいているからこそ、文化財・美術作品として仏像が「展示」されていても手をあわせるのだ。

 

 国宝の仏像のようにテレビや雑誌で紹介されるのは、飛鳥時代から鎌倉時代に造られた仏像であるため、仏像は「古いもの」という印象が強い。だが日本に残されている仏像の半数以上は、江戸時代以降に造立されたものだ。そして、現在も新しい仏像が発願され、制作されている。仏像が発願される理由はさまざまだが、そこには何らかの「祈り」が込められている。

 

 筆者は宗教学の領域で近代以降の仏像を研究しているが、それは仏像を「美術作品」として研究するのではなく、仏像にどのような祈りが込められているのかを考察するためだ。このような研究をしようと思ったきっかけは、2011年3月11日に発生した東日本大震災だった。2013年から地震と津波の被害が大きかった岩手・宮城・福島の東北3県にて調査をおこない、その中で複数の仏像が造られる現場に立ち会った。

 

 何度も東北地方を訪れる中で、筆者自身が提案した「にぎり仏ワークショップ」で被災者の方々と一緒に仏像を造る機会もあった。このワークショップのきっかけは、岩手県大船渡市の仮設住宅にお住まいの目が不自由な高齢の女性から、私は目が見えないけれど、震災関連死を遂げた配偶者のために仏像を造ってあげたいとの申し出があったことだ。筆者は被災地で傾聴ボランティアをおこなっていた僧侶や学生ボランティアと協力しながら、木質粘土を使って仏像を造るワークショップを提案した。仮設住宅でおこなわれたワークショップでは、まず僧侶が女性の配偶者の戒名を紙に墨で書き、その紙を小さく丸めて芯にした。そして学生ボランティアに手を添えてもらいながら、芯の周りに粘土を盛りつけ仏像の形を造った。粘土を使った簡素な造形であったため、はじめて仏像を造る高齢の女性でも制作が可能になった。出来上がった小さく可愛らしい仏像を前に涙を流しながら手をあわせて祈る女性の姿に、改めて仏像は祈りの対象であることを感じた。

 

 粘土とは異なり、木材を彫る仏像彫刻は技術と経験が必要となる。東日本大震災後に筆者が出会った仏像の制作者のうち、木を彫ることに祈りを込められていると強く感じた2名の方を紹介したい。

 

 お一人目は陸前高田市の被災松に観音像を彫った仏像彫刻師の佐々木公一氏だ。佐々木氏は富山県で修行し、生まれ故郷である岩手県気仙郡住田町に木彫工房五葉舎を開いた。その2年後、東日本大震災が発生したのだ。当初は巨大地震の全貌がわからなかったが、消防団員として捜索活動に加わり津波による甚大な被害を目の当たりにしたという。震災からしばらくは物資の輸送などの支援をおこないながら、それまで引き受けていた木彫の仕事を続けていた。

 

  震災から1年が経過し、外部からの支援も増えたことで木彫の仕事に集中することができ、震災で亡くなった方のための仏像を彫るしかないと感じるようになった。特に陸前高田市の市役所に勤める従姉妹が津波によって亡くなったこともあり、陸前高田の松を使用したいと考えていた。被災した高田松原の松を陸前高田の木材商より、知人の紹介で無償で提供してもらうことができた。「奇跡の一本松」として現在はモニュメント化されている松よりも樹齢の長い大きな松の木に、高さ約160センチメートルの慈悲の表情に満ちた白衣観音像を彫り上げた。

 

 陸前高田は復興の途中であり恒久的な建物が少なかったこと、また気仙地域から盛岡に避難している方も多かったことから、観音像は盛岡市の復興支援センターに安置された。震災から10年が経過した2021年、観音像にヒビ割れが出てきたので、工房に持ち帰り修復した。当初、佐々木氏は、陸前高田市の公共施設に設置することを考えていたが、政教分離などの問題もあり、長期間にわたる観音像の設置に不安があるため断念した。そして観音像に地域の観音信仰の中で末永くお参りしていただけるよう、気仙三十三観音霊場の三十三番札所にあたる陸前高田市の浄土寺(浄土宗)に安置することになった。佐々木氏は、これだけ大きな仏像を彫れるほどの松の木が高田松原に何万本もあったのだということ、それらを植え育ててきた先人たちの思い、そしてそれらが一瞬にして失われたという事実を、いつまでも忘れないでいてほしいと願っているという。

 

 お二人目は、震災で亡くなった多くの人々のために巨大な不動明王像を彫り続ける僧侶、小池康裕氏だ。宮城県東松島市の清泰寺(曹洞宗)の住職である小池氏は、東日本大震災が発生した2011年の夏から葬儀などの合間を縫い、ケヤキ材を組み合わせて6メートルを超える巨大な不動明王像を彫り続けている。

 

 小池氏は30年ほど前から独学で仏像を彫っていた。転機となったのは2003年7月に発生した宮城県北部連続地震だ。この地震によって江戸時代から続く清泰寺の本堂や山門は全壊してしまった。この時、倒壊した建物の部材を用いて、檀家のために仏像を彫るようになった。宮城県北部連続地震からの復興が進められていたところに、また東日本大震災が発生した。内陸部にあり津波の被害を免れた清泰寺は檀家や近隣住民の避難場所となった。震災直後から小池氏は、菩提寺を持たない遺族らのため、犠牲者の供養に奔走し、震災で亡くなられた方、200名以上の葬儀で導師を務めた。さらに震災で家族を亡くした檀家のために仏像を彫り贈った。小池氏は、震災や津波、自然の巨大な力に立ち向かうには、お地蔵さんや観音様のような優しさだけではダメだ、不動明王のような力強さが必要であると考えた。一般的な不動明王像は右手に宝剣、左手に羂索(縄)を持つ二臂の姿だが、震災後に彫り始めた不動明王像は通常の二臂に左右一本ずつ腕を加えた四臂とした。加えられた二臂のうち、大地に下ろされた右腕は、地震を抑え犠牲者を津波からすくい上げることを表し、天に向かって伸びる左腕は、亡くなった人を極楽浄土へと導くことを表している。

 

 巨大な不動明王の周りに足場の組まれた作業場には暖房設備はなく、冬はとても寒い。またケヤキ材は固いため、節などに当たると弾き返されることもある。だが80歳を過ぎてなお、読経しながら大きな木槌を振るいノミを入れる小池氏の手は力強い。小池氏は「芸術のための仏像ではない、僧侶にしか彫ることのできない、亡くなった方を思い、人々が静かに手をあわせられる仏像を彫り続けたい」とおっしゃっていた。

 

 最後に東日本大震災による津波などによって亡くなられた方々の十三回忌にあたる2023年に新たに発願された大仏を紹介したい。遺族の心の拠り所となるように発願された「いのり大佛」である。震災の記憶が薄れはじめる十三回忌という節目は、新しい生活に少しずつ慣れる時期であるとともに、亡くなった方々への思いを受けとめてくれる存在が必要とされる時期となる。

 

 東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市の門脇小学校のそば、西光寺(浄土宗)墓地内の慰霊広場「祈りの杜」に、同寺住職である樋口伸生氏を代表として、西光寺遺族会「蓮の会」が中心となり「いのり大佛」を建立する予定だ。遺族会の中には子供を失った母親も多い。遺族の方々は、今まで仏教にあまり関心がなかったが、悲しい気持ち、やりきれない思い、愛しい感情など、全ての想いを預けられる存在、自分自身を救い取ってもらい、そのような想いを受けとめ、支え、助けてくれる存在を考えたとき、実際に目に見えて、手に触れることが出来る大きな仏像が必要であると感じたという。生き残ったからこその苦悩、その辛さの中で生活してきたからこそ、寄り添う存在として大きな仏様が必要とされたのだ。

 

 「いのり大佛」は、台座を含めて高さ約5メートルの石でできた阿弥陀如来坐像となる予定である。大仏の制作は石材加工で有名な愛知県岡崎市の石工らによっておこなわれる。そして造形の監修は仏師の村上清氏がおこなう。2023年には村上氏が実物の阿弥陀如来坐像の6分の1サイズの石膏原型像を完成させ、檀家や支援者に公開された。2026年の完成を目標に寄付を募り、制作が進められている。

 

 大仏から手の中に収まるほどの小さな仏像まで、東日本大震災の被災地で造られた仏像は大きさも素材も尊格もさまざまである。だが、それらすべてに、未曾有の災害によって亡くなった方々のための供養・慰霊という「祈り」が込められているという。筆者は被災地で仏像を造る人々の声を直接聞くことができたおかげで、造形物として祈りを後世に残すという仏像にしかできない信仰があると知ることができた。東北地方の復興は進み、少しずつ記憶は薄れている。だが2024年は元旦に発生した能登半島地震によって改めて地震や津波の脅威を目の当たりにした。長い歴史の中で自然の脅威を前に人々は祈り続け、その祈りを形にしようとしてきたことを、仏像は伝えている。現在は国宝に指定された遥か昔に造られた仏像にも、当時のさまざまな社会状況を反映した祈りが込められているのだ。

(きみしま あやこ・和光大学表現学部講師)

著書に、『観音像とは何か 平和モニュメントの近・現代』(青弓社、2021)、大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎編『増補改訂 近代仏教スタディーズ: 仏教からみたもうひとつの近代』(分担執筆、法藏館、2023)など多数。

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加来 雄之

(KAKU Takeshi)

 どのような時代でも、どのような社会でも、私たちの問題は、自分の置かれている状況や遭遇する事件を受けとめる自己をどのように実現できるのかということにある。


 人間が、事実そのものではなく、自我関心や価値観にとらわれた「思い」で作り上げた虚構の世界の中に生きている以上、人は不安から逃れることはできない。だからこそ人は、自分や他人の「思い」に左右されない依り処を与えてくれる何かに惹(ひ)かれるのだろう。その「思い」を超えた依り処として何を選ぶのか。それが、その人の生き方を決定する。


 人は、そのような依り処を与えてくれる一つとして宗教(儀礼や信仰)を求めるのかもしれない。


 例えば、毎朝の神仏への礼拝など日々の生活における儀礼的な様式や、誕生や結婚や死などの人々の人生の重要な出来事に結びつく儀礼や、大災害などとの遭遇や痛ましい事件を受けとめるための追悼や鎮霊のような特別な儀礼も、そのような要求を満たしてくれる。


 また占いなどは日々の行動の指標となり、想定外の事件の意味を神仏からの試練として教えてくれる定式化された信条などは、私たちに安定した生き方を与えてくれるだろう。


 しかしそれは本当に「思い」を超えた世界を開いてくるのだろうか。どのような儀礼も信条も、事実そのものを離れて、私たちの「思い」をかなえようとする呪術的・功利的なものにとどまるならば、真の意味で「思い」を超えた世界を開いてこないと思われる。


 かつて大谷大学の学生と共に、他力浄土教の受容の現状について調査するための研修で台湾に行ったことがある。台北にある善導流の浄土教を広めている中華浄土宗協会を訪れたとき「念仏機」なる装置を眼にした(下画像、クリックすると音声が流れます)。それは24時間、協会の指導者が「南無阿弥陀仏」と念仏する声をひたすら流し続けるという装置である。最初はとても違和感を覚えた。一つは、自分で念仏せずに装置に念仏という行を代替させるということに。もう一つは、指導者の声を繰り返し流すということに(その行為が、或るカルト的な宗教の修行方法を連想させたからであった)。


 後で調べると、この種の機械は台湾や中国などではごく一般的で、ネット上でも、それを鳴らしておくことでさまざまな利益が得られるといううたい文句で「ブッダマシーン」などと呼ばれて販売されていた。聞くところによると、交通事故の場所などにはよく置かれており、亡くなった人が成仏できるように、また鬼にならないように、さらに事故が再び起こらないようにと期待されているということであった。いわば除災招福機である。私もそのようなイメージで受けとめたのである。


 ところが協会の或る女性信者に念仏機のことを尋ねたとき、その答えに触れて深く考えさせられた。彼女は次のように語った。

「私は商売をしています。朝から晩まで忙しく客に対応しており、念仏をとなえる暇もありません。しかし念仏機を鳴らしておけば、いつも念仏の中に居ることができるし、阿弥陀仏のことを忘れないですむのです」


 そのとき私は、親鸞聖人が念仏の本質を、仏たちが阿弥陀如来の名を称えて私たちに聞かせてくれることである、と受けとめておられることを思い出した。また流れる念仏が協会の指導者の声であることについても、もし法然上人や親鸞聖人の念仏の声が今に残っていたら私もそれを聴いていたいと思うだろう、と考え直した。ひょっとすると念仏機に違和感をもった私の中には、念仏を自分の行為とし、また手柄とするような発想が残っていたのかもしれない。


 もちろん念仏機を除災招福機として使用している人も多いだろう。しかし思えば、念仏を呪術的・功利的に捉え、現世や来世の幸福を追求するための道具とする傾向は法然上人や親鸞聖人の時代も同じであった。

 私にとって、念仏のイメージが大きく変わったのは、『歎異抄』の有名な親鸞聖人の仰せと出会ったときであった。


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。

(『歎異抄』第二章『真宗聖典』627頁)


ただ念仏して、阿弥陀と名づけられる真実の意味に人生が支えられるならば、地獄におちてしまったとしても、まったく後悔するはずはない。この念仏についての仰せに出会って、私の念仏への印象や向き合い方が変わることになった。


 私はときおり不安に襲われる。欲や怒りの思いに苦しめられる。死が怖く、死後に幸せな世界があればと思う。他人の不幸と比較して自分はまだましだという傲慢な思いに囚われる。私は念仏をすれば、このような思いが解決されるだろうと漠然と考えていた。もちろんこのような不安や功利的な思いは今も私から消えてなくなることはない。しかしこの仰せを聴いたとき、できるならば除災招福の念仏ではなく、このような念仏、「ただ念仏」の仰せにしたがっていきたいと感じた。


 同じ台湾研修旅行の中で、同行した学生の一人が協会の指導者に次のような質問をした。

「あなたは、戒律を護ることができない人々を救う他力の念仏の教えを伝えているのに、どうしてご自身は出家して戒律を護るのですか」と。


 その方は次のように答えた。

「それには二つ理由があります。一つには、私自身は出家の生活が楽しく、好きなのです。もう一つには、台湾では人々に教えを伝えるのに出家の形の方が都合がよいのです。」


 この返答は、私に法然上人の有名な仰せを思い出させた。


現世のすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろずをいといすてて、これをとどむべし。いわく、ひじり(聖)で申されずば、め(妻)をもうけて申すべし。妻をもうけて申されずば、ひじりにて申すべし。〔中略〕衣食住の三は、念仏の助業也。

(『黒谷上人和語灯録』巻五「諸人伝説の詞」)


法然上人は、念仏ができるように聖という出家の形でも妻をもつ俗人の形でも都合のよいものを選べばよいとし、あわせて衣食住は念仏することを助けるための活動だと結論している。それは衣食住を軽んじてもよいという意味ではない。念仏できる人生を、そして人世を実現することを可能にする衣食住がぜひとも必要だという意味である。


 念仏は、この世の営みを否定し、この世の苦しみから逃避するための方法だろうか。そうであれば念仏の生活は次の世のための準備であって、この世において何の内実ももたないことになる。しかし念仏が、この世での営みのすべてを、この人生を深く受けとめていく縁とする場を開くのであれば、「ただ念仏」の生活ほど豊かな内実をもつ生活はない。


 「ただ念仏」というのは、決して他のことよりも念仏を優先せよ、例えば仕事も辞めろ、社会活動も止めろという意味ではない。自分のことも、他者との関係も、今の世界のあり方も、命終の後のことも、すべて如来の慈悲と智慧をとおして受けとめ直すということを意味している。


 科学技術の時代、生理や心理についての科学も発達したこの現代に、法然・親鸞という名に象徴される「ただ念仏」という仰せは必要とされているのだろうか。科学と念仏の生活は矛盾するのだろうか。


 「ただ念仏」は、科学を悪魔扱いしたり、科学のない世を夢想させたりはしない。私たちの生活は科学を必要とする。むしろ「ただ念仏」は、科学を使う人間の「思い」の迷いに気づかせ、「思い」を超えた世界に立ちかえらせる。いかなる人間の属性も状況も問わない唯一の行として選ばれた「ただ念仏」は、人の価値を問わない。そのことによって呪術的・功利的な人生観を超えていく生き方を与えてくれる。


 念仏は、一応は人生の出来事を「そのまま」受け容れる道であると言ってよい。しかし、それは無批判な現実肯定や受容を意味しない。「ただ念仏」は、如来の智慧の中でこの生を尽くしていくという私たちの宣言であり、それは出来事を「そのまま」ではなく「ありのままに」受けとめていこうとする態度表明だからである。だからこそ「ただ念仏」は、如来の悲しみにもとづいた批判が生まれてくるための唯一の場を開く。


 「思い」を離れることのできない私たちは、「思い」ではどうしても受けとめることのできない現実を、どのように受けとめればよいのだろうか。「ただ念仏」という生き方の中には、それを探求してきた仏者たちの歴史が折りたたまれている。


 台湾での「念仏機」との遭遇は、私にとって「念仏」という営みが現代にもつ意味を問い直す「契機」となった。

(かく たけし・親鸞仏教センター主任研究員)

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浅原才市に学んだ小説

アンジャリWEB版

小説家

乗代 雄介

(NORISHIRO Yusuke)

 専業の小説家として暮らしている。中学1年の時から書くことを始めて、29の年にデビューして、今は36。だんだん書き方も変わってきて、小説のほとんどを外で考え、外で書くようになった。

 

 10代の頃、小説家の生活とはどんなものかと考えることがあったけれど、当時の自分が今の自分を見たら、多少なりとも混乱するだろうと思う。彼の考える小説家とは、彼が毎日せっせと誰に見せるでもなく実践しているように、机に座ってじっと考えながら手を動かすものだからだ。

 

 どんな小説も文字が増えていった結果として完成するもので、例外はない。どこから書くにせよ、後から減るにせよ、とにかく書き進めるわけだ。迷った時は、読んだ本とか見た映画とか友人の話とかにヒントを得て、新たな道が拓けることがある。つまり、書いている小説世界というのがあって、そこに現実から引っ張ってきた何かを投入することで活路を見出すのだ。しかし、その何かをそのまま使えることはほとんどない。既にできかけている小説世界に合わせて、形が変えられることになる。

 

 例えば、現実の友人と喫茶店で話している時、友人がコーヒーをこぼしたとする。そのあわてぶりに興をそそられた作家は、小説の登場人物2人が喫茶店で話す場面で同じことを起こそうと思い立つ。コーラが好きな人物設定だったから、コーヒーではなくコーラをこぼすことにしよう。登場人物は黒っぽい服を着ていたけど、目立たないから変えて、白だとやりすぎだから水色ぐらいにして。それで、そのあわてぶりを見て、相手に幻滅することにしよう。

 

 全ての小説は、意識するかしないかは問わず、大なり小なりそういうことのくり返しで書かれていると言ってもよい。ただ、それに気付いた時、つまりは自分が現実世界から得たものを色々な事情で都合よく変えて小説世界に配置していると自覚した時、私は自分の小賢しさがいやになってしまったのだった。

 

 私の場合、もともと1人で外を歩き回るのが好きだから、風景がきっかけになって小説が書き進められることが多いが、そこでどう書くかというのは問題だった。というのも、風景の素晴らしさを再現するために、何があって何がいてと言葉を尽くすほどに、言葉の上での美しさは目減りしていくのである。間を取り持つ比喩を駆使してそれらしく書けば人は美しい風景と認識しないこともないだろうが、書いている私には生気を抜いて飾るようでくだらない。そう思っているくせに、クイナの仲間のオオバンがいる池の風景を思い出しながら書く際、ほとんどの人は知らないしいちいち説明すると興をそぐから「鴨」と書くことで趣ありげに流してしまったりするから、いやになった。

 

 私は何のために小説を書いているのだろう? 人にそれらしく読んでもらって褒めてもらうためか? だとしたら、ひたすら自分のために書いていた10代の私に合わせる顔がないではないか。

 

 そんな自問自答の中でいつも、妙好人と呼ばれる人々を思い浮かべた。ここで書くのも釈迦に説法だが、浄土教とくに真宗の他力思想に感化されて出た、多くは無学で社会的地位も高くないが、蓮華のように美しく篤い信仰をもった在家信者のことである。私はサリンジャーの影響で割に早く禅に興味があったところから仏教について気まぐれな独学を続け、もう10年も辞書を引き引き『五灯会元』をじりじり読んでほぼ忘れながらそれでいいと思っているぐらいの人間だが、それはともかく鈴木大拙は、島根県石見国の漁村で下駄職人をしていた浅原才市という妙好人に関心を寄せ、くり返し書いている。『妙好人』(法藏館)から、才市が乏しい文字で書き残した〈口あい〉と称するものを孫引きする。

 

このさいちわ、まことに、あくにんで、ありまして、

くちのはばが、二寸のはばで、をそをゆて、

ひとをだますと、をもをてをりましたが、

それでわのをおて、

わたしは、まことに、あくにんでありまして、

せかいのよをな、をけな、くちをもつてせかいのひとを、だましてをります。

わたしや、せかいに、あまうたあくにんであります。

あさまし、あさまし、あさまし、あさまし、

あさまし、あさまし、あさまし、あさまし。

 

 現実世界を都合よく小説世界の鋳型に押し込んでいた私は、「二寸のはば」で「噓を言って」小賢しいと自分を嫌悪していたが、実際はもっと大きな悪なのかも知れない。「世界のような大きな口で世界の人をだましている」という才市の告白と反省に憧れたのかも知れない。かも知れない、かも知れないと書くのは、10年ほど前に『妙好人』を熱心に読んでいた時は、この箇所を敢えて意識した覚えがないからだ。今、この文章を書くために読み直して気付いたようなことである。

 

 一方で、その時からはっきり意識していた箇所もある。私が小説に絡んで妙好人を思い浮かべる時はいつも、次の才市の言葉と、それに続く大拙の記述がついてきた。

 

ありがたいな、ごをん、をもゑば、みなごをん。

「これ、さいち、なにがごをんか。」

「へゑ、ごをんがありますよ。

このさいちも、ごをんで、できました。

きものも、ごをんで、できました。

たべものも、ごをんで、できました。

あしにはく、はきものも、ごをんで、できました。

そのほか、せかいにあるもの、みなごをんで、できました。

ちやわん、はしまでも、ごをんで、できました。

ひきばまでも、ごをんで、できました。

ことごとくみな、なむあみだぶつで、ござります。

ごをん、うれしや、なむあみだぶつ。」

 

「あさましや、あさましや」が、これほどまでに「ごおん」につつまれてしまうということは、人間の一生において容易ならぬ転換を意味するものである。

 これが自分らのように、いくらかの学問もしたり思索をしたものなら、前掲のごときは、何としてでも、作り出されないこともない。自分らは、理性とか、知性とかいうもので、外から自分を見ることを学んだ、それで、自分を欺き、他を欺くの術を知っている。心の内に何もないことを、まことしやかに、さも実際に感じたかのように、饒舌(しゃべ)りもし、また書きもする。それが才市の場合になると、何事も体験そのものの中から涌いて出るのである。

 

 小説を書き進めるためでなく、何のために小説を書くのか考えるために、今も励ましや戒めになっていることだ。また読んで、私も「世界のような大きな口で世界の人をだま」すのをやめて、「世界にあるもの、みな」を「噓」でなく、自分や他を欺く術を使わずに書きたいと改めて思う。無論、書き言葉と話し言葉のあわいに居られた才市とはちがうから、いくらかの学問や思索を根こそぎ振り払うことなど不可能なのは10年前から承知していた。でもいつからか、せめて「何事も体験そのものの中から湧いて出る」ように書く努力をしようと考えるようになっていた。

 

 見当違いの努力なのかも知れないが、最近の私は、小説を外で考え、外で書いている。各地を歩き、風景や今昔の人間の営みに触れ、興味深い場所を見初めると、なるべく近くの宿に何泊かして、日夜そこに通う。危険がなければ未明にも行ってみる。手持ちのノートに文章で描写をして回り、動植物を把握し、図書館で土地の歴史を、縁のある人物を調べる。時を置いて、季節が変わるごとにまた同じことをする。季節が一回りし合わせて20泊ぐらいした頃には、小説が形をとっている。

 

 場所、景色、天気、落ちている空き瓶まで、私がしかと見聞きしたものだけを小説世界に持ち込むと決めている。意識の届く範囲では、時や色や形さえ都合よく変えることもしない。唯一の例外は人間で、これは人間の出ない小説を書く術のない今の私にはどうすることもできないが、登場人物にも私のルールに従ってもらうことで事なきを得たつもりでいる。

 

 そうと決めたら、小説が行き詰まるような時も間を埋めるようなことは書けないから、書き進めるきっかけに当たるまでひたすら待つしかない。ちょっと変えれば使えそうなことがあっても我慢しなければならない。1本のクヌギの枝にさえずるヤマガラを見たとして、それを登場人物がいるところのコナラの枝に移して視線を上にやりたくなるのだが、そのヤマガラは「ごおん」でできたものではない気がする。そんなことでは「へゑ、ごをんがありますよ」と答えられない気がする。私は、巷で言われる「自分で書くというよりも、小説に書かされている感覚」みたいな謙遜風のおためごかしでなく、才市のように平然と嘘偽りなく「この小説も、ごおんで、できました」の他力を口にしたいのだ。そのために、自分でなく世界に小説を書いてもらう方法を探している。しつこく待って、たまさか小説が書き進められるようなものに当たると、本当に「ごおん」に包まれる思いがする。

 

 それでもふと、こんな手間をかけて何の意味があるのかと自問しないでもないし、苦労を望んでして何か得ようとするのはむしろ自力の考え方なのではないかと思うこともある。悩みは尽きないけれど、八万四千の煩悩をそのままに進む浅原才市の信仰のあり方が、いつも私を駆り立ててくれた。一生辿り着かないのではないかと思わされるこんな一首を、遠いどこかをさす道しるべとして。

 

 さいちよい、へ、たりきをきかせんかい。へ、たりき、じりきはありません。ただいただくばかり。

(のりしろ ゆうすけ・小説家)

著書に、『旅する練習』(講談社、2021)など。

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忘却に抗って

アンジャリWEB版

シンガーソングライター

見田村 千晴

(MITAMURA Chiharu)

 「忘れる」ことに対して、漠然とした恐怖感がある。抵抗感、の方が正しいかもしれない。私は日々湧き上がっては消えていく己の感情を、できる限りその鮮やかさのまま、全て記憶していたいと強く思っている。

 

 しかし人間は、忘れていく生き物である。未来を生きていくために忘れた方が良いこともある。痛みや苦しみ、悲しみといった負の経験から身を守るために、脳が記憶を消してしまうこともあるらしい。それでも私は、痛みも苦しみも、鮮烈に覚えていたいと思うのだ。お前の経験してきた痛みや苦しみなど生ぬるいからそんなふうに思えるのだ、と言われてしまえばそれまでなのだが。

 

 では、なぜ私はこんなに「忘れたくない」のだろう。

 私は幼少期から、「誰も私の気持ちを分かってくれない」と思っていた。なぜ分かってくれないんだ、分かってくれる誰かに出会えないのはこの場所のせいだ、と完全に周囲のせいにしていた。孤独感を抱えた10代だった。

 

 そして大人になり、25歳を過ぎた頃からだろうか、過去の自分を少しずつ客観的に見られるようになった。子どもの頃の私は、言葉や態度での自己表現がとても苦手だった上に、 “優等生ぶる” ことが上手だった。どちらも自信の無さの裏返しである。端的に言えば、私は重度の「察してちゃん」だったのだ。そうやって自己分析ができてくると、昔の自分がとてつもなく愛おしい存在に思えた。時を超えて隣に寄り添って「大丈夫だよ」と抱きしめてあげたい気持ちになった。そんな愛おしい“あの子”の孤独や苦しみを無かったことにしたくない。「何も分からない子どもだったから」という言葉で片付けてしまっては可哀想だ。そうだ、「子どもは黙ってなさい」と主張を封じられ続けていたから私は苦しかったのだ。

 

 以上のような自己分析をして以来、今度は意識的に「思い出の美化禁止ルール」を自らに課している。過去の恋愛も、うまくいった仕事も、妊娠・出産の経験も、今は亡き人についても、綺麗な思い出だけではなく、苦しかったことや辛かったこと、後ろめたいことまでちゃんと覚えていたい。しかも、できる限り色褪(いろあ)せないままで。これは私なりの、過去の自分への供養なのかもしれない。

 

 さて、私はシンガーソングライターである。歌詞を書き、曲をつけ、ギターを抱えて歌っている。おそらく作詞作曲をする音楽家の7〜8割は、先にメロディを作り、後から言葉を乗せていると思う。私は残りの2〜3割、歌詞を先に書き、そこにメロディをつけていくという順序で曲を作っている。誰かから教えられたわけでも、選び取ったわけでもなく、独学で曲を作り始めたらたまたまそうなっていた。日々色々なものを見たり聞いたり考えたりする中で、曲にして残したいと思う感情や風景を頭の中で “スクリーンショット” し、丁寧に言葉に変換していくイメージだ。

 

 「思い出の美化禁止ルール」を遵守して生きていくために、音楽はとても効果的である。覚えておくのが難しい複雑な感情や、夕焼けのように時間とともに移り変わっていく感情も、楽曲に託せば半永久的に忘れないでいられるのだ。ライブで自分の曲を歌っているとき、私の目の前にはかつて見た風景が広がり、身体の内側にはかつて味わった苦しみや温かさが戻ってきている。

 

 曲を作る動機がこうなのだから、主流であるメロディからではなく、歌詞から先に作っていくスタイルになったことは私にとってとても自然な流れだ。ともすると、「忘れてしまう」「忘れたくない」という言葉が頻出(ひんしゅつ)してしまうのが悩ましいところなのだが。

 

 昔、たまたま観ていたテレビ番組で、取材されていた僧侶の方が口にした言葉がとても印象的だった。

 

「死は、準備のできた人に訪れるものなんです。死ぬのがどうしようもなく怖いうちは、まだ準備はできていないのです。」

 

 もちろん、不慮の事故など突然起こる場合もあるだろうが、死について想像するだけで眠れなくなるほどの恐怖感を持っていた私は、胸のつかえがすっと取れていくような安心感を覚えた。それ以来、この言葉をお守りのように大事にしている。

 

 「忘れる」ことを大らかな気持ちで受け入れられる日はいつか来るのだろうか。それは、必ず訪れる「死」への緩やかな準備をしているということなのだろうか。

 

「若い頃は全てがキラキラして楽しかったわ」

「大変なこともあったような気がするけれど、忘れちゃった」

 

と微笑むおばあちゃんになる未来はまだ想像できない。それまでは、このせわしない感情ひとつひとつに目を凝らし、言葉に託して歌っていこうと思う。

(みたむら ちはる・シンガーソングライター)

 自身が立ち上げた音楽レーベル「KICHIJITSU RECORDS」を主宰。アルバムに『歪だって抱きしめて』(2019)、最近のミニアルバムに、『Marking』(2021)など。

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インドで年越し蕎麦を啜る

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映像作家・文筆家

佐々木 美佳

(SASAKI Mika)

 インド・コルカタ在住、たったの数ヶ月だが、この間どれだけの宗教的なお祭りに遭遇したのかよくわからない。コルカタという土地を生きているだけで、12月のクリスマス、1月のサラスヴァティ・プジャ、2月のバレンタインデー、3月のホーリーという風に、毎月何かしらの祝祭に遭遇する。クリスマスは若者のイベントの側面もありパーティー化している様子もあるが、クリスチャンもともに暮らしているのがコルカタ。市内の中心にある教会では、クリスマスの朝、ミサが厳かに唱えられていた。サラスヴァティは、日本では弁財天として親しまれている。芸術の神様でもあるので、映画を学ぶわたしもあやかりたい神様だ。この日はコルカタの至るところでサラスヴァティの像が祀られ、道を歩けばデカデカとしたスピーカーから音楽が鳴り響く。土でできた像は、祭りの夜、フーグリー川に流される。像を運ぶのもお祭り騒ぎで、スロウなスピードのトラックが像とスピーカーを積んで、地元の男たちがその後ろを踊り狂ってついていく。


 地元だけでなく、映画学校で祝われるお祭りも負けたもんじゃない。インド各地の多様なバックグラウンドを持つ学生たちが学ぶ映画学校では、世俗主義が原則となっている。そのため、1月にインド各地域で祝われる収穫祭が「文化的な祝祭」として祝われることになった。収穫祭前日、寮のど真ん中にどでかいスピーカーが出現した。嫌な予感がする。部屋にいては1日中大音量に悩まされると判断した私は、学校を脱出し、夜の10時に戻ってきた。にもかかわらずだ。10人弱の学生が、爆音に身を浸しながらまだ踊り狂っているのだ。米軍式と書かれている耳栓をしても、音楽が耳に入ってくる。12時過ぎになってようやく音楽が鳴り終わり、ホッと胸を撫で下ろして眠りにつくことができた。社会人を経験して再び学生になった自分としては、歌と踊りで神様を祀るお祭りで若さが炸裂するキャンパスライフに少々ついていけない節がある。なんせ、若さのエネルギーでもって朝から晩まで祝いまくるのだから。生まれて育ってきた環境の違いを思い知らされる羽目になった。


 自分自身が身につけてきた信仰をもっとも意識したのが、大晦日のことだった。クリスマスを過ぎてから、街がだんだん静かになり、仕事から離れ、家族と過ごすあの時間。家をきれいに掃除して、年越し蕎麦を茹でながら紅白を見るあの平穏で特別な1日。新年を迎えた瞬間に家族に向かって「今年もよろしくお願いします」と挨拶をする。除夜の鐘を、焚き火に手を当てながら聞く。厳かな気持ちとともに新年の抱負を胸の中で唱える。自分が当たり前のように毎年繰り返してきた習慣が、クリスマスから「ハッピー・ニュー・イヤー」にかけてお祭りムードがなかなか消えないコルカタには存在しないと気がついた。しかし何もしないで新年を迎えるというのはあまりにも残念な感じがして、なんとかならないものか…と思っていた矢先、同じ気持ちを抱えた友人の日本人旅行者たちと結託して、彼らが滞在しているゲストハウスで「プチ大晦日」を決行した。時差3時間半のインドと日本、インド現地時間の8時半に、日本の大晦日を迎える。蕎麦は手元になかったが、出汁ベースのカップうどんがあったので、それを蕎麦に見立てて三人で食べた。除夜の鐘のライブ配信を待ちながら、日本時間の年明けの瞬間を待つ。PCのスピーカーから「ゴーン」という音が響き渡った。「今年もどうぞよろしくお願いします」と、厳粛な気持ちで旅の仲間に挨拶をし、日本の大晦日という儀式を完了させた。霊験あらたかな気持ち。日本でディーワーリーや、ドゥルガー・プージャーを大規模に行うインドの人々はきっとこんな気持ちなんだろうか。その祝い事を執り行わなければ、なんだか歯磨きをしていないみたいに気持ち悪く、居心地が悪くなってしまう感じ。自国から引き離されて、自身の宗教的慣習を確認することとなった。


 日本式の新年のお祝いが済んで気持ちが満たされたので、今度はインド時間の新年の出番。2023年のお祝いを2回もできるなんてラッキーなことだ。12時を迎えると、花火やら爆竹やらの音が怒号のように鳴り響く。ベランダから恐る恐る外をのぞくと、子供たちがはしゃぎまわり、近所の犬たちがギャンギャンと鳴き喚く。ああ、わたしは今インドで生きているのだな。在日邦人が100人程度しかいないコルカタという街で、自分たちの小さな儀式を取り行えた満足感は、何にも代え難い喜びがあった。


 お互いがお互いの宗教的祝祭を施せる場を設けること。信仰の権利を認め合うのが平和の秘訣であるということ。人類の歴史が証明してきたこれらの事実を身をもって体験するのが、多様な宗教が混ざり合いながら14億人の人がひしめくインドに身を寄せさせてもらって生きることの醍醐味なのかもしれない。「インドのお祭りには歌と踊りがないとダメ」と豪語する同級生のことがまだよくわからないけれど、きっと彼女だって私が大晦日に何がなんでも蕎麦を啜りたくなる気持ちもわからないだろう。お互いがお互いを傷つけあわなければ、それでいいのだ。何より、インドで食べる大晦日のカップうどんの味は忘れられない。

(ささき みか・映像作家、文筆家)

 監督作として、ドキュメンタリー映画『タゴール・ソングス』(2020)。著書に、『タゴール・ソングス』(三輪舎、2022)『うたいおどる言葉、黄金のベンガルで』(左右社、2023)など。現在、Satyajit Ray Film & Television Instituteの映画脚本コース在学中。

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上七軒猫町体験

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親鸞仏教センター嘱託研究員

長谷川  琢哉

(HASEGAWA Takuya)

黒っぽいTシャツを脱いだ時にはもう朝焼け 照らされるイレズミはハートの模様だったかな?

(「TATTOOあり」MUKAI SHUTOKU)


 私が京都に住んでいた学生の頃の話である。大学院に進学する関係で健康診断書を提出する必要が生じ、病院に出かけた。自宅から遠くない場所にあったその病院はずいぶん古めかしく、大きな木製のドアと大理石調の柱が印象的だった気がする。とはいえ、町中のそれほど大きくない、地元の、特に年配の人たちの利用が目立つごく普通の病院であった。私は階段を登って二階にある受付に向かった。受診のために必要な書類を提出して、待合室のソファーに腰掛けた。これから先の大学院生活への期待や不安を漠然と感じつつ、自分の名が呼ばれるのを待っていた。


 ふとその時、強烈な違和感に襲われた。待合室の老人たちに交じって座っている、ひとりの若い女性である。見たところ10代後半から20代前半くらいの女性が私の目に入ったのだが、その女性は長く黒い髪をしっかりと結い(「日本髪」というのだろうか)、一見して普段着の、しかしそれでいてしっかりと仕立てられた上質の着物を着ていた。私の認識は混乱した。私の経験上、若い女性がいわゆる晴れ着の着物を着た姿を見たとこは、もちろん何度もあった。しかし普段着の着物を若い女性が着用し、しかも髪が本当に結われている。そのような若い女性を私は見たことがなかった。頭のてっぺんから足の先まで、現代的なものを一切身に着けていない時代錯誤なこの女性は、時間と空間を歪ませるに余りあるリアリティを有していた。どう見てもこれはコスプレではない。完璧に自然である。しかしなぜこの若い女性は、まるで明治か大正の世にいるかのようなスタイルで、平然と座っているのだろうか。病院の古めかしさと相まって、私は自分自身が今どこにいるのかも分からなくなるような強いめまいを感じたのだった。


 しかし次の瞬間にすぐに思い至った。この病院は花街である上七軒の近くに位置している。そうか、この女性はおそらく舞妓さんか芸姑さんのプライベートな姿なのだろう。あまりにも時代錯誤でありながら、あまりにも自然なこのスタイルは、彼女の職業的な事情を考慮すれば簡単に説明がつくものだった。真偽のほどは定かではないが、少なくともこの認識によって、私の日常は瞬時に回復された。そこは近所にあるごく普通の病院の一室に戻ったのである。


――その時、私は萩原朔太郎の『猫町』を思い起こした。モルヒネやコカインの薬物中毒患者である「私」が、健康のための散歩の途中にふとしたきっかけで方向感覚を喪失し、見慣れた街並みが全く見知らぬ街であるかのように見える錯覚を主題とした小説である。北陸地方の「K」という温泉地に滞在した「私」は、山道に迷い込んでたまたま小さな街に行き着くが、突然、街の様子が変化する。辺りにいた人たちが消え、猫、猫、猫、猫、猫、に覆いつくされるという奇妙なヴィジョンをわずかな間に見るという話である。


 私の京都の病院での体験は、『猫町』で描かれているそれと同種のものと言えるだろう。それは日常生活を転倒させ、まったくの異世界を垣間見させる体験であった。とはいえ、私の“猫町体験”への関心は、詩人である作者のそれとは異なるところもある。


 『猫町』では最後に荘子の「胡蝶の夢」が引かれ、「夢の胡蝶が自分であるか、今の自分が自分であるか」という疑問が取り上げられる。そして最終的に、「理窟や議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない」(萩原朔太郎『猫町 他十七篇』、岩波文庫、1995年)という詩人のヴィジョンの実在性が強調されるのである。たとえ幻のようなものであったとしても異世界を垣間見たことは事実であり、そしてその異世界はどこかに実在するという詩人の確信こそが、この著作の主題となっている。


 これに対して、私が興味を惹かれるのは、むしろ非日常的体験の後に回復される日常性の問題である。私たちは確かに、この世の常識を引き裂き、転倒させるような強烈な体験をすることがあるかもしれない。しかし『猫町』で描かれているように、大抵の場合そうした体験は長くは続かず、一瞬で過ぎ去ってしまうに違いない。私たちは正気を取り戻し、今まで通りの日常に逆戻りするのである。もちろん、その一瞬が一生分のことを変えてしまうこともあるだろうが(「パウロの回心」はその典型例と言える)、その場合には、非日常的体験は意味づけられ、日常生活に組み込まれているはずである。そうでなければ、体験は現実に対して効果を与え続けることが出来ないからだ。


 このように考えると、私が先に記述した病院での体験も、現在の私が再構築した物語に過ぎない。体験は記憶の中で改変され、体験それ自体は幻の中に消え失せているのかもしれない。

(はせがわ たくや・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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キルケゴールとニーチェの何が同じなのか――ヤスパース『理性と実存』を読む一視点

キルケゴールとニーチェの何が同じなのか

―ヤスパース『理性と実存』を読む一視点―

親鸞仏教センター属託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 ヤスパースの『理性と実存』は、5つの講義から成り、その最初の講義でキルケゴールとニーチェをいわば同じ仲間として論ずる。しかし、この2人の何を同じだとしているのか、捉えるのは易しくない。ヤスパースの見る、2人を結び付けるものは、言葉を越えてゆくものなのだから。

 

 ニーチェの思想を見る場合、永遠回帰とか超人とか力への意志とかに、キルケゴールでは、実存の三段階や絶望や不安などに眼をつけて、彼らの思想を捉えようとする、そうした仕方は普通にある。ヤスパースはここで、そうしたことへ深入りするそぶりが全くない。驚くべきことである。だがこの姿勢は、この2人の根本思考に厳密に忠実なのである。

 

 「どこにも、有限性にも、意識的に把捉される根源にも、規定的に捉えられる超越者にも、歴史的な由来にも、最終的な支えは、彼らにとってはない」(ヤスパース『理性と実存』、越部良一訳、リベルタス出版、2023年。以下、引用はすべてこの拙訳から)。

 

 ヤスパースが心底、眼を奪われているのは、彼らの規定されうるような諸思想ではなく、それらを越え包む何ものかである。

 

 だから彼らの思考のいわば形、形式に、彼らの生き方、生きた形に眼をつける。例えばこうである。

 「彼らにとって、ここでまた驚くべきことは、まさに彼らのできそこないの在り様それ自身が、彼ら特有の偉大さの条件であるということである。というのも、この偉大さは、彼らにとって、偉大さそのものではなく、時代状況に、その状況に固有なものとして属する、一回きりの偉大さなのであるから。注目すべきことは、いかに両者が、彼らの本質のこの側面に対しても、似たような比喩に思い至っているかである。ニーチェは自らをこう譬える、「でたらめな文字、見知らぬ力が、新しいペンを試すために紙の上に書く」。彼の病気の積極的な価値は、彼の絶えざる問題である。キルケゴールはしばしば思う、「神の暴力的な手によって抹消され、失敗した試みのように消し去られる」。彼は自らをまるで缶のふちに当って押し潰されるいわしのように感じる。彼に次のような思いが浮かぶ。「いつの代にも、他の人々の犠牲になり、ひどい苦悩のうちで他の人々に役立つものを……発見せねばならない2、3の人間がいるものだ」」。

 

 この2人は現代ヨーロッパという時代と場所の「いわば代表的運命であり、犠牲者」なのである。しかも自ら進んで。「そのような犠牲なしでは決して気づくことはなかったであろう何ものか」、その前面には「何か途方もないこと」がある。ヤスパースは言う、「今の人は、過去の教説の全てを、書冊の意味では、以前の大哲学者たちの或る者が識っていたであろう以上に、ひょっとすると識っているかもしれない。しかし、教説に関する、そして歴史に関する、単なる知に変貌しているという意識、生それ自身から、そして事実信じられていた真理から解き放たれているという意識は、この伝統がいかに偉大であり、そして大きな満足を作り出してきたし、今も作り出していようとも、この伝統を、その究極的な意味において疑わしいものにしてきたのである。[中略]というのも、西洋の人間の現実のうちに、ひそかに、何か途方もないことが起っているからである。すなわち、あらゆる権威の崩壊、理性に対する溌剌たる信頼の徹底的な消滅、すべてを、全くもってすべてを可能にするように見える、結び付きの解消」。

 

 実際上の無信仰のうちで、見かけ上何かを信じている風にすごしているという現代の状況、この状況の内にあって、「一方はキリスト教の信仰性をもち、他方は無神性を強調するという、まさに見かけ上は完全な本質相違性をもつから、それだけに彼らの思考の類似性は、ますます際立つものとなる。あたかもすべての過去のものがなおも存立しているかのような見かけのもと、実際は無信仰に生きているこの反省の時代において、信仰の拒否と自己を信仰へ強制することとは互いに属し合うものとなる。神なき者が信仰的に見え、信仰者が無信仰的に見えうる。両者は同じ弁証法のうちに立っている」。

 

 現代の状況に沿いながら、その実、彼らが目指すものは、その状況がもつ、見かけ上の信仰と実際上の無信仰を、突破することなのである。この突破は、時代を超え、世界を超える。彼らは共に命がけの人間である。「彼らは一つの道を行くが、この道は、彼らにとっては、超越的な支えなくしては歩み通され得ない。というのも、彼らが反省するのは、平均的な現代性がするように、生命欲と生命関心という自明の限界をもってしてではないから。すべてか、しからずんば無か、それが問題である彼らは、限界のないことを敢えて行う。しかし、このことを彼らが行うことができるのは、ひとえに、彼らがはじめからあのものに根ざしているがゆえであり、それは、彼らにとっては同時に隠れているのである。すなわち、両名とも彼らの青年時代に、知られぬ神について言及している」。

 「彼らの現存在の孤立無援、できそこなってあるものにして偶然的なもの、そうしたものと、彼らのもとで大きな対照をなしているのは、彼らを見舞うあらゆる出来事の意味、意義、必然性についての、人生が進むにつれ深まりゆく彼らの意識である。キルケゴールはそれを摂理と呼ぶ。彼は次のような神的なものをそこに認識する。「ここで起き、言われ、進行する等々すべてのことは、前兆であるということ、事実的なものは、それが何かはるかに高いものを意味するように、いつでも変貌するということ」」。

 

 だからヤスパースは、彼ら自身では意識することが不可能な事実的なもの、彼らが40代でもう彼らの人生の突然の終りを迎えたこと等の、彼らの人生行路の共通性を指摘する。「まったく理解の無い反響に面するという運命も、彼らに共通であった」。彼らは、「この時代にとって、単に一つのセンセーションにすぎなかった」。「こうして彼らの影響力は、彼らの本質の、そして思考の意味に反して、限界なく崩壊させるものとなった」。彼らの交わりの追求は、だから、生前においてのみならず、死後もその趨勢において挫折した。

 

 ヤスパースが見ようとするのは、彼らを包んでいる、知られぬあるものである。普通の、つまり、ただの人間的な見方では、例えば病気が「偉大さの条件」とされたりはしない。ここでは人間的視点を越えるものこそが、大なるものなのである。それが彼らを真に結び付ける。彼らが同じであることに驚くということは、そうしたものに、その者がふれているということであり、その知られぬものから問いかけられ、返答を迫られるということなのである。『理性と実存』という書物は、その返答の試みの書である。

 

 この試みは、彼らの、掴みうるようにされた思想に従うことではあり得ない。彼ら自身がそのことをはねつける。「彼らは我々を立ち去らせる。我々にいかなる目標も与えず、いかなる規定された課題も立てはしない。個々の誰もが、彼らによって、自分自身であるものに成れるだけである」。

 

 彼らを読むとは、そして彼らに対峙するこの書を読むこともまた、根本的に、その知られぬものに、自分自身が向かうということである。

(こしべ りょういち・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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