親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

仏教をテーマにマンガを描く中で知らされた可能性と危うさ

浄土真宗本願寺派僧侶・漫画家 

近藤丸

(Kondoumaru)

(註)本作は作者の経験に基づいた創作(フィクション)です。マンガに登場する、人物、固有名詞は実在しません。

広大な世界への通路になってくれたマンガ

 筆者は、浄土真宗系の中学校・高等学校で、教員として「宗教」(仏教)という科目を担当している。

 以前、先輩の宗教科教員からこう言われたことがある。


私たちのやっていることは種まきなんだと思う。


 多くの子どもたちにとって、仏教は普段の生活の中で必要ないものかもしれない。しかし、生きていく中で、行き詰ったとき、仏教の言葉が彼女・彼らにあらためて響いてくることがあるかもしれない。もちろん、今を生きる生徒たちに言葉を投げかけている。しかし、同時に、仏教という教えがあること、仏教という広い世界に常に通路が開いていると伝えることが大事なのだと思う。生徒の中に、仏教の言葉を尋ねてくれる人が一人でもいてくれたら。そういう想いで、仏教の授業をしてきた。

 教職のかたわら、マンガを描いてきた。寺院での活動に携わる中で感じたことを描いたエッセイマンガや、仏教用語を紹介するマンガを創作してきた。

 普段、なかなか仏教の話に興味を持ってくれない子どもたちも、マンガにすると読んでくれることがある。マンガには文字情報にプラスして、絵があることによって、読者にイメージを喚起しやすい。情報などが「ある意味で」わかりやすく伝わるという利点がある。マンガにも「行間」ならぬ、「コマ間」があり、読者はマンガを通して、何事かを感じ、考えることができる※1

 私は高校生のときに、手塚治虫の『ブッダ』を読んで、仏教という教えが「何か人間にとって大切なことを説いている」と感じた。手塚のマンガが、自分を、どこか違う世界、仏教という想像もつかないような広大な世界にワープさせてくれる窓口になっていた。

 本や、映画、ラジオ、法話まで様々なメディアが自分を他の世界とつなぐ通路になる。私にとっては、手塚作品が、他世界へ連れていってくれる窓口であり、そのことによって、様々な問題に悩んでいた高校生の自分はどこかで助けられていた。全く違う異世界への通路が開いていることを知り、その通路から吹き込む風によって、呼吸ができていたということがあると思う。マンガという、ある意味で近づきやすい仏教への窓口が、あってよかったと感じている。

 そして、その経験があったから、マンガという手法で描いてみたいと思った。現代の自分の言葉で、今を生きる人や、若い人たちに、出遇った教えによって受け取ったものの一端を伝えようと試みた。

 拙作を通して、仏教に興味を持ったという人の声も頂くことがある。畏れと責任を感じるとともに、あのように描いて良かったのだろうかと反省する点も多々ある。

 自分が描けるのは、あくまで自分が出遇った仏教の一端でしかない。願わくば、一人一人があらためて教えに出遇い直していって欲しい。作家の表現はどこまでも作家自身の偏見や、恣意が混ざったものとなるからである。


一瞬を切り取るという特性

 マンガは一瞬を切り取るメディアだ。瞬間を切り取るところにマンガの面白さと魅力がある。例えば上記の作品は、夏のお盆参りをモチーフに描いた作品だ。実際は、何年もお盆参りに通って気づかされたことを描いているが、具体的に取り上げているのはその経験の中のほんの数十分程度の出来事である。厳密に言えば、そのうちの何分かの景色にフォーカスし、その中の数秒を自分の視点で切り取って描いている。つまり、作中に描かれているのは、集中して考えれば数秒のシーンである。しかし、マンガの中には過ぎ去った時間や、自分の経験を、いわば封じ込めることができる。だが、そこでは多くのものは捨象されてしまっている。マンガで多くは決して語れない。しかし、作者の感じた一瞬と、読者が読む時間とが呼応し合い、作品に封じ込められた時間が読者の上にある意味で蘇生する。マンガを読むことで、お参りの時間があることの豊かさや、そこに流れていた時間や空間の中にあった何事かを感じとることもできるのかもしれない。この作品を通して、お盆参りの意義をあらためて感じたという声が寄せられた。


「分かりやすさ」と「危うさ」

 2人の若者が、生活の中で仏教の教えに触れていく『ヤンキーと住職』という作品を描いた。作品に対して、様々な反応があった。「分かりやすい」とか、「仏教が分かりました」という感想も頂いた。

 中学生・高校生が、仏教に出会う教材を作りたいという狙いもあって描き始めた自分にとっては、有難いと思う反面、危惧も抱いた。仏教の教えとは、分かったとか分からなかったとか、そういうものだっただろうか。法(教え)の言葉を手掛かりに、答えのでない問を自己の人生の中に生き、考え続けていくことが大切な営みなのではないだろうか。仏教の教えによって、私たちの生き方を問うことが大切な営みではなかったか。それがどこか、逆になってはいなかっただろうか。表面的な分かりやすさは、問いを眠らせてしまうような危険性もはらんでいるのではないか。なにより、自分自身がこれまで仏教に出遇い、様々なことを教えられてきたが、終わりなき学びの途上にいる。共に聞き続け、教えられ続けていく身である。

 マンガという表現には、分かりやすく伝えられるという利点がある一方で、そこから欠落してしまうものもある。

 結論として言えば、仏教をテーマに漫画を描く際には、その意義と危うさの両方を見つめ、その中を行き来することがどうしても必要なのだと思う。


2つの言葉を通して

 2つの言葉を紹介したい。筆者が、仏教に関するマンガを描き始めてから出会い、印象に残った言葉だ。

 1つは、ライターの武田砂鉄の言葉である。


いいねを狙って書く。そういうことをするとライターはあっという間にダメになっていく。


 武田の仕事の姿勢を尊敬している。誰かに媚びるような文章を書かない人だ。上記の言葉は、ある対談での発言※2だが、その対談の少し前に、著名な俳優の方が自死されていた。武田は、例えば、その俳優の方のことに触れて記事を書いたら、ページビューは稼げるかもしれない、だけど、そういうことは絶対にしないようにしているという。武田の言葉は、アテンションや、「いいね」を狙って何事かを書くことのどこに問題があるのか、端的に示している。そこには書く人が決して見失ってはならない敬意の原点のようなものがあるように思う。「書く」ということは人間存在の深みや、意味の深みに触れることとつながっている。

 長く、水俣病被害者に寄り添い、水俣病被害に係る相談を受けて解決を目指し、事件に関する調査研究と啓発を行ってきた団体がある。その団体の主催する水俣病の勉強会に出席したとき、次の言葉を聞いた。その団体で活動してきた、筆者と同世代の職員の方の言葉である。


私たちは、水俣病事件のことを伝えていかなければならない。だけど、ただ伝えるのではなくて、地続きに伝えていかないといけない。私たちが伝えられたように、伝えていくことが大事だと思う。


 彼女の真意を聞いたわけではない。しかし、その言葉を聞くだけで分かることがあると思った。水俣病事件の悲惨・悲しみ、同じことを決して繰り返してはならないということを、われわれは伝えていかなければならない。だからといって、ただ伝えればいいのではなく、伝え方・残し方が大事なのだ。ふざけて扱うことなどできない。例えば、公害の問題を「ポップ」に「楽しく」扱い、伝えていくということは成り立たないのではないか。そんなことはしてはいけない。きっと仏教を伝えるときにも、同じ質の問題が通底していると思う。仏教もまた、人間の苦悩や悲嘆の中から生まれてきた教えである。

 2人の言葉から、自分の執筆姿勢が問われてきた。

 仏教の歴史においては常に、経典や論・釈、その他の著作をテキストとして新しい解釈が生まれてきた。また、教えに出遇った者が、その時代に応じた表現を試みてきた。現代においても、仏教という営みの生命に触れて、現代に生きる人に応じた言葉(あるいは表現)を紡いでいくことは必要不可欠なことである。しかし、何かを伝えようとするとき、それをどのように残すのかということも大切な問題だ。


「ひっくり返し」や「まぜっ返し」というマンガの特性

 鼎談「宗教、宗教団体によるマンガの特徴は何か?」(『宗教と現代がわかる本2015』)の中で、宗教学者の井上順孝が次のように述べている。


まじめな世界で、信仰なら信仰という世界を築くときに、何をよりどころにその世界観をつくるかというところでは、近代にいたるまで一つの体系性というか、仏教やキリスト教各派が持ってきたものがあって、それを侵食してくるものとは闘ってきたわけです。そういう伝統的に伝えられてきた体系性すら失われている※3


 この発言の前後の文脈を補いたい。ここで議論されているのは、マンガというメディアは、常識をくつがえすとか、常識とは逆さのことをやるとか、とんでもないものを持ってきて楽しむという特性を持っているということである。マンガに限らず、人間は芸能や文学・芸術という営みにおいて、ある要素と別の要素を混ぜたり、ひっくり返したりして面白くしてきた。その中でも、マンガは特に「ひっくり返し」、「まぜっ返し」の要素が多いメディアだ。

 仏教は「まじめ」な世界であると井上は述べている。しかし、「絵解き」や「節談説教」など芸術・芸能の中においても仏教が伝えられてきたことから分かるように、歴史的に仏教が常に「まじめ」な部分だけで語られてきたということはできない。

 しかし、井上がいうように、その宗教のよりどころとなるような肝心要の部分、あるいは、信徒・宗教者たちが大切にしてきたものがある。それを侵食してくるものとは闘ってきたという歴史があることは、厳然たる事実である。それはいうまでもなく、これまでも、これからも大切なことだ。一方で、すべての「ひっくり返し」や「まぜっ返し」を否定すれば、新しいメディアを使った布教などは一切できなくなるし、新しい表現も生まれなくなってしまう。だからといって、何でもありになってしまえば、その宗教の持つ本質を見えなくしてしまったり、教えそのものを傷つけてしまったりする恐れもある。宗教は誰かにとって「生きること」そのものだからである。

 マンガというメディアが多分に持っている、「ひっくり返し」たり「まぜっ返し」たりして楽しむ側面は、教えを棄損するあり方と常に触れ合っており、まじめに描いているつもりでも、そのまじめさがふとした弾みに悪ふざけに転化してしまうという恐れをはらんでいるように思う。ある意味での危なっかしさを内包しているのが、マンガというメディアだと考える。

 伝統というものは古めかしいものではない。伝統によって私たちは教えを聞くことができている。その伝統の中で大切にされてきた教えの内部の生命、あるいは核心はいったい何なのかということを、私たちは常に確認していく必要がある。

 マンガを使って、仏教のことを伝え・語ることには様々な可能性がある。だがマンガというメディアにはある種の暴力性や弱点もあることも見つめていくこと※4を忘れてはならない。それと同時に、真宗であれば、真宗の体系の中で、先人たちが大切にしてきたものは何か、われわれが今何を聞くべきなのか、何を伝えていかなければならないのかを知ろうとする営みの中で、描かれる必要があるのではないだろうか。


現代においてマンガを描くことの難しさ


 哲学者の千葉雅也のツイートを引用したい。

ただ無為にバイクで暴走する、アホな遊びで盛り上がる。それは何にもならないエネルギーの消費だった。思い出だけが残った。だが今はアホな遊びを動画にすればマネタイズできるかもしれない。何をやってもどこかにマネタイズの可能性がチラつく。筋トレでも何でも※5


 現代の社会は、すべてマネタイズに結び付く社会になってしまっている。あらゆる物事が「ネタ化」してしまいかねない。そういう社会で何を聞き、何を語り、何を書くべきなのだろうか。仏教ですらネタになってしまう。そういう問題がある。仏教の要素をマンガにすることは、仏教の「ネタ化」と紙一重の表現であると感じる。教えが「いいね」に「換算されてしまうことの耐えがたさ※6」というものがある。

 教えを聞き、伝えようとする者は、現代に呼びかける必要がある。しかしそれが、結局現代の価値に媚びるようなものであれば、単に現代に飲み込まれていくだけである。そうではなくて、人間が本当に何を求めているのか、如来の悲願に通じるような、深い要求を尋ねていくような思索をしなければならないのではないだろうか※7

 おそらく、仏教の教えを聞いている者が、マンガを描こうとするとき、そこには逡巡というものが必要なのであろう。戸惑いやためらいの中で描かれる必要があると思うし、私が聞いてきた教えや、私に教えを伝えてくれた存在が、私に逡巡することを引き起こさせるように思う。そして、唯一、何か私のマンガから伝わることがあるとすれば、その逡巡させるものそのものなのではないかという気すらしている。


「誠を尽す」ということと「対話」

 最後に、筆者なりに大切にしたいと思うことを述べたい。

 親鸞は主著である『教行信証』の中で、善導の『往生礼讃』を引用し、


[原文]自信教人信難中転更難 大悲弘普化真成報仏恩※8

[現代語訳]自ら信じ、人に教えて信じさせることは、難しい中にもなお難しい。しかし、仏の大悲はどこまでも弘がっていき、すべてのものを教化してくださる。真に私たちはその仏恩を報じていくほかないのである※9


と述べている。「自信教人信」ということが、念仏者のあるべき姿勢として受けとめられている。自ら念仏の教えを信ずると同時に、他者にもこれを教えていくことが、仏への報恩になると語られる。

 僧侶・哲学者の清沢満之が「真宗大学開校の辞」の中で、「自信教人信」について次のように述べていることを知った※10


本願他力の宗義に基きまして…中略…自信教人信の誠を尽すべき人物を養成するのが本学の特質であります※11


 清沢は「自信教人信」に「誠を尽す」という言葉をそえている。ここに私たちが受け取るべき大切なメッセージがある。本願他力の宗義に触れて、書こうとする自分の言葉や表現が誠であるかどうか、問い尋ねるということが大切なのではないだろうか。誠を尽くそうとすること。もちろん、その誠の内実を尋ねていくことも同時に必要であろう。

 しかし、誠を尽くすといっても、私たちが一人でそれを成し遂げることは難しい。大切なのは、作者が批判を嫌わないということである。批判を厭わずに、対話・議論をすることだと思う。もちろんそこにおいては、謙虚に「法(教え)」を問い尋ねるという姿勢を大切にしなければならない。

 ある鼎談の中で、『キリスト新聞』編集長の松谷信司が、キリスト教に関するマンガが描かれることについて、


それが全部正しいか正しくないかは別として、でもサブカルからそういう見られ方をしているということを知り、キリスト教の本家本元としてはこういう解釈だし、ここはこうだよねみたいな対話をすればいいんであって、全否定をする必要もない※12


と指摘していることには頷かされる。宗教に関わる表現への批判を恐れるあまりに萎縮することの中にも、また別の問題があるのだろう。マンガをきっかけとしてコミュニケーションをすることが大事なのではないか。批評・批判を許す空間を持つこと。マンガをきっかけに、対話し合える場、批判や異論があったとしても、そこから共に議論し、聞思し、聴聞する場を開いていくことが大切なのではないか。仏教に関するマンガを批評し合ったり、受けとめを確かめ合ったりする場所を持つことである。

 浄土真宗の法座には、伝統的に座談という時間がある。説法を聞いて終わるのではなくて、聴者も、お互いに説法に対する理解を語り合い、自らの信仰を披瀝し、質疑する機会を持つのだ。聞いた教えの受けとめを確かめ合うという時間が大切にされてきた。一人合点していたということが、他人に話すことで初めて知らされるのである。そうして一人合点して、我がものとして教えを握りしめようとする自分だからこそ、誰かと教えを共有したり、あるいは間違って解釈しているところをときに正してもらったり、疑問を他者と共有したりすることが大事なのである。仏教を題材としたマンガを通して、そうした場を開くことこそが大切なのではないだろうか。

《注釈》

※1釈徹宗、ナセル永野「『スラムダンク』を読むとイスラームがわかる!?」、渡邊直樹編『宗教と現代がわかる本 2014』平凡社、2014年、p.182。
※2withnews、“武田砂鉄さんと考える『わかりやすい記事の罪』コロナショック後『PV狙いの記事』は生き残れるのか”、2020年08月19日。
※3井上順孝、塚田穂高、藤井修平 「宗教、宗教団体によるマンガの特徴は何か?」、渡邊直樹編『宗教と現代がわかる本2015』、平凡社、2015年、p.152。
※4マンガの良い面でもあり、同時に注意しなければいけない面とは、例えば「ものごとを単純化し、デフォルメして伝えることができるところ」である。作者の恣意によって単純化もできてしまうことが、マンガを描く際に警戒しなくてはならない点の一つだと考える。
※5千葉雅也、Twitter(現X)、2021年6月15日。
※6綿野恵太『「逆張り」の研究』、筑摩書房、2023年、p.112。
※7この点に関して、本多弘之氏の論考に示唆を受けた。本多弘之『浄土 その解体と再構築「濁世を超えて、濁世に立つ」Ⅰ』、樹心社、2007年、pp.167-168。
※8親鸞『教行信証』、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典全書』Ⅱ、本願寺出版社、2011年、p.101。
※9真宗大谷派教学研究所『解読教行信証』上巻、東本願寺出版、2012年、p.252。
※10寺川俊昭「教化のめざすもの―信心の共同体の現前を求めて―」、『真宗教学研究』第25号、pp.21-22。
※11大谷大学編『清沢満之全集』第7巻、岩波書店、2003年、p.364。
※12吉村昇洋、松谷信司、ナセル永野「マンガも宗教も、めちゃめちゃおもしろい」、渡邊直樹編『宗教と現代がわかる本 2015』、平凡社、2015年、p.64。

(こんどうまる・浄土真宗本願寺派僧侶、漫画家)

本名 近藤 義行。著書に、『ヤンキーと住職』(KADOKAWA、2023)など。

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