親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

日本仏教における「慈悲殺生」の許容

龍谷大学文学部特任准教授

大谷 由香

(OTANI Yuka)

―目の前にまさにこれから大量殺人を犯そうとする者がいる。彼を殺せば多くの命が助かるだろう。しかし多くの命のために彼を殺すことは許されるのか―


 釈尊が涅槃に入られてから500年ほど経った頃、釈尊が前世になさっていたような慈悲にもとづく実践を通じて、釈尊が到達したのと同じさとりを得ようというムーブメントが起こったと伝わる。いわゆる大乗仏教の興起である。前世の釈尊は「菩薩」と呼ばれていたから、大乗仏教の担い手にとって、菩薩こそ理想的な修行者像であった。菩薩として生きるためにはどうあるべきなのか、当時作られた仏典のいくつかには、その指針となる「菩薩戒」が示される。

 玄奘(602―664)訳『瑜伽師地論』(以下『瑜伽論』と略)菩薩地には、いわゆる三聚浄戒が説かれる。菩薩たるもの、出家した比丘が教団内規則として護持する律蔵に加えて、あらゆる善をなし、衆生を救済しなくてはならない。さらに菩薩地には、菩薩ならではの学処として、四他勝処法とその他四十三条が別途掲載されている。これらは大乗仏教独特の観点から説かれる戒で、菩薩はこれらの戒も重ねて護持する必要があるとして提示されたものである。

 四十三条のうち第九にあたる性罪一向不共戒は、いわゆる「慈悲殺生」を説く点で注目を集める。

 「もしも菩薩たちが清浄な戒律に安住し、善巧方便をもって、利他のために、それ自体が罪悪である行為(性罪:具体的には殺人など)をいくつかなしたとしても、このことによって菩薩戒に違犯したことにはならないし、かえって多くの功徳を生む。具体的には、菩薩は、強盗が財を貪らんがために多くの者を殺そうとしていたり、あるいは社会的に有益な人物(大徳)である声聞や独覚や菩薩に危害を加えようとしていたり、あるいは無間地獄に堕ちるような罪を多く造ろうとしているのを見たならば、このように思うのである。「私は、彼の悪衆生の命を断って地獄に堕ちよう。そのように[彼を]殺さなくては、[彼の]無間地獄に堕ちる業が成立し、[彼は]大苦を受けるだろう。私は彼を殺して地獄に堕ち、[彼が]無間の苦しみを受けないようにしよう」と。(中略)憐愍の心でもって、彼の命を断じたならば、これによって菩薩戒に違犯したことにはならないし、多くの功徳を生むのである」(大正30・517中)

 このように菩薩は罪を犯す悪人の命を断って、悪人が悪をなすのを防ぎ、多くの人の命が救われるのを救わねばならぬ。冒頭に示した、いわゆる一殺多生の理論は、『瑜伽論』において規定された事例であった。

 しかしこの『瑜伽論』に説かれる慈悲殺生の主張が、東アジアにおける菩薩戒における主流であったかと言えば、そうではない。貞観22年(648)に『瑜伽論』が訳出される以前から、中国において菩薩戒を説く経典として広く知られていた『梵網経』は、十重四十八軽戒の筆頭に殺戒を出し、以下のように定めている。「仏は仰った、「仏子よ、自ら殺し、人に教えて殺させ、方便して殺すことを讃歎し、[殺を]なすのを見て随喜し、乃至、呪い殺したならば、殺の因・殺の縁・殺の法・殺の業が存在する。乃至、一切の命ある者は、ことさらに殺してはならない。菩薩はまさに常住の慈悲心・孝順心を起こし、方便して衆生を救護しなさい。そうある[べきな]のに、自ら心をほしいままにし、意を快くして殺生したならば、これは菩薩の波羅夷罪である」と」(大正24・1004中)

 『梵網経』には『瑜伽論』菩薩地に説くような、慈悲殺生を許諾する明確な文言はない。一般的には仏教徒は「不殺生」を貫くべきであり、菩薩であるならば、その対象は人のみに限らず「一切の命ある者」でなければならない。『梵網経』にはそう説かれているのである。


●『瑜伽論』訳出と『梵網経』注疏の制作

 『梵網経』は鳩摩羅什訳出とされるものの、当初は偽撰の疑いをかけられており、積極的に注疏が作られることはなかった。『梵網経』が注目されるようになったのは、まさに『瑜伽論』の訳出があり、上記の慈悲殺生のような過激な条項が知られるようになってからであると推測されている。

 玄奘による新訳菩薩地に紹介される、いわゆる「瑜伽戒」を、『梵網経』に紹介される、いわゆる「梵網戒」と、関連させて菩薩戒を解釈しようとした画期は、元暁(617―686)である。彼の著作である『菩薩戒本持犯要記』には「多羅戒本」「達摩戒本」という彼独自の用語によって、梵網戒(=多羅戒本)と瑜伽戒(=達摩戒本)との融和が試みられている(木村宣彰[1981])。

 梵網戒と瑜伽戒とを融和することによって菩薩戒を理解しようとする元暁の態度は、その後さかんに作成される『梵網経』注疏の注釈態度に影響を与えた。『梵網経』を注釈するにあたって、必ず『瑜伽論』が参照されるようになったのである。この傾向は、義寂(?―684―704―?)や勝荘(?―700―713―?)に受け継がれて、法蔵(644―712)を経て、太賢(?―742―765―?)『梵網経古迹記』(以下『古迹記』と略)に引き継がれた。『瑜伽論』には上記の慈悲殺生の他にも、一般的には破戒となる行為であっても、菩薩が利他のために行ったのであれば違犯にならないということが様々に説かれる。『古迹記』は、そうした菩薩による犯戒の容認を『梵網経』の条文上には認めていく姿勢をみせる。


●『古迹記』の日本仏教への影響

 『古迹記』が日本仏教の戒解釈に与えた影響は少なくない。最澄(767―822)は南都に継承された『四分律』にもとづく受持戒を小乗戒と位置づけ、『梵網経』にもとづく大乗戒を提唱した。最澄は大乗戒の正当性を論じる『顕戒論』において、しばしば『古迹記』を引用することによって、自らの見解を補強している(大谷由香[2018][2019])。

 最澄が提唱した大乗戒思想の大成者として位置づけられる安然(841―915?)は、『普通広釈』に戒の奉持についての十門を説くにあたり、『古迹記』に説かれる「護持」の十門をそのまま下敷きにしながら、太賢説を発展させ、利他のためであれば十悪五逆さえも許容されることを説明している。

 また当初は比叡山の大乗戒提唱を批判していた南都においても、鎌倉期に至って律宗復興を牽引した貞慶(1155―1213)が『古迹記』研究を推し進めた。彼は著書『心要鈔』に菩薩戒の「受得」「護持」「犯失」について説くにあたり、安然が下敷きにした同様の箇所を含む『古迹記』の抜き書きを行って、まったく『古迹記』にしたがって菩薩戒を説明している。

 利他のための破戒が許されるという『瑜伽論』菩薩地の言説は、『古迹記』を通じて、日本仏教における『梵網経』解釈の前提となったのである。


●菩薩の不殺生はどうあるべきか

 では『梵網経』に説かれる不殺生はどのように解釈されてきたのか。

 太賢は『梵網経』の十重四十八軽戒を注釈するにあたって、多くの場合には、梵網戒の禁止事項が実際には「無違犯」であることを示す根拠として『瑜伽論』を使用する。しかし殺戒(太賢によれば「第一快意殺生戒」と呼称される)の戒条部分の注釈では、瑜伽戒の第九性罪一向不共戒を紹介しながらも「今[私の]解釈はそうではない」と述べて、慈悲殺生をまったく容認しない態度をみせている。彼は、人々にとって死が究極の苦しみであるからこそ、菩薩は絶対に殺生をしないよう戒めるために、この戒が梵網戒の第一に掲げられていると解釈する。そのゆえにたとえ殺生が未遂に終わったとしても犯戒となって波羅夷という最重罪を得る。律蔵では免罪となる意識混濁状態における殺生であったとしても、菩薩がこれを行えば、重罪を犯したことになるのは当然であろうと説明するのである(大正40・703中~下、李忠煥[2017])。

 菩薩戒の理念として利他のために殺生を犯すことを容認する一方で、戒条部分ではこれを禁止する解釈を施すという『古迹記』の『梵網経』注釈態度は、日本においても菩薩戒理解の基本となったものと考えられる。

 たとえば証真(?―1165―1207―?)・俊芿(1166―1227、入宋:1199―1211)に師事し、日本におけるはじめての智ち顗ぎによる『梵網経』注釈書である『菩薩戒義疏』の注疏を編んだ建仁寺八代円琳(1172―1237―?)は、『菩薩戒義疏』に「大士は機を見て殺を得る」とあるのを注釈するにあたって、聖位菩薩に限って慈悲殺生が違犯となるかどうかを議論している(『菩薩戒義疏鈔』、仏全71・85下)。東大寺戒壇院の長老をつとめた凝然(1240―1321)もまた、法蔵による注釈書である『梵網経菩薩戒本疏』に瑜伽戒の第九性罪一向不共戒が引用されるのを複注するにあたって、慈悲殺生が許される菩薩は、階位上のどの段階であるか検討を加えている(『梵網戒本疏日珠鈔』、大正62・77中~下)。

 つまり仏典にみられる慈悲殺生の記述は、観音菩薩などの高位の菩薩の立場を示したものに過ぎず、自らは、慈悲殺生など到底行える立場になどないし、もし自らが殺生を犯した場合には、その意楽の如何を問わず重犯である、というのが一般的な理解である。この理解は、南都・北嶺を問わず、『梵網経』第一重戒を解釈する上での基本的姿勢であったと考えられる。


●凡夫の慈悲殺生の容認

 しかし14世紀に入ると、黒谷円戒の戒脈上にある人師の間で、凡夫による慈悲殺生の是非が論じられるようになる。その嚆矢となるのは、おそらく了慧(1251―1330)『天台菩薩戒義疏見聞』であろう。これは前に紹介した建仁寺円琳に師事した覚空による講義をもとに、了慧がまとめた智顗説『菩薩戒義疏』の複注書である。

 了慧は『古迹記』を引用して、太賢が慈悲殺生を違犯と説くのを提示した上で、「今家」(智顗)は慈悲殺生を違犯としない(不入犯重)と説く。さらに覚空の師である円琳が、「聖位菩薩」の立場に限って慈悲殺生の不犯を論じたのに対し、了慧は「凡夫菩薩」の立場における慈悲殺生をも議論し、大乗仏教においては身口業ではなく意業を本とし正とするのだから、あらゆる菩薩において慈悲殺生は重犯には該当しないと説く。凡夫菩薩であっても慈悲心から殺生した場合には何らの罪にも問われることはないと判断したのである(仏全71・246上~247下)。

 凡夫菩薩にも慈悲殺生を許す姿勢は、黒谷円戒の戒脈に受け継がれたようである。惟賢(1284―1378)『菩薩戒義記補接鈔』は慈悲殺生を行う菩薩を「瑜伽論」(典拠不明)にしたがって「薄地凡夫菩薩」と位置づけており(仏全71・472下)、瑜伽戒の性罪一向不共戒は高位の菩薩を対象にするというこれまでの議論をまったく無視している。仁空(1309―1388)『菩薩戒義記聞書』において、『梵網経』は癡闇の凡夫のために説かれた教えであるから、慈悲殺生もまた凡夫に通じると説く(西全別三・23上~下)。

 同時期に南都で活躍した人師による『古迹記』注疏(照遠〔1302―1361?〕『述迹鈔』)では、慈悲殺生を高位菩薩に限る行為とする解釈が維持され続けるのに対して、これら黒谷円戒の戒脈上に位置する人師たちの意見には目を見張るものがある。

 冒頭に示した大量殺人者を殺すことで多数の命を救うことの是非は、トロッコ問題と呼ばれる倫理学上の論題に類似するように感じられる。しかし上記に示した先徳たちは、自ら菩薩戒を受持する当事者として、目の前の悪人を殺すことの是非を切実に議論しているのであって、自らを安全圏に置き他者の生死を論じようとするトロッコ問題とは立場を異にする。菩薩戒受持者にとって、目の前の悪人を殺すことは、その悪人が犯すはずだった悪業を自らが引き受ける代受苦を前提とする。自らが地獄に転生する覚悟で、あらゆる他者の来世までを含んだ「いのち」を救うことが、現今の自分に可能か否かを当事者として論じているのである。だからこそ固定的な模範解答は用意されない。それぞれの学僧が、仏典や師説に照らしつつ、自ら選びとって、戒の持犯は語られてきた。

 菩薩戒を受持しない真宗門徒の私が、菩薩戒受持者の慈悲殺生の是非について見解を述べることは、不遜以外のなにものでもない。菩薩として生きる覚悟すらもてない私が殺人を犯すとき、どんなに高邁な理想を掲げようとも、所詮は狭量な私見を出るものではない。しかし仏教徒として生きていく中で、自ら信じる理想のために、もしかして誰かの、あるいは自身の命を懸けることがあったならば、たとえその選択が誤っていたとしても、そうとしか生きられなかった私を、阿弥陀仏は慈しみ、悲しんでくださるだろう。当事者として私が殺生を語るとき、菩薩として自覚的に生きる先徳に頭を垂れつつ、そういうことを考える。

【資料略号】

大正:『大正新脩大蔵経』

西全:『西山全書』

仏全:『大日本仏教全書』名著普及会

木村宣彰[1981]「多羅戒本と達摩戒本」、佐々木教悟編『戒律思想の研究』平楽寺書店

大谷由香[2018]「太賢『梵網経古迹記』の日本における活用について」『龍谷大学論集』492

大谷由香[2019]「日本仏教における戒律の特異性」『日本佛教学会年報』84

李忠煥[2017]「太賢の戒律思想―特に三聚浄戒と「瑜伽戒」の影響について」『印度學佛教學研究』66―1

(おおたにゆか・龍谷大学文学部特任准教授)
著書に、『中世後期泉涌寺の研究』(法藏館、2017)など。

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子どもたちの幸せのために

アンジャリWeb版2022年2月1日更新分

龍谷大学経営学部准教授

竹内 綱史

(TAKEUCHI Tsunafumi)

■特集を捉える [森川輝一「誕生を祝うために」へのコメント]

 森川氏の論考は短いながらも内容がとても豊富で、少子化問題やジェンダー論といったアクチュアルなテーマを視野に入れつつ、〈いのち〉の誕生をどう考えるべきかについて、複層的な思索が展開されている。大変啓発的で私としても論旨には基本的に賛成であるが、二点、気になったことを書き留めておきたい。

 ひとつは、「唯一無二の個のはじまり」という点に関してである。森川氏は「誕生」の捉え方を、①生物としての誕生、②唯一無二の個のはじまり、③社会への参入、の三つに区分している。氏はアーレントを参照しつつ②を重視しているのだが、そもそも「誕生とは唯一無二の個のはじまりである」と言い得る根拠は何なのか。言い換えると、そう考えるべきであるということに私も異論はないのだが、その「べし」はいったい何なのだろうか。

 事実として個々人はユニークなのだ、と言いたいところだが、それは無理である。例えば人間以外のあらゆる存在者も物質的に唯一無二であるとは言えるだろうが、その唯一無二性は私たちが人間に帰しているような「かけがえのなさ」とは違うものである。要するに、かけがえのない存在者として誰かから受けいれられて初めて氏の言う「唯一無二の個」であり得るのであって、例えば代えのきく「人材」――これは実に愚劣な言葉だ――などとして扱われている限り、「唯一無二の個」ではあり得ない。だからこそ私たちは生まれてくる子どもたちを「唯一無二の個」として受けいれるべきなのだ、という主張が意味をもつし、先にも述べたようにその主張には私も賛成である。だが問題はそもそもこの「べし」の根拠は何なのかということである。

 私が思うに、その根拠は、生まれてくる子どもたちの幸せのために、ということにならざるを得ないのではないか。だが、森川氏はこの根拠づけを拒否している。というかむしろ、本論考の大半は、「子どもたちの幸せのために」という根拠づけを私たちは使うべきではないという主張に捧げられているのだ。けれどもこれは無理筋な主張であるように私には見える。もちろん、子どもたちの幸せを目的にしているように見える語りが、その実、子どもたちを大人たちの自己保存の手段として道具扱いしていることになりがちだという指摘はもっともだ。それに、「~のために」という思考が、個々人の唯一無二性や予測不可能性――つまり自由――を消去して、型にはめ込んでコントロール可能なものにしてしまう恐れ――つまり全体主義に至る恐れ――があることもその通りだろう。だが、だからといって「子どもたちの幸せために」という想いを全否定してしまうのなら、そもそも「唯一無二の個のはじまり」として誕生を祝うべきだとすら言えなくなってしまうのではないか。

 もっとも、「誕生を祝うために」という本論考のタイトルからして、氏は全体主義の陥穽にはまらないような目的論的思考の可能性を示唆しているように思われる。私はそれを「祈り」のようなものと理解したが、それが氏の意図したものなのかどうかは分からない。

 もうひとつの論点に移ろう。こちらは本論考の趣旨についてというより、私の関心に引きつけた論点で、D・ベネターなどの「反出生主義」に対する評価に関してである。ベネターの人間観は浅薄だといった氏の評言は、全部とは言わなくとも、ある程度妥当であるとは思うが(ベネターの名誉のために書いておくと、ベネターは快と幸福を同一視してはいないし、そもそも問題を切り分けて明確な対立軸を取り出すという議論構成をしているに過ぎないのだが)、反出生主義が提起している問題そのものの軽視は間違っているのではないだろうか。「この世は生きるに値しない」「この世は悪しき場所である」という主張が、古今東西の非常に多くの思想家や宗教者たちの共通認識であったことは忘れてはならないだろう。ベネターらの反出生主義はその現代的な表れであるわけだ。

 私自身はニーチェ哲学研究者で、分野としては宗教哲学を専門としており、ニーチェがショーペンハウアーという言わば史上最強の「反出生主義者」に対していかに反論しようとしていたのかについて、少しばかり研究している(※注1) 。ニーチェは若いころにショーペンハウアーを読んで衝撃を受け、生涯をその反論に捧げた挙句、永遠回帰などのワケの分からない思想に到達することになったのだが、そのワケの分からなさは今は措くとしても、ニーチェがショーペンハウアーに衝撃を受けたことと、それに対して反論せねばならぬと思ったことは、重要なことだと私は考えている。つまりショーペンハウアーの主張が極めて強力であることをニーチェは認めざるを得なかったのだ。

 先にも述べたように、反出生主義とは「この世は生きるに値しない」とか「この世は悪しき場所である」といった古くからある主張の現代的表れと見ることができる。注意すべきは、この場合の「悪しき」というのは、人間が悪さをするからということではなくて、そもそもこの世界はひどい場所だという主張である点だ。社会悪は根絶すべきだし、道徳悪は非難されるべきなのだが、それだけでなく、人間にはどうしようもないような悪――苦しみ――がこの世にはある。いかに善政が敷かれようが、社会がいかに改善されようが、人間がいかに善良になろうが、生きることは本質的に苦しみだということ。仏教やショーペンハウアーがそういった世界観を基本としていることはよく知られている。

 だが、そういった現世否定的な主張はあり得べからざるものだと反応する人は少なくない。その反応が単なる感情的な反発でないとするのなら――そのような反発こそが実は重要だったりするのだが今は措く――、問題はとりわけ、この世がそもそも悪しき場所なら、いかなる改善の努力も無意味だという結論に至る危険があるという点だろう。現世否定は現状肯定に陥りがちなのだ。ショーペンハウアーもそういった批判を受け続けている(ニーチェもそのような批判者の一人だ)。その意味で、森川氏がベネターの「反出生主義」よりもクィア思想家L・エーデルマンの「反生殖未来主義」を高く評価しているのは、政治哲学研究者としては当然なのかもしれない。ベネターのような現世否定的主張が、現状改善のための努力を嘲笑っているように見えるのも分からなくもない。

 とはいえ、ベネターとエーデルマン――あるいは現世否定と現状否定――は質の違う問題を扱っているし、両立可能な主張であるはずだ。人間の努力ではどうしようもない現世の悪をベネターは問題にしており、宗教哲学研究者の私としてはこちらの方が興味深く感じるが、政治哲学的には現状の悪を糾弾するエーデルマンの主張の方がはるかに重要だという論旨には、なるほどそういうものかと教えられるところが多かった。

(注1) その一端は、竹内綱史「生のトータルな肯定は可能か――ショーペンハウアーとニーチェから」、『現代と親鸞』第45号、2021年、233-252頁、参照。

(たけうち つなふみ・龍谷大学経営学部准教授)
訳書にバーナード・レジンスター『生の肯定――ニーチェによるニヒリズムの克服』(岡村俊史/竹内綱史/新名隆志 訳)。他論文多数。

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

ヒトのイノチのその先に

声優、日本SF作家クラブ会長

池澤 春菜

(IKEZAWA Haruna)

 わたしたちの誰もが持っていて、でも誰もそれがなんなのか本当には知らない。大事にしなければいけない、何よりも価値がある、と言われていても、何故なのかはわからない。一番身近で、でも一番謎めいているもの―命。

 命が何なのか、考えるきっかけとしてSFという文学を役立てることはできないだろうか。

 SFの定義はいろいろある。ScienceFiction、すこしふしぎ、そしてSpeculativeFiction。スペキュレイティヴとは思弁、「理性的、空想的、形而上学的思索」つまりは「思考実験」。

 わたしはSFは、IFの文学だと思っている。どこかにIFをいれる。それによって変化する物語を描く。現実をベースにした小説が箱庭だとしたら、その壁をぱたんと倒し、どこまでも想像力を働かせて飛躍する。物理的にも心理的にも、あらゆる法則に縛られない最も自由な文学、それがSF小説だと思っている。

 あらゆる小説の究極の目的は、人を描くこと。だからどんなSFも、基本となるテーマは人間だ。そこから、命とは何かを考えることができるかもしれない。

 「テセウスの船」という命題がある。船の部品を一つずつ入れ替えていく。全て新しい部品となった船は、果たして元の船と同じと言えるのか。その部品でもう一つ船を作った場合、それは新しい船か、それとも元の船か。同一性の問題。命についても同じことが考えられるかもしれない。

何を持って、命と、人とするのか。
脳と体を入れ替えたら?
脳を複写・転写する技術が生まれたら?

 人工知能が人間を越えるとされるシンギュラリティ(技術的特異点)は早ければ2045年にやってくるとされる。ではその時、AIは命を持ったと言えるのか。

 こういった問題に、物語の形で取り組み、自由な想像力で答えを模索していけるのが、SFのSFたる醍醐味だ。

 例えば、アン・マキャフリーの「歌う船」。先天性の身体異常があったヘルヴァは、脳だけの存在となり、船と接続することで頭脳船として生きることになる。多くの人が当たり前のように受け止めている身体的感覚。それを先天的に持たないヘルヴァは、世界をどう感じ、どう受け止めるのか。命と体の関係、さらに脳と心の関係を通じて、心を揺さぶる一冊。

 個人的に、瑞々しい感性で宇宙に飛び出し、人と接し、恋をするヘルヴァが最高にキュートなので、ぜひ読んでいただきたい。

 エイミー・トムスンの「緑の少女」「ヴァーチャル・ガール」も人の境界を探る物語だ。前者は、異星探索中に事故に遭い、死にかけていたジュナが目を覚ますところから始まる。その体は異星人とまったく同じに作り替えられていた。再び迎えが来るまで、ジュナは全くの異文化であり、異質な生態系のもと、生き延びなければならない。ジャングルに生きる先住民テンドゥには独特の文化や死生観があり、ジュナは圧倒的に優れていると思っていた人類の愚かさに気づかされていく。

 「ヴァーチャル・ガール」の主人公は、可憐で無垢なアンドロイドのマギー。一人のオタク青年が理想のパートナーを作りあげるピグマリオン物語であり、マギーが世界を知り、人間とは何かを学んでいく物語でもある。

 ジェイムズ・P・ホーガンの「造物主の掟」「造物主の選択」はもっと大胆だ。遠い昔、地球外生命体によって土星の惑星タイタンに設置された自動操業工場。だがそのプログラムは超新星爆発によって損傷し、ロボットたちはひたすら変異と淘汰を繰り返す。やがて進化した機械たちは、機械人タロイドとなり中世様の文明を発達させた。

 人の進化の過程をまるごと機械で再現し、さらに宗教まで踏み込んだ大変愉快な大風呂敷SF。人類側の主役が稀代のペテン師というのも面白い。機械の体、機械の心、だけど明確にタロイドたちは生きている。命はかように自由なものなのかもしれない。

 命を扱った作品はまだまだある。いくらでも語り続けたいが、わたしが頂いた紙面、これを読んで下さる読者の忍耐力には限りがあるので、最後に新しい作品を一つ。

 先日、日本映画として公開もされたケン・リュウの短編「アーク」は、人類最初の不死を手に入れた女性の話。彼女の仕事は、遺体にポージングを施し、永遠に保つプラスティネーション施術。これもまた、不死だ。二つの不死が絡み合い、生きるとは何かを問いかけてくる。

 わたしたちの人生には終わりがある。だからこそ生きることに意味が、価値があるとされる、だとしたら、不死を得たとき、命の意味は変わるのか。体と脳の関係は。機械生命とは。

 生きることは考えることだ。思考し、試行することをもって、我々は命に向き合うことができる。SF小説がその一助になれれば、SFを愛するものとしてこれほど嬉しいことはない。

(いけざわはるな・声優、日本SF作家クラブ会長)
著書に、『SFのSは、ステキのS』(早川書房、2016)、共著『ぜんぶ本の話』(毎日新聞出版、2020)など。

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いのちの境界線で

アンジャリWeb版2022年2月1日更新分

SF作家

飛  浩隆

(TOBI Hirotaka)

■特集を捉える[総説]

  「死にたいなんて言うなよ」

  「諦めないで生きろよ」

  そんな歌が正しいなんて

  馬鹿げてるよな

 2021年の「紅白歌合戦」で流れた「命に嫌われている。」(作詞・作曲カンザキイオリ)は、この特集の冒頭の設問を繰り返すかのように、「命という言葉」と「僕らの生」とのへだたりを歌う。

 この歌は、もとはボーカロイド——命なき歌い手のために書かれた。

 私SF小説を書く者としてここへお招きいただいたわけだが、池澤春菜氏の論考にあるとおり、SFはとっぴな題材や設定、自然科学の冷徹さを用いて、くりかえし「命」の既成概念にゆさぶりを掛けてきた。

 SFの中で人類が滅亡したのは一度や二度ではない。サイボーグ化や遺伝子操作で知力体力を増強し「人類でないもの」に変化することもたびたびある。「人間によく似ているが人間ではないもの」(たとえば鉄腕アトムや、映画「ブレードランナー」に登場するレプリカント)も枚挙にいとまがない。スタニスワフ・レムの『ソラリス』は生命の概念そのものを大きく拡大し深い衝撃をもたらした。

 SFはそうやって、ふだんは見えない「いのちの素顔」を見ようとしているのだ。

 しかしいま、われわれはSF作品の外で、そんな「揺さぶり」を見ているように思える。

 2020年と2021年は、気候変動がもたらす数々の災害と新型コロナウイルス感染症が、我々の脳裡に「滅亡」の二文字をちらつかせた。SNSとフェイクは人々の認知を振り回し、傷心と分断を広げて已まない。ロボット工学は軍事転用され、無辜の死者を大量に生むだろう。受精卵のゲノム編集はもう可能だ。生命は情報的に編集可能となり、まもなく非生命との境界があいまいになるだろう。いま「いのちの素顔」は水面の波紋のように危うくゆらめいている。

 いのちは祝福だと思いたいけれど、それはやはりフィクションだから、貧困と孤立が深まり反出生主義がつぶやかれる時代では、たやすく剝がれ落ちる。カンザキイオリはそれを「嫌われている」と表現し、しかし歌の最後で「嫌われながらも生きる」可能性を見出した。

 その望みを私たちに歌いかけてくれるのはボーカロイド——命なき歌い手だ。

 たぶんこの先しばらく、人間は、そのような「命なき者」の力を借りながら、世界との関係修復を試み試み生き延びていくだろう。たとえば——

 未知の感染症を鎮圧する。気象の未来を予測し、経済活動と折り合いをつける道をさがす。経済の果実を分配し、かつて友人だった敵と停戦する。もしかしたら和解する。

 そのうち、人類は自分たち以外の生命を宇宙のどこかに見出すかもしれない。

 そんな瞬間を書き留めた、チャーミングな短編小説をご紹介したい。

 柞刈湯葉(いすかりゆば)の「人間たちの話」だ(同題の短編集がハヤカワ文庫から刊行されている)。

 火星のとある岩石の隙間で生じている化学反応と、それを観測し分析する科学者の群像、そのひとりの私生活を描くこの作品のタイトルが、なぜ「人間たちの話」なのか、読みすすめることで、少しずつ少しずつ、しみとおるように理解されていく。

 いのちが祝福だというのはフィクションだが、じぶんや他人を祝福するためには、やはり生きていなければならない。この年末、本作を読み返してそんな当たり前のことを思った。池澤春菜さんが紹介した名作といっしょに、この作品の名も記憶してくださるとうれしい。

(とび ひろたか・SF作家)

近著に『SFにさよならをいう方法』(河出書房新社)等。

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「ヤー」と「イーアー」

アンジャリWeb版2022年2月1日更新分

龍谷大学経営学部准教授

竹内 綱史

(TAKEUCHI Tsunafumi)

■特集を捉える [岩田文昭「いのちの否定と肯定」へのコメント]

 いつ頃からか、私は「いのち」という言葉が大嫌いである。「生命」とか「生」といった言葉は問題ない。平仮名で「いのち」と書いてあると、どうしても警戒してしまうのだ。なぜか。それは、「いのち」という表記を見ると、まず間違いなく「イイ話」が語られることが予想され、しかも、その「イイ話」の背後には無数の苦しみが隠れているにもかかわらず、万事オッケーであるかのような語り、万事オッケーでなければならないかのような語りになることがほとんどだからだ。そういう語りは不誠実なのではないか(注1) 。

 『アンジャリ』第41号の特集テーマ「〈いのち〉という語りを問い直す」は、以上のような嫌悪感に囚われてる私には非常に興味深いものである。その中でも特に、「いのちの否定と肯定」を分析する岩田氏の論考は、私の関心にとても近いものであった。氏の論考は、「いのち」には、ただひたすら肯定的に語られ「生命主義」や「いのち教」とまで言われる側面と、悪や苦などの否定的要素を正面から見据えて語られる側面のあることが、W・ジェイムズや上田閑照の議論から取り出され、その肯定否定の両面を浄土教の祖師たちのなかに見て行くというものである。

 この世の悪をまるで存在しないかのように無視して、「いのち」の素晴らしさを喧伝する現代の「いのち教」こそ、私が大嫌いな当のものであり、落ち着いた氏の筆致からも似たような嫌悪感が読み取れるが(私の勝手な思い込みかもしれないが…)、むしろ興味深かったのは、悪を直視した末に出てくる「いのち」の語りが、「いのち教」と見紛うほどに似てくるという点である。氏は、法然の高弟である證空は、現生の肯定を強調するため生命主義的に解釈されることがあるが、それは誤解だと論じている。その議論の当否等については専門外なので私には分からないが、生の否定を通り抜けてから到達される肯定の境地が、否定的側面を無視して肯定する境地と見分けがつかなくなるという問題は、非常に重要な論点だろう。

 岩田氏は論じていないが、その問題は氏の参照する上田閑照の議論にも当てはまるように思われる。上田は「人間として生きる」ことを三つに分け、自然科学の対象となる「生命」、人文科学の対象となる「生」の先に、「死」や「貧」といった否定的な契機を通して見えてくる「いのち」があると言う。「生」から「いのち」へは悪を見据えた上での飛躍があり、その意味での「いのち」は学問の対象にはならず、対象化できないものであって、宗教や芸術などで表現されるに過ぎないとされる。私が気になるのは、その意味での「いのち」の語りが、「いのち教」における語りと接近してしまう、あるいは、同じようなものとして受けとめられてしまう危険性である。それは上田の文章自体の美しさのせいもあるとは思うが、より根本的には、そもそも「生命」や「生」と「いのち」を並列して論じていることがもつ危うさである。上田自身が注意を促しているように、それは対象化できないものであるはずなのだが、「対象化できないものである」と語ってしまうこと自体が、対象化を生んでいるのではないか。つまり、本来、頭(だけ)では理解できないはずのことを、理解したと思い違いしてしまうことにつながるのではないか。

 要するにこういうことだ。通常の生の否定を経た上での肯定が「いのち」を生きることであるとされるが、それをそのようなものとして語ってしまうことによって、否定を経ずに肯定する「いのち教」と見分けがつかなくなってしまうのである。苦しみや悪と対峙することで否定された生から、肯定へと転じるその転回は、宗教的経験の一つの核心であるわけだが、それはあくまで経験されねばならぬものであり、対象化されて、つまり頭だけで理解されるような類のものではない。そんなことはもちろん繰り返し繰り返し指摘されてきたことではある。だがここでももう一度繰り返さねばならないだろう。「苦しみや悪と対峙する」ということは生易しいものではまったくない。それを経た末にようやく到達された境地で発せられる言葉を、「そうですよね、やっぱり〈いのち〉って素晴らしいですよね」などと、「いのち教」的に受けとめることには、強い嫌悪感を覚えざるを得ないのだ。

 けれども、そこからさらに、「だが…」と続けなければならない。

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』第四部に、「ロバ祭り」という奇妙なタイトルの節がある。ツァラトゥストラが期待した「ましな人間」たちが、いつの間にかロバを崇めるようになってしまったことを批判する場面である。ロバは「I-A(イーアー)」と鳴くことでどんなことでも受け入れる「肯定の精神」の象徴として、「ましな人間」たちによって崇められている。注目すべきは、そのロバは、ツァラトゥストラ=ニーチェが推奨する「Ja(ヤー)」(英語のyesに当たるドイツ語)という「肯定の精神」と瓜二つだという点である。つまり「ヤー」と「イーアー」の微妙な違いにこそ決定的な差が存在し、ツァラトゥストラ=ニーチェの考える真の肯定(永遠回帰の肯定)――それはこの世の悪のすべてを見据えることを要求する――とは、何でもかんでも肯定するロバの「イーアー」ではなくして、「ヤー」なのだ、という話である(注2) 。つまりここには先に述べた二つの「いのち」、いのち教的「いのち」と、生の否定の末に到達するはずの「いのち」との、決定的でありながら見紛いがちな差異と、同じ事態が俎上に載せられているわけだ。

 問題はその先である。『ツァラトゥストラ』では明らかに「ヤー」と「イーアー」の決定的違いが話題にされているのだが、ニーチェ自身が別で展開している認識論的な枠組みからしても、そもそも「ヤー」と「イーアー」に客観的な違いが存在するとはとても言えない可能性が高いのだ。

 そうなると、こう言わざるを得なくなる。自分の肯定が「ヤー」だと思っている人であっても、本当は「イーアー」と言っているのと変わらないのではないのか。「いのち教」的生命礼賛を唾棄して、悪を見据えた先に辿り着いたつもりでいる「いのち」の肯定であっても、それもまた結局、「いのち教」と何ら変わらないのではないか。そこに真の違いなどというものが本当に存在するのか。――このように問うこと、問い続けることが、必要なのではないか。そのような自問と逡巡にあくまで留まり続けることにこそ意味があるのではないか。岩田氏の論考はそう問いかけているのだと、私は理解した次第である。

(注1) この問題については、本稿とはだいぶ文脈の違うものではあるが、難波教行氏の素晴らしい論考は参考になる。難波教行「「生命讃仰」言説の落とし穴 ――親鸞思想を通して」、『現代と親鸞』第45号、2021年、253-271頁。

(注2) 須藤訓任『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』、講談社選書メチエ、1999年、81頁以下参照。

(たけうち つなふみ・龍谷大学経営学部准教授)
訳書にバーナード・レジンスター『生の肯定――ニーチェによるニヒリズムの克服』(岡村俊史/竹内綱史/新名隆志 訳)。他論文多数。

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いのちの否定と肯定

大阪教育大学教育学部教授

岩田 文昭

(IWATA Fumiaki

 浄土教にはいのちを否定する面と肯定する面がある。自己を罪悪深重の凡夫として捉え、この世を穢土として否定する面とともに、浄土に往生する救いの法を教え、凡夫の身をそのまま肯定する面である。このような浄土教の救いの法は、時代を越えるものである。

 とはいえ、その説き方は時代により人によって変わってきた。たしかにかつては、一器の水を他の一器に移すように、師の教えがそのまま伝えられたとされた。しかし、現代ではその教説の歴史的変遷の経緯が明確に知られている。この歴史性の自覚により、過去の浄土教の教説を金科玉条のように受け取るのではなく、時機相応のものとして改めて受け取り直すことが要求されているといえよう。現代における受け取り方を探求するために、この問題をより広い文脈において考えてゆきたい。

◆ウィリアム・ジェイムズの二類型

 自己のあり方を肯定する方法は、さまざまな仕方で探求されてきた。ごくおおざっぱにそれらの方法は、二通りにわけることができる。一つはできるだけ善きことに関心をむけるという方法である。悪いものを見ないようにし、自己においても世界においても、善きことを積極的に捉え直し、その中で善きことを実践していこうとする。もう一つは、否定的なものの存在を厳粛に受けとめながら、その上でそれを乗り越える世界に触れようという方法である。悪や苦が自己やこの世界に不可避なものであるという認識をもちつつ、それらを含みながらも、自己が肯定される高い次元を模索しようとする。

 この二つの方法について、ウィリアム・ジェイムズはその著『宗教的経験の諸相』の中で分析している。ジェイムズは、宗教的回心をする人には、「健全な心」と「病める魂」の二つの性格類型があると論じている。健全な心は、善きものに意図的に目を向けるあり方をしている。それに対して、病める魂は、悪や苦を見据えながら、より高い自己の在り方を模索するという。

 健全な心の持ち主は、人生を善きものと感じ、世界の暗い面や自己自身の不完全さに思い悩むことは少ない。この心の持ち主は、さしあたり無意識のうちに世界の善性を信頼し、自然に幸福を感じる人といえる。しかし、むしろこの類型の本領は、意志的・組織的に悪を自身の視野の外に締め出す方法を用いることにある。ものごとを全体として善と考え、意識的に楽観的な人生観にもとづき、人間の生を肯定するのである。ジェイムズは当時のアメリカで起こっていた「マインド・キュア(精神治療)」運動を具体的な例としてとりあげ、積極的に人生を肯定する方法の特色を紹介している。

 マインド・キュアは、ニューソートとも呼ばれるが、このような方法論にもとづいて、自己を肯定しようとする動きは、当時の合衆国にだけ存在したのではない。現代の日本の新宗教や精神運動においてもこのような形態はひろく認められる。新宗教のひとつである生長の家の創始者、谷口雅春は実際にニューソート(生長の家ではこれを「光明思想」と呼ぶ)に大きな影響を受けて、活動を展開していった。光明思想のような生命観は、戦後、教勢を著しく拡大した新宗教の大きな特徴である。その生命観は、ひとりひとりの心の状態や思いは、宇宙の本源的実在やエネルギーと密接につながっていると想定する。そして、宇宙の諸存在はすべて一つの生命体であり、悪は根源的な実在性をもたないとされる。新宗教におけるこのような理論構成は、宗教学者によって「生命主義」として研究されてきた(対馬路人他「新宗教における生命主義的救済観」『思想』665号、1979年)。来世ではなく現世に重きを置くのも、生命主義の特徴のひとつである。

 しかし、生命主義的な思想は新宗教だけにみられるものではない。新宗教の教理ほど体系的ではなく、また徹底したものではないにしろ、現代の学校教育やマスコミなどでも、生命主義に親近した考え方が暗黙のうちに浸透している。しばしば、「すべてのものはつながっている」「すべてのいのちは輝いている」「あなたには無限の可能性がある」などという表現がなされる。ひとりひとりの生をかけがえのないものとして見据え、できるだけ善いことや長所を見いだすことで、生が肯定されるという発想である。このような思考形態は現代における「いのち教」と呼ぶことができよう。

 それでは、ジェイムズがいう「病める魂」はどのような性格類型であろうか。病める魂の持ち主は、悪の存在に悩まされる人である。世界や自己の悪い面が切実に感じられ、悪と向き合うことが本当のあり方だと考える。そのように悪や苦しみに向きあうことで、古い自己が死に、新たな自己が蘇ることがある。再生された自己においては、悪や苦は必然的なものと認められ、それらは内に含まれた仕方で統合される。このような死と再生の経験は、伝統的な宗教、とくにキリスト教や仏教において顕著にみられてきたことだとジェイムズは指摘する。事実、キリスト教では人間を原罪があるものとし、仏教では生老病死などの四苦や八苦を説く。ジェイムズはキリスト教と仏教は本質的に「救済(deliverance)」の宗教であり、その教えの核心をこう述べる。「真実なるいのち(life)に生まれうるには、人はまず真実でないいのちを忘れさらねばならない」。

◆上田閑照の宗教哲学生命/生/いのち

 キリスト教や仏教など救済宗教の「いのち」理解を考察するためのよい手がかりを上田閑照は提示している(上田閑照『宗教』岩波現代文庫、2007年)。近年の宗教哲学者の代表的存在である、上田の論をもとに肯定と否定との問題をさらに考えてみよう。

 本来的に「人間として生きる」という観点から、上田は宗教の問題を考察する。上田によれば、「生きる」ことには「生命」と「生」と「いのち」の三つの次元があり、それらがダイナミックに連関してこそ「生きる」ことになる。「生命」は、生物学や生命科学の対象となるものである。「生」には「生活」という面や「人生」という面もある。そのため、さまざまな人文科学の対象となる。「生」はさまざまな意味連関の中におかれるが、それを包括する場所が「世界」である。宗教との関係で重要なのは「いのち」である。「いのち」は学問の対象とはならずに、対象化することでは触れることができないところで生きられる。生命や生とは質を異にし、詩・文学や芸術や宗教などで直接に「いのち」の言葉に触れて、「いのち」の目覚めが生起する。「いのち」の目覚めは宗教にかぎらず、詩や芸術でも自覚されることがある。ただし、「生命」から人間的な「生」へは量的な飛躍であるのに対し、「生」から「いのち」への飛躍はそうした飛躍の線を断ち切ったところから出てくる質的な飛躍である。「死」や「貧」といった否定的な契機を通して自覚されてくるのが「いのち」なのである。そして、こうしたすべての連関を含めて、その全体が生きられることが「人間として生きること」になるのだという。

 上田は、悪や苦などの否定的なものを真正面から見すえることが本当の意味で「生きる」ことだとするのであり、この点、ジェイムズのいう「病める魂」と論が重なる。

 ここで大切なのは、上田が捉える救済宗教の本質である。意味の総枠である「世界」と、それを越えるものは異質で断絶している。伝統的に「宗教」とされるのは、「世界」を越え包む限りない「開け」が、「世界」の内から主題化されたものだと上田は捉える。具体的にいえば、神域・神殿・教会などは地図の上に位置づけ可能な、目に見える局所であるが、本来的には「世界」とは断絶した場所なのである。しかし、それを目に見える世界内のものとして捉えると問題が起こる。

 人間にはそもそも「歪み」と「転倒」の危険性がある。「歪み」とは、人間的生に関わる世界がすべてだとし、それを越えるものを見ないことである。これは宗教的なものを意図的に見ない歪みである。「転倒」とは、本来、人間的生においては見えないものを見てわかったものとして、人間的生の次元に引きずりおろすという転倒である。歪みや転倒は宗教の歴史の中でしばしば生じており、宗教思想家はそれぞれの仕方でその危険性を乗り越えようとしてきた。

◆浄土教における否定と肯定法然・證空・親鸞

 さて、上田やジェイムズの提示した宗教モデルをもとに、浄土教について考えてみよう。浄土教の祖師たちは、いずれも病める魂の持ち主であり、自己の罪悪をみすえている。なるほど、法然は通仏教の側からも「智恵第一の法然房」と讃えられ、また持戒堅固の清僧と知られていた。しかしながら自身を「戒定慧の三学の器にあらず」と認識し、また「十悪の法然」「愚痴の法然」と自覚していたと伝えられている。その法然が称名念仏の教えを説いた。ただし、念仏一行を「選択」したのは法然ではなく、阿弥陀仏であることを見失ってはならない。阿弥陀仏が余行ではなく、念仏を選択し、それを往生の本願としたということが『選択本願念仏集』の主旨であり、そのことが決定的な意味を有している。この著作には、人間的生に関わる意味世界ではない、絶対の側からの働きが表現されている。上田の言葉に従えば、「いのち」の言葉が念仏なのである。その念仏の働きには自力無功という否定の契機が内包されている。

 しかし、このような法然の立場は、念仏以外の行を修する仏教者から非難されることになる。また人間の意味世界を越えた絶対の働きと、人間の生の意味世界との関係が問われることになった。法然自身は、当時の社会の仏教や道徳の規範に則った清僧として一生を過ごした。すなわち、このようにして法然は「人間として生きた」のだ。とはいえ、教団が大きくなり、信者が増えていく中で、この課題に理論的に答える必要もでてきた。

 法然の高弟、證空は法然が残した課題に取り組んだ一人である。のちに浄土宗西山派の派祖とされた證空の教義は独特な名目や高尚な哲理を含んでおり理解は容易ではない。天台本覚思想に基づいた現実肯定の思想として誤解されることもある。しかし、證空も病める魂の持ち主であった。證空は人間を総じて「濁世の凡夫」「垢障の凡夫」「垢障覆の衆生」と理解し、悪や罪を正面から捉えている。そして、仏性が遍満するとしているが、遍満する仏性は「弥陀の理性」であり、そのことの「領解」がなければ、衆生は三界流転するという。さらに、念仏においても「自力の念仏」と「本願に相応した他力の念仏」とを区別している(『女院御書』下巻第七章)。阿弥陀仏の絶対性が見据えられているといえる。しかし、領解の信心において、あらゆることの意味が復活する。通仏教の修行や世俗の道徳が生き返り、人間的生の意味が肯定されるのである。古来より法然は「諸行の頸を切り」、證空は「諸行を生け捕りに」したと評される所以である。

 證空は現生往生である「即便往生」を表だって説いている。「生きて身を蓮の上に宿さずば念仏申す甲斐やなからん」。この和歌は、臨終時の往生(證空はこれを当得往生という)のみでなく、生きながら往生することの重要性を端的に表現したとされている。證空はこのような独自の教学をもとに、人間として生きた。證空の場合、肯定の契機を強調することが多い。そのため、「生」から「いのち」への否定の契機がともすれば見落とされがちになる。後世において證空は、健全な心の持ち主のようにみなされ、生命主義的に解釈されることもでてきた。

 親鸞の自己の罪悪性への自覚は痛切である。病める魂の典型的人物といってよい。親鸞の教えの核心は、阿弥陀仏の本願への疑いが滅して、正定聚に入って生きることにある。このことは、まさに虚仮のいのちを捨て真実なるいのちに生まれかわることを表現していることにほかならない。法然への論難に対して答えることは親鸞にとっても課題であり、『教行信証』執筆の大きな動機であった。残された課題の一つに菩提心の問題がある。親鸞はこれに対して、信心も自己がおこすものではなく、弥陀よりたまわるものだと示した。後世、絶対他力と称されるほど、弥陀の絶対性を強調したのである。他力信心に関する論理を徹底させながら、親鸞も人間として生きた。しかし、親鸞も理論的課題をすべて解決したわけではない。人間的生の意味連関の中で道徳・倫理をどう捉えるのかという課題は、そのひとつであろう。信心を獲て、現生正定聚の中に入ることは、むしろ人間的生の意味連関の再構築の始まりとなる。

 ジェイムズや上田の理論が必ずしも全面的に妥当するとは限らず、また浄土教をかれらの理論で考察する必要もない。しかし、浄土教の思想をその文字の表面的な意味理解に限らず、より普遍的な次元で捉え返すことは大切なことであろう。浄土教は、現代に流布している「いのち教」と違うのか否か。あるいは、俗世から断絶した浄土を人間的生の次元に引きずりおろす転倒は生じていないか。いのちの肯定と否定の問題は、そのような問いを投げかけているように思われる。

(いわたふみあき・大阪教育大学教育学部教授)
著書に、『近代仏教と青年――近角常観とその時代』(岩波書店、2014)、編著『知っておきたい日本の宗教』(ミネルヴァ書房、2020)など。

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

誕生を祝うために

京都大学大学院法学研究科教授

森川 輝一

(MORIKAWA Terukazu)

 誕生日おめでとう、とわたしたちは言う。家族や友人に、ときにはその日初めて会った人にさえ、わりと気楽にこの言葉を差し向ける。しかしわたしたちは、この言葉でいったい何を祝っているのだろうか。そもそも誕生とは、どういうことなのか。

 誕生とはまず、①生殖、すなわち、生物としてのヒトがおこなう繁殖行為の帰結としてあらたな個体が産みだされること、である。生殖はヒトにかぎらずどの生き物でもおこなうことであるが、ヒトのいのちは、唯一のわたしという個のかたちをとってあらわれる。同じヒトではあるが、わたしはあなたではなく、わたし以外のどんな人とも同じではなく、唯一のこのわたしとして生きるのであり、誕生とはその起点に位置する出来事、つまり、②唯一無二の個のはじまりでもある。とはいえ、子どもは無人の荒野に生まれるのではなく、先に生まれていた人々のあいだに生まれ落ち、かれらが構成する社会の一員となる。わたしはわたしであってあなたたちとはちがう、とあなたたちに伝えることができるのも、あなたたちと同じ言葉を共にしているからである。このように人間の誕生には、③既存の社会への参入・所属、という要素がふくまれているのであるが、②と③の関係は緊張をはらみ、かならずしも調和的ではない。

 子どもはユニークな個として生まれて来るが、親をはじめとする大人たちのほうは、自分たちがよいと思うやり方で育てようとする。たとえば、男の子だからとズボンをはかせ、怪獣やパトカーのおもちゃを買い与え、今は腕白でよいけれど、大きくなったらしっかり勉強させて将来は立派な家の跡取りに、と期待を寄せるかもしれないが、当の子どものほうは、心のなかではピンクのスカートをはいて人形遊びがしたいと思っていて、やがて時がたち、わたしはほんとうは女性として生きたいのだ、と言い始めるかもしれない。そうしたときに、そうか、ならそうするのがいい、あなたの人生はあなたのものなのだから、と応答できる人間でありたいとわたしは思うし、それが社会全体としても理にかなった態度であると考えるが、いやそれは間違っている、そんなことを許したら社会は立ちゆかなくなってしまう、と考える人が少なくないことも承知している。誕生のうちにはらまれる、上記②と③という二つの要素のあいだの軋轢や衝突のうちに、個人の自由と共同体の秩序をめぐる相克、一般に政治とよばれるいとなみが生起する、と言ってよい。

 そうした問題を回避する方法として、②の要素を消し去り、③に①をひきよせる、というやり方がある。精妙な組織を構成して種族の存続をはかるアリやシロアリのばあい、はたらきアリとして生まれた個体ははたらきアリとして生き、奴隷みたいに働くために生まれたんじゃない、だの、ミュージシャンになってキリギリスと共演したい、だのと自己主張することはない(ように見える)。みながそのように個を滅却して全体に奉仕すれば、秩序の安寧と種族の繁栄はゆるぎない―という発想は、人間族の歴史においてめずらしいものではないが、その極端な事例として、前世紀前半のドイツにあらわれたナチズムがある。その迫害の対象となったユダヤ人の一人で、いのちからがら逃れたアメリカの地で政治思想家となったH・アーレントは、ナチスの全体主義国家を巨大なアリ塚にたとえてもいる。

 全体に奉仕する忠良な国民を殖やすべく、ナチス体制下では多産がおおいに奨励されたが、殖えるべきは純血種の健康な個体でなければならないとされた。ちょうど家畜の繁殖と同じように、品種をそこなうとみなされた個体は除去の対象となり、やがて劣等とみなされた人々の大規模な殺害へと発展していくが、ヒトラーやヒムラーがしばしば用いたたとえによると、それは害虫の駆除や病原菌の根絶と同じことなのだという。家畜、あるいは害虫や病原菌、いずれにせよ人間は人間未満の生き物に引き下げられてしまうのであるが、同族をガス室につめこむような所業におよぶのはわが人間族を措いてなく、このような言いぐさは、他の生き物たちへの礼を欠くことになるかもしれない。

 ナチスの猛威を生きのびたアーレントは、その暴虐を告発するいっぽう、新しい政治のはじまりを、個のはじまりとしての人間の誕生にもとめる。その導き手となったのは、古代ローマの哲学者アウグスティヌスの書にあらわれる、「はじまりが存在せんがために人間は創られた」という言葉である。創られた、とあるとおり、アウグスティヌスにとってこの言葉は、神による人間の創造というキリスト教の教えと結びあっている。一人ひとりのいのちは神に与えられたものであり、たんなる生殖の所産ではなく、既存の社会への隷属を宿命づけられてもいない。言いかえれば、だれもが自由な個としてこの世に到来し、自分だけの生の時間をきざんでいくのであるが、アウグスティヌスにおいてこの自由は信仰のため、すなわち、欲得まみれの世俗社会に埋没した偽りの生から魂をひきはがし、神の愛へと向け変えるための自由としてある。しかしアーレントがもとめたのは、この世に背をむけて信仰の道にひきこもる自由ではなく、世をともにする隣人たちを苦しめる社会の不正をただし、新しい世界をつくるための自由である。ゆえに彼女は、アウグスティヌスの言葉をいささか大胆に読み替えて、誕生というはじまりは、この世で人間が何かを始める自由のはじまりなのだ、と説く。だれもがユニークな個として、この世界で新しいことを「始めるために生まれて来る」のだ、というのである。国家にいのちを捧げ、敵を皆殺しにせよ、とせまる汚れて腐った大人たちに対して、いやだわたしはそんなことをするために生まれて来たんじゃない、とあらがう自由を守り抜くために。そんなことを許さない新しい世界をわたしたちはつくってゆくのだ、という希望の灯をともし続けるために。

 自由と平和を言祝ぐ今日の社会は、戦争と虐殺に狂奔した前世紀の愚行と悲惨から、さしあたりとおく離れているように見える。ならばわたしたちは、子どもの誕生を、個のはじまりというその尊厳にふさわしいしかたで、祝うことができているだろうか。

 2016年秋に政府が策定した「一億総活躍社会プラン」は、「2025年までに希望出生率1.8」を達成することをうたう。出生率の向上を、なぜ国策に掲げる必要があるのか。2020年5月策定の「少子化社会対策大綱」によれば、少子化の進行が「、労働供給の減少、将来の経済や市場規模の縮小、経済成長率の低下、地域・社会の担い手の減少、現役世代の負担の増加、行政サービスの水準の低下」などの弊害をもたらすから、である(内閣府HPより)。国全体の生産力(production)が低下しないように、労働力の再生産(生殖reproduction)につとめねばならない、というわけであるが、なぜ生産力の低下に不安を感じるのか、といえば、今の社会のしくみが維持できなくなる恐れがあるから、である。税収が減り、ますます国の借金がかさみ、年金や社会保険が立ちゆかなくなり、わたしたちの老後があやうくなるかもしれないから、である。そんな、疲れて濁った大人たちの自己保存のために、その民主的代表である政府が、もっと子を生め、はたらきアリを殖やせ、と旗振りを始めるにいたったわけであり、これのどこが美しい国だというのか、嘆息するほかない(少子化対策にふくまれる具体的な施策、たとえば保育所不足の解消といった子育て環境の改善が不要だ、というのではない。それらは、出生数の多寡にかかわらず、すぐにでも実現をはかるべきことがらである)。

 国の都合や政府の思惑はどうあれ、国難を救うことを意図して子をもうける人は(おそらく)いないし、子どもたちが生まれて来るのは、社会の延命や大人の利益のためでは(けっして)ない。とはいえ、国の都合や政府の思惑がかくのごとしである以上、子どもたちの誕生は、その一つひとつがユニークなはじまりであるがゆえに祝福されるのではなく、くずれかかったアリ塚をささえる労働力の供給としてカウントされてしまうことになる。今やわたしたちは、誕生日おめでとう、などと気軽に口にすべきではないのかもしれない。むしろ、出生はよいことだという前提そのものを、根本から見直すべきなのかもしれない。

 「反出生主義」をとなえて近年注目を集めている哲学者のD・ベネターは、人間の生の価値を快楽(幸福)と苦痛(不幸)ではかってみると、総じて苦痛のほうが大きく、そもそも苦痛の存在は快楽の不在より悪いことなのだから(快苦の存在の非対称性)、人間は生まれて来ないほうがよいのであり、ゆえに新たに子どもを産むべきではないのだ、と説く。本稿冒頭の整理に照らすと、②個のはじまりとは不幸のはじまりでしかないのだから、①生殖そのものをやめるべきだ、と主張していることになる。

 たほう、クィア理論家のL・エーデルマンは、生殖をもたらす性愛のみを正常とみなす異性愛中心主義(生殖未来主義)を批判して、「反生殖未来主義」を主張する。子どもが生まれなければ社会は滅んでしまう、だから子どもを生まねばならない、という論理がまかりとおるかぎり、生殖につながらない(日本のある国会議員の下劣な言い草を借りれば、「生産性のない」)セクシュアリティをもつ者は変態ども(クィア)として永遠に排除され続けるほかないのだから、生殖それじたいを否定しなければならない。③ゆがんだ社会の延命を阻止するために、①生殖そのものをやめよ、というわけである。

 もう子どもを生むな、社会など滅びてしまうがよい。二人ともそう言っているわけであるが、その論拠はまったく異なっており、さしあたりベネターのほうは切り捨ててよい。生まれることの善し悪しを快楽と苦痛の量ではかる、という人間観が貧困きわまりないうえに、人のいのちの価値なるものを一方的に値踏みするというナチまがいの態度には、うすら寒い思いがするばかりだ(とはいえ、ベネターの主張に、危険な要素はほとんどふくまれていない。出生は害悪なのに出生させられてしまったわたしたちはなんて不幸なんでしょう、こんな不幸が続かないよう、はやく人類が絶滅しますように、とさも楽しそうに触れまわっているにすぎない。いい気なもんである)。

 個々人の幸福を勝手に忖度して出生を悪と決めつけるベネターとはちがい、エーデルマンの「反生殖未来主義」のほうは、個々人の出生という極私的な出来事を、社会の存続の条件に回収してしまう政治の論理をきびしく撃つ。大人の社会はつねに子どもという未来を必要としており、子どものためと称して自分たちの生存をはかる、という自己保存の論理をするどくえぐり出すのである。国家による生殖の奨励という少子化談義はそのもっともわかりやすい例だが、出生を自由のはじまりととらえるアーレントの考え方にしても、子どもという未来をたのみにする点では、同じことなのかもしれない。あなたたちは自由だ、世界を新たに変えてゆくことができるんだ、というが、その変えるべき世界とは、大人たちが勝手につくったしくみやしきたりだらけなうえに、かれらの愚行によってどうしようもなく損なわれた場所ではないか。暴力、差別、格差、破壊、汚染、等々、負の遺産の一切合切を子どもらに押しつけ、きみらは自由だ、後始末よろしくね、と丸投げするなんてことがほんとうに許されるのか。こんな場所で何を始めろというのか、責任者出てこい!と若い世代に突き上げられたら、いったいどう答えればよいのか。

 とはいうものの、エーデルマンが(あるいはベネターが)いかに出生の害悪や生殖の回避を説いたところで、人類みなが生殖をやめるとはとうてい考えられず、したがってこれからも、子どもたちは生まれて来るにちがいない(生殖をうながす「生の欲動」に「死の欲動」を対置し、後者を反生殖未来主義に結びつけるエーデルマンも、おそらく同じように考えている。けだし、死の欲動と生の欲動は相補的な関係にあり、せめぎあいながら共存するものなのだから)。ゆえに、わたしたち大人がなすべきことは、実に明快である。すなわち、世にはびこる暴力、差別、格差、破壊、汚染、等々の横行をおしとどめ、この世界をもう少しマシな場所に変えること、を措いてない。

 ただし、子どもをダシにするのはやめよう。未来の子どもたちのために、などとはけっして口にせず、今を生きるわたしたちのために、と言うことにしよう。自分を救えないような者に、まだ生まれてもいない人々のしあわせを気遣う資格などあろうはずもなく、まだ見ぬ未来の人々に対して現在を生きる人間が果たすべき責任とは、眼前にひろがる不正と恥辱に立ち向かい、世界を少しでもよき場所に変えること以外にはあり得ないからである。始めるために生まれて来た、という言葉は、わたしたちに差し向けられている。わたしたちこそ、世界のために何かを始める位置にある。いつの日か心から、誕生を祝うために。

(もりかわてるかず・京都大学大学院法学研究科教授)
著書に、『〈始まり〉のアーレント―「出生」の思想の誕生』(岩波書店、2010)、編著『講義政治思想と文学』(ナカニシヤ出版、2017)など。

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〈いのち〉という語りを問い直す

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

■特集の趣旨

 いのち(命・生命・イノチ・寿))―の次に続ける言葉は何ですか。「大切」?それとも「矛盾」?

 私たちは「いのちという矛盾」を生きているように思います。大いなる、しかし個性も名前もないいのちれたいのはに対して、いまここを生きる「私」の誕生。大切にされたいのはいのちなのか、私なのか。私という個としてのいのちと、大いなるいのちを生きつつ、ここには調和されない緊張関係があるのではないでしょうか。そして、私を生きる以上、避けることのできない罪悪、いのちがいのちを害さずにはいられない、という問題。この罪悪の私は大切なのだろうか。

 このいのちという語りは時代によって変化し、宗教、文学、科学などによっても様々に語られてきました。いのちを語り始めるとき、まずその複雑さに一度驚くべきなのかもしれません。特集では、 〈いのち〉という語りについて改めて考えていきます。

(なかむら りょうた・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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SFのSは、セイメイのS?

アンジャリWeb版2022年2月1日更新分

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

■特集を捉える[池澤春菜「ヒトのイノチのその先に」へのコメント]

 池澤春菜氏の「ヒトのイノチのその先に」では、冒頭で「テセウスの船」という命題が紹介されている。「船の部品を一つずつ入れ替えていく。すべて新しい部品となった船は、果たして元の船と同じと言えるのか。その部品でもう一つ船を作った場合、それは新しい船か、それとも元の船か」。ローマ時代のギリシャ人哲学者プルタルコスが提示し、近代の哲学者たちまでが取り組んだ問題だ。SFでは脳と体を別のものと入れ替えたり、脳をコンピュータなどに複写・転写する技術などのストーリーを通じ、「何をもって、命と、人とするのか」、さらにAIや機械が生命を持ち得るかというテーマを考えさせてくれると池澤氏は言う。私も一人のSFファンとしてルーディ・ラッカーの『ソフトウェア』(ハヤカワ文庫SF、1989年)などが思い浮かぶが、仏教的な面でも刺激を受けた。

 今回のウェブ企画にも寄稿いただいている師茂樹氏の論考「人工知能を有情とみなすことは可能か」(『人間とは何か(Ⅱ)』、日本佛教学会編、法藏館、2019年所収)では、古い仏典に出る「テセウスの船」によく似たSFチックなストーリーが考察されている。ある旅人が鬼たちに遭遇し、腕や足、胴体から頭まで、順にすべてを引きちぎられ、鬼が持っていた人間の死骸のものと順に入れ替えられてしまう。そして鬼たちは旅人からとりはずした手足など新鮮な(?)身体をぺろりと平らげてしまう。そこで旅人はこれでもなお自分の体だと言えるのか、と悩む。やがて旅人は仏教僧に出会い、あなたは(世界の構成要素である)「四つの元素が集まったものを、自分の体だ、と思い込んでいるだけです」と説かれ、仏教の無我説に目覚めるのだ(詳細は師氏の上記論考を参照。なお、師氏が指摘するとおり、仏教的な枠組みで考える場合は輪廻への問いが欠かせないが、本稿では触れない)。

 仏教の「五蘊仮和合(ごうんけわごう)」という考え方では、私たち人間の存在を物質と精神(感覚・表象・意志的形成力・認識)の5つの要素がさまざまな因と縁によって仮に集まって構成されたものと理解する。そこに実体的な「我」は存在しない。仏典『ミリンダ王の問い』でも人間を「車」に喩え、車輪や車軸など部品に分解しても組み立てても、どこにも「我」は見当たらないと語られる。イギリスの哲学者エドワード・クレイグ氏によれば、これに対して古代ギリシャのプラトンは2頭の馬(理性と感性)に引かれた戦車(身体)を操る御者を自己に見立て、古代インドの『カタ・ウパニシャッド』では馬(感性)を操る御者(知性)に導かれた戦車(身体)に自己(アートマン)が乗っていると考えたというが、その自己は実際のところどこにいるのだろう。

 この点、池澤氏が挙げるジェイムズ・P・ホーガンの『造物主の掟』(名作『星を継ぐもの』の作者の作品。創元SF文庫、1985年)では、みずからロボットや機械類を製造して異星で資源を採掘する自律型ロボットの機械人「タロイド」たちが登場する。それらはプログラムの暴走で独自の進化を遂げ、長大な時間を経て、自我意識もあれば独裁者や宗教までもある中世的な社会を築いている。作中、自分たちの「生命」の源はどこかと疑問を抱いたあるタロイドが、「死んだ」機械を分解する。すると彼は「管や繊維や金属構造材やベアリングなどのおそろしく複雑な配列……以外には、何も見つけだすことができなかった」。そして問う——「では、魂はどこにあるのか?」。

 一方、池澤氏が紹介する別の作品、アン・マキャフリーの『歌う船』(創元SF文庫、1984年)では、主人公のヘルヴァは人間の脳がいわば「御者」的に宇宙船の船体に組み込まれて一体化した存在だが、どちらか一方だけでは本当のヘルヴァとは言えない。彼女は宇宙船であり、宇宙船であって初めて彼女なのだ。この作品から思い出すのはベトナムにもルーツを持つフランス人作家アリエット・ド・ボダールのアジアン・テイスト満載のSFミステリ作品『茶匠と探偵』(竹書房、2019年)。主人公のシャドウズ・チャイルドと呼ばれる宇宙船「マインド・シップ」も頭脳は人工知能的なものだが、船全体がひとつの有機的・人格的存在だ。彼女は過去の事故の深いトラウマを抱え、航行していないときは心を落ち着けるドラッグを調合する「茶匠」として日銭を稼ぐ。『2001年宇宙の旅』のコンピュータHALも意思や多少の感情を示したが、「マインド・シップ」は深層心理を含む感情面が大きなウェイトを占めているのが印象深い。

 脳やソフトウェアとハードウェアとの組み合わせであるどの宇宙船も機械人も、構造的にはまさに「五蘊仮和合」。しかしここに挙げたSF作品を読んでいると、(フィクションだとはいえ)そこに否定し難い「自己」的なるものが立ち現れ得る不思議に惹かれてしまう。我が身もまた、「自己」は脳の生理学的プロセスの産物に過ぎず、「無我」であると合理的に考え得たとしても、全身を捉える不安や焦燥や愛慕などを感じるとき、それはひと筋縄ではいかないのではないか……。生命はあくまでも機械に宿ると信じている機械人タロイドから見ると、人間は生命とはおよそ無縁なはずの有機的物質の奇妙な化学的構築物にすぎない。それなのに人間たちが欲望や敵意や善意を示すことに衝撃を受ける。それを「無我」だと言って、タロイドたちはすんなり納得してくれるだろうか。池澤春菜氏が紹介してくださった他のSF作品とも合わせて、考えてみるとおもしろいかもしれない。

(いとう まこと・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

先徳との「対話」を目指して

アンジャリWeb版2022年2月1日更新分

花園大学文学部教授

師  茂樹

(MORO Shigeki)

■特集を捉える

 [大谷由香「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」へのコメント]

 

 哲学者の河野哲也は「思考とは、他者から発せられる多様な声を自分のなかに取り込み、そのあいだの対立や闘争やすれ違いを取り持ち、それらの声を交渉させ、調停し、まとめたり、和解させたりして関連づける」という「本質的に政治的な活動」だと言う(『じぶんで考えじぶんで話せる―こどもを育てる哲学レッスン』河出書房新社、2018)。仏教者にとって「自分のなかに取り込」むべき「声」は、まずもって仏典に説かれる先徳たちの様々な言説ではなかろうか。

 大谷由香「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」の中で紹介されている、『瑜伽師地論』菩薩地における「慈悲殺生」の議論、そしてそれを様々に注釈した東アジア、日本の学僧たちの「声」は、現代の我々にも多くの「思考」をもたらしてくれる。むしろ、ここで紹介されている先徳たちとの(広義の)対話の必要性は、現代においてますます高まっているように思われる。

 思えば今から四半世紀あまり前、我々の社会ではオウム真理教という団体による「慈悲殺人」(彼らは「ポア」と呼んでいた)が発生した。その時、たまたま見ていたテレビのワイドショーに仏教学者が呼ばれていて、「ポアは仏教なのですか?」と詰問されていた。その学者は「ポアは仏教ではありません」と答えていた。仏教は、どんな目的であれ、殺人は肯定しないというのだ。

 当時大学院生だった私は、彼がそう答えざるを得ない状況であったことに強く同情しつつも、その発言を聞いて思わず「嘘だ」とつぶやいていた。その時私は、まさに大谷が紹介する『瑜伽師地論』菩薩地の該当箇所を読んでいたのだった。私の中で複数の「声」が対立し葛藤していたことを思い出す。

 『瑜伽師地論』では、大谷が紹介している「慈悲殺人」以外にも、菩薩の慈悲にもとづく加害や(現代風に言えば)ハラスメントの事例が「菩薩戒に違犯したことにはならないし、かえって多くの功徳を生む」と述べられている。その中には、権力者による仏教の強制の例もある。これなどは、昨年、アフガニスタンにおいてタリバン政権が復活したことを想起させる。この件について、日本の報道にはほぼネガティブなものしかないように思う。もちろん、それらの報道にはそれなりに根拠があるのだろうし、人権侵害があるのであれば早急に改善されるべきであると思う。その一方で、我々はこの問題について、「多様な声」に耳を傾けているのだろうか、偏った価値観だけで一方的な断罪をしてはいないだろうか、とも思う。『瑜伽師地論』やその注釈をめぐる議論も、この点から読まれ直してもよいかもしれない。

 現代の倫理的問題を考える際、マイケル・サンデルが紹介したことで有名になった所謂「トロッコ問題」――大谷も言及しているが――などを参照するのもよいが、我々の有する伝統の中で豊かな倫理的議論がなされていたことに、もっと目を向けてもよいように思う。言うまでもなく、現代の(特に欧米の)価値観を否定しろと言いたいわけではないし、仏教だけを特権化すべきだとも言いたいわけではない。ただ、我々はもっと古典を含めた「多様な声」を取り込み、自分の中で葛藤させ、そして何らかの判断をする訓練をすべきだし、仏教者であるならばその中に仏典を含めるべきではないか、と思うのである。そして、大谷のこのエッセイには、そのためのヒントが多く含まれているように思われる。

(もろ しげき・花園大学文学部教授)
近著に『最澄と徳一――仏教史上最大の対決』(岩波新書)。他論文等多数。

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