親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

京都大学大学院法学研究科教授

森川 輝一

(MORIKAWA Terukazu)

 誕生日おめでとう、とわたしたちは言う。家族や友人に、ときにはその日初めて会った人にさえ、わりと気楽にこの言葉を差し向ける。しかしわたしたちは、この言葉でいったい何を祝っているのだろうか。そもそも誕生とは、どういうことなのか。

 誕生とはまず、①生殖、すなわち、生物としてのヒトがおこなう繁殖行為の帰結としてあらたな個体が産みだされること、である。生殖はヒトにかぎらずどの生き物でもおこなうことであるが、ヒトのいのちは、唯一のわたしという個のかたちをとってあらわれる。同じヒトではあるが、わたしはあなたではなく、わたし以外のどんな人とも同じではなく、唯一のこのわたしとして生きるのであり、誕生とはその起点に位置する出来事、つまり、②唯一無二の個のはじまりでもある。とはいえ、子どもは無人の荒野に生まれるのではなく、先に生まれていた人々のあいだに生まれ落ち、かれらが構成する社会の一員となる。わたしはわたしであってあなたたちとはちがう、とあなたたちに伝えることができるのも、あなたたちと同じ言葉を共にしているからである。このように人間の誕生には、③既存の社会への参入・所属、という要素がふくまれているのであるが、②と③の関係は緊張をはらみ、かならずしも調和的ではない。

 子どもはユニークな個として生まれて来るが、親をはじめとする大人たちのほうは、自分たちがよいと思うやり方で育てようとする。たとえば、男の子だからとズボンをはかせ、怪獣やパトカーのおもちゃを買い与え、今は腕白でよいけれど、大きくなったらしっかり勉強させて将来は立派な家の跡取りに、と期待を寄せるかもしれないが、当の子どものほうは、心のなかではピンクのスカートをはいて人形遊びがしたいと思っていて、やがて時がたち、わたしはほんとうは女性として生きたいのだ、と言い始めるかもしれない。そうしたときに、そうか、ならそうするのがいい、あなたの人生はあなたのものなのだから、と応答できる人間でありたいとわたしは思うし、それが社会全体としても理にかなった態度であると考えるが、いやそれは間違っている、そんなことを許したら社会は立ちゆかなくなってしまう、と考える人が少なくないことも承知している。誕生のうちにはらまれる、上記②と③という二つの要素のあいだの軋轢や衝突のうちに、個人の自由と共同体の秩序をめぐる相克、一般に政治とよばれるいとなみが生起する、と言ってよい。

 そうした問題を回避する方法として、②の要素を消し去り、③に①をひきよせる、というやり方がある。精妙な組織を構成して種族の存続をはかるアリやシロアリのばあい、はたらきアリとして生まれた個体ははたらきアリとして生き、奴隷みたいに働くために生まれたんじゃない、だの、ミュージシャンになってキリギリスと共演したい、だのと自己主張することはない(ように見える)。みながそのように個を滅却して全体に奉仕すれば、秩序の安寧と種族の繁栄はゆるぎない―という発想は、人間族の歴史においてめずらしいものではないが、その極端な事例として、前世紀前半のドイツにあらわれたナチズムがある。その迫害の対象となったユダヤ人の一人で、いのちからがら逃れたアメリカの地で政治思想家となったH・アーレントは、ナチスの全体主義国家を巨大なアリ塚にたとえてもいる。

 全体に奉仕する忠良な国民を殖やすべく、ナチス体制下では多産がおおいに奨励されたが、殖えるべきは純血種の健康な個体でなければならないとされた。ちょうど家畜の繁殖と同じように、品種をそこなうとみなされた個体は除去の対象となり、やがて劣等とみなされた人々の大規模な殺害へと発展していくが、ヒトラーやヒムラーがしばしば用いたたとえによると、それは害虫の駆除や病原菌の根絶と同じことなのだという。家畜、あるいは害虫や病原菌、いずれにせよ人間は人間未満の生き物に引き下げられてしまうのであるが、同族をガス室につめこむような所業におよぶのはわが人間族を措いてなく、このような言いぐさは、他の生き物たちへの礼を欠くことになるかもしれない。

 ナチスの猛威を生きのびたアーレントは、その暴虐を告発するいっぽう、新しい政治のはじまりを、個のはじまりとしての人間の誕生にもとめる。その導き手となったのは、古代ローマの哲学者アウグスティヌスの書にあらわれる、「はじまりが存在せんがために人間は創られた」という言葉である。創られた、とあるとおり、アウグスティヌスにとってこの言葉は、神による人間の創造というキリスト教の教えと結びあっている。一人ひとりのいのちは神に与えられたものであり、たんなる生殖の所産ではなく、既存の社会への隷属を宿命づけられてもいない。言いかえれば、だれもが自由な個としてこの世に到来し、自分だけの生の時間をきざんでいくのであるが、アウグスティヌスにおいてこの自由は信仰のため、すなわち、欲得まみれの世俗社会に埋没した偽りの生から魂をひきはがし、神の愛へと向け変えるための自由としてある。しかしアーレントがもとめたのは、この世に背をむけて信仰の道にひきこもる自由ではなく、世をともにする隣人たちを苦しめる社会の不正をただし、新しい世界をつくるための自由である。ゆえに彼女は、アウグスティヌスの言葉をいささか大胆に読み替えて、誕生というはじまりは、この世で人間が何かを始める自由のはじまりなのだ、と説く。だれもがユニークな個として、この世界で新しいことを「始めるために生まれて来る」のだ、というのである。国家にいのちを捧げ、敵を皆殺しにせよ、とせまる汚れて腐った大人たちに対して、いやだわたしはそんなことをするために生まれて来たんじゃない、とあらがう自由を守り抜くために。そんなことを許さない新しい世界をわたしたちはつくってゆくのだ、という希望の灯をともし続けるために。

 自由と平和を言祝ぐ今日の社会は、戦争と虐殺に狂奔した前世紀の愚行と悲惨から、さしあたりとおく離れているように見える。ならばわたしたちは、子どもの誕生を、個のはじまりというその尊厳にふさわしいしかたで、祝うことができているだろうか。

 2016年秋に政府が策定した「一億総活躍社会プラン」は、「2025年までに希望出生率1.8」を達成することをうたう。出生率の向上を、なぜ国策に掲げる必要があるのか。2020年5月策定の「少子化社会対策大綱」によれば、少子化の進行が「、労働供給の減少、将来の経済や市場規模の縮小、経済成長率の低下、地域・社会の担い手の減少、現役世代の負担の増加、行政サービスの水準の低下」などの弊害をもたらすから、である(内閣府HPより)。国全体の生産力(production)が低下しないように、労働力の再生産(生殖reproduction)につとめねばならない、というわけであるが、なぜ生産力の低下に不安を感じるのか、といえば、今の社会のしくみが維持できなくなる恐れがあるから、である。税収が減り、ますます国の借金がかさみ、年金や社会保険が立ちゆかなくなり、わたしたちの老後があやうくなるかもしれないから、である。そんな、疲れて濁った大人たちの自己保存のために、その民主的代表である政府が、もっと子を生め、はたらきアリを殖やせ、と旗振りを始めるにいたったわけであり、これのどこが美しい国だというのか、嘆息するほかない(少子化対策にふくまれる具体的な施策、たとえば保育所不足の解消といった子育て環境の改善が不要だ、というのではない。それらは、出生数の多寡にかかわらず、すぐにでも実現をはかるべきことがらである)。

 国の都合や政府の思惑はどうあれ、国難を救うことを意図して子をもうける人は(おそらく)いないし、子どもたちが生まれて来るのは、社会の延命や大人の利益のためでは(けっして)ない。とはいえ、国の都合や政府の思惑がかくのごとしである以上、子どもたちの誕生は、その一つひとつがユニークなはじまりであるがゆえに祝福されるのではなく、くずれかかったアリ塚をささえる労働力の供給としてカウントされてしまうことになる。今やわたしたちは、誕生日おめでとう、などと気軽に口にすべきではないのかもしれない。むしろ、出生はよいことだという前提そのものを、根本から見直すべきなのかもしれない。

 「反出生主義」をとなえて近年注目を集めている哲学者のD・ベネターは、人間の生の価値を快楽(幸福)と苦痛(不幸)ではかってみると、総じて苦痛のほうが大きく、そもそも苦痛の存在は快楽の不在より悪いことなのだから(快苦の存在の非対称性)、人間は生まれて来ないほうがよいのであり、ゆえに新たに子どもを産むべきではないのだ、と説く。本稿冒頭の整理に照らすと、②個のはじまりとは不幸のはじまりでしかないのだから、①生殖そのものをやめるべきだ、と主張していることになる。

 たほう、クィア理論家のL・エーデルマンは、生殖をもたらす性愛のみを正常とみなす異性愛中心主義(生殖未来主義)を批判して、「反生殖未来主義」を主張する。子どもが生まれなければ社会は滅んでしまう、だから子どもを生まねばならない、という論理がまかりとおるかぎり、生殖につながらない(日本のある国会議員の下劣な言い草を借りれば、「生産性のない」)セクシュアリティをもつ者は変態ども(クィア)として永遠に排除され続けるほかないのだから、生殖それじたいを否定しなければならない。③ゆがんだ社会の延命を阻止するために、①生殖そのものをやめよ、というわけである。

 もう子どもを生むな、社会など滅びてしまうがよい。二人ともそう言っているわけであるが、その論拠はまったく異なっており、さしあたりベネターのほうは切り捨ててよい。生まれることの善し悪しを快楽と苦痛の量ではかる、という人間観が貧困きわまりないうえに、人のいのちの価値なるものを一方的に値踏みするというナチまがいの態度には、うすら寒い思いがするばかりだ(とはいえ、ベネターの主張に、危険な要素はほとんどふくまれていない。出生は害悪なのに出生させられてしまったわたしたちはなんて不幸なんでしょう、こんな不幸が続かないよう、はやく人類が絶滅しますように、とさも楽しそうに触れまわっているにすぎない。いい気なもんである)。

 個々人の幸福を勝手に忖度して出生を悪と決めつけるベネターとはちがい、エーデルマンの「反生殖未来主義」のほうは、個々人の出生という極私的な出来事を、社会の存続の条件に回収してしまう政治の論理をきびしく撃つ。大人の社会はつねに子どもという未来を必要としており、子どものためと称して自分たちの生存をはかる、という自己保存の論理をするどくえぐり出すのである。国家による生殖の奨励という少子化談義はそのもっともわかりやすい例だが、出生を自由のはじまりととらえるアーレントの考え方にしても、子どもという未来をたのみにする点では、同じことなのかもしれない。あなたたちは自由だ、世界を新たに変えてゆくことができるんだ、というが、その変えるべき世界とは、大人たちが勝手につくったしくみやしきたりだらけなうえに、かれらの愚行によってどうしようもなく損なわれた場所ではないか。暴力、差別、格差、破壊、汚染、等々、負の遺産の一切合切を子どもらに押しつけ、きみらは自由だ、後始末よろしくね、と丸投げするなんてことがほんとうに許されるのか。こんな場所で何を始めろというのか、責任者出てこい!と若い世代に突き上げられたら、いったいどう答えればよいのか。

 とはいうものの、エーデルマンが(あるいはベネターが)いかに出生の害悪や生殖の回避を説いたところで、人類みなが生殖をやめるとはとうてい考えられず、したがってこれからも、子どもたちは生まれて来るにちがいない(生殖をうながす「生の欲動」に「死の欲動」を対置し、後者を反生殖未来主義に結びつけるエーデルマンも、おそらく同じように考えている。けだし、死の欲動と生の欲動は相補的な関係にあり、せめぎあいながら共存するものなのだから)。ゆえに、わたしたち大人がなすべきことは、実に明快である。すなわち、世にはびこる暴力、差別、格差、破壊、汚染、等々の横行をおしとどめ、この世界をもう少しマシな場所に変えること、を措いてない。

 ただし、子どもをダシにするのはやめよう。未来の子どもたちのために、などとはけっして口にせず、今を生きるわたしたちのために、と言うことにしよう。自分を救えないような者に、まだ生まれてもいない人々のしあわせを気遣う資格などあろうはずもなく、まだ見ぬ未来の人々に対して現在を生きる人間が果たすべき責任とは、眼前にひろがる不正と恥辱に立ち向かい、世界を少しでもよき場所に変えること以外にはあり得ないからである。始めるために生まれて来た、という言葉は、わたしたちに差し向けられている。わたしたちこそ、世界のために何かを始める位置にある。いつの日か心から、誕生を祝うために。

(もりかわてるかず・京都大学大学院法学研究科教授)
著書に、『〈始まり〉のアーレント―「出生」の思想の誕生』(岩波書店、2010)、編著『講義政治思想と文学』(ナカニシヤ出版、2017)など。

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健全な心の持ち主は、人生を善きものと感じ、世界の暗い面や自己自身の不完全さに思い悩むことは少ない。この心の持ち主は、さしあたり無意識のうちに世界の善性を信頼し、自然に幸福を感じる人といえる。しかし、むしろこの類型の本領は、意志的・組織的に悪を自身の視野の外に締め出す方法を用いることにある。ものごとを全体として善と考え、意識的に楽観的な人生観にもとづき、人間の生を肯定するのである。ジェイムズは当時のアメリカで起こっていた「マインド・キュア(精神治療)」運動を具体的な例としてとりあげ、積極的に人生を肯定する方法の特色を紹介している。  マインド・キュアは、ニューソートとも呼ばれるが、このような方法論にもとづいて、自己を肯定しようとする動きは、当時の合衆国にだけ存在したのではない。現代の日本の新宗教や精神運動においてもこのような形態はひろく認められる。新宗教のひとつである生長の家の創始者、谷口雅春は実際にニューソート(生長の家ではこれを「光明思想」と呼ぶ)に大きな影響を受けて、活動を展開していった。光明思想のような生命観は、戦後、教勢を著しく拡大した新宗教の大きな特徴である。その生命観は、ひとりひとりの心の状態や思いは、宇宙の本源的実在やエネルギーと密接につながっていると想定する。そして、宇宙の諸存在はすべて一つの生命体であり、悪は根源的な実在性をもたないとされる。新宗教におけるこのような理論構成は、宗教学者によって「生命主義」として研究されてきた(対馬路人他「新宗教における生命主義的救済観」『思想』665号、1979年)。来世ではなく現世に重きを置くのも、生命主義の特徴のひとつである。  しかし、生命主義的な思想は新宗教だけにみられるものではない。新宗教の教理ほど体系的ではなく、また徹底したものではないにしろ、現代の学校教育やマスコミなどでも、生命主義に親近した考え方が暗黙のうちに浸透している。しばしば、「すべてのものはつながっている」「すべてのいのちは輝いている」「あなたには無限の可能性がある」などという表現がなされる。ひとりひとりの生をかけがえのないものとして見据え、できるだけ善いことや長所を見いだすことで、生が肯定されるという発想である。このような思考形態は現代における「いのち教」と呼ぶことができよう。  それでは、ジェイムズがいう「病める魂」はどのような性格類型であろうか。病める魂の持ち主は、悪の存在に悩まされる人である。世界や自己の悪い面が切実に感じられ、悪と向き合うことが本当のあり方だと考える。そのように悪や苦しみに向きあうことで、古い自己が死に、新たな自己が蘇ることがある。再生された自己においては、悪や苦は必然的なものと認められ、それらは内に含まれた仕方で統合される。このような死と再生の経験は、伝統的な宗教、とくにキリスト教や仏教において顕著にみられてきたことだとジェイムズは指摘する。事実、キリスト教では人間を原罪があるものとし、仏教では生老病死などの四苦や八苦を説く。ジェイムズはキリスト教と仏教は本質的に「救済(deliverance)」の宗教であり、その教えの核心をこう述べる。「真実なるいのち(life)に生まれうるには、人はまず真実でないいのちを忘れさらねばならない」。 ◆上田閑照の宗教哲学生命/生/いのち  キリスト教や仏教など救済宗教の「いのち」理解を考察するためのよい手がかりを上田閑照は提示している(上田閑照『宗教』岩波現代文庫、2007年)。近年の宗教哲学者の代表的存在である、上田の論をもとに肯定と否定との問題をさらに考えてみよう。  本来的に「人間として生きる」という観点から、上田は宗教の問題を考察する。上田によれば、「生きる」ことには「生命」と「生」と「いのち」の三つの次元があり、それらがダイナミックに連関してこそ「生きる」ことになる。「生命」は、生物学や生命科学の対象となるものである。「生」には「生活」という面や「人生」という面もある。そのため、さまざまな人文科学の対象となる。「生」はさまざまな意味連関の中におかれるが、それを包括する場所が「世界」である。宗教との関係で重要なのは「いのち」である。「いのち」は学問の対象とはならずに、対象化することでは触れることができないところで生きられる。生命や生とは質を異にし、詩・文学や芸術や宗教などで直接に「いのち」の言葉に触れて、「いのち」の目覚めが生起する。「いのち」の目覚めは宗教にかぎらず、詩や芸術でも自覚されることがある。ただし、「生命」から人間的な「生」へは量的な飛躍であるのに対し、「生」から「いのち」への飛躍はそうした飛躍の線を断ち切ったところから出てくる質的な飛躍である。「死」や「貧」といった否定的な契機を通して自覚されてくるのが「いのち」なのである。そして、こうしたすべての連関を含めて、その全体が生きられることが「人間として生きること」になるのだという。  上田は、悪や苦などの否定的なものを真正面から見すえることが本当の意味で「生きる」ことだとするのであり、この点、ジェイムズのいう「病める魂」と論が重なる。  ここで大切なのは、上田が捉える救済宗教の本質である。意味の総枠である「世界」と、それを越えるものは異質で断絶している。伝統的に「宗教」とされるのは、「世界」を越え包む限りない「開け」が、「世界」の内から主題化されたものだと上田は捉える。具体的にいえば、神域・神殿・教会などは地図の上に位置づけ可能な、目に見える局所であるが、本来的には「世界」とは断絶した場所なのである。しかし、それを目に見える世界内のものとして捉えると問題が起こる。  人間にはそもそも「歪み」と「転倒」の危険性がある。「歪み」とは、人間的生に関わる世界がすべてだとし、それを越えるものを見ないことである。これは宗教的なものを意図的に見ない歪みである。「転倒」とは、本来、人間的生においては見えないものを見てわかったものとして、人間的生の次元に引きずりおろすという転倒である。歪みや転倒は宗教の歴史の中でしばしば生じており、宗教思想家はそれぞれの仕方でその危険性を乗り越えようとしてきた。 ◆浄土教における否定と肯定法然・證空・親鸞  さて、上田やジェイムズの提示した宗教モデルをもとに、浄土教について考えてみよう。浄土教の祖師たちは、いずれも病める魂の持ち主であり、自己の罪悪をみすえている。なるほど、法然は通仏教の側からも「智恵第一の法然房」と讃えられ、また持戒堅固の清僧と知られていた。しかしながら自身を「戒定慧の三学の器にあらず」と認識し、また「十悪の法然」「愚痴の法然」と自覚していたと伝えられている。その法然が称名念仏の教えを説いた。ただし、念仏一行を「選択」したのは法然ではなく、阿弥陀仏であることを見失ってはならない。阿弥陀仏が余行ではなく、念仏を選択し、それを往生の本願としたということが『選択本願念仏集』の主旨であり、そのことが決定的な意味を有している。この著作には、人間的生に関わる意味世界ではない、絶対の側からの働きが表現されている。上田の言葉に従えば、「いのち」の言葉が念仏なのである。その念仏の働きには自力無功という否定の契機が内包されている。  しかし、このような法然の立場は、念仏以外の行を修する仏教者から非難されることになる。また人間の意味世界を越えた絶対の働きと、人間の生の意味世界との関係が問われることになった。法然自身は、当時の社会の仏教や道徳の規範に則った清僧として一生を過ごした。すなわち、このようにして法然は「人間として生きた」のだ。とはいえ、教団が大きくなり、信者が増えていく中で、この課題に理論的に答える必要もでてきた。  法然の高弟、證空は法然が残した課題に取り組んだ一人である。のちに浄土宗西山派の派祖とされた證空の教義は独特な名目や高尚な哲理を含んでおり理解は容易ではない。天台本覚思想に基づいた現実肯定の思想として誤解されることもある。しかし、證空も病める魂の持ち主であった。證空は人間を総じて「濁世の凡夫」「垢障の凡夫」「垢障覆の衆生」と理解し、悪や罪を正面から捉えている。そして、仏性が遍満するとしているが、遍満する仏性は「弥陀の理性」であり、そのことの「領解」がなければ、衆生は三界流転するという。さらに、念仏においても「自力の念仏」と「本願に相応した他力の念仏」とを区別している(『女院御書』下巻第七章)。阿弥陀仏の絶対性が見据えられているといえる。しかし、領解の信心において、あらゆることの意味が復活する。通仏教の修行や世俗の道徳が生き返り、人間的生の意味が肯定されるのである。古来より法然は「諸行の頸を切り」、證空は「諸行を生け捕りに」したと評される所以である。  證空は現生往生である「即便往生」を表だって説いている。「生きて身を蓮の上に宿さずば念仏申す甲斐やなからん」。この和歌は、臨終時の往生(證空はこれを当得往生という)のみでなく、生きながら往生することの重要性を端的に表現したとされている。證空はこのような独自の教学をもとに、人間として生きた。證空の場合、肯定の契機を強調することが多い。そのため、「生」から「いのち」への否定の契機がともすれば見落とされがちになる。後世において證空は、健全な心の持ち主のようにみなされ、生命主義的に解釈されることもでてきた。  親鸞の自己の罪悪性への自覚は痛切である。病める魂の典型的人物といってよい。親鸞の教えの核心は、阿弥陀仏の本願への疑いが滅して、正定聚に入って生きることにある。このことは、まさに虚仮のいのちを捨て真実なるいのちに生まれかわることを表現していることにほかならない。法然への論難に対して答えることは親鸞にとっても課題であり、『教行信証』執筆の大きな動機であった。残された課題の一つに菩提心の問題がある。親鸞はこれに対して、信心も自己がおこすものではなく、弥陀よりたまわるものだと示した。後世、絶対他力と称されるほど、弥陀の絶対性を強調したのである。他力信心に関する論理を徹底させながら、親鸞も人間として生きた。しかし、親鸞も理論的課題をすべて解決したわけではない。人間的生の意味連関の中で道徳・倫理をどう捉えるのかという課題は、そのひとつであろう。信心を獲て、現生正定聚の中に入ることは、むしろ人間的生の意味連関の再構築の始まりとなる。  ジェイムズや上田の理論が必ずしも全面的に妥当するとは限らず、また浄土教をかれらの理論で考察する必要もない。しかし、浄土教の思想をその文字の表面的な意味理解に限らず、より普遍的な次元で捉え返すことは大切なことであろう。浄土教は、現代に流布している「いのち教」と違うのか否か。あるいは、俗世から断絶した浄土を人間的生の次元に引きずりおろす転倒は生じていないか。いのちの肯定と否定の問題は、そのような問いを投げかけているように思われる。 (いわたふみあき・大阪教育大学教育学部教授)著書に、『近代仏教と青年――近角常観とその時代』(岩波書店、2014)、編著『知っておきたい日本の宗教』(ミネルヴァ書房、2020)など。 他の著者の論考を読む...
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