親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

「お迎え」から「摂取不捨」へ

アンジャリWeb版2020年6月15日更新分

大阪大谷大学文学部教授

梯  信暁

(KAKEHASHI Nobuaki)

 最近『お迎えの信仰―往生伝を読む』という本を書きました。法藏館から発売中です。浄土真宗のご信心にはそぐわないタイトルだと思われるでしょう。私どもはお迎えを必要としません。それは親鸞聖人が教えてくださったことです。

 お迎えは、平安時代に定着した阿弥陀仏信仰の最大の特徴です。親鸞聖人はその信仰に潜む闇の部分を直視し、それを排除して御同行の苦悩を救われたのです。その経緯について少し述べたいと思います。

 

 日本の阿弥陀仏信仰は飛鳥時代以来の伝統がありますが、貴族社会に浸透するのは10世紀半ばのことです。比叡山のお念仏が貴族の間で評判になったことが直接のきっかけです。美しい旋律で歌うように唱えられた「南無阿弥陀仏」の声に魅せられた貴族たちが、山のお堂に出向いてお念仏を聴聞し、また自邸に僧を招いて念仏法会を催したのです。やがて貴族たちは極楽への往生を願うようになります。その信仰を教理面から支えたのは、当然比叡山の僧たちでした。彼らが貴族に説いたのは、『観無量寿経』下品下生段に示された称名念仏の教えで、「どんな悪人でも、臨終の時に善師の導きによって十遍、南無阿弥陀仏と称えたならば、極楽からお迎えが来て、必ず往生できる」ということでした。

 その教えが受け容れられ、貴族社会に阿弥陀仏信仰が浸透してゆきます。貴族たちは比叡山の僧の指導を仰ぎ、臨終のお迎えを願ってお念仏にいそしむようになるのです。

 

 10世紀末、源信僧都が『往生要集』を著されました。貴族向けの本ではなく、比叡山の修行僧を対象として、念仏の教理と実践とを示した書です。その念仏は、「極楽への往生・悟りの完成・衆生の救済」を目標とし、大乗仏教の修行を網羅して組織されたものでした。特に、発菩提心と観想念仏とに重点が置かれています。さらにそのすべての成果を傾けて、臨終にお迎えを感得するための作法が提示されています。『往生要集』が目指したのも、やはりお迎えだったのです。

 源信僧都は、平生の念仏修行の成果として臨終の念仏作法が成就すれば、臨終正念に達することができ、その正念に対して極楽からお迎えがやって来ると説かれました。臨終正念が得られないとお迎えは現れず、往生できないばかりか、地獄に堕ちるかもしれないと述べられています。

 

 それは比叡山の念仏行者を叱咤激励する教えでした。貴族を導く意図はなかったはずです。ところが藤原道長が愛読したことによって『往生要集』は貴族社会に流布し、貴族たちが臨終正念を目指すようになったのです。もちろん容易なことではありませんでした。

 『往生要集』の流布によるお迎えの信仰の広がりは、貴族社会に不安感をもたらすことになりました。信仰が深まり、教理の理解が進むにつれて、多くの人が自身の救われ難さを痛感するようになったのです。院政期の阿弥陀仏信仰は、絢爛豪華な美術作品を特徴とします。それは希有のお迎えを渇望する、貴族たちの不安感・焦燥感のあらわれだと言えましょう。また12世紀に続々と成立する「往生伝」からは、異常な切迫感を読み取ることができます。

 そのような感情は、13世紀には庶民層にまで広がっていたようです。法然聖人や親鸞聖人は、それを克服するための教えを説かれています。中でも私どもに親しみ深いのは、次に掲げる親鸞聖人のお手紙の文でしょう。

 

お迎えは、諸行往生の法門の中で説かれることです。自力の諸行によって往生を目指す修行者にはお迎えが必要だからです。臨終の重視なども、諸行往生の行者に説かれることです。臨終に至るまで、真実の信心を得られなかったのですから仕方ありません。また十悪・五逆の罪人が、臨終の時に初めて善師に出遇ったならば、臨終念仏が勧められます。それに対し、我ら真実信心の行人は、阿弥陀仏から信心を頂戴したその時に、仏の救いの手の中に抱きとめられ、その後も決して見捨てられることがありませんから、すでに平生の時に必ず仏となることが約束されているのです。よって臨終を待つ必要もなく、お迎えをたのむこともありません。信心が定まった時に、往生も定まりますので、お迎えをいただくための臨終の作法も不要です。正念とは、阿弥陀仏の本願を受け容れる信心が定まることを言うのです。

 

 聖人79歳のお手紙です。臨終正念によるお迎えの感得が往生極楽の条件であるという、未知の見解に触れて不安に苛まれた関東の御同行の疑問に答えられたものです。聖人は、我ら真実信心の行人は、平生の時に往生が確定すると言い切られました。阿弥陀仏は、臨終に初めて現れるのではなく、平生から常にそばにいてくださるということです。長々と訳しましたが、その部分の原文は、「摂取不捨のゆゑに正定聚のくらゐに住す」という極めて簡潔な記述で、しかも御同行には聞き慣れた教えでした。加えて聖人は、正念とは、信心決定の意であるとおっしゃいます。摂取不捨の利益として仏より与えられるものだということです。

 親鸞聖人は、阿弥陀仏のすくいの第一の特徴は、「お迎え」ではなく「摂取不捨」であると示されたのです。浄土教教理の一大転換を成し遂げた宗教家であると言えましょう。

(かけはし のぶあき・大阪大谷大学文学部教授)
著書に『宇治大納言源隆国編 安養集 本文と研究』(西村冏紹監修、百華苑)、『奈良・平安期浄土教展開論』(法藏館)、『インド・中国・朝鮮・日本 浄土教思想史』(法藏館)、『新訳 往生要集』上・下(法藏館)、『お迎えの信仰-往生伝を読む』(法藏館)

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「クロノスタシス」って知ってる?――野村佐紀子展“GO WEST”

アンジャリWeb版2020年6月15日更新分

親鸞仏教センター嘱託研究員

長谷川 琢哉

(HASEGAWA Takuya)

コンビニエンスストアで 350mlの缶ビール買って

きみと夜の散歩 時計の針は0時を差してる

“クロノスタシス”って知ってる? 知らないときみは言う

時計の針が止まって見える現象のことだよ

きのこ帝国「クロノスタシス」(2014年)

 

 きのこ帝国というバンドの「クロノスタシス」という曲をたまたまインターネットで聞いたのは、昨年末のことだった。スムースなR&B調の曲が自分の好みにあっていたことからまずは惹かれたのだが、しかしこの曲が私の心に強く残ったのは、その歌詞によるところが大きかった。

 

 この曲が描いているのは、カップルが休日の真夜中に散歩をしている情景である。二人は缶ビールを飲みながら家に帰っているところで、女性の方(ボーカルが女性なのでそのように仮定しよう)は、この夜の散歩になんだか夢のような心地よさを感じている。しかしその時突然、彼女は「クロノスタシス」って知ってる?と相手に問う。そしてそれを知らなかった相手に対して、「時計の針が止まって見える現象のことだよ」と説明する。そういう曲である。

 

 「クロノスタシス」というのは、動いている時計の秒針をふと見た瞬間、その時計が壊れているかのように止まって見える錯覚のことである。これは錯覚であるから、もちろん秒針はすぐに動き出すだろう。しかしその錯覚が生じている瞬間は、時計の針が永遠に止まってしまったかのように感じられる。つまり、ほんの一瞬の中に永遠(の錯覚)を感じることが「クロノスタシス」であるとも言えよう。

 

 そしてこの曲のおもしろさは、恋愛の一場面を描写するために「クロノスタシス」というモチーフを用いているところにある。恋人同士の心地よい夜の散歩。語り手である彼女は、この幸福がずっと続くかのように一瞬感じた。しかし彼女はまさしくその瞬間に、相手に「クロノスタシス」って知ってる?と問うのである。ということはつまり、彼女は気づいていたのだ。永遠にも感じられる今この瞬間の幸福が錯覚であり、すぐに移ろってしまうものであることを。

 

 さて、この曲に私が興味を惹かれたのは、ちょうどその頃、写真家・野村佐紀子が碧南市藤井達吉現代美術館で開催した個展(「野村佐紀子写真展“GO WEST”」)に合わせたレクチャーを行う機会があったからだ。野村佐紀子は長年、荒木経惟のアシスタントをつとめた写真家であり、人物ポートレートや男性ヌードを得意としている。また、荒木の作風を受け継いでか、野村の写真の多くには、生と死を見つめる独自の視線が感じられる。例えば野村は写真家としてのキャリアの当初から、後に亡くなった男性モデルを撮り続けており、その出会いと別れが自らを作家として成長させたという。生の裏側に常に存している死。生を描くことは死を描くことでもある。ごく当たり前のこうした事実を私たちは忘れがちであるが、野村の写真を見ていると自然とそうしたことが思い起こされる。

 

 野村の個展が開かれた碧南の美術館は、ちょうど清沢満之の自坊である西方寺の目の前に位置している。それを機縁として、今回の展示で野村は清沢満之に関連するいくつかの新作を撮り下ろした。当時は不治の病であった結核を患っていた清沢満之は、文字通り血を吐きながら自身の信仰についての思索を続けた宗教哲学者である。その意味で、写真家としての野村の作風と、モチーフとしての清沢満之の相性は良いように私は感じた。展覧会で私は野村の作品を数多く見たが、直接清沢に関係する写真以外でも、深いところで何か通底するテーマを十分に感じさせるものだった。

 

 野村の個展に合わせたレクチャーでは、私は清沢満之について話すように依頼されていた。しかし写真の門外漢である私が何を話せばよいのか。レクチャーの1週間程前、ちょうどそのことを考えている頃に、たまたま私はきのこ帝国の「クロノスタシス」を聞いたのだった。何となくこの曲が頭から離れず、そしてどこか野村展のレクチャーで自分が話すべきことと関係があるような気がしていた。考えはまとまらなかったが、配布資料に歌詞の一部を引用して持参した。

 

 そして当日。私は来場した一般の方に向けたレクチャーで、主に清沢満之の生涯と思想、信仰を紹介した。数多くの挫折に見舞われながら、清沢満之がいかにして他力信仰を獲得するための思索を行ったのか。そして失意の底にあったはずの死の直前に、いかにして清沢は「「現世に於ける最大幸福」を感じる」と語りうるほどの境地へと至ったのか。そうしたことがレクチャーの主題となった。

 

 一通り話し終わった後、私は最後に「クロノスタシス」について言及した。この上なく幸福な瞬間に、しかしその幸福が実は錯覚であることに気づいていることを歌った曲として。そしてそれは逆の意味で、清沢満之の信仰にも似ているような気がするとも。私が考えていたことが参加者の方々に十分伝わったかはわからないし、私自身も完全には言語化できていなかったように思う。しかし私の話を受けてキュレーターの方が、写真という芸術の特徴は一瞬を永遠に切り取ることであって、それはクロノスタシスに似ているところがある、と補足してくださった。一瞬と永遠、絶望と幸福、あるいは生と死。その反転は際どく、ある意味では錯覚のようなものなのかもしれない。しかし少なくとも清沢満之は、不幸のどん底で現世の最大幸福を感じるという信仰の逆説が、本当に自分の身の上に生じていると確信していたのだ。そして今になって思えば、野村の写真から私が感じたのも、生の一瞬を切り取ることによって、そこに死の永遠を刻みつけるといった、写真の逆説的な営みそのものだったのかもしれない。この逆説、反転がいかなるものであり、いかにして実現されるのかということ。野村展を通して私の心を捉えていたのは、おそらくこのことだったように思う。そしてそれは、どこかクロノスタシスに似ているのかもしれない。

 

 

 ――そして現在。あのレクチャーからわずか数ヶ月の後、私たちの生活は一変してしまった。ついさっきまで健康だった人が亡くなることもあれば、安全だと思っていたことの多くが危険なものにもなった。その反転はあまりにもたやすかった。生と死は紙一重、あるいは一体であるということが、日々、現実的に突きつけられている。私たちは平穏な日常が永遠に続くものだと思いこんでいたが、しかしそれこそが錯覚だったのだ。

 とはいえ、私たちの生活が根本的に儚く移ろいやすいものであるということは、仏教が昔から説いてきたことでもある。そしてその上で、なにか確かで、永遠に続くようなものがあるとすれば、それはこの儚く移ろいやすい生活のただ中においてのみ、現れ出るに違いない。あるいはほんの一瞬、錯覚のように。

(はせがわ たくや・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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『教行信証』をめぐるメモ

アンジャリWeb版2020年6月15日更新分

比較文学、映画研究家

四方田 犬彦

(YOMOTA Inuhiko)

*『教行信証』を信仰と教義の書物としてでもなく、メディア学、書物の社会学の視座に立って読むことは可能だろうか。この大部のテクストにおける先行する経典からの引用のあり方について、考えてみなければならない。

 こういうといかにも難しく聞こえるが、次のようなことを考えてみるのはどうだろう。

 親鸞がこの大著を執筆するにあたって、どのような書物(経典)を読んだか。その書物をどこから入手したか。コピー機もスキャン装置もなく、未知の貴重書の内容を知るには、筆写しか方法がなかった13世紀に、彼は苦心して夥しい数の経典を手に入れ、それを一冊一冊吟味し比較検討して思考に思考を重ねたあげく、ついに『大般涅槃経』に到達した。

 当時、書物はどのような形で流通していた(あるいはしていなかった)のか。 親鸞が『教行信証』をみだりに弟子たちに閲覧させず、代わりに高齢にいたって聖覚の『唯信鈔』をいくたびも筆写し、弟子たちに与えていたという事実は、いったい何を意味しているのだろうか。こうした観点から『教行信証』の執筆の意図とスタイルを考えてみる。

 

*『教行信証』にもっとも近いスタイルの書物は、私見ではマルクスの『経済学・哲学草稿』である。

 マルクスの草稿は前半、国民経済学派や青年ヘーゲル学派の著作からの、いつ尽きるとも知れぬ引用の羅列である。だが、やがてその合間を縫って、批判的思弁がゆっくりと立ち上がり、最初は恣意的であるかのように思えた他者の言葉の羅列が、ある時点から急速に文脈を明確にして収斂してゆく。ところがマルクスは最終部分に到って、貨幣と労働をめぐる諸説の批判から突然に離れ、抒情的でユートピア的な文体のもとに、愛と信頼について個人的な確信を語り、急ぎ足で語り草稿を閉じてしまう。

 夥しい引用の連鎖の果てに浮かび上がってくる思考。結末部においてふいに出現する転調。そこで語られることになる、あまりに個人的な挿話。若きマルクスが遺したこの草稿のあり方は、「化身土巻」の巻末に辿り着いた親鸞が、突然に師法然との日々を回想し、みずからの信仰の遍歴を簡潔な文章のもとに語り出すに到ったことに似ている。この部分の文学としての美しさをまず見つめなければならない。

 

*書物は独自に自立したものではなく、無限に存在する書物と書物の間隙に成立し、その網状組織の一結節点にすぎない。現在のテクスト理論は、これまで古典的に認められてきた〈作者〉の全能性、つまり書物の起源である〈作者〉の特権的な権能を絶対視することから距離を置き、あらゆる書物は程度の差こそあれ、他者の言葉、他者の書物の引用の収蔵庫であるという立場をとろうとしている。こうした書物観の変遷のなかで、『教行信証』を『経哲草稿』のかたわらに置き、巨大な引用の織物として認識することは可能だろうか?

 

*すべての真理は『大無量寿経』という絶対の公準から導き出されたものであると認識する以上、親鸞は自分の著作に独創性を求めることを慎んだ。

 親鸞が、自分の著作にはいささかも独創的なものはなく、すべては師法然から教えらえたことの受け売りであるとさりげなく語るとき、そこで問題となっているのは何か。二人のテクストの間に横たわる類似(隠喩や例証において)と差異を、教義の次元で抽象的に論じるのではなく、書物どうしの関係として捉え直すことは可能だろうか。西洋哲学は思考と教説における独創性をつねに重視してきた。親鸞がそうした観念を迷妄として退け、代わりに過去の先達への帰依を語るとき、何が問題とされているのだろうか。

 

*『教行信証』「教巻」は「それ真実の教をあらはさば、すなわち大無量寿経これなり」と宣言し、『大無量寿経』を究極の参照項としている(途中でそれは『大般涅槃経』へと転換される)。ではその他に参照言及されているあまたの経典とその注釈書は、どのような位階秩序のもとにあるのか。

 『大無量寿経』は後漢朝から宋朝まで、千年の間に、12回にわたって漢訳がなされている。『無量清浄平等覚経』はそのもっとも古いものの一つであり、『無量寿如来会』は唐代の翻訳である。『教行信証』には『大無量寿経』と別にこうした書物からの引用がなされているが、著者はそれらが同一の書物であることをはたして認識していたのか。それとも阿弥陀仏の教えはいかなる書物にあっても同一であると信じ、別々の書物と見なしてそれぞれから引用を行なったのか。

 『教行信証』ではしばしば異なった書名のもとに、ほとんど同一の内容の引用が連続してなされていることがある。どうしてそのような事態が生じるのか。 そこには流謫(るたく)の地にあってせっかく貴重な経典を入手した以上、とりあえず抜き書きをしておきたいという心理が働いていたのだろうか。『教行信証』という書物の特異な性格を理解するためには、こうした細部の事情を考慮しなければならない。

 

*「化身土巻」に次のような一節がある。

 

諸仏の言行あひ違失したまはず。たとひ釈迦さして一切の凡夫をすゝめて、この一身をつくして専念専修して、いのちをすてゝのちさだめてかの国に生ずといふは、すなはち十方の諸仏ことごとくみなおなじくほめ、おなじくすゝめ、おなじく証したまふ。なにをもてのゆへに、同体大悲のゆへに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。

 

 仏はガンジス河の砂の数ほどに存在しているが、どの仏でもよい、一人の仏の言動は、他のすべての仏のそれと同じである。もしそうであるならば、経典においても同様のことがいえるだろうか。親鸞において仏と経典は、互いに齟齬をきたすことなく、個別性・独創性をはるかに超越したものである。ある経典と、別の題名をもつ別の経典が、同じ内容であったとしても、それはいささかも異にするに当たらない。『大無量寿経』が異なった漢訳の下に、異なった経典と見なされて引用されたとしても、それが同一の内容をもっていることは不思議でも何でもなく、仏の真理がつねに不変であることの証左として了解される。

 

*『教行信証』は万巻の経典を渉猟したという印象を与えるが、そこで言及されている仏典には一定の系列が存在している。『華厳経』はあっても『法華経』はない。日本ではもっともポピュラーであった『般若心経』は、まったく無視されている。「それ真実の教をあらはさば、すなわち大無量寿経これなり」という基準の設定ゆえに、そうした経典は自動的に排除されたと見るべきなのか。はたして親鸞はそれらに目を通したことがあったのか。

 

*「化身土巻」に、次のような一節がある。

 

それ仏陀といふは、漢には大覚といふ。菩提といふは、漢には大道といふ。涅槃といふは、漢には無為といふ。しかるに吾子ひめもすに菩提の地をふんで大道をしらず、すなわち菩提の異号なり。かたちを大覚のさかひにうけていまだ大覚をならはず、すなわち仏陀の訳名なり。

 

 サンスクリット語で記された仏典は、千年の間、さまざまな形で漢訳された。船山徹『仏典はどう漢訳されたか』(岩波書店、2013年)を読むと、鳩摩羅什から玄奘三蔵まで、数多くの知識人仏僧がそれぞれの翻訳観に応じて翻訳語を考案し、経典を翻訳してきた。「仏陀」と「大覚」が同一のものであるという親鸞の認識は、どの程度にまで一般的であったのか。そのいずれかを採り、他を退けるという教説が存在したことはあったのか。またこのような差異が生じてしまったという事実を、親鸞はどのように考えていたのか。

 『教行信証』の本質に近づくために、親鸞の翻訳観を探究してみなければならない。

(よもた いぬひこ・比較文学、映画研究家)
著書に『親鸞への接近』(工作舎)、『聖者のレッスン』(河出書房新社)など。

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親鸞仏教センター研究員

東  真行

(AZUMA Shingyo)

 もはや怒りのあまり、言葉を失うほかない現状である。これまで日本に巣食ってきた差別や憎悪がいよいよ溢れかえっている。

 4月末、岐阜県である男性が少年たちに殺された。被害者の方は空き缶を収集して生業としながら、図書館に通い仏教を学んでいたという。それはいかなる仏教であったのだろう。

 5月初頭、横浜のとある公園の砂場にカッターナイフの刃がばらまかれていた。あるいは、宇都宮のコロナウイルス感染症の軽症者を受けいれたホテルで小火が発生し、警察は放火の可能性もあるとして調査している。

 私は新たな言葉を求め、マーティン・ルーサー・キング『黒人はなぜ待てないか』(中島和子・古川博巳共訳、みすず書房、1993年)のなかでも特に「バーミンガムの獄中から答える」を、この災禍のなかで読みかえしてきた。

 この数日のあいだに、ミネアポリスで起きた差別と暴力への抗議行動が大きなうねりとなった。日本においてもクルド人への暴行があり、警察への抗議がなされている。キング牧師の言葉がますます重みを増しているように感じる。

 1963年4月、抗議行動を咎められたキング牧師は、バーミンガム市刑務所に拘留された。これを受けて複数の牧師たちが、かれの抗議は「愚かで時をわきまえない」ものだと非難する声明を出した。キング牧師は、その声明に応答するために「バーミンガムの獄中から答える」を執筆したのである。

 

問題は、われわれが過激主義者かどうかではなく、どういう種類の過激主義者になるかということです。憎悪の過激主義者となるか、愛の過激主義者となるか、不正を維持するための過激主義者となるか、正義を拡張するための過激主義者となるかということです。

(前掲書、109頁)

 

 キング牧師にとって「愛の過激主義者」とは、まずもってイエスであり、預言者であり、パウロであり、ルターである。社会の過ちを問う「異端者」となることを恐れ、私たちがいかにキリストに背いてきたか――キング牧師の歎きは自身に向かうほど深い。そんなキング牧師を非難した人々のなかに先述のとおり、他ならぬ牧師たちもいたのである。

 これには既視感を覚えた。木越康『ボランティアは親鸞の教えに反するのか』(法藏館、2016年)には、被災地へボランティアにおもむく真宗者に対して、同門の者から「待った」がかけられたという証言がある。宗教者が身を動かされるとき、それを止めるブレーキが同じ信仰者であるとはいかにも皮肉だ。いつまでこんなことを繰り返すのだろうか。

 たとえ声をあげずとも、いかなる行動にも当然、それ相応の責任が伴う。むしろ、声をあげることに億劫になるのは十分ありえることだ。というのは、批判の声をあげると、その批判を「批判」してくる言説と衝突することがままあるためである。

 現状への批判に対する「批判」を、ここでは『批判「批判」』と仮称しておく。確かに批判的言説の内実を点検すること自体は否定すべきではないのだろう。しかし、『批判「批判」』は多くの場合、問題となっている根源については不問としたまま、現状を批判する言説に対して封殺の機能を果たすばかりである。今回の災禍のなかでも声をあげる人々への安易な非難が多く見られたが、現状を肯定できない以上、ひとは声をあげるほかない。

 ところで、このコロナ禍のなかで最もつよく私の胸を打ったのは「ああ、もう滅びそうであった」という仏弟子の言葉であった。

 阿含経(中部経典)に記された出来事である。ジャーヌッソーニというブラーフマナ(婆羅門)が遊行者ピローティカに釈尊を信ずる根拠を問う。「いかなる根拠を見て、沙門ゴータマにこのような澄みきった心(信)をいだいているのですか」と。ピローティカは、自分には釈尊を讃えるほどの智慧がなく答えられないと前置きしたうえで、沙門ゴータマを仏陀釈尊として仰ぐことができるのは「足跡を見たからだ」と説く。

 たとえば、ある町のクシャトリヤの賢者たちが釈尊の智慧を試そうと待ち構えていた。釈尊はその町に来て、法を説いた。クシャトリヤたちは質問するまでもなく納得し、仏弟子となったという。

 釈尊がある町に遊行するとしよう。その町にいるブラーフマナや在俗の賢者、または沙門たちが釈尊の来訪にそなえており、難詰して打ち負かそうとする。しかし、ことごとく釈尊が説く法に納得してしまう。こういった出来事をピローティカは「如来の足跡」として拝し、みずからが釈尊を信仰する根拠であるとジャーヌッソーニに語る。

 クシャトリヤ、ブラーフマナ、在俗の賢者、沙門たち。このように対象を変えながら同様の物語が4度にわたり説かれるなかで、少しずつ文言は異なってくる。在俗の賢者たち、または沙門たちについては、仏弟子となった後、このように述べられている。

 

さて彼らは、出家してから一人遠く離れて、不放逸に、熱心に、決意して住し、久しからずして、良家の子らが正しくもそのために家を捨て家なき出家者となるその無上の目的である梵行(仏道)の完成を、この現世において自ら知り、直証し、達成して住することになりました。そして彼らはこのように言ったのです。「ああ、わたしたちはもう滅びそうであった。ああ、わたしたちはもう破滅寸前であった。というのも、かつてわたしたちは、沙門でもないのに沙門だと自ら称し、ブラーフマナでもないのにブラーフマナだと自ら称し、阿羅漢でもないのに阿羅漢だと自ら称していたのだから。だがいまやわたしたちは沙門となり、ブラーフマナとなり、阿羅漢となったのだ」と。

(『改訂 大乗の仏道――仏教概要―― 資料編』、東本願寺出版、2019年、137頁、138~139頁)

 

 求道の果てに到って、ようやく「ああ、わたしたちはもう滅びそうであった。ああ、わたしたちはもう破滅寸前であった」と語り得るとは驚きである。そして、このように告白する者が同時に「だがいまやわたしたちは沙門となり、ブラーフマナとなり、阿羅漢となったのだ」と言葉を続けているのだから、まったく不思議である。

 阿羅漢となるほどに真実を求める者が「破滅寸前」であったとすれば、釈尊に凡夫と説示される真宗者は間違いなく、すでに滅びの真っ只中にいることになる。そんな凡夫が、眼前の現実に声をあげる人々に向かって、その苦悩に思いを致すこともなく『批判「批判」』を展開するとすれば、まったくいかなる真実を求めているのかと思わざるを得ない。

 凡夫は聖者ではない。しかし、聖者と等しく、拙いながらに仏道を求める者でもある。たとえ、その道が聖者のようにまっすぐでなく、ガタガタのオフロードだとしても、せめて真実を求める叫びに対してブレーキとなるべきではない。

 この状況下で民主主義の遂行を希求して声をあげておられる方々、差別や憎悪に抗議しておられる方々に心よりの連帯を。私自身も、倦むことなく声をあげていきたい。

(あずま しんぎょう・親鸞仏教センター研究員)

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反出生主義をめぐる混乱

アンジャリWeb版2020年6月15日更新分

京都大学大学院人間・環境学研究科准教授

青山 拓央

(AOYAMA Takuo)

 近年話題になっている「反出生主義」によれば、私たちは新たな人間を生み出すべきではありません。この主張には人々をぎょっとさせるところがありますが、その論脈を見ていくと、けっして挑発的なだけの主張ではないことが分かります。

 

 反出生主義もさまざまですが、論じられる機会の増えている、狭義の反出生主義に目を向けましょう。このとき、話のベースとなるのは、生まれてくる人間への考慮です。妊娠・出産・養育によって親が強いられる負担への考慮や、新たな人間の出生が社会・環境に何をもたらすかへの考慮は、いったん話の外においてください。それらが重要でないからではなく、狭義の反出生主義の主張を誤解しないようにするためにです。

 

 反出生主義をめぐっては、感情的な対立がよく見られます。生まれてくる人間への考慮が話のベースになっているか否か――、この点についてのすれ違いは、その要因の際たるものです。しかし、この点についての理解を共有している人々のあいだでも、ある三つの論脈が混同されることによって、無用な対立が生じることがあります。このエッセイでは、その混同がどういったものかを見ていきましょう。

 

 下の表における①、②、③の矢印は、異なる三つの論脈に対応しています。このうち、①と③は狭義の反出生主義にじかに関わる論脈であり、②はそうではないものの、①や③とまぜこぜに語られることのある論脈です。

 この分割表の上段は、新たな人間が生まれてくること(存在するようになること)の福利的な悪に関係しています。「福利的な悪」と言われているのは、生まれてくる当人にとっての、苦痛・苦悩に代表される害悪です。倫理的な悪ではなく、当人が苦しみながら生きていくことの悪が扱われている点に注意してください。ここでは、いま述べた意味での悪について、すべての(あるいは、ほとんどすべての)出生は悪であるという主張を「B」と記し、一部の出生は悪であるという主張を「W」と記しています。(Wと関連のあるロングフルライフの議論については、このエッセイでは割愛します。)

 

 他方、生み出すことの倫理的な悪は表の下段で扱われており、すべての(あるいは、ほとんどすべての)出生について生み出すことは倫理的に悪であるという主張は「A」、一部の出生について生み出すことは倫理的に悪であるという主張は「E」と記されています。反出生主義にもいろいろありますが、Aはその代表的な提言と言ってよいでしょう。

 

 反出生主義の擁護者としてはデイヴィッド・ベネターが有名ですが、彼のさまざまな議論のなかでとくによく知られているのは「非対称性に基づく議論」です。その議論では、上の表とは異なるある分割表を用いてBが導かれます(ただし、「非対称性に基づく議論」だけがBを導く議論だというわけではありません)。ここで、〈他者にとっての福利的な悪をひき起こす行為は倫理的に悪である〉という原則を「P」と呼ぶことにすると、Bと原則Pの結合からAを導けることが分かります。すなわち、①の論脈が形成されることになるわけです。(紙幅の関係上、「非対称性に基づく議論」の内容についても割愛しますが、このエッセイの主旨には影響ありません。)

 

 では次に、②の論脈を見ていくことにしましょう。その出発点となるWの説得性は、どれほどの人々がどれだけの苦しみに満ちた人生を送っているのかという、人間集団についての統計的な事実にかなりの程度依拠しています。苦しみの客観的な計測は困難ですが、それでも、現実の社会を見たとき、Wは相当な説得力をもっていると言わざるをえません。たとえば、小説『夏物語』(川上未映子、文藝春秋)では、登場人物の一人がこんなふうに語ります。「生まれてすぐに[…]痛みだけを感じながら死んでいく子どもたちがいるでしょう。自分のいる世界がどんなところなのかを見ることもできずに、自分が何なのかを理解する言葉ももたずに、ただいきなり存在させられて、痛みだけを感じるかたまりとして存在させられて、そして死んでいく子どもたちが[…]」(436頁)。

 

 Wにおいて、「一部の出生」の「一部」とはいったいどの範囲を指すのかはセンシティブな話題です。とりわけ、Wが原則Pと結合してEを導いた場合、優生学的な諸問題(出生前診断による妊娠中絶の是非など)をひき起こします。ただし、このようにして形成された②の論脈が、いま現にその「一部」として生きている人々の命を軽んじるものではないことは、②への賛否とは独立に、理解しておくべきところです。(②だけでなく①と③においても、「出生すべきでない」という主張は「生き続けるべきでない」という主張を含みません。)

 

 さて、①と②だけを見るなら、両者は出発点も到着点も異なり、それらが混同されることは少ないのではないかと思われるかもしれません。しかし、WからAに至る③の論脈が、①に近い観点からも②に近い観点からも提示されてきたことによって――他にも要因はあるでしょうがこのことを大きな要因の一つとして――①、②、③の論脈は混同され、感情的な対立を促進してきたと私は考えています。とりわけ、学問的に統制された学術誌などの場より、良くも悪くも本音の出やすいSNSなどの場において。

 それでは、③の論脈の代表的な例を見ておきましょう。前提としてWが真であるとき、これから子どもをもうけようとする人物は一種の賭けを行なうことになります。自分が子どもを作り出すことが、Wにおける「一部の出生」に当てはまらないことを目的とした賭けを、です。どんな子どもが生まれてくるかは、生まれてくるまで(あるいは育ててみるまで)詳しくは分からず、それゆえ、これから子どもを生み出すことは、つねに、苦しみに満ちた人生を送る他者を存在させてしまう危険性をもちます。結果的にそうした他者を存在させてしまうケースは一部であっても、すべての出生において生み出すことには、他者の人生を原資とした賭けの側面があるのです。

 

 このような賭けを行なうことが倫理的に悪であるとすれば、WはAを導くことになります。出発点は「一部の出生」についてのものであっても、到着点は「すべての出生」についてのものである――、そうした論脈が③なのです。そして③の結論は、その結論の内容だけを見るなら①の結論と変わりありません。ですから、「われわれは、つねに出生すべきでない」とだれかが言ったとしても、それだけでは、①を主張しているのか、③を主張しているのか、あるいは他の主張をしているのかは分からず、応答をするにも限界があります。

 

 以上、できるだけ簡潔に三つの論脈を整理してみました。真に悩ましい問題は、この整理のあとでようやく提示できるのですが、まずは、ここまで述べてきたことを多くの方に知って頂いて、わずかながらでも混乱が避けられることを期待します。なお、私の考える「真に悩ましい問題」と、それへの私の見解については、またの機会に改めて提示することをお約束します。(現在、親鸞仏教センターにて反出生主義のシンポジウムのご企画が進められていますが、そちらに私が登壇した際にこのエッセイの続きをお話しする――いずれ活字として出版もする――予定です。)  

(あおやま たくお・京都大学大学院人間・環境学研究科准教授)
著書に『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』(太田出版)、『心にとって時間とは何か』(講談社現代新書)、『分析哲学講義』(ちくま新書)など。

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インターネットの時代と仏教①

アンジャリWeb版2020年6月15日更新分

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 最近の新型コロナウイルスの蔓延は、人類への攻撃であるとされている。しかもそれが目に見えない敵からの攻撃のような脅威だから厄介である。近年多発している自然災害も、被災地で平穏に数十年の月日を送った老人が自分の生涯に経験したことのないものだ、と発言している。それにもまして、今回のウイルスの猛威は、近代に入って人間が営々と作り上げてきた政治経済等の様々な約束事や構造を木っ端微塵にしたといえよう。

 

 最近顕著に起こっている自然災害は、人間が自分たちの欲望に任せてグローバルの規模で、エネルギーの多消費や森林の砂漠化を進めてきたことに起因するものだと論じられている。しかし、今回の新型コロナウイルスは、一体何に起因すると言えるのであろうか。

 考えてみれば、ウイルスは地球に生命が誕生したことに平行して発生したのではないか。というより、もしかしたら生命の起源に関わって、それより以前から活動を始めたものだったのかもしれない。もしそうであるなら人間の歴史は、ウイルスの歴史に比すれば時間的にはずっと短いのではなかろうか。そして記録に残るかぎりの人間の歴史においても、たびたびウイルスの猛襲にあって、そのたびに人間はさんざんな被害に遭ってきたとも伝えられている。

 

 日本の歴史ではどうか。といっても、この一千年ほどのことではあるが、そのなかでも何回かの疫病の流行によって、人々の生活が破壊・分断される悲劇が伝えられている。親鸞聖人の時代にも、疫病や冷害、あるいは地震・洪水・干ばつなど、人間の生活を脅かすもろもろの災害が多発していたらしい。その災厄に対して、俗に言う神頼みの宗教であれば、人間を超えたいわゆる「神様」にその災厄を除くことを祈ったのであろう。しかし、そういう除災招福の祈りを頼もうとする凡夫の弱いこころを、おそらくはじっと見据えつつ、そのなかを大悲としての阿弥陀の本願に帰依した親鸞は、善悪共に大悲に托して、如来の摂取の心光に摂護されて生き抜かれたのであろうと拝察する。

 

 時代状況が大きく変化している現代にあっては、この見えざる病原に、「新型コロナウイルス」という名が与えられている。その名のとおり、皆既日食時には肉眼でも見える太陽コロナに比せられる形まで突き止められてはいるものの、人間にとってはいまだ出会ったことのなかった新型ウイルスであるために、人間の耐性能力や免疫力が未経験であり、そのためにこの新型ウイルスによる災難が、全世界に拡散し、感染者はすでに5月半ば現在で460万人を越え、連日のように死者が増大し、30万人以上になっていることは、まことに痛ましいことである。少しでも早い医薬品の開発が待たれることである。

 このコロナウイルスの被害が中国で報じられ始めたのは、昨年の暮れであったらしいが、日本にこのウイルスに感染した患者が出たのは、今年(2020年)の1月中旬だったようである。その頃、我々一般市民はあまり反応をせず、筆者などもインフルエンザの一種だろうと思っていた。それが、人類にとっては未経験の新型ウイルスであると報じられ、学校が封鎖され、外出自粛要請へと進められ、日を追うにつれ新型ウイルスの猛威が知らされてきたのである。多くの方々は、日常の仕事や予定やらが延期されたり、キャンセルされたりして、その対処に困惑されていることであろう。小生もその例外ではない。2020年夏に東京で挙行されるはずだった二度目のオリンピックすらも、2021年に延期されることになったのであるから、その桁外れの影響力の前には、ただひたすらこの台風のごとき威力が通り過ぎるのを待つのみなのである。

 

 しかし、この暴力を避けるような避難生活のなかに、実は人間がこの地球上に生存してきたことが、決してこのようなことが無い状態を生き延びてきたのではなく、いつでもこういうたぐいの災難と向き合いつつそれを乗り越えてきたのであり、そして今回のウイルスが新型であるということは、これに対応できる免疫力が人間につくことで、やっとこの新型コロナを畏れる必要がなくなるということなのであろう、と気づかされた。その時が来るまでは、感染症専門の研究者や担当されている病院の医者の先生方がお示しになっているように、いわゆる「三密」を避け他人との接触をできるだけ避けて生活することが賢明なのだと思う。

(ほんだ ひろゆき・親鸞仏教センター所長)

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明治学院大学社会学部教授

加藤 秀一

(KATO Shuichi)

 感染症であれ戦争であれ、災厄がひとたび起こってしまったなら、われわれがとるべき次善の方策は、できるかぎり犠牲者の数を少なく抑え、なるべく早くそれを終わらせることである。この単純な指針はごく常識的で、容易に実行可能であるように見えるかもしれない。だが必ずしもそうではない。なぜならそこには、人間を「数字」として扱うことをめぐるディレンマが潜んでいるからである。

 

 かりそめにも近代人として、程度の差はあれ「個」という概念に特別な価値を見出すわれわれは、人間を「数字」として扱うことに対する嫌悪感をもつことがある。リルケは『マルテの手記』の冒頭近くの一節で、20世紀初頭の大病院における均質化された死のありさまを嘆き、次のように言う。「工場のような有り様だ。このように大量の死が生産される場所では、個々の死はそれほどうまく仕上がらない。(……)まだいくらかは独自の死というものが存在するかもしれないが、やがては独自の生と同じくらい、独自の死も珍しくなるだろう」(松永美穂訳)。それ以降、「独自の死」は増長するシステムによってますます簒奪され、オーダーメイドの死が、それゆえ生が、よりいっそう強いられるようになった。その息苦しさに抗うように、真島昌利が「俺は俺の死を死にたい」(THE BLUE HEARTS『STICK OUT』)と叫んだのは、リルケと同じ世紀の終わりがいよいよ迫りくる頃だった。

 

 今われわれを覆い尽くす感染症の猛威を前にして、感染症学者たちはさまざまな統計指標を縦横無尽に使いこなし、犠牲者の数を少しでも抑えようと奮闘している。その様子を遠巻きに眺めながら、「人間を単なる数字としてしか見ていない」といった非難の常套句を投げつける人たちもいるが、的外れと言うほかない。ただひたすら多数の人間の肉体に侵入することだけを活動原理とする病原体が敵である以上、それを迎え撃つわれわれもまた、相手のロジックに即して集団に定位する戦略を練らざるをえないからだ。そのように、生身の人間の独自性をいったんは捨象して「数字」に置き換えることが、むしろ「かけがえのない個」を守るためにこそ不可欠であるという逆説を、われわれは理解する必要がある。

 

 だが、こうしたことを十分に受け入れた上でもなお、人間を単なる「数字」とみなすことに対する反感は容易に消え去りはしない(少なくとも私においてはそうだ)。それはなぜだろうか。その問いに答えるには、そもそも「かけがえのない個」とはどういうことなのかをさらに深く問う必要があるだろう。

 

 「かけがえのない個」としての人間という概念は、素朴なかたちではおよそすべての人類社会に見出されるものにちがいないけれども、それを切迫した思想的課題として言語化してきたのは紛れもなく西洋の文化的伝統である。それは古代ギリシア語の「ヒュポスタシス」に淵源し、ラテン語の「ペルソナ」へと受け継がれ、キリスト教神学と中世スコラ哲学における命がけの論争を通じて鍛え上げられた果てに、近代人権思想の基盤をかたちづくるに至ったのである。その滔々たる流れに決定的な画期をなしたのは、12世紀のキリスト教神学者リカルドゥスが「ペルソナ」概念に与えた「神の本性の共通化不可能な存在(インコムニカビリス・エグジステンツィア)」という定義であった(以上の帰趨については、坂口ふみ『〈個〉の誕生』、八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ』等を参照のこと)。ここではキリスト教に固有の「神」概念は括弧にくくり、「共通化(共有)不可能」という部分だけに注目しよう。それが指し示すのは、一人の個人が同時に他の個人であることはできないという、ある意味ではあまりにもありふれた事実である。たとえば、マララ・ユスフザイとグレタ・トゥーンベリは人間であるとか女性であるとかいった無数の普遍的性質を共有しているが、しかしそれぞれの個としての存在(実存)は決して共有されえない。そうでないなら、相異なる二つの名前など必要ないだろう。ある人物(ペルソナ)は、何らかの性質をもっているがゆえにその人物であるわけではない。その人物が、いったんこの世界の中に「個」として生まれたなら、それより後にいかなる性質を獲得し、また失おうとも、他の人々とは「共通化不可能」な存在でありつづけるのである。このように「ペルソナ」とは、なにゆえにそれが「個」であるかという条件を説明することのできない、ただ端的にそれとして指し示すしかない、そうした存在を肯定する概念なのである。

 

 私は、あなたは、他と「共通化不可能」な、言い換えるなら置き換え不可能な、唯一の「個」である。繰り返すならば、それはただそれだけのことにすぎない。だが、ただそれだけのことが今もなお、われわれの倫理を導く限界的な認識でありつづけていることの意味は決して小さくないだろう。人間を「数字」とみなすことにわれわれが感じる禍々しさの源泉もおそらくそこにある。ちょっと面白いのは、こうした意味での「個」のあり方を哲学用語では「数的同一性」と呼び、なんらかの属性によって対象の特質を表す「質的同一性」と対比することだ。人間を「数字」とみなすことへの反感の根底に「数的」と呼ばれる概念があることになる。これはパラドキシカルに思えるが、さしあたり次のように考えておきたい。数的同一性の概念に含まれる「数える」という所作は、1人、2人、3人……という加算的な数え方ではなく、各々の個人を、ここに1人、あそこにも1人……というように、それぞれを「1」として数えることを意味しているのである。この場合、複数の人間たちに同じ「1」という記号が充てられてはいるが、その数え方は集団思考を形成せず、むしろそれぞれの存在の一回性・唯一性を、すなわち置き換え不可能性を示す所作なのだ。

 

 さて、この地点から、人間を数字として扱うことへの違和感という冒頭の問題を見なおしてみよう。どうやら真のポイントは、個の独自性と集団(類、社会……)の普遍性とのあいだというよりも、むしろ個と個のあいだにあるのではないか。すなわち、置き換えることができないはずの個をあっさりと他の個に置き換えてしまう集団思考の危うさを感じつつ、だがそれにもかかわらず集団思考に身をゆだねざるを得ないという合理的判断も理解する、そうしたディレンマに、われわれは苛立ちを感じるのではないだろうか。

 

 より多くの人を助け、より少ない人を殺す第一の政策と、より少ない人を助け、より多くの人を殺す第二の政策があるとき、われわれは前者をよりマシな政策として選ばざるを得ないし、それは公正であるように思われる。というよりも、それ以外にはやりようがないのだ――「個人の運命など存在せず、ただペストという集団的な出来事」だけがあると、カミュ『ペスト』の主人公である医師リウーが記すような事態に直面させられたときには。それはまた、おそらく作者であるカミュ本人の思いそのものでもあっただろう。『ペスト』発表直後の講演には次のような発言がある。「われわれはおそらく、この世界が子供たちの苦しめられる世界であることを妨げることはできません。しかし、われわれは、苦しめられる子供の数を減らすことはできます」(森本和夫訳「無信仰者とキリスト教徒」)。紛れもなく、それがわれわれになしうる最善のことである。

 

 しかし、複数の対策によって救われる、あるいは殺される人々の人数ではなく、誰が救われ誰が殺されるのかという事実の水準に目をとめるなら、われわれは立ちすくまざるをえないだろう。第一の政策はAさんを救いBさんを殺す。第二の政策はAさんを殺しBさんを救う。このことが仮定されるなら、われわれは二つの「かけがえのない個」のどちらの生命を選ぶかという問いを突きつけられることになる。

 

 たとえば、感染症を野放しにすれば多くの死者が出る。それを防ぐために、いわゆるソーシャル・ディスタンスの維持を徹底すれば、経済的・心理的に打撃を受ける人々の中から多くの死者が出る(自殺者や、貧困ゆえに医療にアクセスできない人が増える)。どちらをとっても必ず犠牲者は出るのだから、その数をできるだけ少なくするべきだ。だが両者において具体的に誰が救われ誰が死ぬかが異なるなら、それは、結果としてではあれ、誰が死ぬべきかを選ぶことでもある。医師リウーがペストに襲われる子どもの数を減らそうと苦闘するとき、かれは、どの子どもが救われるかをも同時に選ばざるを得ないかもしれない。「個人の運命など存在しない」という悲劇的な言葉が意味するのはそういうことだろう。もちろんリウーには、そして誰であれ、そのような選択を避けることはできない。われわれに言えるのは、それはわれわれにとって容易ではない選択であり、容易であってはならない選択であるということだけだ。

 

 もしかしたら――希望的に言えば――現実のディレンマはそれほど赤裸々なかたちで迫ってはこないかもしれない。スタックラー&バス『経済政策で人は死ぬか?――公衆衛生学から見た不況対策』(橘明美・臼井美子訳)が説得的に論証するように、災厄によって経済的苦境を強いられる人々に対しては国家財政から手厚い補償を行うことで、人々の生活をある程度守りつつ、感染の拡大を抑制することができる(それを実現するには、何よりもまず緊縮財政という呪いを解くことが必要だが)。集団思考と「かけがえのない個」は全面的に対立するわけではないのだ。だがそれによってディレンマが雲散霧消するわけでもない。いかなる政策にどれほどの財源が投入されようとも、それが有限である以上、選択は不可避なのだから。

 

(念のためにつけ加えておけば、「かけがえのない個」を尊重するとは、必ずしも殺すか殺さないかという問題ではない。むろん殺すこと一般は「個」なる他者の存在を否定することであるにはちがいないが、それでもなお、殺すことの中にも種別があるように思われる。人は、人を、相手がまさにその人であるがゆえに殺すということがありうるのではないだろうか。それは必ずしも人間を「数字」とみなすこととイコールではないだろう。それに対して、政治暴力としての大量虐殺は、まさに人間を単なる「数字」とみなすがゆえに殺すのである。そこでは犠牲者たちが、殺す側に課せられたのその日のノルマとして、あるいは勇ましい殺戮競争の目標値として、文字通り数字に置き換えられ、殺される。)

 

 ひとたび「かけがえのない個」という概念を精神が受け入れてしまったなら、「個」と「数字」(普遍)のあいだの根本的なディレンマを解決することは不可能であるように思われる。けれども、その無理をあくまでも追究する得体の知れない熱情が、十数世紀にわたる苦闘の果てに人権という驚くべき思想を結晶化させ、少なくとも、無残な現実を無残だと批判しうる手がかりを、われわれに与えてくれたのだ。今後もそれは幾度となく踏みにじられ、嘲笑されるにちがいない。だがそれでもなお、われわれは繰り返し「かけがえのない個」を発見しつづけるだろう。人間が、一人、また一人と数えられる存在であるという、この自明極まりない事実の不可思議さに気づき、驚きつづけるだろう。

(かとう しゅういち・明治学院大学社会学部教授)
著書に『ジェンダー入門――知らないと恥ずかしい』(朝日新聞社)、『〈個〉からはじまる生命論』(NHKブックス)など。

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大仏さまと読経と鐘声――その「音」の力

アンジャリWeb版2020年6月15日更新分

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

●東大寺大仏殿のニコ動中継

 4月上旬、『中外日報』紙で「新型コロナ問題に対する韓国仏教界の対応」と題する佐藤厚博士(東洋大学井上円了研究センター客員研究員)の寄稿を拝読した。キリスト教系団体の礼拝で大規模なクラスター感染が発生した韓国では、仏教系最大の曹渓宗はいち早く各寺院に法要の自制を促すと同時に、宗派を超えた1万5000の寺院と共同で祈祷精進を行ったという。さらに韓国仏教界は、自宅で祈祷ができるように真言や発願文も完備した『薬師経』のテキストを作成したり、仏教系テレビ・ラジオチャンネルでも毎日各宗派が交代で「安心説法」を放送しているという。佐藤氏は日本では「仏教界を挙げてコロナ問題に対処しているという迫力が伝わってこないのが残念」だと述べていた。

  そんな中、「仏教界を挙げて」とは言えないかもしれないが、日本各地の寺院にも、困難の渦中にある人々に寄り添おうとする動きがある。例えば高野山の金剛峯寺では5月3日、コロナウイルス感染による物故者の追悼法会と早期終息祈願法会を営んだことが報じられた。また、全日本仏教青年会は亡くなった方たちの追悼、闘病者への励まし、医療従事者や生活維持に欠かせない業務に従事する人たち等への敬意を込めて、ゴールデンウィークに毎夕5時から梵鐘を一斉に鳴らす「祈りの鐘」を全国の寺院に呼びかけた。一方、若手の神職らの神道青年全国協議会の試みもおもしろい。自宅の神棚にお参りするときに唱えるための「新型コロナウイルス感染症早期終息祈願祝詞」をホームページから解説付きでダウンロードできるようにした。こうした種々の動きの中で、筆者が注目したのは華厳宗大本山・東大寺の試みだ。

  東大寺では諸堂の拝観停止期間中、「少しでも人々の心の支えになればとの思いから」大仏殿の盧舎那仏(大仏さま)の姿を「リモート参拝」と銘打って24時間ニコニコ動画で配信した(6月1日まで)。動画といっても大仏さまが動くわけではないから画面はほとんど変化がない。しかし深夜などには暗い大仏殿内に浮かび上がるその威容には荘厳なものを感じた。同時に4月1日からは毎日正午に僧侶らが大仏殿で読経を行なっている。「新型コロナウイルスの早期終息と罹患された方々の早期快復」および感染で「亡くなられた方々の追福菩提を祈る」ためという。そして多くの人に「様々な場でこの祈りに加わって」もらえるようにと、これも大仏殿を映すニコ動でそのまま配信したのだ。昼どきの約20分間、画面上部に表示される全国の人々からの大仏さまを眺めながらのメッセージには、昼食の献立や各地の天気といったたわいもない話題に混じって、感謝のことばや、合掌を表す「人」の文字も数多く流れていく。だが読経の様子は一部しか見えないから、静止画のような大仏さまの姿を拝みながら、音声に耳を澄ましつつ、私は音の力ということをふと考えてみた。

  大仏殿では『華厳経』の偈文の一部が読誦され、続いて「如心偈」が三度唱えられる。如心偈は『華厳経』の夜摩天宮菩薩説偈品という章に出る「唯心偈」と呼ばれる詩句の一部。「心仏及衆生 是三無差別、諸仏悉了知 一切従心転」(心と仏と衆生の三つに差別はない、この世界の一切は心が生み出すのだと諸仏はみな了知されている)」との一節で有名だ。そして如心偈が終わると最後にひとつ壇上で鐘が鳴る(梵鐘ではなく、一般に「鏧子」と呼ばれる大きなお椀状のもの)。ここでは読経の声と鐘の音について順に触れてみたい。

 

●読経の声が持つ力

 読経のはじめに唱えられる偈文は長大な『華厳経』中のどこを読んでいるのか、しっかり聞き取って確認すればわかるのだろうが、恥ずかしながらスピードの早いその読誦は私には聞き取れない。漫然と聞いている限りは多少の節がついた美しい男声の低音だという以外、漢文の音読だから特に一般の人には意味はまるでわからないだろう。如心偈になると多少馴染みのある人もいるだろうが、やはり多くの人には同じことだ。最近は葬儀などで意味もわからない漢文のお経を唱えてもらってもありがたくないという声も多い一方で、意味がわからずとも唱えてもらうこと自体がありがたいとの見方もある。そんなことを思いつつ、華厳宗第三祖とされる中国唐代の僧・法蔵(643−712年)が著した『華厳経伝記』の逸話が頭に浮かんだ。

  これは『華厳経』信仰の興隆に努めた僧らの伝記や、『華厳経』にまつわる僧俗の霊験譚などを集めたものだ。その中で王何某という生前ろくに善業も積まなかったために地獄に落ちた男性の話がある。王氏が獄卒に引かれて地獄の門前にやって来ると、そこには地蔵菩薩がいて、王氏に短い経文を教え込む。そして何か功徳は積んでないのかと閻羅王(閻魔大王)に問われた王氏がそれを唱えると、途端に無罪放免となって蘇生。本人だけでなく、周囲で王氏の声を聞いた大勢の地獄の衆生らが救われたという。実は地蔵菩薩が教えた経文は「若人欲求知 三世一切仏、応当如是観 心造諸如来(もし過去・現在・未来の一切の仏[の悟り]を知りたければ、まさにこのように観察しなさい、心が諸々の如来を造るのだと)」というもので、先に挙げた『華厳経』の「如心偈」の最後の部分だ。華厳宗第五祖とされる澄観(738−839年)が「一偈の功能、地獄を破る」と言って以来「破地獄偈」として知られている。先述の「心仏及衆生」という部分とともに、唯心説を教える『華厳経』のひとつのエッセンスが凝縮されたすばらしい一節だが、初めて暗唱した王氏もさることながら、それを聞いた周囲の地獄の衆生たちがその意味をたちどころに理解したとはとても思えない。しかしこうした話はほかにもあって、『華厳経伝記』よりも早いが同じく唐代の霊験集『冥報記』では、『法華経』にまつわる地獄からの蘇生譚がある。王氏のように閻魔大王に詰問された李山龍という人が『法華経』の序品を唱えると、本人ばかりか周囲の数千人もの罪人たちもたちどころに救われ、地獄の前庭がすっかり空っぽになってしまったという。

  これらの霊験譚からわかるのは、経典を読誦する者や聞く者がその意味内容を理解しているかどうかは問題ではないということだ(上の例で意味を理解していたことが明白なのは、生前から『法華経』を読誦していたという李山龍だけだ)。つまり経典の文言とその意味内容ではなく、読誦および聴くこと自体に力がある、より正確に言えば発せられる「読誦の声」(その音)そのものに大いなる力があるということではないだろうか(もっとも、唱えた本人の王何某と李山龍の場合は読経という「善行」の功徳によって救われた面もある。しかし王氏のように慌てて暗記したお経を唱えても功徳は絶大だという点でも、意味内容よりも声に出して唱えること、およびその音声こそが功徳のもとだとも言えるだろう)。もちろんそれは経典の優れた教説を音声化したものだから、根源的には教説の力ではある。その点では単なる盲信の対象ではないし、東大寺僧の方々も(視覚的には大仏さまに表現されている)その教説とそれを唱える意義をしっかりと意識されているに違いない。しかし少なくとも、地獄の衆生らがその声に触れただけで救済されるという、言語的な理解を遥かに凌駕する力を「読誦の声」は発揮するのだ。

  マジカルな想像としてはおもしろいが、そんなことがあるだろうか……とも思える。しかしパソコンの画面を見ながら東大寺の読経の声を聴いていた私は、その「声」が大仏さまを中核として東大寺の僧侶らと、ニコ動にアクセスしている全国の人たちと、そして私を、いわば一つの「音空間」あるいは「音世界」の中に包み込んでいることを感じた。それはさらに、コロナウイルス蔓延の苦境から脱する願いや、苦しみの中にいる(あるいは亡くなった)人たちを慰安したいという思いを抱いて大仏殿に実際におよびバーチャルに集う人々に共通する、同じひとつの「祈り」(ここでは言語的な意ではなく、心身の行為として)の世界を現出させる。「祈り」に何らかの力があるとすれば、この「読経の声」自体が音という「祈りの媒体」となって(もちろん大仏さまという大いなるものの力を前提としつつ)、一人ひとりの心の上に力を伝え得るのではないだろうか。

 

●鐘の音という無尽縁起

 言語内容を超えた力を持つ「読経の声」が鎮まると、東大寺の大仏殿にゴーンとひとつ、深く低い鐘の音が響く。パソコンの音声をイヤホンで聴いていると、その音はかなり長い間、画面からは見えない大仏殿の広々とした空間に漂っていることがわかる。やがて退出する僧侶らのかすかな足音や、思い出したように聞こえてくる鳥たちの声に混じって、大仏殿外の空間へと鐘の音が広がっていくさますら感じられる気がする。その音色に耳を澄ましていると、鐘の音もまた、言語化できない「祈り」の力を内包しているように感じる。

  「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」——人々は鐘の音には単なる物理的な音以上の何かを感じ取ってきた。鐘の音と言えば、京都の東西南北に立地する各寺院の古い梵鐘の音を調査した民族音楽学者の中川真氏の研究がある。平安京の設計に四神相応の風水が関わっていることは種々の指摘があるが、中川氏は平安京の東西南北および中央にある各寺院の梵鐘の音が、「双調」(東・春・青)「黄鐘調」(南・夏・赤)「平調」(西・秋・白)「盤渉調」(北・冬・黒)「壱越調」(中央・土用・黄)という陰陽五行説が説く音に対応し、音のコスモロジーを具現化していたと指摘している。京の町は「玄武・青龍・白虎・朱雀・麒麟という幻の神獣」に中央と四辺を守護され、「同時に鐘の五種の調に覆われるという、まさに地上に建設されたコスモスあるいは曼荼羅都市として出現した」というのだ(『平安京 音の宇宙』平凡社ライブラリー)。つまり本稿の文脈に引きつけて言えば、四方から平安京の隅々へと響きわたった梵鐘の音は、方位や色や季節や神獣の力(すなわち宇宙の力)を内包し、発揮していたと言えるだろう。

  その鐘の音はどこまで届くのか? これも中川真氏が検証している。確たることはわからないが、少なくとも当時の平安京では今日ではあり得ないほど遠くまで音が聞こえたという(奈良時代には桜島の噴火の音が平城京まで聞こえたそうだ。この点、ITという現代の利器は音をして国境を超えさせるが)。これは物理的な話だが、もう少し理念的な面では、『華厳経』が説く「一即一切、一切即一」の重々無尽の縁起が想起される。この世界のあらゆるものは無限・無尽の時空に連なる因と縁の関係性の中で成立しており、「一塵中有十方三世法(一粒の塵の中に[空間的には]十方の、[時間的には]過去・現在・未来の、万象がある)」。物理的な音自体はやがて聞こえなくなるかもしれないが、それは鼓膜を刺激するだけでなく、木々の葉を震わせ、虫を驚かせ、鴨川の水にも目に見えない微細な波動を生むなどして、無限の縁起の中で形を変えながらどこまでも伝わっていくとも言えないだろうか。梵鐘が鳴り響いた平安京のあらゆるものの中にその音が入り込んで力を発揮し、その音を時空に広がる媒体と考えれば、そのあらゆるものもまた逆に音の中に入り込んでいる——法蔵らが「相即相入」と呼んだものだ。

  私は以前、テレビ番組のためにタイタニック号沈没事件を取材していた際に、奇妙な記事を目にした。掲載紙や著者は忘れてしまったが、その記事は沈没間際まで楽器の演奏をやめなかった同船の楽団員たちに触れていた。船上で恐慌に陥り、あるいは運命を受け入れて船に残る人たちを慰安しようと、楽団員たちはまさに海中に没するまで甲板上で演奏を続けた。その記事では、海に没した演奏の音は、音なき音の波動として北大西洋の海中に伝わったはずであり、どれほど微細でも今もなお存続し、少なくとも理論的には観測可能で、世界の海に拡散し続けているだろうと述べていた……つまり目に見えず、耳にも聞こえない微小な波動として、今も海中にタイタニック号の楽団員たちの音楽が鳴り続けているというのだ。そこには気候や海流、水温、生物、地形など無数の原因と諸条件によって形を変え、流転しながら伝わっていく音の無限の縁起がある。

  平安京や北大西洋から再び大仏殿の音の宇宙に戻ろう。読経の終わりを告げる鐘の音は、言うなれば儀式の段取り的な合図に過ぎないのに、私たちはそこに何かを感じる。その感覚は文化論や心理学で合理的・科学的に説明をつけることもできるのかもしれないが、それは「読経の声」と同じく、大仏さまの存在を中心として僧らと全国のニコ動の視聴者と私を一つの「祈り」の「音世界」につなぎ、包む音である。しかもそれは虚空のごとく希薄になりながらも、大仏殿を出てまさに虚空のごとく無限にどこまでも響いていく。東大寺大仏殿に毎日正午に響く読経の声と鐘の音——それは唐代の王何某や李山龍と無数の堕地獄の衆生を救った経典暗誦の音声のように、言語的な意味内容を遥かに超えた、何か根源的な「祈り」の音として、不思議な力を響かせているように思えるのである。


(いとう まこと・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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インターネットの時代と仏教②

アンジャリWeb版2020年6月15日更新分

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 この新型コロナウイルスに対応する生活の中で、我々に起こる問題の一つは、「怖畏のこころ」ではなかろうか。怖畏の心とは、すなわち恐怖心である。何か自己をおびえさせたり畏れさせたりする物事が起こって、平常の生活が困難になるのである。この怖畏の心を、『十住毘婆沙論』では六種類に分類している。その六とは「不活の畏れ、死の畏れ、悪道の畏れ、大衆威徳の畏れ、悪名の畏れ、繋閉桎梏の畏れ」である。

 

 その第一に出されるのは「不活の畏れ」である。これは、生活ができなくて困窮することへの畏れである。現在の新型コロナウイルスの感染急拡大を避けるために、政治的な自粛要請が2ヶ月近くにも及んだことによって経済活動が制限され、近代に入って未だ経験したことがないほどの景気悪化が叫ばれている。これが現在の喫緊の大問題である。

 近代文明の大きな流れは、経済的な豊かさを追求することに急であって、自然環境を破壊して顧みることが無かったとも言える。その結果は現代の資本主義社会の貧富の差の拡大をもたらし、大多数の人々がこの不活の畏れに脅かされるようになりつつあった。資本主義の圧力が、グローバルな資本の流動性と共に、いわば全世界の経済システムを牛耳ってきた。これによって少数の豊かな者がますます富み、大多数の貧しいものはますます貧しくなり、生活が困難になるという状況に陥ってきた。この事態に対し、心ある有識者は強欲資本主義の末期を予言し始めていた。それに加えるに、繰り返される自然災害の悲劇が、人々に不安と恐怖を与えていた。そこに襲いかかったのがこの新型コロナウイルスによるパンデミックであった。この不活の畏れは、こういうわけで現在の最大の脅威であるといえよう。

 

 第二は「死の畏れ」である。死の恐怖は、誰であってもいつであっても生きている限り、ついて回る畏れである。我々は日常的にはあまりこのことを意識しないのだが、やはり天災や今回のようなウイルスによる感染病などがはやるときには、死の恐れが現実のものとなって襲いかかってくる。清沢満之は、人間の問題は、この死の畏れの問題に収斂すると言っている。この畏れを克服できるなら、人間にとって他の問題はその切実さや迫真力を失うのではないか、というのである。生死の苦悩といっても、苦の根底にこの死の畏れがあるということなのであろう。この死の危機が現前する時には、この世のいかなる代替物、たとえばすべての財や地位をもってしても、死を逃れることはできないからである。

 

 第三の「悪道の畏れ」とは、死後の問題のことである。「堕悪道の畏れ」ともいう。現代では、生きていることに重点が置かれていて、死後に何か霊魂のようなものが残るとか、死後にもまだこの生存の続きがあるということは、あまり問題視されない。命あっての物種、ということがあらかたの人々の共通感覚のようである。

 流転輪回が信じられていた時代には、この死後の畏れが強かったので、死後の救済が意味をもっていたのであるが、現代には、ほとんどの人々にとって死後のことなどは関心を引かないようである。現在の苦境の克服こそが、大問題だとされるのである。強いて言うなら、死後に残される遺族のことなどが、問題関心として論じられる場合があるという程度であろうか。

 

 第四の「大衆威徳の畏れ」とは、一体どういうことであろうか。すぐに思い当たるのは、「不特定多数の人数の圧力」ということである。特に戦さなどの場合には兵力の一つが、何万という人数の力ということになる。しかし、「威徳」という言葉が気にかかる。大衆に「威徳」があるというのは、どういう感覚なのであろうか。現代では、「マス・メディア」などといって、為政者が広告したり扇動したりする相手として、大衆や民衆などという言葉も使われている。

 

 そして、第五番目は、「悪名の畏れ」である。我ら人間存在は倫理的であれと教えられている。つまり、人間として生存が与えられるということは、「人と人の間」に生存が与えられることである。すなわち、自分の回りに常に他人がいるということである。この他人の評価が自分にとって常に気になるということである。これが気にかからないなら、人間が倫理的であれということの評価基準が定まらないことにもなる。善悪に苦しむのは、我らが人間であるからである。この悪名の畏れとは、他人から悪い評価を与えられたり、評判が悪くなったりすることへの畏れである。

 この畏れが第四番目に挙げられていた「大衆威徳の畏れ」と深く関係してくる。自己にとって他人は多数である。その他人が、家族とか村落共同体とかの範囲に限られた場合でも、「悪名の畏れ」は起こりうるが、大衆とはそれではなく、いわば不特定多数ということであろう。すなわち、見えざる大多数の他人の威圧ということではないか。現代は、伝達手段が発達したことによって、この見えざる他人の圧力が強大になっている。SNSによる無記名の攻撃で、自殺するタレントが出ていることなどは、この畏れに入るのではなかろうか。

 

 第六の「繋閉桎梏の畏れ」とは、悪事をなすことで、捕縛され牢獄に繫がれることである。これは倫理的な悪業の結果からくる畏れである。

 

 こういうような畏れを克服することが、『華厳経』では菩薩道の課題として教えられていて、その克服をまずは菩薩初地において達成することができるということが、『十住毘婆沙論』初地の地相品に記録されているのである。この「畏れ」を超えることで与えられる「喜び」が、初地の名前の「歓喜地」の喜びだとされるのである。

(ほんだ ひろゆき・親鸞仏教センター所長)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

生きているだけで――祝福と逸脱

アンジャリWeb版2020年6月15日更新分

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

◇誰かの誕生日

誕生日をお祝いする、ということの意味が、ながいことわからなかったが、やっと最近になって理解できるようになった。ずっと、どうして「ただその日に生まれただけ」で、おめでとうを言ったり言われたりしないといけないのか、判然としなかったのだけれども、その日だけは私たちは、何も成し遂げてなくても、祝福されることができる。

(岸政彦『断片的なものの社会学』〔朝日出版社、2015〕、「手のひらのスイッチ」より)

 

 コロナ禍の生活に在って、他人の生活を垣間見るということがまったくと言ってよいほどなくなった。ソーシャル・ディスタンス等の他者への配慮をしつつ他者への想像力がなくなる中、ふと目にした言葉が「誰かの誕生日」。そうか毎日、誰かの誕生日か。このコロナ禍でも誰かが誕生し、誕生日を迎えていた。身近にもいた。誰しもが必死の努力が必要な中であるが、「何も成し遂げてなくても」祝福されるという日もやはり大切なのではないかと思う。そしてそう祝福することの難しさも思い知る日々である。

 

 このような一首がある。

 

うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏

(村木 道彦)

 

 この短歌を紹介する歌人・穂村弘の解説を2箇所あげると以下の通りである。

 

うめぼしのたね」とは一見奇妙だが、実際にはこれもまた「ベンチ」の上に置かれる可能性の充分にあるものだ。こう書かれたとたんに、いつかどこかでそんな光景を見たような気になるではないか。だが、短歌を作る現場においては、ここで「うめぼしのたね」とは、そうそう出てくる言葉ではないだろう。[…] 「うめぼしのたね」もまた、我々の意識の死角に入っているような言葉だと思う。

 

人間の生存を支える合目的的な意識こそが、ベンチ上に確かに在るはずの「うめぼしのたね」を、我々の目に映らなくしている、と。すべての人間にインプットされている「生き延びる」という目的とそれに向かう意識こそが、我々を詩のリアリティから遠ざけているのではないだろうか。

(以上、『短歌の友人』〔河出文庫、2013〕、「〈リアル〉であるために」より)

 

 何か一つのことに向かって生活を収斂させている時には、意識に上らない死角のようなものが確かに在る。その死角を作る「人間の生存を支える合目的的な意識」の存在を指摘するが、コロナ禍の生活で再認識させられたのは合目的的な意識の重要性だ。しかも大衆が一つのことに対して合目的的になることのである。

 我々が「生き延びる」ためには合目的的であることは確かに必要なことなのだ。これ自体、否定されるべきことではないし、実際生活上に否定できるものでもない。しかしその一方で、我々の生は一つの方向に収斂させることのできない複雑で複数のものであることもまた事実なのだ。単一の合目的的な意識の範疇には、必ず死角ができる。その死角にあるものは、気づかれずにひっそり叫んでいる痛みや不安の声かもしれないし、不意な悦びかもしれない。あるいはまったく無為な、しかし自在な何かかもしれない。

 生存のための合目的的な時間とその範疇から外れた時間。その二つの時間を(それはある意味で不意に)行き来しているのがリアルな生の時間なのではないだろうか。故に「生き延びる」という意識は、「(合目的的な意識から離れて)ただ生きる」という希求と重なり合うものでもある。この行き来を難しくさせるのが危機の時間であろう。そして今はしっかりと生き延びる時であるとも思う。――せめて誕生日は後者の時間に、と願ってしまうが。

 

◇もう一つの死角

 先に「我々の生は一つの方向に収斂させることのできない…」と述べたが、これは浄土教においても考えるべき問題ではないだろうか。往生浄土。浄土に〈生まれる〉ということであり、それは確かに未来を志向するものである。しかし、浄土教を学ぶ中で浮かび上がる問いはむしろこの今に〈生まれてきた〉ことである。これは偶さかの問いではないと思う。

 青木敬麿は『念仏の形而上学』(弘文堂書房、1943)で、「光明無量、寿命無量と云う仏の体そのものは想い尽くすこともできぬ彼方にあるが、名と云う事実は我々の手の前にある。我々は名を媒介としてのみ仏と相接する。何故に名を媒介としなければならぬか、何故にその名が南無阿弥陀仏でなければならぬか、と云ふことは、併(しか)し我々が何故に生れたかと問うにも等しいことであろう」と語る。我々が想い計ることを超えた光明無量・寿命無量の阿弥陀仏(という彼方の存在)が、南無阿弥陀仏という名となって「我々の手の前にある」。なぜ仏は名として我々の前に表現されるのか、これを問うことは我々の生まれを問うのと等しいのだと。

 

 筆者が研究する西山義の祖・證空(1177―1247)の言葉として、浄土に生まれることについて以下のようにある。

 

頓捨他郷、トイハ、法性ノ真理ヲ具ヘテ真如ノ都ニ住スベキ身ノ、妄心ニ催サレテ魔王ノ僕使トナリテ、三界ニ流転スルハ他郷ニ住セルナリ。然ルニ今、要法ノ力ニ依リテ三界ノ苦ヲ捨テテ浄土ニ生ズルハ、本国ニ帰ルナリ。故ニ、帰本国、ト云フ。

(『般舟讃自筆鈔』巻4;西山叢書4、57頁)

 

 浄土に生まれることを「本国に帰る」と言い表すのであるが、この身はそもそも「真如の都」にいるべき身だったとする。しかし、真如の都である本国を妄心に導かれて離れ、苦しみの世界に流転してきたのだとする。この世界に生まれてきたということは、本来の在るべき姿からの逸脱、零れ落ちてきたのだ。ここで言われる「魔王」とはおそらく仏道を妨げる第六天魔王のことで、「魔王の僕使」とは自らを仏に背く存在として言い表した言葉だと考えられる。

(ちなみに細川涼一『逸脱の中世』〔ちくま学芸文庫、2000〕には、第六天について「中世の僧侶にとって、もし自分に驕慢の心が生じた場合、後世に生まれ変わるかもしれない世界として、地獄よりもより深刻に自らが関わる世界として意識された、ということができるであろう」と指摘している。第三章「第六天魔王と解脱房貞慶――謡曲「第六天」と伊勢参宮説話」より)

 もとより真如の身であるという思想は證空に限った話ではないのであるが、證空の見出したものは、本来の在り方から逸脱したそのままに浄土を与えようとする大悲である。大悲の呼び声に逸脱した姿が知らされるとも言える。證空の言葉で言えば、「今仏願の不思議なる事を知る時、無始已来の諸悪悉く是を悟る事を釈し顕すなり」(『散善義自筆鈔』巻1;西山叢書2、187頁)と。そして自力かなわず、向こうから来る如来の姿が名号なのであり、我々の逸脱の象徴が南無阿弥陀仏なのである。

 

 生きようとするその〈生〉とはそもそも何なのか。往生浄土が本来の在るべき姿に帰っていくという方向性をもつのは確かであるが、それと同時に在るべき姿では在り難い凡夫の実相を、それは理想の郷里に目が向くばかりでは死角となってしまう人間の生そのものを照らし出すものであるはずだ。

 

――逸脱した〈生〉を生きる我々はそのままで祝福され得るのか。その必要性が痛感されるとともに、改めて考えると難しい問題であると思う。少なくとも凡夫が容易く祝福される存在ではないのは事実だ。しかしそれでもなお響く、そのまま、の呼び声に我々は何を聞くのか。久遠の誕生とともに問われ続けている。

(なかむら りょうた・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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