今との出会い第250回
「〈心〉のありか」への旅
2025年5月22日、親鸞仏教センターにおいて、脳科学者の恩蔵絢子氏と劇作家の嶽本あゆ美氏をお招きして、第72回現代と親鸞の研究会「〈心〉のありか——アルツハイマー型認知症に問われて」を開催した。
アルツハイマー型認知症が問題となるのは、記憶と能力が失われることによって、自身のアイデンティティーや親しい人との関係が崩れていくことをめぐる煩悶と、またその人との関係を構築し直す生々しい営みが、そこに存在するからであろう。両氏は、このアルツハイマー型認知症という現実をどのように受けとめるかについて、それぞれのお立場から知見をお示しくださった。
恩蔵氏は、脳の機能を人類の脳・ほ乳類の脳・は虫類の脳という三層で捉えることで「その人らしさ」を成り立たせる〈心〉のありかを「感情」に見出すことができることを、嶽本氏は、私たちの「愛」を成り立たせるような〈心〉のありかを、個人の心理のうちにとどめず社会的存在の関係の間(あわい)から見直すことを提言された。
両氏の専門的な知識、生々しい体験と実践、実証例にもとづく発表はきわめて説得力に満ち、私たちの心に響くものがあった(『親鸞と現代』53号に研究会報告を掲載予定)。
研究会を縁に私が一仏教徒として「〈心〉のありか」について考えたことを、できるだけ専門用語を使わずに、述べてみたい。
苦悩する自己の実存的・存在論的意味を問うてきた仏教は、脳の機能という生理的・心理的次元にも、また人間関係という社会的次元にも還元することができない〈心〉の次元を問題としているように思う。
〈心〉には、たとえば知情意というような心理作用に解消されてしまうことのない、何か底しれない深さがある。人間の愛憎や悲哀がとどかない深い場所という生の感覚が成り立つような〈心〉の深い層がある。
私たちは、人の世において、さまざまな愛憎に苦しみ、戦争や災害などによる困難で苛酷な状況を生きなければならないが、そのとき、そのような苦難を乗り越えたいという願いや祈りを生みだしてくる場という次元の〈心〉がある。
私はそのような〈心〉を、私たちの経験のすべてを成り立たせ、引き受けている場としての〈心〉であると考えたい。いま、ここに、私として、さまざまな他者や事物と関わっている、この身という不可思議な事実を受けとめるという次元で成り立つ〈心〉である。どのような現実であってもそれをそのまま受けとめている身の事実に相応する〈心〉である。
その〈心〉は、私たちがそれを意識しようとしまいと私たちが生きていることの根底に厳然と存在する。それは、どのような人間や社会の濁りも悪も悲惨もそのままに引き受けている〈心〉の場と表現してもよい。
そしてその〈心〉こそ、そのまま人間の苦難を正しく受けとめる祈り、願い、そして覚悟や自覚が成り立つ場でもあるにちがいない。
たとえば、仏教徒の私にとってその〈心〉は、私たちがブッダの教えによって呼びかけられているという歴史的社会的な事実を受けとめる場として存在している。そしてそのような場としてある〈心〉が、思いを離れることのきない私たちに如来の願いを受けとめることを可能にする。仏教には、そのような〈心〉のありかを探究する伝統が確かに存在する。
とくに親鸞の思想を学ぶ私にとって、その〈心〉はどのような絶望的な状況になってもその事実を事実のままに受けとめて崩れない信知が成り立つ場としてある。このような〈心〉を明らかにしたいという切実な要求が、私の親鸞の思想についての学びを突き動かしてきた。
この深い次元の〈心〉については、科学的・実証的な立場から語ることは難しいが、私たちの自己・他者・世界の見え方や受けとめ方(この人世に処する心構え)に決定的な影響を及ぼすのではないかと思う。もちろん、この〈心〉が、どこまで現代人に必要とされるのか、またそのような問いが具体的な困難や苦悩の中にある人にどのような実践的な意味をもつのか、分からない。しかし、そのような「〈心〉のありか」がはっきりしなければ、少なくとも仏教を学ぶ者としてアルツハイマー型認知症という現実にきちんと向き合えないのではないかと感じるのである。
今日、人間とは何かがあらためて根底から問われている。たとえばAIが人間に取って代わるという危機意識に動揺する私たちがいる。しかし、もしその危機感が知識や能力に立った浅薄な人間観にもとづいているならば、それこそ人間の「〈心〉のありか」を見失う危機だと言うことができる。
今、私たちは、仏教が明らかにしてきた深い〈心〉のありかへの旅を求められているのかもしれない。
元大谷大学文学部真宗学科教授。
大谷大学名誉教授。
現在、親鸞仏教センター副所長。