親鸞仏教センター

今との出会い 第209回「順接か逆接かそれとも超越か」

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

 雨が重い。この重さは実際には主観の域を出ないくらいのものだ。特に何の想いもなくなるようななだらかな雨の日に、思い出す言葉があるのだが、少し回り道をしながら遠出もしよう。

 

「間違って降りてしまった駅だから改札できみが待ってる気がする」

(鈴木美紀子)


 この短歌を穂村弘は、「こちらも間違いがもう一つの世界を開くパターンの歌。「だから」で一瞬混乱する。でも、合っているのだ。正しい「駅」には「きみ」はいないのだから。偶然の間違いによって、パラレルなもう一つの人生に踏み込んだ感覚がときめきに繫がっている」と解説する(『ぼくの短歌ノート』〔講談社文庫、2018〕、「間違いのある歌 その2」より)。

 穂村弘の指摘通り、「だから」で、順接で確かに合っているのだ。しかし、ここで焦点を合わせるべきは「ときめき」なのだろうか。勿論、間違いに踏み込むその一瞬にときめきが雪崩れ込んでくる感覚はわかる。しかし、正しい駅にはきみはいないという叶わぬ、もしくは終わった何かを懐いた日常感覚が逆接的に前景化している一首なのではないかと考える。


「雨が好きなんです。晴れているとみんながキラキラしているように感じて、それがなんとなくグサッて心に響いたり。私が泣くときは、雨が降っている日が多いんです(笑)」

(平手友梨奈、『Numero TOKYO』2020年3月号より)


 ここには順接も逆接もない。「私が泣くとき」は、文脈上どのように位置づけられるのかが少し難しい。晴れの日がグサっと心に響く、「だから」。ならば、(反対に)価値あるものとして「私が泣くとき」を意味づけ、そのときである雨の日が好きなんだとわかりやすい。それはきっと違うような気がする。順接も逆接もなく、雨が好きだし、晴れの日はグサって心に響くし、私は雨の日に泣く。どれもシームレスにつながっていて、意義の地平としては同じところにあるのではないかと思う。


――私は悪人、だが、救われるのだろうか。それが真に信じられるかは別にして、この逆接はわかりやすい。私は悪人、だから、救われるのだろうか。諸仏も見捨てた罪悪を抱える凡夫を、正覚成就の場として選んだ弥陀の本願をこのような順接として捉えることは可能かもしれない。

 しかし、「悪人」ということ一つとってもそれが如来にとってどのような意味があるのか、わかり得るものであるのか。先の問いは正確には、如来にとって私は悪人、だが/だから、ということになる。ここにある如来の範疇としての意味連関を凡夫が認識できるとは思えない。凡夫が想定し得る道徳的な因果律との断絶を示すのが弥陀の本願ではないのだろうか。


 そこにあるのは、悪人(私)は救われる、というたった一つの事象ではないか。それだけで十分なはずだ。しかし、だが/だから、と右往左往せねばわからないのが凡夫である。その順接逆接を行き来しながら、「だが」と卑下せず、「だから」と開き直らない世界を聞かなければならないのだと思う。

(2020年9月1日)

最近の投稿を読む

繁田氏シンポ7
今との出会い第251回「「懲らしめ」と「立ち直り」」
今との出会い第251回 「懲らしめ」と「立ち直り」 繁田真爾 SHIGETA SHINJI  1907年といえば、年初に日露戦争後の恐慌が始まり、自然主義文学の傑作として名高い田山花袋『蒲団』が発表された年である。それ以来、実に118年ぶりのことだという。...
ITO2025_2
今との出会い第249回「小さな冊子で世界へ漕ぎ出した大きな乗り物」
今との出会い第249回 小さな冊子で世界へ漕ぎ出した大きな乗り物 伊藤 真 ITO MAKOTO  筆者の前回の「今との出会い」(第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」)に引き続き、またネットオークションの話題で恐縮だが、またまた出会ってしまったのでおつき合いいただければと思う。ただし、今回は古切手ではなく古書である。...
hasegawa2025
今との出会い第248回「うかつな編者と乗代雄介さんとの出会い」
今との出会い第248回 うかつな編者と乗代雄介さんとの出会い 長谷川 琢哉 HASEGAWA TAKUYA  親鸞仏教センターに関わっていると、しばしば不思議な縁にめぐまれることがある。 たとえば以前「今との出会い」のエッセイに書いた話だが、劇作家の嶽本あゆ美さんとの出会いはなんとも不思議なものだった。偶然私が入居したマンションの大家さんが嶽本さんの舞台を手伝っておられる方で、私の職場が親鸞仏教センターであることを知り、その時ちょうど公演が行われていた『彼の僧の娘』(大逆事件で処刑された高木顕明の娘を扱った演劇)を教えてくださったのだ。私はすぐにその舞台を見に行き、それを機に嶽本さんには『アンジャリ』にエッセイをご寄稿いただくことにもなった。...
koshibe2025
今との出会い第247回「表現の「自由」の哲学的意味」
研究員執筆のエッセイ 今との出会い あたらしい「今」との出会いがここにあります 今との出会い第247回「表現の「自由」の哲学的意味」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)...

著者別アーカイブ