親鸞仏教センター

今との出会い第160回「講堂道場礼すべし」

親鸞仏教センター研究員

青柳 英司

(AOYAGI Eishi)

 去る4月8日に、親鸞仏教センター(以下「センター」と略記)新施設の竣工式が行われた。私が研究員として着任してから、1週間後のことだ。翌週には旧施設からの引越も終わり、月末の移転開所式を経て、「センター」は湯島の地で新たなスタートを切った。

 

 私自身にとっても、充実した施設で研究生活を始められたのは、願ってもないことだった。しかし同時に、「センター」へ託された大きな願いを肌で感じ、身の震えるような思いでもあった。

 

 特に印象的だったのが、竣工式の際に勤められた次の和讃だ。

 

七宝講堂道場樹

方便化身の浄土なり

十方来生きわもなし

講堂道場礼(らい)すべし

(『真宗聖典』481頁)


 これは親鸞が作った、「讃阿弥陀仏偈和讃」の一首である。宗門では竣工式などの際に、この和讃を勤めることが多いらしい。しかし、恐ろしい一首を選ぶものだと思った。ここに「方便化身の浄土」という言葉があるが、これはどこか遠くにある別世界の話をしているのではない。もちろん阿弥陀仏の浄土は、ここではないどこかとして、経典に説かれることがある。しかしそれだけが、「方便化身の浄土」なのではない。具体的なかたちをとって衆生を導く如来のはたらきを、親鸞は浄土という「場」として語っているのだ。


 特に1句目の「講堂」という言葉は、如来の教化の場を表現している。その和讃が竣工式で勤められたということは、教化の場として浄土の一部になっていくことが、「センター」には求められているのだろう。それはつまり、如来と同じように衆生の問題と向き合い、それらの問題に応える表現を探り、本願の教えを発信していく「場」となれ、ということにほかならない。重い願いを背負ったところに来てしまったと、正直思った。


 けれど、前掲の和讃の最後で親鸞は、「講堂道場礼すべし」と言っている。「センター」には教化の場であることが願われていても、そこで働く私たちが如来というわけではない。如来のように振る舞うことも許されない。むしろ私自身もまた、如来の教えを聞く者なのである。「礼すべし」という教言は、それを確認しているように、私には聞こえた。


 しかしそれは、衆生は聞法だけをしていれば良い、という意味で受けとってはならないと思う。教えの発信を怠る言い訳に、如来と衆生の分限を使ってはならない。現代の問題から目を逸らし、現代に響く表現を探す営みを止めるのであれば、真宗は死ぬだけだろう。


 ただ、現代に本願の教えを発信するという「センター」の課題は、私自身を除いて考えるべき問題ではない。親鸞は、そう言っているのだろう。「講堂道場礼すべし」という言葉は、警句として私の胸に響いた。

(2016年9月1日)

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