親鸞仏教センター研究員
宮部 峻
(MIYABE Takashi)
気づけば、新型コロナウイルス感染拡大から2年が過ぎてしまった。「自粛」が始まった当初には「非常」として感じられた現象は、すっかり日常生活を侵食してしまった。自粛生活がルーティン化したからといって、事態がよくなったわけではない。街を少し歩いてみても、閉店してしまった馴染みの店が目につく。新型コロナウイルスの感染は、人類にほぼ等しく降りかかるリスクでありながら、その痛みは偏在する。
研究者見習いである私のような人間は、この危機に対して、多少の不満を内に抱えながらも、ただ言われるがまま、行動を自粛し、ワクチンを接種する。それが果たして、本当に最も適切な政策であるのかはわからないままである。サボりながらもそれなりの時間を研究に費やしてきたつもりであるが、コロナ禍でわかったのは、人間の知識の限界である。私のような人間は、知識の限界の只中で、事態が好転するのを待つしかない。偏在する痛みへの関心・想像力が要求されるのが、今のコロナ禍であると信じながら。
しかし、マス・メディアやSNSから入ってくる情報を眺めてみると、声高に現在の政策に対する批判がなされている。素人が見ても、到底、専門家とは言えない人間が、果たして本当に妥当なのかも疑わしい数値を提示しながら、盛んに現在の自粛生活を批判している。もちろん、民主主義の原理に照らしてみて、専門家ではないからといって、批判の声を上げるべきではないという論は成り立たない。しかし、「論破」という言葉が好まれるように、批判者の多くは、相手の言い分を聞かず、徹底的に攻めていく。もはや、対話の余地はない。そこに生まれるのは、断裂だけである。同じ現象が昨今のウクライナ情勢をめぐる議論にも見られる。戦後日本のタブーの一つともされていた核武装や再軍備の議論は、もはやタブーではなく、雄弁に語って当たり前のものとされつつある。時代の流れは、急速に変わりつつあるようだ。このように時代の流れが転換するときを「危機」というのであろう。
そんなことを私が考えるきっかけになった一つは、若松英輔氏と山本芳久氏の対談が収められている『危機の神学——「無関心というパンデミック」を超えて』(文藝春秋、2021年)であった。
無関心というのは、他の人への配慮が足りないだけではなく、自分自身がいわば世界を喪失している状態です。実に多様な喜びにも苦しみにも満ちたこの世界の豊かなあり方に対して心が閉ざされてしまっていること。それは、無関心なあり方をしている人自身にとっての危機でもあるわけで、それを克服するための、揺り動かされているという決定的な画期に私たちは直面しているのだと、教皇はコロナに直面して繰り返し説いているんですね。
(同書、228-229頁)
教皇フランシスコの神学を手がかりに、現在の危機を無関心という言葉で表している。自粛生活に対する批判でも、ウクライナ情勢をめぐる議論でも、相手の主張が間違っていることを徹底的に攻撃するばかりで、相手への配慮に欠けているように思える。現代社会に蔓延るのが、無関心であり、現在の危機は、無関心をいかに克服するかなのである。
相手を攻撃する行動規準について、上記の対談でも言及されている以下の河合隼雄氏の言葉が示唆的である。明恵の史的意義を評価するなかで、河合氏は次のようにイデオロギーの魅力と人間の浅はかさを端的に述べている。
「これが正しい」ということは、「これ以外は誤り」ということになりがちであり、そこに極めて明白な主張が可能となり、多くの人をひきつけることになる。イデオロギーは善悪、正邪を判断する明確な規準を与える。……しかし考えてみると、人間存在、あるいは世界という存在は、もともと矛盾に満ちたものではなかろうか。もっとも、矛盾などと言っているのは人間の浅はかな判断によるものであり、存在そのものは善悪とか正邪とかを超えているのではなかろうか。
(河合隼雄、『河合隼雄著作集9 仏教と夢』岩波書店、1994年、71頁)
イデオロギーは、行動規準を示してくれているかのようであり、不安に苛まれる人々にとって、清涼剤となるであろう。しかし、イデオロギーが行き交う世界に広がるのは、ホッブズの『リヴァイアサン』で描かれたような利己的な人間同士の闘争である。善悪を明確にし、相手を攻撃する世界に、協調というものは存在しない。イデオロギーという悪魔的な魅力を乗り越えつつ、他者への関心、配慮はいかに形成されるのであろうか。少なくとも時代の流れに抗することが必要であろう。
その手がかりを教えてくれるのは、森岡清美氏の『真宗大谷派の革新運動——白川党・井上豊忠のライフヒストリー』(吉川弘文館、2016年)である。時代が揺れる明治に、大谷派の宗門革新運動を展開させようと試みた白川党は、決して清沢満之の指導力によってのみ動いていたのではないと森岡氏はいう。そこにあったのは、熟議の精神であった。
白川党の面々、とくに清沢・稲葉・今川・井上は、そのうち二人で、あるいは三人でということもあったが、四人全部で、明治二九年の蹶起以前から、絶えず往き来して談合していた。それも頻繁かつ長時間にわたった。……異論があれば、会を重ねてでも徹底的に話合い、全員合意し賛成したうえで決するのが彼らの流儀であった。それは異論を潰すのではなく、異論を包んで乗りこえる作業であった。(同書、464頁)
相手を配慮する熟議の場では、人を攻撃しかねない言葉を使わないように配慮する。熟議の場は、相手への配慮が要求される協調的な共同体なのである。清沢の精神が今日にも語り継がれているのは、ただ彼の功績のみではなく、異論を包み込んだ熟議の精神によるのである。
人は、危機にあるとき、弱いがゆえに、雄弁に行動規準を語る強い思想にすがろうとする。おそらく、熟議とは、一人の人間では行動が性急にならざるを得ない状態を回避する営みなのであろう。私は弱い。だからこそ、時代の流れを決定づけるかのように見える強き思想にすがろうとする。しかし、そんなときこそ、弱き者のために、ますます加速化する時代の流れに抗して、熟議という営みによって、流れを緩めていくことが必要なのであろう。流れを緩めたとき、他者や世界への配慮が生まれ、あるべき自己へとたどりつくことができるはずだ。
(みやべ たかし・親鸞仏教センター研究員)