親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

日常を永遠と。――浄土に呼び起こされる現実について

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

「もっと乱暴に、世の中の宙ぶらりんな物語を終わらせるべく襤褸の少女を派遣するというのはどうだろう。襤褸を着た少女がよたよたと歩いてきて空を見上げ「あ、流れ星」と呟くぐらいでもいいとも思う。世のありとあらゆる物語の中を渡り歩いてラストシーンを飾るというのは、大変に幸せな職業かもしれない」(高山羽根子「「了」という名の襤褸の少女」、『うどん キツネつきの』〔創元SF文庫〕所収)

 

 下に引っ張りすぎたTwitterが更新を渋っている。日常のネタ切れ。最初からそうしていればよいのだが、ようやく電子書籍に目を落とす。

 高山羽根子を読む。高山作品としては「母のいる島」「ビースト・ストランディング」が好みではある。奇想的な物語にあって細部が際立つリアルな描写、そこに抜群のユーモアが散りばめられている。この辺が読みやすい物語ではあるが、「オブジェクタム」「居た場所」のような、いびつな日常をウロウロさせ、消化不良が続き、なぜかいつまでも自分の中で生き続ける物語もある。これもまた魅力。

 

 もはや無意識的に「日常」と書いているが、過去に書いた自分の文章を読んでみても、「日常」や「生活」という言葉に高確率で出くわす。着実に「日常」が増えている。地に足つけた日常生活の重要性を、自分に言い聞かせるように書くのは、ダラダラと延々と続く日常の退屈さ、耐えられなさとの葛藤のようにも思う。

 高山は冒頭のエッセイ中に、物語を終わらせる行為の難しさを語っている。「とくに現実に近い物語であればあるほど、終わらせ方に困る。そもそも現実は終わらないものだから、物語の上で終わらせる時には違和感を法螺で注意深く塗り潰す作業のような行為が必要だと信じ、そのために手に余らせてしまう」と。現実は歯切れが悪く、どこまでもそうでありながら続く。

 

Δ

 

 日常と浄土。グダグダと延々と考えている問題だ。日常の延長が浄土なのだろうか。煩悩具足の生活を引き延ばした先が浄土ではないだろう。しかも、煩悩を本質とした生活を、自力の努力でその本質を変えることができないとすれば、我が身の想像の範疇を超えているとしか言いようがないはずだ。

 

 ここで考えるのは、浄土がこの世、穢土と隔絶しているとして、それをどう思考すべきか。穢土と浄土を並べて相対的に比較するのは、穢土も浄土も俯瞰して見る超越的視点である。果たしてこれは凡夫の範疇で成立する視点だろうか。

 しないのだと思う。この世界の否定形としてしか我々に現れ得ないのが浄土なのだと思うが、それはこの世界を超えた外側――にこちら側が立つ視点を常に奪う働きである。「今、ここでしかない」と有限性を自覚させる、外へと向かう視線を内側へとひっくり返す働きが「他力」と呼ばれる弥陀の本願力なのだと考えたい。

 

 しかし浄土教は、この世界はこの世界のままでよい、そのまま肯定されるのだ、という思想とは一線を画すものだ。それは外側から世界や〈いのち〉を丸ごと肯定する視点を剥奪するという形で、我々に現前し続けるのが浄土の働きなのだと思う。

 法然の直弟、西山義祖・證空は『散善義自筆鈔』巻一で、「具造十悪五逆、トライハ、生々世々ノ中ニ六道ニ輪廻シテ、造ラザル罪ナシ。愚痴迷惑ノ故ニ、スベテ是ヲ知ラズ。今仏願ノ不思議ナル事ヲ知ル時、無始已来ノ諸悪悉ク是ヲ悟ル事ヲ釈シ顕スナリ」(西叢二、187頁)と言う。無限の救済によって知らされる我が身は、あくまで「諸悪」、罪業を造り続けている身なのだ。それ以上ではない。ひとを傷つけ、自分を傷つけ、苦しみ呻く世界。ここにある自他の呻きの声に対して、何か超越的な視点で世界を肯定し、糊塗してしまうのではなく、悪や苦しみを「それをそれとして見る」のだ。しかし、それと同時に、人生を丸ごと否定する視点からも程遠い、いや断絶している。

 

 無限の救済に触れる我々の視点は、この世界や〈いのち〉の全肯定でも全否定でもなく、そうした視点に立ち得ない有限なる在り方の自覚ではないだろうか。我々にできるのはせめて部分肯定だけなのだと。なぜ部分肯定ではダメなのか。本来、こう問われるべきものなのかもしれない。

 いずれにせよ、無限の救済に触れる我々の現実は単なる現実ではない、外側のなさと同居した現実であり、それは無限の浄土に裏打ちされた現実なのである。

 

Δ

 

 5才のよつばの日常を描く漫画、あずまきよひこ『よつばと!』(電撃コミックス)15巻を読み直しながら、『親鸞仏教センター通信』第77号(2021年6月発行)の「あとがき」の校正をしている。自分で執筆したものだが、そこには相も変わらず「日常」と書いている。「帰るべき日常などというものは本来ないのかもしれない。日常は今までに想いを馳せ、新しさに驚嘆しながらちょっとずつ作られていていく――作っていかなければならないのだろう」と。

 全肯定/全否定のケジメをつけられない歯切れの悪い私の日常は、常に点検が必要だし、これはまあまあいい経験をしたと喜び、拭えぬ退屈さからSNSに逃避しては現実に巻き戻される。

 

 本来的に帰るべき、という形容がし難いのが日常なら、それを超えた浄土こそ帰るべき存在の本来的世界だとも言えようか。帰るべき世界からの呼び声に耳を傾けて、ふと現実に巻き戻されるだけではなく、そもそも我々にとっての現実とは何かを延々と考えていくべきなのだろう。

 

※本稿は、第2回「現代と親鸞」公開シンポジウム(テーマ:生まれることを肯定/否定できるのか?――反出生主義をめぐる問い)の問題提起を受けるものである。報告記事参照のこと。

(なかむら りょうた・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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