親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

破滅のさなかで

親鸞仏教センター研究員

東  真行

(AZUMA Shingyo)

 もはや怒りのあまり、言葉を失うほかない現状である。これまで日本に巣食ってきた差別や憎悪がいよいよ溢れかえっている。

 4月末、岐阜県である男性が少年たちに殺された。被害者の方は空き缶を収集して生業としながら、図書館に通い仏教を学んでいたという。それはいかなる仏教であったのだろう。

 5月初頭、横浜のとある公園の砂場にカッターナイフの刃がばらまかれていた。あるいは、宇都宮のコロナウイルス感染症の軽症者を受けいれたホテルで小火が発生し、警察は放火の可能性もあるとして調査している。

 私は新たな言葉を求め、マーティン・ルーサー・キング『黒人はなぜ待てないか』(中島和子・古川博巳共訳、みすず書房、1993年)のなかでも特に「バーミンガムの獄中から答える」を、この災禍のなかで読みかえしてきた。

 この数日のあいだに、ミネアポリスで起きた差別と暴力への抗議行動が大きなうねりとなった。日本においてもクルド人への暴行があり、警察への抗議がなされている。キング牧師の言葉がますます重みを増しているように感じる。

 1963年4月、抗議行動を咎められたキング牧師は、バーミンガム市刑務所に拘留された。これを受けて複数の牧師たちが、かれの抗議は「愚かで時をわきまえない」ものだと非難する声明を出した。キング牧師は、その声明に応答するために「バーミンガムの獄中から答える」を執筆したのである。

 

問題は、われわれが過激主義者かどうかではなく、どういう種類の過激主義者になるかということです。憎悪の過激主義者となるか、愛の過激主義者となるか、不正を維持するための過激主義者となるか、正義を拡張するための過激主義者となるかということです。

(前掲書、109頁)

 

 キング牧師にとって「愛の過激主義者」とは、まずもってイエスであり、預言者であり、パウロであり、ルターである。社会の過ちを問う「異端者」となることを恐れ、私たちがいかにキリストに背いてきたか――キング牧師の歎きは自身に向かうほど深い。そんなキング牧師を非難した人々のなかに先述のとおり、他ならぬ牧師たちもいたのである。

 これには既視感を覚えた。木越康『ボランティアは親鸞の教えに反するのか』(法藏館、2016年)には、被災地へボランティアにおもむく真宗者に対して、同門の者から「待った」がかけられたという証言がある。宗教者が身を動かされるとき、それを止めるブレーキが同じ信仰者であるとはいかにも皮肉だ。いつまでこんなことを繰り返すのだろうか。

 たとえ声をあげずとも、いかなる行動にも当然、それ相応の責任が伴う。むしろ、声をあげることに億劫になるのは十分ありえることだ。というのは、批判の声をあげると、その批判を「批判」してくる言説と衝突することがままあるためである。

 現状への批判に対する「批判」を、ここでは『批判「批判」』と仮称しておく。確かに批判的言説の内実を点検すること自体は否定すべきではないのだろう。しかし、『批判「批判」』は多くの場合、問題となっている根源については不問としたまま、現状を批判する言説に対して封殺の機能を果たすばかりである。今回の災禍のなかでも声をあげる人々への安易な非難が多く見られたが、現状を肯定できない以上、ひとは声をあげるほかない。

 ところで、このコロナ禍のなかで最もつよく私の胸を打ったのは「ああ、もう滅びそうであった」という仏弟子の言葉であった。

 阿含経(中部経典)に記された出来事である。ジャーヌッソーニというブラーフマナ(婆羅門)が遊行者ピローティカに釈尊を信ずる根拠を問う。「いかなる根拠を見て、沙門ゴータマにこのような澄みきった心(信)をいだいているのですか」と。ピローティカは、自分には釈尊を讃えるほどの智慧がなく答えられないと前置きしたうえで、沙門ゴータマを仏陀釈尊として仰ぐことができるのは「足跡を見たからだ」と説く。

 たとえば、ある町のクシャトリヤの賢者たちが釈尊の智慧を試そうと待ち構えていた。釈尊はその町に来て、法を説いた。クシャトリヤたちは質問するまでもなく納得し、仏弟子となったという。

 釈尊がある町に遊行するとしよう。その町にいるブラーフマナや在俗の賢者、または沙門たちが釈尊の来訪にそなえており、難詰して打ち負かそうとする。しかし、ことごとく釈尊が説く法に納得してしまう。こういった出来事をピローティカは「如来の足跡」として拝し、みずからが釈尊を信仰する根拠であるとジャーヌッソーニに語る。

 クシャトリヤ、ブラーフマナ、在俗の賢者、沙門たち。このように対象を変えながら同様の物語が4度にわたり説かれるなかで、少しずつ文言は異なってくる。在俗の賢者たち、または沙門たちについては、仏弟子となった後、このように述べられている。

 

さて彼らは、出家してから一人遠く離れて、不放逸に、熱心に、決意して住し、久しからずして、良家の子らが正しくもそのために家を捨て家なき出家者となるその無上の目的である梵行(仏道)の完成を、この現世において自ら知り、直証し、達成して住することになりました。そして彼らはこのように言ったのです。「ああ、わたしたちはもう滅びそうであった。ああ、わたしたちはもう破滅寸前であった。というのも、かつてわたしたちは、沙門でもないのに沙門だと自ら称し、ブラーフマナでもないのにブラーフマナだと自ら称し、阿羅漢でもないのに阿羅漢だと自ら称していたのだから。だがいまやわたしたちは沙門となり、ブラーフマナとなり、阿羅漢となったのだ」と。

(『改訂 大乗の仏道――仏教概要―― 資料編』、東本願寺出版、2019年、137頁、138~139頁)

 

 求道の果てに到って、ようやく「ああ、わたしたちはもう滅びそうであった。ああ、わたしたちはもう破滅寸前であった」と語り得るとは驚きである。そして、このように告白する者が同時に「だがいまやわたしたちは沙門となり、ブラーフマナとなり、阿羅漢となったのだ」と言葉を続けているのだから、まったく不思議である。

 阿羅漢となるほどに真実を求める者が「破滅寸前」であったとすれば、釈尊に凡夫と説示される真宗者は間違いなく、すでに滅びの真っ只中にいることになる。そんな凡夫が、眼前の現実に声をあげる人々に向かって、その苦悩に思いを致すこともなく『批判「批判」』を展開するとすれば、まったくいかなる真実を求めているのかと思わざるを得ない。

 凡夫は聖者ではない。しかし、聖者と等しく、拙いながらに仏道を求める者でもある。たとえ、その道が聖者のようにまっすぐでなく、ガタガタのオフロードだとしても、せめて真実を求める叫びに対してブレーキとなるべきではない。

 この状況下で民主主義の遂行を希求して声をあげておられる方々、差別や憎悪に抗議しておられる方々に心よりの連帯を。私自身も、倦むことなく声をあげていきたい。

(あずま しんぎょう・親鸞仏教センター研究員)

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