親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第216回「〈願に生きる〉ということ」⑫

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 16 「〈願に生きる〉ということ」

 善導が「十四行偈」(『観無量寿経疏』)において表そうとした「横超断四流〈横に四流を超断し〉」(『真宗聖典』146頁)の意味を、「信巻」において論ずる親鸞の意図は、どういうところにあるのであろうか。横超が「願成就」の「真宗」を表すものだというのは了解可能であるが、「断」の一字に「「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに「断」と曰うなり」(『教行信証』、『真宗聖典』244頁)と注釈をされている。「すでに」とあるのだから、信心を獲るときに、生死の迷いを超えることを表現している。

 これはどう見ても信心の内実を、直接、現在的に表わそうと意図したものであるに相違ない。この親鸞の意図を、言うところの「竪」の意識の内面に起こる「証」と見ることは、いかにも無理がある。凡夫とは、煩悩と共に生きる存在であって、六趣四生の因果や欲界・色界・無色界という三有の生死を超えることはできないのであり、そもそも「信巻」での問題解明なのであるから。それなのにここでは、「一心を発起」するなら「生死を断絶」すると言い切っている。

 これは「横超」というときの「横」が、一般の時間軸を「竪」とするなら、その軸を「横」に切断する「時」が、「横」軸のごとく存在すると見ているのではないか。竪軸が時間なら横軸は空間を表現するものだと言えば、我らには理解可能となるだろう。この横軸を「横」の時間として、本願力が凡夫に開こうとする宗教的救済の時を示している、と見られたのではないか。先回に表現したように、『無量寿経』が「横截五悪趣 悪趣自然閉〈横に五悪趣を截りて、悪趣自然に閉じん〉」(『真宗聖典』57頁)と語るところを、この善導の「横超断四流」に対照していることから、これが浄土の利益でありながら、それを衆生の「信心」の利益として示すために、竪に対する「横」なる「菩提心」を用いると共に、その成就の「時間」をも「横」で表そうとされたのではないか。

 「横」で表される時間とは、竪で考えれば、今生どころか、弥勒菩薩でさえ五十六億七千万年かかるとされる時間が、一挙に「今現在」に、本願力に出遇う即時に成就するのだとされる。「願生彼国 即得往生〈かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て〉」(『真宗聖典』44頁)とある願成就の文を、本願力に遇うならば、即時に不退転を獲得すると解する意図もこれで読めてくる。「本願力にあいぬれば 空しくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」(『高僧和讃』「天親和讃」、『真宗聖典』490頁)と言われるのも、願力と「あいぬる」ことが、現在完了の形で「煩悩の濁水」を隔てないというのである。これが、横超の時間として「今現在」に成り立つ願力との値遇ということなのである。

(2021年6月1日)

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第215回「〈願に生きる〉ということ」⑪

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 16 「〈願に生きる〉ということ」

 本願を聞くということは、有限の我らが無限それ自身を、有限化しようとすることではないか。これは、実は不可能なことを試みようとすることだといえよう。この限界を教えようと、経典は「難中之難 無過此難〈難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし〉」(『無量寿経』、『真宗聖典』87頁)と語り、親鸞も「正信偈」で、信楽し受持することは、「難中之難無過此〈難の中の難、これに過ぎたるはなし〉」(『真宗聖典』205頁)と押さえておられるのである。

 この難は「困難」で難しいというよりも、「不可能」を教えているのである。この難こそ、本願が法蔵菩薩に「兆載永劫」の修行を課してでも、かならず超えさせようとする課題なのである。であるから、有限の側の努力を「自力」というなら、この願いは「他力」として無限の側からの、大悲としての営みなのである。それで、衆生の側には「自力無功」の自覚を必要不可欠の要件として教えるのである。

 この自力の執心は、我ら有限の思索しかできない身には、あらゆる分野においてしつこく残存する。その思考方法を根底から払うための親鸞の営みが、「信巻」における試みであり、なかでも「横超断四流」釈であろうかと思う。ここで親鸞は信心の位でありながら、本願力に信順するなら「四流を断つ」ことができると宣言している。煩悩の生死を信心の内実としながら(機の深信)、「断つ」ことができるというのである。これを我ら凡夫は、どう了解すべきなのであろうか。

 そもそも凡夫とは、この生死のいのちが尽きるまで、煩悩と共に生きるのだと親鸞は記述しているのではないか。さらに曇鸞の了解によって、「正信偈」に「不断煩悩得涅槃〈煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり〉」(『真宗聖典』204頁)とも述べている。善導「十四行偈」(『観無量寿経疏』)で「横超断四流〈横に四流を超断し〉」(『真宗聖典』146頁)とあるからといって、それをそのまま取り上げてよいのだろうか。

 この「横超」を「信巻」に取り上げる親鸞は(『真宗聖典』243頁参照)、「竪超・竪出」という対応概念を出している。竪とは、いわば人間の常識的発想であろう。自分で一生懸命に努力するとか、必死になってもがくあり様の形象化なのであろう。それに対して横とは、一般的には非常識な生き様、すなわち依頼心が強く、「横着」で「横柄」な態度を示す文字である。

 この「横」という概念を、人間が究極的な救済を求めるについて、あえて取り出して常識的発想の方向転換を迫っているのが、『大無量寿経』の教えなのである。だから親鸞は、「横」とは「本願力」を表すと定義する。したがって「横超断四流」の「断」は、煩悩に悩まされる衆生に、本願力が無碍(むげ)のいのちを与えようとする作用を表すのだ、と見るべきであろう。この本願の作用によって、無明の黒闇を生きる衆生に開かれる明るみこそ、自力無功の自覚に賜る信心だということなのである。

(2021年5月1日)

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第214回「〈願に生きる〉ということ」⑩

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 16 「〈願に生きる〉ということ」

 如来の大悲とは、「おおいなる悲しみ」である。「無縁」であるとは、「縁なき衆生」をも摂して捨てないのである。ここに「おおいなる」というのは、「限りなく摂取しよう」とする存在の、有限の条件を破る深い意図を示そうとしているのである。我ら凡夫の有限の発想を、深く悲しみつつ静かに待ち続けようとする、見えざる意思とでも言うべきであろうか。

 そもそも「如来の大悲」というときの「如来」とは、「おおいなる願心」の主語のごとくに見えるが、実は主語という文法上の言葉が、我ら凡夫の発想に付帯する制約・限定を語っている。「おおいなる」とは、主語無くしてはたらくこころ、すなわち見えざる意思を言い当てようとしているのである。その見えざる深みのはたらきを、「大悲の本願」として表現するのが、『大無量寿経』の物語なのである。

 これを文字通りに、見える形として我ら凡夫が受け止めようとしても、それは必ず無理なゆがみを伴うのである。有限な見える限りの発想でとらえても、それなりに有限の限界をちらつかせながらも、なにがしかの意味を開示しようとしているには違いない。その限りにおいて、我らが願心に随順しようとする場合には、有限の限界に引き留められて、その壁を越えられないという有限の悲哀を惹起するのである。

 この見えざるおおいなる悲願を一身に担って立ち上がる名が、「法蔵菩薩」である。その名は、見えざる願心を言葉で具体化するための自己限定、すなわち無限が有限に形を示してくる自己限定でもある。物語として表現する場合に、時間的には「五劫思惟」とか「兆載永劫」の修行というように、無限なるものを一応あたかも限りある因位のごとくに示している。そして「すでに正覚を開いて十劫を経ている」とも言う。因の修道が無限大の時間なのに、果の正覚を開いてすでに十劫も経っているというように、その物語自身が我らには理解不可能なのである。このように無限の側が、大悲を呼びかけようと自己限定して、有限の表現になろうとしても、我ら凡夫には、つじつまの合わない物語と映ってしまうのである。

 この限界を内から打破して、「法蔵願心」に同感するまで物語を聞くことが、いわゆる「聞法思惟」として、有限の我らに分限を自覚せよと迫っているのである。この聞法の呼びかけに、我らの迷いの底からいわば名のり出るごとくに、「法蔵願心ここにあり」と発起してくる事実を、親鸞は「金剛心成就」のかおばせであると感得されたのではないか。

(2021年4月1日)

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第213回「〈願に生きる〉ということ」⑨

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 16 「〈願に生きる〉ということ」

 如来の大悲は、「無縁の大悲」であると言われる。「無縁」とは、慈悲が条件によって左右されないことである。無条件でなければ、大悲にはならない。ところが、現実にこの世で生命が成り立つのは、種々の条件によっている。これを「因縁所生」という。因縁は、それぞれの生命体において種々様々であって、現実の命には、ひとつとして同じ条件で起こるものはない。似た条件であっても、厳密にはまったく同じということはない。

 それならば「無縁」と言われるのは、この世にはないということでしかないのか。しかしやはり大悲があるのだと教えられる。そしてその大悲とは、「おおいなる悲しみ」であると言われるのである。

 たとえば、仏陀の古い教えに「四無量心」と言われるテーマがある。「慈・悲・喜・捨」の実践である。仏道の志を生きようとするときには、出会った相手と「同じ」心情になるように心がけよ、ということである。もしも、相手に喜ばしい事情が起こるなら、それを相手と一緒に喜ぼうとしなさい。そして、相手につらい事情が起こった場合には、その相手と悲しみを共にしなさい、というようなことである。これは現実には、我等凡夫にとって大変困難な実践テーマであると言えよう。

 そもそも、倫理的実践と如来大悲の願心とには、大きな相違点がある。倫理の問題が有限の人間同士の関係や事情に関わるのに対し、如来の大悲は、条件を超えて関わるものだからである。それは、たとえば先の四無量心の実践について、可能か不可能かという事態において、根本的な相異が現れ出る。人倫の慈悲は、程度を越えたことには、目をつぶるしかないことがある。如来の大悲は、それをも引き受けて歩もうとする願心なのである。

 有限なる人間には、どうにもならない事態を前に、「絶望」しかないことが興る。しかし、如来の大悲には「絶望」ということはありえない。「深い悲しみ」は「絶望」をも超えていくのである。

 善導は『観経』の「深心」は「深信の心」であるとし、その深信を解釈して二種に開いている。その第一が「「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず」るのだという(『真宗聖典』215頁参照)。「出離の縁」がまったくないのであるから、この事実の前には、我ら凡夫はなすすべがない。地獄落ちが必然である。ところが、そういう我等が如来の大悲に乗ずれば、必ず引き受けてくださると深く信ずるのが、第二の深信であるという(同前参照)。

 この第一と第二の深信における矛盾を、前後に分けたり、前提と帰結に分かったりするのでなく、矛盾のままに如来の無縁の大悲として受け止めようとするところに、阿弥陀の大悲には「深い悲しみ」があると信ずるのが、「深信」だというのである。

(2021年3月1日)

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第212回「〈願に生きる〉ということ」⑧

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 一念の信心による超越とは、本願力によって念仏の行者に「生死即涅槃」にかなうような内実が確信されることである。具縛の凡愚の信念にそのような内実が、いかなる意味で現実に成就すると言うのであろうか。このことに合点がいかない弟子たちが、様々に言葉を作り、確信のもてない自己を弁明しようとしたらしい。「即」にも「同時即」のみでなく「異時即」があるとか、今現在のことでなく、いずれ浄土に往生した上での彼土の利益である、とかである。

 今筆者は、親鸞が表現しようと試みた「他力の救済」の積極的意味を、少しく丁寧に訪ねて跡づけて見たい。まず先回の最後に挙げた信心発起にからむ問題(共発と能発)のうち、善導の「共発」につきその可能性を考察してみよう。

 この語と同じことが、「十四行偈」(善導『観無量寿経疏』)の結びの回向文にも「同発菩提心 往生安楽国〈同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん」(『真宗聖典』148頁)と表現されている。「共発」の「共」とは、「同」と同じく一切衆生への平等の慈悲を表現しようとしていることが想定できる。したがって、この願言において語りかけようとする共通の内容は、平等の大道である「大悲心」から流れ出るものであることは、つとに曇鸞が性功徳釈で明示していることである。しかし、この願を凡夫の位から、果たして真実の誠意をもって発起できるのであろうか。

 濁世の有情の現実は、有限なる凡夫の生存競争の現場であり、その生命の誕生には時代や民族、その家庭環境や生活状態など、種々様々な差異が乗っているのである。そこに起こる幸せへの願望は、決して平等無差別の質などではありえない。「衆生」の異訳に「異生」という語が当てられる場合もあるように、生存の事実には、必ずその事実を生きている「身体」があり、それは他には代替できないそれぞれの固有性をもつものであるから。

 では、いかなることを「共発」として願ずるのか。その内容は「大菩提」、すなわち大乗仏教の究極の「覚り」であるとされる。現実の差異を突破して、平等でありたいという願望に応えようとするものである。その平等の可能性は、精神的な固執を破って、無碍の心に立つしかなかろう。それは現実を忘れることではないのか。現実の差異や生存の困窮を超越して、平等の存在を構築することは、いかにして可能なのであろうか。

 ここにどうしても、仏道が呼びかける究極の平等の相とは、いかなる事態であるかが問われることになるであろう。差異や不条理を少しずつでも減少させて、究極的に平等を成就しようとするのか。それとも、それをそのままにして、その現実の受け止め方を超越すべきであるとするのか。

(2021年2月1日)

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第211回「〈願に生きる〉ということ」⑦

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 16 「〈願に生きる〉ということ」

 一念の信心は、具体的には称名念仏において感受される。それが本願成就文に「聞其名号 信心歓喜 乃至一念〈その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん〉」(『真宗聖典』44頁)と語られる事柄である。すなわち名号を体として、真実信心が行者に発起するのである。この一念の事実の因縁を内観して、行・信ともに如来の本願力回向であるといただいたのが、親鸞であった。したがってこの回向による信の一念は、行の一念を依り処として、具体的事実として立ち上がるのである。すなわち信の一念は、行の発起とともにそれに付記するごとく発起するわけである。

 「念々称名常懺悔」(『般舟讃』)と言われることがあるように、称念のところに信心が施与されるごとくに発起するわけである。その一念の信に、超越的な内実が付与せられるというのは、いかなる事態なのであろうか。この問題展開が、「信巻」において「横超断四流」(『真宗聖典』243頁)の問題として論じられているのである。

 この超越的事実は、『大無量寿経』において、「必得超絶去 往生安養国 横截五悪趣 悪趣自然閉〈必ず超絶して去ることを得て、安養国に往生せよ。横に五悪趣を截りて、悪趣自然に閉じん〉」(『真宗聖典』57頁)と言われている。それを受けて善導が『観経疏』の偈文でこの問題を取り上げて、「共発金剛志 横超断四流〈共に金剛の志を発して、横に四流を超断せよ〉」(『真宗聖典』235頁)と表現されている。それを親鸞は「信巻」に取り上げて(同前参照)、「金剛」が願力回向の真実信の質であると論じた後に、この「横超断四流」を「一念」の信心の内実として明らかにしてくるのである。

 この超越の事実は信念の内実である、と押さえる親鸞の確信は、超越がどこまでも本願力に依るというところからきている。この横超による超越とは、生死の迷いの生活から涅槃の覚りへの、本願の信心による超越ということである。ここに言われる「生死」と「涅槃」の関係は、大乗仏教において「生死即涅槃」と言われる根本テーマである。それについて「正信偈」には、「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃〈惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ〉」(『真宗聖典』206頁)と押さえられ、さらには「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃〈よく一念喜愛の心を発すれば、 煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり〉」(『真宗聖典』204頁)とも言われている。

 ここに押さえられているように、一念の信心が起こるとき、「生死即涅槃」と言われる大乗仏教の「正覚」の内容に相応する事実を、本願の信心において十分に語りうるのだと、親鸞は丁寧に述べているのである。しかし、愚かな我ら凡夫に、いかなる形でその内実が与えられるというのであろうか。それに関して、先に挙げた「能発一念喜愛心」と「共発金剛志」とにある「能」と「共」の文字を手掛かりに、問題を掘り下げてみたいと思う。いずれもその内容は、愚悪の凡夫には成り立ちえないような事柄だからである。

(2021年1月1日)

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第210回「〈願に生きる〉ということ」⑥

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

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Series 16 「〈願に生きる〉ということ」

 真実の信心には、「信の一念」(『真宗聖典』239頁参照)という意義がある。その本願成就の「一念」の内実に「前念命終 後念即生」という意味を聞き開いたのが、善導であった。この一念を単に臨終の一念とするのでなく、平生の信仰生活に見いだしたのが、親鸞の『愚禿鈔』にある「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は、後念即生なり」(『真宗聖典』430頁)である。それを曽我量深は「信に死し、願に生きよ」と受け止められた。

 「信に死し」という信念の表現は、普通に生存していることをやめるというのではなかろう。この生存を自分の思いの通りに生きていきたいと思いながら、自分の自我心に縛られて少しも自分の思いが通らない。「信に死し」とはそういう生活から解放されること、すなわち無明による苦悩の生存の終わりを意味しているのであろう。換言すれば、自力心に死んで他力摂取の心光に生きる、と言ってもよい。「死して生きる」という表現の次第は、現実には煩悩の生活に悪戦苦闘している事実に気づくとき、他力摂取の教えを思い起こすという次第を表している。

 そして、「願に生きよ」ということには、本願に照らされつつ信心の生活を自己自身に問い直して生きて行く方向を示している。だからといって信じた上での生活であるなら、有限の分限を超えて生きられる、と言うわけではない。蓮如に「信心のみぞをさらえ」(『御文』二帖目一通、『真宗聖典』777頁)という言葉がある。我々の凡夫たる根性は、信心を得たつもりでも日常生活のなかに、たちまち本願との関わりを失わせてしまうのである。そのことに気づいて本願に立ち帰れ、というのである。

 信念の事実には、一念同時ということがある。たとえば、菩提心には「自利利他」という課題がある。その場合も菩薩道では、自利から利他へと歩むのであるが、菩提心が成熟してくると(十地の次第では八地以上)、自利利他が同時交互に成り立つ。『浄土論』に表されている菩薩功徳がそれである。

 他力信心の生活にも、本願他力を憶念してこそ煩悩生活を懺悔することができるということがある。自力執念の深さは、他力の心光摂護の中においてこそ気づくことができるのであろう。この場合には、「死して生きる」という次第が転じて、「信心に生きてこそ苦悩の生に死ぬことができる」という事実が起こるのである。すなわち、光の場に生きることで、闇の生に死ぬことが成り立つのである。本願成就の信は、それを生きることで死ぬことが成り立つとも言えるわけである。親鸞が「信巻」において善導の「横超断四流」を釈しているのが、そのことであると言えようか。

(2020年12月1日)

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第209回「〈願に生きる〉ということ」⑤

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

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Series 16 「〈願に生きる〉ということ」

 「本願を信受する」という信念には、宗教的事実のもつ深い意味がある。それは仏教の自覚において「死して生きる」と表現され得るような、根本的な意識の変革とでも言うべき、人生態度の転換が起こることを意味している。そのことが、本願他力のはたらきを信ずることによって成り立つことを、親鸞は徹底して明確にしようとされたのである。

 その場合、「願に生きる」とは、いかなる意味を表示しようとしているのであろうか。そもそも、宗教的信念を獲得しようとするとき、苦悩の衆生にとっては、その信念を獲得できれば人生の苦悩が消え去る、というような安易さへの要求が起こりがちである。そのために、生命の有る限り消えることのない煩悩をもちながら、「浄土の生を得る」ことなど絶対にあり得ない、という言説が横行することになる。それに対して、「信に死す」というのは、宗教的信念が苦悩の終点であるという誤解を払拭して、真実の生命(煩悩を妨げとせず、苦悩をも乗り越えていく方向)に立ち上がることを表現しようとするのである。

 ここから親鸞が明らかにしようとする「信の一念」(『真宗聖典』239頁参照)には、「前念命終 後念即生」と表現される意味を見いだすことができるということなのである。ここに言う「前・後」は一念の二義であって、決して二念に分かれることを言わんとするものではない。信心に三心が言われても、しかも三心は即ち一心であると示されるように、信の一念に「前念・後念」の二義を開いて、宗教的信念のもつ実存的意味を示そうとするのである。「死す」という意味と、「生きる」という意味が、一念同時に成り立つことが、本願による衆生救済の事実であり、それが真の宗教的救済だということなのである。

 さらに言葉を重ねて表現するなら、周知のように他力の信心には、「二種の深信」(『真宗聖典』215216頁参照)と言われる意味がある。「機の深信」・「法の深信」と言われていることがらである。善導が言わんとする二種の深信とは、信心の二義である。決して一方の条件で他方が成り立つという交換条件的関係を表すものではないし、一方が成り立つとき他方は不要になるのでもない。他力至極の金剛信に必然的に内具する二義なのである。宗教的自覚とは、自己の有限なることの事実の信知と、それを護持してやまない無限なる大悲心への信順をもって、この矛盾多き生存を生きる智恵なのである。

 しかしここに「前後」という言葉があることは、信念に次第があるということでもある。無明の闇を破ってこそ、光明の広海に出る喜びがあるということである。

(2020年11月1日)

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第208回「〈願に生きる〉ということ」④

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 16 「〈願に生きる〉ということ」

 本願成就の信心は、「本願を信受する」という形で、我らに宗教的事実を興起せしめる。その宗教的事実を、一般的には救済と言い、仏教一般では「悟り」とか「菩提」などと表現し、浄土教では「往生浄土」と表現しているのだと思うのだが、それぞれその歴史において、内実や表現が微妙に異なっている。大悲の本願において探求された一切の凡夫の宗教的救済の事実とは、「本願成就の真実信心」であるというのが、親鸞の宗教的救済の信念であるということである。

 それが真実の信心であるということは、我らの自力が決して混じらないということである。その獲信は難中の難と言われるように、我らに厳しく自己吟味が問われてくる問題である。第十八願文が「欲生」を呼びかけるときに、人間の条件を加えていないということは、我らの自力は不必要なのだと知れ、ということである。これが、自力の妄念(これを善導は定散の自心という)に生きている我らには、まったく取り付くしまがないように映るのである。真実の信心とは、我らが無想離念(定心の極地)になることでもないし、単なるあなた任せで無責任になることでもない。本願が名号を選んだのだからと自分で名号を称することを功績にする(散心)ことでもない。

 本願力が呼びかけることに、全面的に信順せよということである。それは、仏願力が衆生に「根源的な存在の満足」を与えようとすること、つまり仏道で言うなら「大涅槃」を開かせようと願っていることに、全面的に信頼し随順することである。

 本願の成就として衆生に宗教的事実が成り立つことを、「前念命終」と言うのだ、すなわち自力妄念の生命の終嫣を「命終」というのだ、とされたのである。そのことを善導の『往生礼讃』の「前念命終 後念即生」という表現に、親鸞が見定めたのである。そして『愚禿鈔』(『真宗聖典』430頁)では、「後念即生」とあるところを、本願成就文の「即得往生」で押さえてある。

 その表現に先立って、信心の内実全体に「真実浄信心は、内因なり。摂取不捨は、外縁なり」(同前)という言葉がある。これは阿弥陀如来の光明摂取を受けて、信心には先に述べてきたごとき「絶対満足」の生活が成り立つことを言わんとしているのである。ここに、「内因」とあるのは、「信巻」冒頭の大信心の十二徳に置かれた「証大涅槃の真因」(『真宗聖典』211頁)の意味の「因」を言っているのである。この因の果となるものは、「大涅槃」だということである。

 この因果は、言うまでもなく本願の誓う因果である。大乗仏教が「煩悩即菩提 生死即涅槃」と正覚のありかたを押さえたことを、法蔵菩薩の本願が浄土建立の物語の因果によって、一切の凡夫の上に成就すべく、立ち上がったと親鸞は見たということである。

(2020年10月1日)

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