
『アンジャリ』第42号
(2022年12月)
■ 特集「「境界」が現れるとき」
奥野 克巳 「境界なき世界の往還と他力――浄土思想からアニミズムを読み解く――」
吉水 岳彦 「慈愛の境界」
栗田 哲男 「「チベット」という語に潜む固定観念」
■ 連載
■ Eassais(エッセイズ)
眞野 明美 「ウィシュマさんが生きていけた社会」
竹村 瑞穂 「スポーツの意味と美しさについて」
横山百合子 「「日記」を書く遊女たち」
『アンジャリ』第42号
(2022年12月)
奥野 克巳 「境界なき世界の往還と他力――浄土思想からアニミズムを読み解く――」
吉水 岳彦 「慈愛の境界」
栗田 哲男 「「チベット」という語に潜む固定観念」
眞野 明美 「ウィシュマさんが生きていけた社会」
竹村 瑞穂 「スポーツの意味と美しさについて」
横山百合子 「「日記」を書く遊女たち」
講師 本多 弘之 「涅槃、本当に生きることができる場所に立つ」
報告 越部 良一
講師 木村 哲也 「忘れられた存在を語り直す/忘れられた存在と出会い直す―ハンセン病問題と駐在保健婦―」
報告 菊池 弘宣
テーマ:近代の宗門教育制度と清沢満之
江島 尚俊 「明治前期・真宗大谷派における教育制度の特徴—他宗派との比較から考える―」
川口 淳 「メディアにみる大谷派教育と改革運動 —明治20年代の一考察」
藤原 智 「清沢満之と真宗大学(東京)の運営」
林 淳(コメンテーター)
東 真行(司会)
長谷川琢哉(開催趣旨・報告)
菊池 弘宣 「源空聖人の真像の銘文( 『選択集』 に関する銘文)③」
田村 晃徳 「寺川俊昭(1928〜2021)」
親鸞仏教センター主任研究員
加来 雄之
(KAKU Takeshi)
「また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆえに、「善知識」と名づく。何をもってのゆえに。病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆえに。」(『教行信証』化身土巻、『真宗聖典』354頁)
ブッダが大いなる医師に、その教えが薬に喩えられることは、よく知られていることである。
私が愛読している仏教通信誌に『崇信』がある。その最近号に次の文が出ていた。
語れないことを語ってしまっていないか、語りすぎていないか、ということがあります。これは児玉〔暁洋〕先生が、どこかでいわれていたことだと思いますが、医者は間違った薬を出したり、間違った処置をしたら、人を殺してしまうことがある。お坊さんは間違った説教をしたら、いのちを殺してしまう、というようなことをいわれていたと思います。(7頁)
この文を記したのが岸上仁氏である。医者であり僧侶でありまた仏教研究者でもある岸上氏の表現だけに説得力がある。そして、このことは、私もつねづね感じていたことであった。もちろん私も、人生に苦悩を抱えた一人と向き合うときは、それなりに緊張し、言葉を選びながら語っている。数学においてはたった一つの数字のミス、法廷においては不用意な一言が、致命的な結果をもたらすことになる。果たして私はそのような厳しさをもって、仏典を読み、仏教を他者に語っているだろうか。はたして私は、医療行為に関わるような覚悟をもって、親鸞の教えに関わっているだろうか。
いや、私には、そのような姿勢はないとはっきりと言える。先ほどの岸上氏の文のもととなった児玉師の言葉の中に「人びとが、それほど真剣に聴いてくれないのであるから幸いであるが」という指摘がある。その状況に救いを見出しているのが私の正直なところである。
お釈迦さまは、多くの場合、ただ一人の人に向かって、その人の問いに対して、語りかけている。そこに人生の医師として応病与薬(病に応じて薬を与える)という厳粛な姿勢がある。一人の人生を左右するような極限の場面においては、語ってはいけない時と言葉があり、語らねばならない時と言葉があるのだ。
仏教を他者に語るとはどういうことか。それは、冷たい説明や解答を提供することでもなく、相手の感情に巻き込まれることでもなく、時流に迎合することでもない。たとえ正解はなくとも、たとえ試行錯誤に終わっても、つねに生きることの深みと悲しみに立って、ともに如来の智慧のもとに所与の問題に向かい合うことなのだ。
私は、『親鸞仏教センター通信』80号のリレーコラム欄(「近現代の真宗をめぐる人々」)において、山形県大石田町浄栄寺の住職であった織江祐法(1913~1989)氏と安田理深先生夫妻との交流について紹介させてもらった。祐法氏の肖像掲載の許可をとるために孫で現住職の織江尚史さんに連絡した。そのとき、祐法氏の生誕100周年記念誌『ふるさと』に掲載されている、手術前のものと手術後のものとの二つのご夫婦の写真を示し、できれば祐法氏が手術によって上顎と口蓋を失った写真を使用したいと申し入れた。スペースの関係で二つを載せることは難しかったからである。
尚史さんは、遺族としては元気なときの祖父母の写真が好ましいが、術後の写真でも問題ないとの返答があった。それでも私は心配で、「前回、掲載写真についてお気持ちを聞かせていただき感銘を致したのですが、やはりご遺族様のお気持ちが気に掛かっております。ご連絡お待ちします」というメッセージを送った。尚史氏より次のようなメッセージが返ってきた。
「写真については、この写真が病気を患った祖父のありのままの姿でありますので、そのまま載せていただいてもよいと考えます。手術後の写真を人目にさらすことを避けるようでは、門徒さんの前でもあえてマスクをつけなかった祖父の思いに反するような気がするからです。」
この返事を受けて、ありのままの姿を正直に生きようとした祐法氏の勇気を改めて教えられ、またそのことを受けとめようとするご遺族の姿勢に感じるものがあった。ここに掲載できなかったご夫婦のもう1枚の写真を載せておく。
織江氏の問いがもつ特異性は、病気の苦痛や不安に加えて、教えが説くような病気を事実のままに受けとめる信仰が実現できず動揺するという不審を正直に告白したことにある。この不審という病に対する薬を祐法氏は求めていた。安田理深夫妻の処方した薬は、すぐ効くということにはならなかったが、決して完治することのない実存の病において命終わるまで服用しつづける質のものとなった。
(2022年7月1日)
【参考文献】『ふるさと——父からのたより——(織江祐法・義 生誕100周年記念誌)』(浄栄寺、2014年)。本多弘之「安田理深『僧伽』を念じつづけて 『織江氏の問いに答えて』(『親鸞に出会った人びと5』同朋舎)。『崇信』(崇信学舎、2022年5月1日発行)。
KAKEN等を参照。
井手 英策 「尊厳と思いやりが交響する財政―次の世代がその次の世代とつながるために―」
加来 雄之 「「対偽対仮」という営み――「顕浄土方便化身土文類」の課題――」
全体テーマ:「清沢満之から問われるもの――異領域間の「対話」は可能か?――」
【問題提起】
繁田 真爾 「方法としての〈清沢満之〉の可能性――「悪」と近代への問い」
名畑直日児 「清沢満之再誕――その歴史的意味」
杉本 耕一 「今村仁司の清沢満之論と「宗教哲学」の課題」
【全体討議】
岩田 文昭(コメンテーター)・名和 達宣(司会)
【追想】
岩田 文昭「杉本耕一君の逝去を受けて」
下田 正弘 「称名念仏と浄土―現代の思想的課題からの照射―」
本多 弘之 「深層意識の自覚化」
本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(21)」
講師 本多 弘之 「名が行となるということ」
報告 越部 良一
講師 内藤 正典 「イスラームとその世界―私たちが知っておくべきこと―」
報告 田村 晃徳
講師 加来 雄之 「「対偽対仮」という営み―「顕浄土方便化身土文類」の課題―」
報告 藤原 智
テーマ 「清沢満之から問われるもの―異領域間の「対話」は可能か?―」
繁田 真爾 「方法としての〈清沢満之〉の可能性―― 「悪」と近代への問い ――」
名畑直日児 「満之再誕―― その歴史的意味 ――」
杉本 耕一 「今村仁司の清沢満之論と「宗教哲学」の課題」
岩田 文昭(コメンテーター) 名和 達宣(司会・企画)
内記 洸 「善導大師の銘文」(2)
名和 達宣 「鎌倉市稲村ヶ崎・寸心荘」
芹沢 俊介 「『観経』の世界・私観」
向谷地生良 「病むこと、生きること――べてるの家の歩みかた――」
加来 雄之 「清沢満之と宗教言説――自足と修養――」
織田 顕祐 「大乗『涅槃経』の思想と『教行信証』」
【問題提起】
香川 知晶 「いま〈いのち〉に向き合うということ――メタバイオエシックスの視点から――」
【全体討議】
池上 哲司(コメンテーター)
テーマ:「「ともに生きる」世界を再生するために」
【講演】
内山 節 「「ともに生きる」世界を取り戻すために」
本多 弘之 「本願の共同体」
本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(10)」