親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

Vol.01「教誡(きょうかい)」という言葉のもつ課題

親鸞仏教センター研究員

藤原 智

(FUJIWARA Satoru)

 親鸞仏教センターでは2013年6月より新たに『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会を発足した。

 『教行信証』「化身土巻・末巻」は浄土教文献の引用もほとんどなく、『教行信証』全体のなかで特異な文脈であると感じられる。そのためか、これまでの『教行信証』研究の歴史でも、この「末巻」に焦点が当てられたものは少ない。本研究会では、「末巻」冒頭での「教誡」という言葉を軸に、「末巻」のもつ意義を確かめていく試みをしている。

 第一回・第二回の研究会では、まずこの言葉のもつ意味が確認された。今回はその報告である。

■ 『大無量寿経』における「教誡」

 『教行信証』には「化身土巻」の三願転入と呼ばれる文の後に、「教誡」という言葉が二度使われる。その一つが「末巻」冒頭であり、そこで次のように述べられる。

それ、もろもろの修多羅(しゅたら)に拠(よ)って真偽(しんぎ)を勘決(かんけつ)して、外教邪偽(げきょうじゃぎ)の異執(いしゅう)を教誡(きょうかい)せば、

『真宗聖典』368頁、東本願寺出版部

 この「教誡」という言葉は、元々『大無量寿経』のいわゆる三毒五悪段の三毒段の終わりと、五悪段の終わりに計二度出てくる言葉である。親鸞は『大無量寿経』を真実教と選び取ったのであるから、「化身土巻」の「教誡」という言葉もこの『大無量寿経』で説かれる「教誡」に基づくものと言えよう。

 『大無量寿経』は、始めに法蔵菩薩の発願と修行、その成就としての阿弥陀仏の浄土の荘厳が説かれる。そして、その浄土の三種荘厳が説かれた後に、三毒五悪段が展開する。そこでは対告衆が凡夫阿難から菩薩弥勒に変わり、そして穢土の衆生の姿が貪・瞋・痴の三毒や、五悪として語り出されるのである。その三毒段と五悪段のそれぞれの終わりに「教誡」の語は語られる。まず前者を見てみよう。

 釈尊は弥勒菩薩に衆生の三毒を語った最後に、

 

それ心を至して安楽国(あんらくこく)に生まれんと願ずることある者は智慧(ちえ)明達(みょうだつ)し功徳(くどく)殊勝(しゅしょう)なることを得べし。

『真宗聖典』63頁

と、至心をもって浄土を願生すべきことを説く。つまり、この「至心願生安楽国」にこそ、衆生の三毒五悪を超える智慧の獲得があることを説くのである。この仏語に対して、弥勒菩薩は、

仏語(ぶつご)の教誡(きょうかい)、甚(はなは)だ深く甚(はなは)だ善し。

『真宗聖典』63頁

と応える。世間の三毒を通して「至心願生安楽国」と説く仏語を、「教誡」として弥勒は我が身に受け止めるのである。

 『大無量寿経』が「教誡」を語るもう一つの箇所を見てみよう。釈尊は三毒段の後に五悪段を展開するが、その終わりにおいて、「吾(われ)世を去りて後、経道(きょうどう)漸(ようや)く滅(めっ)し人民(にんみん)諂偽(てんぎ)ならん」と自己の滅後を予言し、弥勒に次のように言う。

仏(ぶつ)、弥勒(みろく)に語りたまわく、「汝等(なんだち)おのおの善くこれを思いて転(うた)た相(あい)教誡(きょうかい)す。仏(ぶつ)の経法(きょうぼう)のごとくして犯(おか)すこと得ることなかれ」と。

ここに弥勒(みろく)菩薩(ぼさつ)、掌(たなごころ)を合(あ)わせて白(もう)して言(もう)さく、「仏の所説甚(はなは)だ苦(ねんごろ)なり。世人(せにん)実(まこと)に爾(しか)なり。如来(にょらい)、普(あまね)く慈(あわれ)みて哀愍(あいみん)して、ことごとく度脱(どだつ)せしむ。仏の重誨(じゅうけ)を受けて敢(あえ)て違失(いしつ)せざれ」と。

『真宗聖典』78~79頁、改行筆者)

ここで釈尊が問題にしているのは、「吾世を去りて後」と言われる「五濁の世、無仏の時」である。その仏滅後における衆生の諂偽・衆悪について、釈尊は弥勒に「相教誡せよ」と説くのであり、弥勒は釈尊に対して「仏の重誨を受けて敢て違失せざれ」と仏の教えを守ることを誓うのである。釈尊は弥勒に世間のただなかにおいて「相教誡せよ」と説くが、それを果たす智慧は、先の三毒段に説かれ弥勒が「仏語の教誡」と受け止めた「至心願生安楽国」という信念にある。そして、この「教誡」という課題を託された弥勒は、続く智慧段で釈尊に胎生(たいしょう)・化生(けしょう)の問いを出すことになる。この問題は『教行信証』では三願転入として展開していく。

 以上のように語られる「教誡」という言葉を、親鸞は「化身土巻」で三願転入の後に語っていく。『大無量寿経』が説く釈尊滅後の衆生の諂偽なる世界とは、親鸞にはみずからが身を置いた時代社会を意味すると受け止められていたに違いない。親鸞は、時代社会とそこに生きる人間の悪を『大無量寿経』三毒五悪段に聞き、それを超克(ちょうこく)する教えを「教誡」に見いだした。これを明らかにするのが『教行信証』撰述の事情ではないだろうか。

■ 「教誡」を語りうる立脚地

 以上のように見てくると、『大無量寿経』の「教誡」は「至心願生安楽国」に集約される。その「至心願生安楽国」という信念の獲得こそ、『大無量寿経』の宗致である本願の成就である。そして、その本願成就の信心について述べたのが『教行信証』「信巻」、及び「化身土巻」である。

 「信巻」には本願成就の信心が生み出す人間像として真仏弟子釈という論述がある。この論述の初めに、先に挙げた『大無量寿経』の「至心願生安楽国」の言葉が引用されている(『真宗聖典』245頁参照)。つまり、この釈尊の「教誡」を聞く者が、真仏弟子とされているのである。そうであれば、弥勒に託された「教誡」という課題を語りうるのは、本願成就に獲得される「願生浄土」の志願だけだと言えよう。
 親鸞は真仏弟子釈で、信心の人は弥勒と同じと言う。『大無量寿経』の教えによって弥勒と同じ地位を賜るということは、それに止まらず『大無量寿経』で釈尊が弥勒菩薩に託した「相教誡せよ」という使命に、『大無量寿経』の教恩を受けた者として報(こた)え、その責任を担うということがあるのではないか。ここに親鸞が「化身土巻」で「教誡」を語っていく意味があるように思われる。このような視点をもって本研究会を進めていきたい。

(文責:親鸞仏教センター)

※本報告の詳細については『現代と親鸞』第27号(2013年12月1日号)に論文として掲載しています。

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