親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

表紙 2
今、改めてメディアを問う――その過去・現在・未来、そして仏教(特集趣旨1/30)
今、改めてメディアを問う ―その過去・現在・未来、そして仏教― 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤 真 (ITO Makoto) 親鸞仏教センター研究員 宮部 峻 (MIYABE Takashi)  親鸞仏教センターでは、2001年の設立以来、雑誌『añjali』を毎年2回(6月と12月)発行してきました。  しかし2020年、コロナ・ウイルスの感染拡大による印刷、発送作業、配送などの困難のために、予定通り発行できない苦境に陥りました。そこで私たちは新たに『añjali...
表紙 2
大根・仏教・メディア
大根・仏教・メディア 『フリースタイルな僧侶たち』編集長 稲田 ズイキ (INADA Zuiki) 「稲田さんは僧侶として情報発信をされてますが」    ごくたまに取材などで初めて会った方に、このように言われることがある。いつも私はこの言葉にモヤモヤする。情報発信、うん、情報発信と言えるのだろうか。わからない。    もちろん、判然としない言葉で語られるのは、自分が実態の見えない活動をしているせいなのだけど、なんだか渋い気持ちがする。この渋味はなんなのだろう。   先日のインタビュアーの方は、単刀直入にこう言ってくれた。   「稲田さんって、ぶっちゃけ何をしているのですか?」   潔い質問である。私はぽつぽつとこのように語った。   「『フリースタイルな僧侶たち』という雑誌の編集をしていたり、仏教にまつわるコラムを書いたり、エッセイ、小説、漫画の原作を書いたり、今はそんな感じですかね……」   「なるほど。それってつまり、なんなんですかね?」   言葉に詰まった。あちら側もすごく言いにくそうに質問をしてくれている。    自分がやっていることってなんなのだろうか。たしかに、あまりにも漠然としている。ついうっかり「情報発信」と言いそうになる気持ちを抑えながら、頭の中を必死で駆け回り、うっすらと浮かび上がったある一つのイメージを言葉にした。   「なんか、大根を作って渡してる感じなんですよね」   明らかにインタビュアーは困惑していた。見事なまでになんの伏線もない、斜め上の角度から繰り出された大根に、言葉を失っていたのだ。    案の定というか当たり前だけど、この発言は原稿ではカットされていた。でも、この支離滅裂な一言が、私の一番深いところからやってきた、濁りのない言葉であったのは確かなのである。    ありがたいことに、この度は「メディアと仏教」について何か書いてほしいと、お題をいただいた。そこで、今自分が僧侶として、または一人の人間として、メディアというものとどのように向き合っているのか、決して無関係ではない「大根」の真意に触れながら、書いてみたいと思う。    「情報発信」の言葉がここまで当たり前のものとして受け入れられるようになったのは、言わずもがな、SNSの登場が契機となっているだろう。    現実の会話と異なり、Twitter、Instagram、TikTokなどのSNSを中心としたデジタル空間でのコミュニケーションの特徴は、特定の聞き手を不在にしたままに情報が送信されることにある。ゆえに、「発信」の側面だけが、今社会で躍り出ているといったところだろうか。    私が「情報発信」というスタンスに違和感をおぼえるのは、その言葉が一方的な行いを指して使われるものだからである。コミュニケーションは、発信と受信の往復、そしてその主客の交代の連続によって成立している。    だとするならば、「情報発信」というあり方を自分のスタンスとして置く行為は、絶えず流れるコミュニケーションの循環に石を置くような行為と思えて仕方がない。むしろ受信こそ私がやるべき仕事のような気がするのだ。    このような自分のありたい姿と、僧侶という切っても切り離せない肖像とが、ぶつかってしまった出来事として象徴的だったものがある。それは私がまだ学生時代の話で、僧侶となって一年も経たない頃のことだった。    映画監督の友達と、実家のお寺を舞台にした映画制作の企画を立ちあげた。登場人物に自分を含めた称名寺の家族全員、さらには近所に住む檀家さんのほぼ一家に一人に出演してもらうなどして、『DOPE寺』というミュージカル映画を作ったのだが、とある新聞社さんがその過程を丁寧に取材してくださっていたのだ。    「なぜ映画を作ったのか?」と訊かれて、私は正直に「面白い作品が作りたかった」「来年から就職で東京へ行き、お寺を離れるから、生まれ育ったお寺や檀家さんたちと思い出を作りたかった」と語っていたわけなのだが、楽しみに待っていた新聞の見出しにはこのように書かれていたのだ。   「進む宗教離れ 檀信徒獲得のために奮闘する若き僧侶」    これには、私も家族もがっくしである。本文を合わせて読めば、そう誤読もされないような内容になっていたのだが、わざわざ“そういうことではない”と取材中にも念を押していた文脈で語られてしまうことに驚いたのだ。    担当の記者の方に尋ねると、「デスクにそのように修正されてしまった」と悔しそうにおっしゃっていた。そうか、そういうこともあるのだなと納得したのだが、これは裏を返せば、このように言えるのではないだろうか。    デスク担当が自己判断できるレベルで、今僧侶が何か企画を立てるということが、檀信徒獲得(寺院維持)のためのアピールと当然のように直結していて、そうした寺院を維持するための行為は社会的に見ても正しいということの証である、と。    私はこの新聞の見出しと情報発信という語り口は、根源的に同じものなのではないかと思っている。すべての活動が、社会的マイノリティの立場から自らのプレゼンスを上げるためのアピールとして、評価されてしまうということである。    やや考えすぎかもしれないが、世間的に僧侶という存在を語る上では、こうした一つの文脈しか存在しえない、と印を押されてしまったような虚しさがあった。    私が何か作品やコンテンツを作ったりするのは、「会話がしたいから」に尽きる。今回の原稿の内容に沿っていえば、発信と受信の循環を生み出したいのである。さらに大きなことを言うならば、聞き手を不在にしたまま、それでもたくさんのものたちと「会話」をする手段として、人類は「創作」という営みを発明したのではないかとすら思うのだ。そりゃいいすぎか。    先述したように、情報発信者(つまるところの“インフルエンサー”と言えるだろうか)として己のスタンスを置く行為は、自分を発信者として権威づけ、受信者を受信者のままに固定する行為につながる。    一方で、「創作」という営みの末に生まれた「作品」には、そうした主客の固定を促すような性質は少ないように思う。    たとえば、私の大好きなバンド、BUMP...
表紙 2
「お寺の掲示板大賞」によるメディアミックスについて
「お寺の掲示板大賞」によるメディアミックスについて 浄土真宗本願寺派僧侶 仏教伝道協会出版事業部課長 江田 智昭 (EDA Tomoaki) 「お寺の掲示板大賞」とは何か?  お寺の門前に設置されている掲示板を使った布教を仏教界では「掲示伝道」と呼んできた。掲示伝道がいつ始まったかは明らかではないが、佛教大学の大谷栄一教授によると、それは明治時代には既に行われており、大正時代には掲示伝道に関する『名句集』が出版されていたとのことである。  この掲示伝道に着目して立ち上げられた企画が「お寺の掲示板大賞」である。掲示板に掲げられている言葉の写真を撮影して、SNSのTwitterやInstagramに投稿してもらい、「いいね」・「リツイート」の反響などを考慮しつつ、大賞を決めようというシンプルな企画である。これは現在私が所属している(公財)仏教伝道協会の主催で2018年に初めて開催された。この企画は寺院関係者でも、それ以外の人々でも「お寺の掲示板」の写真を撮影した人は誰でも応募することが可能であり、その写真の投稿者が表彰されるというルールになっている。  広告宣伝費がゼロの低予算企画であるため、企画を立ち上げた自分自身でさえも成功を疑問視していたが、様々なメディアに取り上げられ、2018年の第1回目は700作品の投稿があった。その後、投稿数は年々増加し、2022年の第5回目の投稿作品数は4093。第1回目に比べると、応募期間が20日間短縮されているが、投稿数は5倍以上となったのである。 「お寺の掲示板大賞」におけるメディアミックス  「お寺の掲示板大賞」は毎年大きな反響を呼んでいるが、その要因を分析すると、一つのポイントは「メディアミックス」にあると言える。  「お寺の掲示板」とは、本来アナログなメディア(媒体)である。掲示板に筆文字の言葉を貼り付け、その前を通りかかる人へメッセージを伝える。時代遅れと言われてもおかしくないメディアだが、そのメディアにSNSと呼ばれる最新のデジタルメディアをミックスさせた企画が「お寺の掲示板大賞」である。  このようなメディアミックスが起こることによって、SNSを利用する世界中の人々がお寺の掲示板の言葉を目にすることが可能となった。本来、掲示板の前を通りかかる人しか見ることができないものが、SNSを通して非常に多くの人々の目に留まり、リツイート(拡散)の機能などによって、さらに拡散されるのである。  この影響力は非常に大きく、掲示板大賞に投稿されている作品は現在、中国国内のネットメディアでも取り上げられている。おそらくSNSを見た日本在住の中国人が掲示板の言葉を翻訳し、中国のサイトにアップしたのだろう。それらのサイトでは、日本の僧侶の伝道姿勢を讃えつつ、中国国内の僧侶を批判するコメントが散見された。このように中国でも話題になった影響により、2019年に福建省仏教協会のシンポジウムに招かれ、「お寺の掲示板大賞」に関する発表を行う機会があった。その際、中国や東南アジアの僧侶から「素晴らしいアイディアだ」というコメントが複数寄せられた。  古来より格言が好きな中国人に日本のお寺の掲示板の言葉がうまくフィットしたらしく、お寺の掲示板に関する記事の中には900以上のコメントを集めたものもあった。これを見て、日本人よりも中国人の方が「お寺の掲示板大賞」を広く受け入れているのではないかと感じたほどである。本来ならば海外で見られない日本のお寺の掲示板の言葉が、中国国内の人々の心に刺さるということはありえないが、「掲示板」というアナログなメディアと、「SNS」というデジタルなメディアのミックスによってこのようなことが実現したのである。 「お寺の掲示板」の可能性  「お寺の掲示板大賞」をきっかけとして、ここ数年「お寺の掲示板」というメディアが多くの日本のテレビ・ラジオ・新聞・雑誌・書籍・ネットメディアなどでも取り上げられている。これも一種のメディアミックスと言えるだろう。このことが掲示板大賞の投稿数の増加とも深く繋がっているのであるが、仏教界の企画でここまで多くのメディアに取り上げられ続けた企画は他におそらくほとんど存在しないと思われる。  なぜこのようなことが起こったかというと、掲示板はお寺以外がほとんど持っていないオープンメディアだからだと思われる。現在は誰でもネットメディア(SNSなど)を通して自由に情報を発信できる時代であるが、掲示板というメディアを持っている存在はかなり限定される。「家の前に掲示板を設置して、いつもそこで情報を発信しています」という一般の人はおそらくいないだろう。  デジタルメディアが隆盛を誇る中、筆文字で情報を発信する「お寺の掲示板」というアナログなメディアが逆にそのアナログさゆえに目立つようになってきた。日常生活の中でパソコンのフォントの文字に慣れすぎている私たちにとって、素朴な筆文字に思わず目が惹きつけられる。そして、お寺がそれまでに培ってきた伝統が掲示板の言葉に重みやギャップを与え、お寺の掲示板の言葉に注目が集まるようになったのではないかと私は分析している。多くの寺院関係者にとって、門前の掲示板の存在はこれまで当たり前のものであったかもしれないが、実は大変貴重な財産だったのである。  「日本のお寺は、単なる風景に過ぎなかった」という新興宗教の信者による発言が以前話題になった。これは日本の伝統仏教への批判でもあったのだが、門前の掲示板を有効に活用することによって、風景で終わらせないことができるのではないかと私は考えている。「お寺の掲示板」は小さな存在であるが、仏教の教えを広める上で大きな可能性を秘めている。このことを多くの人々に知ってもらうため、今後も「お寺の掲示板大賞」を毎年継続していく予定である。 (えだ ともあき 浄土真宗本願寺派僧侶、仏教伝道協会出版事業部課長)  著書に、『お寺の掲示板』(新潮社、2019)、『お寺の掲示板 諸法無我』(新潮社、2021)など。 ※「お寺の掲示板大賞」の詳細は公益財団法人...
表紙 2
メディアとは何か―自己語り・雑誌メディア・日蓮―
メディアとは何か―自己語り・雑誌メディア・日蓮― 大阪大学特任講師 ブレニナ・ユリア (BURENINA Yulia) 「メディアとは自己を仮託する文化装置である」。  この命題を提起したのは、社会学者の加藤晴明だ。  加藤は個人のメディア経験から議論を立ち上げる必要があると問題提起をし、「一人称メディア」「自分メディア」「メディア版自己」といった概念を用いて、自己語りの文化装置(物語装置)としてのメディアの側面に注目する。そして、メディアを単なる情報の媒介物としてではなく、自己と深く関わる表現装置として捉える(加藤晴明『メディアと自己語りの社会学 「自己メディアの社会学」改題・改訂版』〔22世紀アート、2022年、初出2012年〕を参照)。  ブログや、YouTubeなどの動画サイト、さらにはFacebook、Instagram、Twitterなどのソーシャルメディアを駆使して各々のメディア的リアリティを作り出し、日々、「メディア版自己」を発信し続けている現代人を思い浮かべれば、まさに「メディアとは自己を仮託する文化装置」である。  では、ブログやTwitterなどがなかった時代、例えば100年前、人びとはどのようなメディアに自己を仮託し、どのように自己表現をしていたのだろうか。多種多様なメディアが挙げられるが、ここではこれまで私が主に研究してきた日蓮主義と、明治・大正期の学生たちについて、雑誌メディアを例にして考えてみたい。  まず、明治期の学生の投稿を見てみよう。 学校は出ても、外からは生活難が迫って来る、内からは精神的に何の力も得ていない、何だか心淋しい、つまらない、面白くない、ついには腰弁(こしべん)でも何でも甘んじて職につく、そして単調な其日其日を送る。 (「雨新抄」欄、『妙宗』13編5号、1910年5月、97頁より)  「腰弁」(腰に弁当をぶら下げて通勤すること)という用語以外、就活に行き詰まり、生きることに苦しさを感じている学生が、その気持ちをTwitterやFacebookに投稿したとしても、おかしくない文章だ。しかし、まだ続きがある。 今の青年の一部にはこんな人間も居る、精神のない統一のない平凡教育を与える学校の産物としてはまた是非もないのであろうが、国民は災難である、国家は実に危険である、国民に正義操持向上勇猛の気節がなくなったら、どんな物知りをつくったからとて用にはたたない、僕は今の平凡教育を咀うのである。 (同上) これは東京の藤田猛という青年が雑誌『妙宗』に投稿したものである。明治期の青年たちにとっては、雑誌メディアが苦しみを吐露する場であったことがわかる投稿だ。  『妙宗』は、日蓮主義の提唱者として知られる田中智学(1861〜1939年)が1897年から1910年まで刊行していた雑誌である。これまで注目されてこなかったが、実は同誌には多くの読者投稿が掲載されており、藤田のような青年たち、学生たちによるものもみられる。藤田は自分が受けてきた教育に対する不満や自己語りを「国民」や「国家」の問題にまで拡大して述べている。明言されてはいないが、「正義操持向上勇猛の気節」の理想は、彼が日蓮に仮託したのだろう、と私は思う。  では、大正期はどうだろうか。  さきに紹介した藤田の投稿をTwitterに譬えるなら、次に取り上げたいのは大正期のブログに譬えられるものだ。  1921年1月から5月にかけて、雑誌『法華』に「一転機」という51頁におよぶ投稿が4回にわたって連載された。投稿者は、吉村孝一郎という、東京生まれ、東京育ちの、当時26歳の青年。連載第1回目の投稿文は、「日蓮上人によって導かれる一青年の告白です」という言葉で始まっている。『法華』は、1914年に創設された法華会という日蓮・法華系知識人の信仰グループの機関誌であり、日蓮に魅了された大正期の青年たちによる投稿が多く掲載されている雑誌だ。吉村はそのひとりである。  もともと1920年の夏に、自分が自分に語る日記として書き始めたとのことである。しかし、書いているうちに、人に見せるために書く気持ちが起こり、「私の今迄の生涯の生活経験を出来るだけ蒐集活用したものです」、「同じく日蓮の信に生きんとする若い人々の間に幾分なりとも此の文が御参考になれば有り難い事です」と、吉村は投稿の理由を説明している。藤田と同様に吉村も、自分が受けてきた教育に対して強い不満を持っており、「過去一五年間現代教育の悪弊を散々受けぬいた」と、語りだしている。  吉村は、とにかく読書量の多い青年で、中学時代に偉人伝を読み漁り始めたのは、小難しい道徳や人生観の書物を読むことが偉いような気がしたからだという。日記も中学1年からつけ始めた。一時期は吉田松陰と日蓮が心中に並立して不思議な葛藤が生じていたが、やがて松蔭が消え、日蓮が心を支配するようになった。ちょうど雑誌『法華』が発刊され、味方を得たような思いで読み耽ったという。  その後も、吉村は「夢中に宗教の書物を読み、夢中に講習会の話を聞き」歩く学生生活を送った。近角常観(1870〜1941年)や内村鑑三(1861〜1930年)の講話を聞き、『日本及日本人』(三宅雪嶺主筆)、『聖書の研究』(内村鑑三主筆)、『国柱新聞』(田中智学主筆)などを愛読した。すなわち、新聞・雑誌や書籍等の印刷メディアを通して、キリスト教や仏教諸宗派、さらには宗教に限らない、様々な思想運動を横断する大正期の典型的な青年である。  吉村家は代々法華信仰を受け継いでいた。だが、彼にとって重要な転機となったのは、日蓮が遺した文書(遺文)の読書体験である。中学時代に日蓮遺文録を読みだしたという。そして、読み進めるうちに、自然に題目が口から漏れるようになり、一時期は「混沌時代」を過ごしたが、やはり日蓮からは離れることができなかった、と振り返っている。  吉村はのちに「一転機」を投稿した当時の気持ちを、「胸に留まっているものを全部吐き出してしまえば、さっぱりするだろうと思って、4回に亘る長文を書きました」、と述べている。このように雑誌メディアは、大正期の青年たちにとっても、なくてはならない、自己語りの重要な場であった。  とりわけ興味深いのは、自分の投稿の文体について、吉村は次のように説明している点だ。 こんな文体になった一つの原因は御書を読んでいるとご自分を指して日蓮という言葉が実にひんぱんに出てきます。文章とはこういうものだと思い込んだ影響もあるだろうと思います。 (吉村孝一郎「記憶と索引」『法華』51巻4号、1965年4月、20頁より) 御書とは日蓮遺文のことだ。つまり、吉村の自己語りは日蓮自身の自己語りのスタイルの影響を強く受けているということである。  確かに、日蓮遺文を読むと、「日蓮は〜」「日蓮が〜」と自分のことを指す箇所の多さに驚く。私も初めて読んだ時は、かなり戸惑った。しかし、この自己語りしている日蓮こそ、自己語りの場を求めていた明治・大正期の悩める青年たちにとって、大きな魅力を持ったのではないだろうか。彼らは日蓮(とその自己語り)を媒介としてそれぞれの宗教的・精神的な苦悶を共有しながら、雑誌メディアにおいて思い思いの自己語りを披露し合った。もし、彼らが100年後の今を生きていたら、Twitterでつぶやいたり、ブログを綴ったりしたかもしれない。そして、私はそれらをぜひ、読んでみたい。 (ブレニナ・ユリア 大阪大学特任講師)  近年の論文に、「『日蓮主義』という用語について――初期の用例にみる造語背景と用法の変遷」(『近代仏教』第29号、2022)など。 他の著者の論考を読む...
飯島孝良顔写真
隙間だらけの一休年譜――入水未遂事件をめぐって
隙間だらけの一休年譜――入水未遂事件をめぐって 親鸞仏教センター嘱託研究員 花園大学国際禅学研究所専任講師 飯島 孝良 (IIJIMA Takayoshi)  これまで、世界中でどれくらいの人びとが接したかわからないが、少なくとも自分には福音書は読むごとに不可解な衝撃を与える書である。そもそもは大工の息子で律法学者でないイエスが、数多くのたとえ話でユダヤの常識やルールを根柢から見つめ直すよう促していく。更にイエスは病を癒し、悪鬼に憑かれたとされる者を解放し、差別される者たちに寄り添おうとした。そうした行動が多くの支持者を集めつつあることはユダヤ当局から危険視され、最終的には無惨に十字架上で殺されるに到る。そうして、付き従っていた者どもは悉くイエスを見棄て、果ては最も身近で信頼していた筈の弟子たちが、自らの師の下から逃亡していったのである。イエスはというと、刑死に際して「我が神よ、我が神よ、どうして私をお見棄てになるのですか」(マルコ伝十五:34、マタイ伝二十七:46)と絶叫するほかなかったのだという。  だが、現代にまで伝えられる福音書によれば、その弟子たちはイエスとの死別の後、イエスの生涯を読み直し、やがて躓(つまづ)きから立ち上がってイエスからの教えを受け継ぐ道へ進むことになったという(使徒行伝二:14-36ほか)。師を見棄てた弟子たちが、むしろ師の言行のなかに「神の全能」を見出して集団を形成し、最終的には殉教するまでに及ぶのである。この経緯からは、イエスの弟子たちが自分たちの師を真に理解するまでに深刻な「隙間」があり、その「隙間」を埋めようとし続けたことが見受けられる。そして、福音書には現代的な視座からみて「隙間」と思えるものも残されている――例えばペテロなどの弟子が、イエスを裏切ってからどのようなプロセスをたどって再び起ち上がったのか、新約聖書からは充分見出しにくい。むしろ、マルコ伝十六章の補遺部分(9-19)を読むと、イエスを死に追いやった直後のペテロら11人の弟子たちはイエスが「復活」したという報告を聞いてもすぐには信じられなかった、という報告さえ記録されている。そうした点を踏まえると、イエスを裏切ったことと再起したことの間には、よほどの苦悶や懊悩(おうのう)があったのではないかと推察される。だが、その詳細な経緯は語られず、いつの間にか再起しているようにみえるのである。  その意味では、弟子たちが師の言行を崇高なものとして書き記していく行為そのもの、そしてその結実たる言行録や年譜といったメディアそのものが、描ききろうとしても及ばない「隙間」を多く含有せざるを得ない。聖書学者の大貫隆がいわゆる「隙間だらけ」という表現は、言い得て妙である(大貫隆『隙間だらけの聖書――愛と想像力のことば』教文館、1993)。 ***  一休宗純(1394~1481)の行実を伝える『一休和尚年譜』も、じつはそうした「隙間」だらけの代物といえる。多くの日本人にはすっかりお馴染みの「とんち」の小坊主・一休さんを求めてこれを手に取ると、読者はたちまち肩透かしを食らうことだろう。というのも、『一休和尚年譜』には20代はじめまで記録が非常に稀薄であり、幼少期から青年期にかけての足跡があまりみえてこないからである。  とくに印象的なのは、21歳の一休が大津の石山寺にほど近い瀬田川の唐橋で入水未遂に到る応永21年[1414]条である。この年末、慕っていた恩師の謙翁宗為(けんのうそうい、?~1414)と死別した一休は、前年には師から「わしの持てるものはもうおぬしに傾けつくした」と認められてはいた。だが、謙翁は貧しい暮らしを徹底し、師の無因宗因(むいんそういん、1326~1410)からの印可証明(法を嗣いだことを示す証書)もなかった――なお、『一休和尚年譜』では謙翁が敢えて証明を辞退したと付記している。葬儀をする費用も無いほどだったという一休は、そのまま修行を続けることに懊悩していたようである。師と死別したために清水寺で参拝者が断食誦経する「参籠」を試みるが、清水寺のしきたりで大晦日から正月15日までは出来ないこととなっており、思い屈して母の下に話をしに向かう。再び清水寺を参詣したあとの一休について、『一休和尚年譜』応永21年[1414]条の記述を現代語に直して引用すると――   大津の宿に出ると、周建(一休の当時の名)が、よれよれの僧衣でしおれた青菜のような顔色だった(「黲納勃窣(さんのうぼっそつ)にして面(おもて)は菜色(さいしき)を挟む」)ので、地元民のひとりから「小僧さんどうなすった、お師匠に叱りとばされたか、それとも継母にいじめられたんかね」と言われるほどで、歳末にどこでもこしらえる餅がたまたま出来ていたのでいくつか食わせてもらった。そして石山寺で参籠し、ひたすらに自分の修行が堅牢な信念に基づいたもの(「道念堅勁(どうねんけんけい)」)になるよう観音像に黙祷し、7日間参籠した。或る日、そこを出発してさまよい歩き、瀬田川の橋に到り、「ここで水中に身を投げ、死なずにおれば観音菩薩の御加護の疑いないのがわかるが、惜しくも魚の餌にでもなっても来世に志は貫徹できるだろう。観音菩薩がお見棄てになるわけはない」(「吾、身を水中に投ぜん。若(も)し命の全(まった)からんことを得ば、則ち大士の加被(かひ)、疑い無からん。否なれば則ち魚腹に委(ゆだ)ぬと雖(いえど)も、他日必ず所志を遂げん。大士、豈に我を捨てんや」)と入水しようとした。その時、母の使いの者が抱きかかえてとどめ、「これで身をお棄てになっては親不孝ではありますまいか、いずれお悟りになられる日もございましょう、もう遅いとはお思いなすってはなりません」と説得した。一休は止むを得ず、京都におられる母の下へ戻ったのである――。    こうした入水未遂の経緯を国際的に知らしめたのは、ひとつは川端康成(1899~1968)のノーベル賞受賞演説「美しい日本の私」(1968)であろう。川端は、芥川龍之介(1892~1927)や太宰治(1909~1948)の自殺を取り上げたあと、一休の自殺未遂にも詳細に触れている。「もの思ふ人、誰か自殺を思はざる」と述べて、一休が親しみやすい僧のようで「実はまことに峻厳深念な禅の僧」であったとする。 天皇の御子であるとも言はれる一休は、六歳で寺に入り、天才少年詩人のひらめきも見せながら、宗教と人生の根本の疑惑に悩み「神あらば我を救へ。神なくんば我を湖底に沈めて、魚の腹を肥せ。」と、湖に身を投げようとして引きとめられたことがあります。【中略】そして『狂雲集』とその続集には、日本の中世の漢詩、殊に禅僧の詩としては、類ひを絶し、おどろきに肝をつぶすほどの恋愛詩、閨房の秘事までをあらはにした艶詩が見えます。一休は魚を食ひ、酒を飲み、女色を近づけ、禅の戒律、禁制を超越し、それらから自分を解放することによって、そのころの宗教の形骸に反逆し、そのころ戦乱で崩壊の世道人心のなかに、人間の実存、生命の本然の復活、確立を志したのでせう。 (『美しい日本の私』講談社、1969、19~20頁) これは日本文学史において卓抜した死の表象を川端独自の視点から語ったものであって、更にはエドワード・サイデンステッカー(1921~2007)という類まれな翻訳家によって英訳されたため、数多くのメディアで知られるものとなった。こうした一節は演説を終えてまもなくおとずれる川端の自殺をも想起させるが、何よりも一休の禅と文学をきわめて高く評価しているところが印象的である。  ただ、先に紹介した『一休和尚年譜』応永21年条の一節を、ここで改めて想い起して頂きたい。入水未遂に至る21歳当時の一休は、「黲納勃窣にして面は菜色を挟」んで餅の施しをもらうほどに憔悴しきっており、自分の「道念の堅勁なること」を石山寺の観音像に黙祷していた。たとえ恩師と死別したとはいえ、21歳の禅僧としてはいかにもひ弱で情けない姿ではないか。ただ、こうした姿が昨今のニュース報道のように広く目撃されたような傍証はない。当時これほど「情けない」姿であったと伝えるのは、まずは『一休和尚年譜』なのである。本来、年譜というものは師の優れた行実を記録する性格があるから、これを記述した直弟子の祖心紹越(そしんじょうえつ、?~1519)や没倫紹等(もつりんじょうとう、?~1489)が殊更情けない師匠の〈像〉を記録するというのも、俄には考えにくい。  そう考えると、このときの一休が「情けない」姿だったと知っているのは、外ならぬ一休自身だけではないのだろうか。ともすれば、一休は師を喪った絶望を、このような「情けない」自己として弟子たちに敢えて語って聞かせたのではないか。そうした師・一休の語りが、直弟子の受け取ったそのままの〈像〉として『一休和尚年譜』に記述されている、ともいえよう。それは、大死一番の問いに到るまでの青臭く「情けない」姿と、自分たちが深く関わってきた恩師の姿とを隔てる「隙間」があったことを意味するのではないか。その「隙間」を、直弟子たちは敢えて粉飾することなく示した――そのような推察も思い浮かぶ。とはいえ、こうした『年譜』の成立過程や記述意図はあくまで推察である。一休と弟子たちのあいだのみならず、『年譜』とその読者の我々とのあいだにもまた、「隙間」が残されているというほかない。  ここで、『一休和尚年譜』にある「隙間」は埋めるべきだ、と強弁したいのではない。その埋め方には、さまざまな方法があろう。「これほど弱弱しくなったとしても、最終的にはあれほど破天荒で卓抜した禅僧になったのだ」「助平な坊主として知られている一休にも、若い頃の挫折があったのか」などなど……。ただし、一休を極度に規格外で破天荒な禅僧と描くことを急いてはならないのではないか。後代の創作で「情けない」「人間くさい」姿が「立派な」姿として読み替えられることもあり得るが、その〈像〉の造型が過度に進めば、一休の実像からは否応なく乖離していくこととなる。そうしたアプローチの繊細さこそ、〈像〉の難しさであり面白さでもある。こうした「隙間」の埋め方そのものが、ひとつの文学として後代のメディアを賑わせもする。その点で、水上勉(1919~2004)の次の一節は、その代表例として今なお読ませるところがある。 誰しも21歳の一休の自殺未遂ときいて、あの和尚がと、不思議がらぬものはないだろう。だが考え直してみるとよくある話ではないかとも思う。よく人は青年期に急に死にたくなるような一日をもつものだ。一休和尚もぼくらと同じようにやわらかな心をもっておられたのだと思えばいいか。 母の使者なる人は誰であったかしらぬが、ずぶぬれの一休がたどりついた嵯峨野の庵では、母が待っていてくれていただろう。一休と母はどういう会話をしたろうか。簡略すぎる『年譜』の行間に、現代人のわれわれは勝手な想像を羽ばたかせるしかないが、いつの世も親にしてみれば自殺未遂の子の心理は不可解であったろう。いまの世の親たちもめぐりあう風景だ。 親に先立とうとした子をあわれまぬ母がどこにいよう。一休の母は烈婦でもあったから、やさしく説ききかせたか、それとも叱りつけたか。 (『一休を歩く』集英社、1991、60頁/初版はNHK出版、1988)  ここで「簡略すぎる『年譜』の行間に、現代人のわれわれは勝手な想像を羽ばたかせるしかない」と述べる水上は、正直である。水上の指摘通り、当時としては――いや、現代でも――立派な「大人」というべき年齢の一休を前に、実母は何か語り得るものがあったのだろうか。惨めに挫折した息子にかけるべきことばを探しあぐねる親の心境は、そうしたメディアを目にする我々に共感や自省をもたらしもするだろう。  少なくとも、『年譜』の記録に従えば、それからほどなく、一休は華叟宗曇(かそうそうどん、1352~1428)の祥瑞庵(いまの滋賀県大津市)に入門した。挫折を経て改めて求道に立ったのは確かである――それが母のことばで奮起した故かは、わからないことではあるが。 ***  或る卓抜した存在を語る文献を前に、その行動と末路が劇的であればあるほど、ひとつひとつの因果関係を「隙間」なく埋めなければならないと思わされてしまう。しかし、そうした「隙間」はムリヤリ埋めないことにこそ、ひとつの解釈可能性が見出されていくかもしれない。これは何も文献に限らず、ひととひととが互いを理解する際にも生じ得る「隙間」なのではなかろうか。  現代のようにメディアが接しやすいものになればなるほど、そのスピード感が速まれば速まるほど、そこに解釈の余地が見出されにくくなっていく。単純な理解を無理やりにでもつなげて、時間をかけて実態を捉えるよりも即断即決で対象のことを決めつけることもみられがちになろう。しかし、そこに拙速に埋めるべきでない「隙間」があり得ると意識しておくことは、はかならぬ我々自身が何者であるかを判断するうえでひとつの猶予をもたらし、定まりきらぬ将来の自己の〈像〉をより肯定的に探し求めていく契機にもなるような気がしてくる。 (いいじま たかよし 親鸞仏教センター嘱託研究員・花園大学国際禅学研究所専任講師) 他の著者の論考を読む...