親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

メディアとは何か―自己語り・雑誌メディア・日蓮―

大阪大学特任講師

ブレニナ・ユリア

(BURENINA Yulia)

「メディアとは自己を仮託する文化装置である」。


 この命題を提起したのは、社会学者の加藤晴明だ。

 加藤は個人のメディア経験から議論を立ち上げる必要があると問題提起をし、「一人称メディア」「自分メディア」「メディア版自己」といった概念を用いて、自己語りの文化装置(物語装置)としてのメディアの側面に注目する。そして、メディアを単なる情報の媒介物としてではなく、自己と深く関わる表現装置として捉える(加藤晴明『メディアと自己語りの社会学 「自己メディアの社会学」改題・改訂版』〔22世紀アート、2022年、初出2012年〕を参照)。


 ブログや、YouTubeなどの動画サイト、さらにはFacebook、Instagram、Twitterなどのソーシャルメディアを駆使して各々のメディア的リアリティを作り出し、日々、「メディア版自己」を発信し続けている現代人を思い浮かべれば、まさに「メディアとは自己を仮託する文化装置」である。


 では、ブログやTwitterなどがなかった時代、例えば100年前、人びとはどのようなメディアに自己を仮託し、どのように自己表現をしていたのだろうか。多種多様なメディアが挙げられるが、ここではこれまで私が主に研究してきた日蓮主義と、明治・大正期の学生たちについて、雑誌メディアを例にして考えてみたい。


 まず、明治期の学生の投稿を見てみよう。


学校は出ても、外からは生活難が迫って来る、内からは精神的に何の力も得ていない、何だか心淋しい、つまらない、面白くない、ついには腰弁(こしべん)でも何でも甘んじて職につく、そして単調な其日其日を送る。

(「雨新抄」欄、『妙宗』13編5号、1910年5月、97頁より)


 「腰弁」(腰に弁当をぶら下げて通勤すること)という用語以外、就活に行き詰まり、生きることに苦しさを感じている学生が、その気持ちをTwitterやFacebookに投稿したとしても、おかしくない文章だ。しかし、まだ続きがある。


今の青年の一部にはこんな人間も居る、精神のない統一のない平凡教育を与える学校の産物としてはまた是非もないのであろうが、国民は災難である、国家は実に危険である、国民に正義操持向上勇猛の気節がなくなったら、どんな物知りをつくったからとて用にはたたない、僕は今の平凡教育を咀うのである。

(同上)


これは東京の藤田猛という青年が雑誌『妙宗』に投稿したものである。明治期の青年たちにとっては、雑誌メディアが苦しみを吐露する場であったことがわかる投稿だ。


 『妙宗』は、日蓮主義の提唱者として知られる田中智学(1861〜1939年)が1897年から1910年まで刊行していた雑誌である。これまで注目されてこなかったが、実は同誌には多くの読者投稿が掲載されており、藤田のような青年たち、学生たちによるものもみられる。藤田は自分が受けてきた教育に対する不満や自己語りを「国民」や「国家」の問題にまで拡大して述べている。明言されてはいないが、「正義操持向上勇猛の気節」の理想は、彼が日蓮に仮託したのだろう、と私は思う。


 では、大正期はどうだろうか。

 さきに紹介した藤田の投稿をTwitterに譬えるなら、次に取り上げたいのは大正期のブログに譬えられるものだ。


 1921年1月から5月にかけて、雑誌『法華』に「一転機」という51頁におよぶ投稿が4回にわたって連載された。投稿者は、吉村孝一郎という、東京生まれ、東京育ちの、当時26歳の青年。連載第1回目の投稿文は、「日蓮上人によって導かれる一青年の告白です」という言葉で始まっている。『法華』は、1914年に創設された法華会という日蓮・法華系知識人の信仰グループの機関誌であり、日蓮に魅了された大正期の青年たちによる投稿が多く掲載されている雑誌だ。吉村はそのひとりである。


 もともと1920年の夏に、自分が自分に語る日記として書き始めたとのことである。しかし、書いているうちに、人に見せるために書く気持ちが起こり、「私の今迄の生涯の生活経験を出来るだけ蒐集活用したものです」、「同じく日蓮の信に生きんとする若い人々の間に幾分なりとも此の文が御参考になれば有り難い事です」と、吉村は投稿の理由を説明している。藤田と同様に吉村も、自分が受けてきた教育に対して強い不満を持っており、「過去一五年間現代教育の悪弊を散々受けぬいた」と、語りだしている。


 吉村は、とにかく読書量の多い青年で、中学時代に偉人伝を読み漁り始めたのは、小難しい道徳や人生観の書物を読むことが偉いような気がしたからだという。日記も中学1年からつけ始めた。一時期は吉田松陰と日蓮が心中に並立して不思議な葛藤が生じていたが、やがて松蔭が消え、日蓮が心を支配するようになった。ちょうど雑誌『法華』が発刊され、味方を得たような思いで読み耽ったという。


 その後も、吉村は「夢中に宗教の書物を読み、夢中に講習会の話を聞き」歩く学生生活を送った。近角常観(1870〜1941年)や内村鑑三(1861〜1930年)の講話を聞き、『日本及日本人』(三宅雪嶺主筆)、『聖書の研究』(内村鑑三主筆)、『国柱新聞』(田中智学主筆)などを愛読した。すなわち、新聞・雑誌や書籍等の印刷メディアを通して、キリスト教や仏教諸宗派、さらには宗教に限らない、様々な思想運動を横断する大正期の典型的な青年である。


 吉村家は代々法華信仰を受け継いでいた。だが、彼にとって重要な転機となったのは、日蓮が遺した文書(遺文)の読書体験である。中学時代に日蓮遺文録を読みだしたという。そして、読み進めるうちに、自然に題目が口から漏れるようになり、一時期は「混沌時代」を過ごしたが、やはり日蓮からは離れることができなかった、と振り返っている。


 吉村はのちに「一転機」を投稿した当時の気持ちを、「胸に留まっているものを全部吐き出してしまえば、さっぱりするだろうと思って、4回に亘る長文を書きました」、と述べている。このように雑誌メディアは、大正期の青年たちにとっても、なくてはならない、自己語りの重要な場であった。


 とりわけ興味深いのは、自分の投稿の文体について、吉村は次のように説明している点だ。


こんな文体になった一つの原因は御書を読んでいるとご自分を指して日蓮という言葉が実にひんぱんに出てきます。文章とはこういうものだと思い込んだ影響もあるだろうと思います。

(吉村孝一郎「記憶と索引」『法華』51巻4号、1965年4月、20頁より)


御書とは日蓮遺文のことだ。つまり、吉村の自己語りは日蓮自身の自己語りのスタイルの影響を強く受けているということである。


 確かに、日蓮遺文を読むと、「日蓮は〜」「日蓮が〜」と自分のことを指す箇所の多さに驚く。私も初めて読んだ時は、かなり戸惑った。しかし、この自己語りしている日蓮こそ、自己語りの場を求めていた明治・大正期の悩める青年たちにとって、大きな魅力を持ったのではないだろうか。彼らは日蓮(とその自己語り)を媒介としてそれぞれの宗教的・精神的な苦悶を共有しながら、雑誌メディアにおいて思い思いの自己語りを披露し合った。もし、彼らが100年後の今を生きていたら、Twitterでつぶやいたり、ブログを綴ったりしたかもしれない。そして、私はそれらをぜひ、読んでみたい。

(ブレニナ・ユリア 大阪大学特任講師)

 近年の論文に、「『日蓮主義』という用語について――初期の用例にみる造語背景と用法の変遷」(『近代仏教』第29号、2022)など。

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