忘却を経てなお――森﨑東の言葉に寄せて

親鸞仏教センター研究員
東 真行
(AZUMA Shingyo)
言葉はあくまで伝えたいことの「入れ物」なのだと、ある音楽家はいう。寺尾紗穂氏が述べるように「歌」と「訴え」が相通じているとして、こんな言い換えは可能だろうか。訴えの込められた入れ物が歌だと。
切実な思いだからこそ、音に乗せるのか。親鸞もたくさんの和讃を遺している。それらは黙読される文字である以上に、読誦される言葉として今なお息づいている。読む者のみならず、勤行の会座を共にする聴聞者の心身をも文字通り震わせてきた。
昨年の7月になくなった映画監督、森崎東のことをふと連想する。卓越した感性で引用される数多の「歌」と、観念的とも評される直截的な「訴え」とが、森崎作品では同居している。
藤井仁子編『森崎東党宣言』(インスクリプト、2013年)には使用楽曲が約20頁にわたってリスト化されているほどで、本人のエッセイ集『頭は一つずつ配給されている』(パピルスあい、2004年)でもよく「歌」、すなわち往時の流行歌から軍歌、民謡、都々逸、漢詩、革命歌から校歌に至るまでが言及される。森崎は自身の人生を「片端から憶えては忘れてきた歌の総和である」(『頭は一つずつ配給されている』、374頁)と述懐するが、ここに「忘却」という晩年の課題が示唆されてもいるのだろう。
その「訴え」については、敗戦の翌日に自殺した兄、湊に反発するゆえの「左傾傾向」(『森崎東党宣言』、186頁)を告白する通り、天皇制や原子力発電をたびたび烈しく批判した。
また、森崎は「身」にまなざしを注いだ作家でもあった。『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』(1979年)や『ペコロスの母に会いに行く』(2013年)では深刻な場面であればこそ、殊更に主人公たちの生身の存在感を強調している。渥美清演じる刑事の水虫、岩松了演じる漫画家の禿頭に執拗なまでに焦点を当てるという演出がそれであり、私などは何というか呆然とするばかりだ。
「精神」と聞いた途端に何やら心に重い疲れを感じる戦中派にとって、霊にしろ、心にしろ、魂にしろ、いわゆる精神論そのものが耐えがたくカッタルイのである。
(『頭は一つずつ配給されている』、383頁)
鈴木大拙のいう「霊性」が果たして「いわゆる精神論」であるかはともかく、大拙の表現に首肯し得なかったと記す森崎である。だからといって身体にのみこだわったわけではない。「日本精神」の鍛錬と称して毎日数百回もの腕立て伏せを断行した兄とは逆の方向で、つまり何らかの強固なイメージに肉体を追いつかせようとするのではなく、むしろ老いていく身体のように精神を捉えること。この身は老病死に遭遇しつつも、まだ何とか生きて血を通わせている。同様に老いる精神にも、しぶとく生々しい肌ざわりを見出し得るのではないか。そのように「身」をみる森崎にとって、心身は老病死の現場であると同時に根源的な生をまざまざと感じる場でもあったのではないか。
晩年の森崎が「認知症」と向き合っていた様子は、ETV特集『記憶は愛である~森崎東・忘却と闘う映画監督~』(2013年)に詳しい。記憶の総和が人生ならば、その喪失過程は生きながらの死か。森崎は自身にその問いを課すのだ。
遺作となった『ペコロスの母に会いに行く』は、ある老女(演じるは赤木春恵)の「認知症」を物語の主軸に据えるという、みずからの苦悩と真正面から対峙する内容である。物語のクライマックスでは、どんな苦難があろうと、大切な記憶を思い起こす力が人間の「身」には生じるのだと高らかに宣言される。どこまでも深く忘れるということがあったうえで、それでも記憶はよみがえるという出来事が描かれており、ここには自身への応答があるのだろう。森崎は次のようにも述べていた。
私は最近ヤタラに忘れっぽくなった自分を死につつある人とは思いません。忘却は死でなく生の普遍現象であって、人は忘却と同時に回想という記憶の再生によって常に新しい生の体験をする。むしろ長い忘却の時間を経ることで、忘れていた体験の真実の意味を知ることすらある。
(『頭は一つずつ配給されている』、379頁)
この稿を書きながら以前お聞きした、ある問いが思い出される。真宗大谷派の僧、暁烏敏から仏教を聞いた岡本禮子(法名は釋暁禮)という方の訴えである。「自分は暁烏先生に出会って、親鸞聖人の教えを聞いて、念仏さえあればどんな人生であっても生きていけると思ってきた。ところが最近は、あれだけ感動した先生の言葉が思い出せない。ときどき娘の名前もわからなくなる。ひょっとするとお念仏も出なくなるかもしれない。それでも私は救われるのか」と(加来雄之『真宗の死生観』〔大和仏教センター、2018年〕を参照)。どんなに深く教えと出会っておられたのだろう。出会ってさえいない者にとっては忘れるどころではない。
森崎は、忘却の時間に裏打ちされた回想では、もともとの経験にそなわる「真実の意味」があらわになる場合さえあると記していた。不可避の忘却を経てなお、常に新鮮に真実を思い起こし得るとは不可思議である。この力には、いかなる表現がふさわしいのだろう。森崎は、あるイギリスの劇作家の「記憶は愛である」(『頭は一つずつ配給されている』、75頁)という言葉を紹介している。あるいは「憶念はすなわちこれ真実の一心なり」(金子大榮校訂『教行信証』、岩波文庫、176頁)と親鸞が記したとき、どんな実感がその胸中に去来していただろうか。
(あずま しんぎょう・親鸞仏教センター研究員)
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