曽我量深に「宿業本能の大地」という言葉がある。宿業とは、それぞれの人間存在をこの世にあらしめてくる深い背景であり、個人的な成り立ちを示す性格の強い言葉である。一方で本能といえば、生物学などが語る種や属に特徴的な性向を表す、かなり一般的な言葉である。

 曽我量深が、この本能なる言葉に何を托(たく)そうとしたのか。これは容易には了解しがたいが、人間にとってある意味で普遍的な宗教的要求(これを西欧ではスピリチュアリティというのだが、仏教の人間観からするなら、仏性というべきであろうか)を、もし根源的に掘り下げるなら、人間における本能であると見たのではないか。その本能を言い当てる言葉に相当する意味を、「宿業」なる言葉に見いだしたのではないか。すなわち、この場合の宿業とは、なぜ凡夫が仏道を求めずにはいられないのか、という問いを内包する概念だということだったのではないか。

 親鸞は、本願の「欲生我国(よくしょうがこく)」の呼びかけを、「如来招喚(しょうかん)の勅命」であると言っている。これを人間の側の能力において了解するなら、安田理深が押さえたように「宗教的本能」とでも呼ぶべき事柄なのであろう。曽我量深の言わんとする意味も、単なる生物学的な本能のことを言うのではなく、本能の語義を宗教的要求にかかわる意味に転換して使っているというべきなのであろう。

 この「欲生」を、如来からの招喚であると表現するのは、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫の側からは、起こすはずがないという慚愧(ざんき)の自覚があるからである。仏性といっても、大乗仏道からいうなら、『涅槃経』が見いだしたように、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」なのである。けれども、『安楽集』で、仏陀はこう見てくださるけれども、それが自分においては一向に確認できないと、道綽が表白している。その課題を法然は、『選択集』の冒頭に置いて、本願が名号を選択(せんじゃく)された意図が我ら凡夫においては、一向に菩提心が成就しないからであり、にもかかわらず仏性を成就せしめんがために、大悲から名号を選択したのだと言おうとしているのである。

 そのような慚愧せざるを得ない凡夫の身にもかかわらず、我らはいかに罪障深く煩悩熾盛(しじょう)であろうとも、自己自身の存在の意味を問わずにはおられないということがある。この自己存在の意味探求の意欲こそ、深層から催(もよお)す宗教的要求に相違ない。これの根拠を、本願文に一貫する「欲生」の要求にあると、親鸞は気づかれたのであろう。このことを、因位法蔵願心のいわれに尋ね入って、宗教心が宗教的本能であって、それを経典が如来の意欲だと教えているのだと考察したのが、曽我量深の「宿業本能」という表現だったのではなかろうか。

(2017年11月1日) 

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