失敗のプロフェッショナル

校正者

牟田 都子

(MUTA Satoko)

 しょっちゅうものを忘れたり落としたりしている。ハンカチ、マフラー、読みさしの本。性格だからもはや直らないとあきらめているけれど、あきらめきれないのは「落としましたよ」と声をかけてくれた人に対する自分のふるまいだ。仏頂面のまま口の中でもごもごと謝意らしきものをつぶやければましなほうで、ときには逃げるように立ち去ってしまう。恥ずかしさが先に立ち、満足に礼も言えない自分のちっぽけさがほとほといやになる。

 本の校正は、編集者や著者に「落ちてましたよ」と声をかける仕事だといえる。ゲラ(校正のための試し刷り)を読んで誤字脱字、文法の誤りや事実関係の混乱などを指摘することを「拾う」という。完璧な人間などいないから、どれほど注意深い著者であってもゲラの上には何かしら「落とし物」が残っている。

 気を遣うのは「うっかり」に見えて「あえて」の場合もあるからだ。小説の中で友人を訪ねた主人公が、三鷹市井の頭六丁目にあるアパートの呼び鈴を鳴らす。調べると「三鷹市井の頭」は五丁目までしかない。そこで「六丁目」を「誤り」と考えるのは早計で、実在の風景に巧みに虚構を紛れ込ませる著者もいる。そうした著者に「落としましたよ」と大声で呼びかけたら、叱られてもしかたがない。かと思えば、「井【之】頭一丁目」が単純な書き間違いということもあって気が抜けない。

 「落ちてましたよ」と声をかけて、まれに反発を受けることがある。自分が書く側に回ってみると、ゲラに鉛筆で書き込まれた校正者の疑問や提案を見るのは、己の粗忽さを思い知らされることであると得心がいった。ハンカチを差し出されるときと違うのは、こちらに心の準備があることだ。校正者は著者のさまざまなミスを指摘し、解決策を提案する。著者はそれが校正という仕事だと理解しているから耳を傾ける。指摘する側とされる側、双方に構えができている。十分な構えができていない相手の場合、恥をかかされたとか、けちをつけられたと感じてしまうのかもしれない。顔が見えず、声も聞こえない紙の上での意思疎通の難しさには、15年経っても慣れることはない。

 仕事を離れて本を読むときは落とし物係の名札をはずすよう努めているが、思い入れのある本ほど、わずかな瑕疵も気になってしまう。目をつぶっていても拾えるような誤植がなぜ残ってしまったのかと口にしてしまったとき、裏にどのような事情があったのかを想像したいと諭してくれたのは、同業の大先輩だった。穏やかな口調ながら胸に突き刺さったのは、「自分なら拾えていた」という思い上がりを見透かされたからだろう。若いうちにそう言ってくれる先輩を持ったことは幸運だった。

 人間はかならずミスをする生き物で、ミスを防ぐための専門職である校正者といえども、その宿命からは逃れられない。何週間もかけてゲラを読み込み、手に入るかぎりの辞書や資料にあたって誤りを残すまいと努めても、できあがった見本を開いたそこに誤植を見つけてしまうということを、この仕事をしていれば一度ならず経験するのではないだろうか。誤植を見逃すことを「落とす」といって、落とし物係が落とし物をしていては洒落にならないのだが、絶対に落とさない校正者は絶対にいないと言っていい。どんなに有能な校正者であっても、いつかはかならずミスをするもの……と同業の夫に言ったところ、「いつか」ではなく「いま」ではないか、と返された。私たちが誤植を「拾って」いるとき、裏では常に「落として」いる。そう思ってゲラに臨まなければならないというのだ。その意味で私たちは失敗の経験だけは豊富な、失敗のプロフェッショナルといえるかもしれない。

 先日、学校で使われている教科書に大量の誤植が見つかったという報道があった。大きな声では言えないが、どれほど有能な校正者が目を光らせていても、誤植のひとつやふたつは残ってしまうものではないかと思う。とはいえ1200ヵ所というのはけたが違いすぎる。誤りのある教科書を使い続けることによって「学習上の支障を生ずるおそれがある」と判断した出版社は、修正・刷り直しの上で再配布すると発表した。なぜそのような事態が起こったのか、犯人を追う探偵のような推測や憶測が飛び交っていたけれど、ほんとうの事情は当事者にしかわからない。当事者でさえ十全にはわからないということもあるだろう。問うというより責める響きを帯びた「なぜ」にさらされている関係者の胸中を、思わずにはいられなかった。

 誰もが「いつか」ではなく「いま」この瞬間にもミスをしているかもしれないと考えれば、人の失敗を必要以上に責めることは難しくなるのではないだろうか。ミスが起きてしまったとき、原因を突き止めること、再発を防ぐ仕組みを工夫することは大切だ。だが、そのためにはまず指摘しやすく、打ち明けやすい、誰もに「構え」のできている環境であってほしい。明日はわが身、お互い様だと笑って言い合えるくらいが丁度いいと思うのは、甘いだろうか。

(むた さとこ・校正者)

著書に、『文にあたる』(亜紀書房、2022)、共著に『本を贈る』(三輪舎、2018)、『あんぱん ジャムパン クリームパン 女三人モヤモヤ日記』(亜紀書房、2020)など。

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 本の校正は、編集者や著者に「落ちてましたよ」と声をかける仕事だといえる。ゲラ(校正のための試し刷り)を読んで誤字脱字、文法の誤りや事実関係の混乱などを指摘することを「拾う」という。完璧な人間などいないから、どれほど注意深い著者であってもゲラの上には何かしら「落とし物」が残っている。
 気を遣うのは「うっかり」に見えて「あえて」の場合もあるからだ。小説の中で友人を訪ねた主人公が、三鷹市井の頭六丁目にあるアパートの呼び鈴を鳴らす。調べると「三鷹市井の頭」は五丁目までしかない。そこで「六丁目」を「誤り」と考えるのは早計で、実在の風景に巧みに虚構を紛れ込ませる著者もいる。そうした著者に「落としましたよ」と大声で呼びかけたら、叱られてもしかたがない。かと思えば、「井【之】頭一丁目」が単純な書き間違いということもあって気が抜けない。
 「落ちてましたよ」と声をかけて、まれに反発を受けることがある。自分が書く側に回ってみると、ゲラに鉛筆で書き込まれた校正者の疑問や提案を見るのは、己の粗忽さを思い知らされることであると得心がいった。ハンカチを差し出されるときと違うのは、こちらに心の準備があることだ。校正者は著者のさまざまなミスを指摘し、解決策を提案する。著者はそれが校正という仕事だと理解しているから耳を傾ける。指摘する側とされる側、双方に構えができている。十分な構えができていない相手の場合、恥をかかされたとか、けちをつけられたと感じてしまうのかもしれない。顔が見えず、声も聞こえない紙の上での意思疎通の難しさには、15年経っても慣れることはない。
 仕事を離れて本を読むときは落とし物係の名札をはずすよう努めているが、思い入れのある本ほど、わずかな瑕疵も気になってしまう。目をつぶっていても拾えるような誤植がなぜ残ってしまったのかと口にしてしまったとき、裏にどのような事情があったのかを想像したいと諭してくれたのは、同業の大先輩だった。穏やかな口調ながら胸に突き刺さったのは、「自分なら拾えていた」という思い上がりを見透かされたからだろう。若いうちにそう言ってくれる先輩を持ったことは幸運だった。
 人間はかならずミスをする生き物で、ミスを防ぐための専門職である校正者といえども、その宿命からは逃れられない。何週間もかけてゲラを読み込み、手に入るかぎりの辞書や資料にあたって誤りを残すまいと努めても、できあがった見本を開いたそこに誤植を見つけてしまうということを、この仕事をしていれば一度ならず経験するのではないだろうか。誤植を見逃すことを「落とす」といって、落とし物係が落とし物をしていては洒落にならないのだが、絶対に落とさない校正者は絶対にいないと言っていい。どんなに有能な校正者であっても、いつかはかならずミスをするもの……と同業の夫に言ったところ、「いつか」ではなく「いま」ではないか、と返された。私たちが誤植を「拾って」いるとき、裏では常に「落として」いる。そう思ってゲラに臨まなければならないというのだ。その意味で私たちは失敗の経験だけは豊富な、失敗のプロフェッショナルといえるかもしれない。
 先日、学校で使われている教科書に大量の誤植が見つかったという報道があった。大きな声では言えないが、どれほど有能な校正者が目を光らせていても、誤植のひとつやふたつは残ってしまうものではないかと思う。とはいえ1200ヵ所というのはけたが違いすぎる。誤りのある教科書を使い続けることによって「学習上の支障を生ずるおそれがある」と判断した出版社は、修正・刷り直しの上で再配布すると発表した。なぜそのような事態が起こったのか、犯人を追う探偵のような推測や憶測が飛び交っていたけれど、ほんとうの事情は当事者にしかわからない。当事者でさえ十全にはわからないということもあるだろう。問うというより責める響きを帯びた「なぜ」にさらされている関係者の胸中を、思わずにはいられなかった。
 誰もが「いつか」ではなく「いま」この瞬間にもミスをしているかもしれないと考えれば、人の失敗を必要以上に責めることは難しくなるのではないだろうか。ミスが起きてしまったとき、原因を突き止めること、再発を防ぐ仕組みを工夫することは大切だ。だが、そのためにはまず指摘しやすく、打ち明けやすい、誰もに「構え」のできている環境であってほしい。明日はわが身、お互い様だと笑って言い合えるくらいが丁度いいと思うのは、甘いだろうか。
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念仏機
2023年4月28日
念仏機
親鸞仏教センター主任研究員
加来 雄之
(KAKU Takeshi)
 どのような時代でも、どのような社会でも、私たちの問題は、自分の置かれている状況や遭遇する事件を受けとめる自己をどのように実現できるのかということにある。
 人間が、事実そのものではなく、自我関心や価値観にとらわれた「思い」で作り上げた虚構の世界の中に生きている以上、人は不安から逃れることはできない。だからこそ人は、自分や他人の「思い」に左右されない依り処を与えてくれる何かに惹(ひ)かれるのだろう。その「思い」を超えた依り処として何を選ぶのか。それが、その人の生き方を決定する。
 人は、そのような依り処を与えてくれる一つとして宗教(儀礼や信仰)を求めるのかもしれない。
 例えば、毎朝の神仏への礼拝など日々の生活における儀礼的な様式や、誕生や結婚や死などの人々の人生の重要な出来事に結びつく儀礼や、大災害などとの遭遇や痛ましい事件を受けとめるための追悼や鎮霊のような特別な儀礼も、そのような要求を満たしてくれる。
 また占いなどは日々の行動の指標となり、想定外の事件の意味を神仏からの試練として教えてくれる定式化された信条などは、私たちに安定した生き方を与えてくれるだろう。
 しかしそれは本当に「思い」を超えた世界を開いてくるのだろうか。どのような儀礼も信条も、事実そのものを離れて、私たちの「思い」をかなえようとする呪術的・功利的なものにとどまるならば、真の意味で「思い」を超えた世界を開いてこないと思われる。
 かつて大谷大学の学生と共に、他力浄土教の受容の現状について調査するための研修で台湾に行ったことがある。台北にある善導流の浄土教を広めている中華浄土宗協会を訪れたとき「念仏機」なる装置を眼にした(下画像、クリックすると音声が流れます)。それは24時間、協会の指導者が「南無阿弥陀仏」と念仏する声をひたすら流し続けるという装置である。最初はとても違和感を覚えた。一つは、自分で念仏せずに装置に念仏という行を代替させるということに。もう一つは、指導者の声を繰り返し流すということに(その行為が、或るカルト的な宗教の修行方法を連想させたからであった)。
 後で調べると、この種の機械は台湾や中国などではごく一般的で、ネット上でも、それを鳴らしておくことでさまざまな利益が得られるといううたい文句で「ブッダマシーン」などと呼ばれて販売されていた。聞くところによると、交通事故の場所などにはよく置かれており、亡くなった人が成仏できるように、また鬼にならないように、さらに事故が再び起こらないようにと期待されているということであった。いわば除災招福機である。私もそのようなイメージで受けとめたのである。
 ところが協会の或る女性信者に念仏機のことを尋ねたとき、その答えに触れて深く考えさせられた。彼女は次のように語った。
「私は商売をしています。朝から晩まで忙しく客に対応しており、念仏をとなえる暇もありません。しかし念仏機を鳴らしておけば、いつも念仏の中に居ることができるし、阿弥陀仏のことを忘れないですむのです」
 そのとき私は、親鸞聖人が念仏の本質を、仏たちが阿弥陀如来の名を称えて私たちに聞かせてくれることである、と受けとめておられることを思い出した。また流れる念仏が協会の指導者の声であることについても、もし法然上人や親鸞聖人の念仏の声が今に残っていたら私もそれを聴いていたいと思うだろう、と考え直した。ひょっとすると念仏機に違和感をもった私の中には、念仏を自分の行為とし、また手柄とするような発想が残っていたのかもしれない。
 もちろん念仏機を除災招福機として使用している人も多いだろう。しかし思えば、念仏を呪術的・功利的に捉え、現世や来世の幸福を追求するための道具とする傾向は法然上人や親鸞聖人の時代も同じであった。
 私にとって、念仏のイメージが大きく変わったのは、『歎異抄』の有名な親鸞聖人の仰せと出会ったときであった。
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。
(『歎異抄』第二章『真宗聖典』627頁)
ただ念仏して、阿弥陀と名づけられる真実の意味に人生が支えられるならば、地獄におちてしまったとしても、まったく後悔するはずはない。この念仏についての仰せに出会って、私の念仏への印象や向き合い方が変わることになった。
 私はときおり不安に襲われる。欲や怒りの思いに苦しめられる。死が怖く、死後に幸せな世界があればと思う。他人の不幸と比較して自分はまだましだという傲慢な思いに囚われる。私は念仏をすれば、このような思いが解決されるだろうと漠然と考えていた。もちろんこのような不安や功利的な思いは今も私から消えてなくなることはない。しかしこの仰せを聴いたとき、できるならば除災招福の念仏ではなく、このような念仏、「ただ念仏」の仰せにしたがっていきたいと感じた。
 同じ台湾研修旅行の中で、同行した学生の一人が協会の指導者に次のような質問をした。
「あなたは、戒律を護ることができない人々を救う他力の念仏の教えを伝えているのに、どうしてご自身は出家して戒律を護るのですか」と。
 その方は次のように答えた。
「それには二つ理由があります。一つには、私自身は出家の生活が楽しく、好きなのです。もう一つには、台湾では人々に教えを伝えるのに出家の形の方が都合がよいのです。」
 この返答は、私に法然上人の有名な仰せを思い出させた。
現世のすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろずをいといすてて、これをとどむべし。いわく、ひじり(聖)で申されずば、め(妻)をもうけて申すべし。妻をもうけて申されずば、ひじりにて申すべし。〔中略〕衣食住の三は、念仏の助業也。
(『黒谷上人和語灯録』巻五「諸人伝説の詞」)
法然上人は、念仏ができるように聖という出家の形でも妻をもつ俗人の形でも都合のよいものを選べばよいとし、あわせて衣食住は念仏することを助けるための活動だと結論している。それは衣食住を軽んじてもよいという意味ではない。念仏できる人生を、そして人世を実現することを可能にする衣食住がぜひとも必要だという意味である。
 念仏は、この世の営みを否定し、この世の苦しみから逃避するための方法だろうか。そうであれば念仏の生活は次の世のための準備であって、この世において何の内実ももたないことになる。しかし念仏が、この世での営みのすべてを、この人生を深く受けとめていく縁とする場を開くのであれば、「ただ念仏」の生活ほど豊かな内実をもつ生活はない。
 「ただ念仏」というのは、決して他のことよりも念仏を優先せよ、例えば仕事も辞めろ、社会活動も止めろという意味ではない。自分のことも、他者との関係も、今の世界のあり方も、命終の後のことも、すべて如来の慈悲と智慧をとおして受けとめ直すということを意味している。
 科学技術の時代、生理や心理についての科学も発達したこの現代に、法然・親鸞という名に象徴される「ただ念仏」という仰せは必要とされているのだろうか。科学と念仏の生活は矛盾するのだろうか。
 「ただ念仏」は、科学を悪魔扱いしたり、科学のない世を夢想させたりはしない。私たちの生活は科学を必要とする。むしろ「ただ念仏」は、科学を使う人間の「思い」の迷いに気づかせ、「思い」を超えた世界に立ちかえらせる。いかなる人間の属性も状況も問わない唯一の行として選ばれた「ただ念仏」は、人の価値を問わない。そのことによって呪術的・功利的な人生観を超えていく生き方を与えてくれる。
 念仏は、一応は人生の出来事を「そのまま」受け容れる道であると言ってよい。しかし、それは無批判な現実肯定や受容を意味しない。「ただ念仏」は、如来の智慧の中でこの生を尽くしていくという私たちの宣言であり、それは出来事を「そのまま」ではなく「ありのままに」受けとめていこうとする態度表明だからである。だからこそ「ただ念仏」は、如来の悲しみにもとづいた批判が生まれてくるための唯一の場を開く。
 「思い」を離れることのできない私たちは、「思い」ではどうしても受けとめることのできない現実を、どのように受けとめればよいのだろうか。「ただ念仏」という生き方の中には、それを探求してきた仏者たちの歴史が折りたたまれている。
 台湾での「念仏機」との遭遇は、私にとって「念仏」という営みが現代にもつ意味を問い直す「契機」となった。
(かく たけし・親鸞仏教センター主任研究員)
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