子どもたちの幸せのために

龍谷大学経営学部准教授

竹内 綱史

(TAKEUCHI Tsunafumi)

■特集を捉える [森川輝一「誕生を祝うために」へのコメント]

 森川氏の論考は短いながらも内容がとても豊富で、少子化問題やジェンダー論といったアクチュアルなテーマを視野に入れつつ、〈いのち〉の誕生をどう考えるべきかについて、複層的な思索が展開されている。大変啓発的で私としても論旨には基本的に賛成であるが、二点、気になったことを書き留めておきたい。

 ひとつは、「唯一無二の個のはじまり」という点に関してである。森川氏は「誕生」の捉え方を、①生物としての誕生、②唯一無二の個のはじまり、③社会への参入、の三つに区分している。氏はアーレントを参照しつつ②を重視しているのだが、そもそも「誕生とは唯一無二の個のはじまりである」と言い得る根拠は何なのか。言い換えると、そう考えるべきであるということに私も異論はないのだが、その「べし」はいったい何なのだろうか。

 事実として個々人はユニークなのだ、と言いたいところだが、それは無理である。例えば人間以外のあらゆる存在者も物質的に唯一無二であるとは言えるだろうが、その唯一無二性は私たちが人間に帰しているような「かけがえのなさ」とは違うものである。要するに、かけがえのない存在者として誰かから受けいれられて初めて氏の言う「唯一無二の個」であり得るのであって、例えば代えのきく「人材」――これは実に愚劣な言葉だ――などとして扱われている限り、「唯一無二の個」ではあり得ない。だからこそ私たちは生まれてくる子どもたちを「唯一無二の個」として受けいれるべきなのだ、という主張が意味をもつし、先にも述べたようにその主張には私も賛成である。だが問題はそもそもこの「べし」の根拠は何なのかということである。

 私が思うに、その根拠は、生まれてくる子どもたちの幸せのために、ということにならざるを得ないのではないか。だが、森川氏はこの根拠づけを拒否している。というかむしろ、本論考の大半は、「子どもたちの幸せのために」という根拠づけを私たちは使うべきではないという主張に捧げられているのだ。けれどもこれは無理筋な主張であるように私には見える。もちろん、子どもたちの幸せを目的にしているように見える語りが、その実、子どもたちを大人たちの自己保存の手段として道具扱いしていることになりがちだという指摘はもっともだ。それに、「~のために」という思考が、個々人の唯一無二性や予測不可能性――つまり自由――を消去して、型にはめ込んでコントロール可能なものにしてしまう恐れ――つまり全体主義に至る恐れ――があることもその通りだろう。だが、だからといって「子どもたちの幸せために」という想いを全否定してしまうのなら、そもそも「唯一無二の個のはじまり」として誕生を祝うべきだとすら言えなくなってしまうのではないか。

 もっとも、「誕生を祝うために」という本論考のタイトルからして、氏は全体主義の陥穽にはまらないような目的論的思考の可能性を示唆しているように思われる。私はそれを「祈り」のようなものと理解したが、それが氏の意図したものなのかどうかは分からない。

 もうひとつの論点に移ろう。こちらは本論考の趣旨についてというより、私の関心に引きつけた論点で、D・ベネターなどの「反出生主義」に対する評価に関してである。ベネターの人間観は浅薄だといった氏の評言は、全部とは言わなくとも、ある程度妥当であるとは思うが(ベネターの名誉のために書いておくと、ベネターは快と幸福を同一視してはいないし、そもそも問題を切り分けて明確な対立軸を取り出すという議論構成をしているに過ぎないのだが)、反出生主義が提起している問題そのものの軽視は間違っているのではないだろうか。「この世は生きるに値しない」「この世は悪しき場所である」という主張が、古今東西の非常に多くの思想家や宗教者たちの共通認識であったことは忘れてはならないだろう。ベネターらの反出生主義はその現代的な表れであるわけだ。

 私自身はニーチェ哲学研究者で、分野としては宗教哲学を専門としており、ニーチェがショーペンハウアーという言わば史上最強の「反出生主義者」に対していかに反論しようとしていたのかについて、少しばかり研究している(※注1) 。ニーチェは若いころにショーペンハウアーを読んで衝撃を受け、生涯をその反論に捧げた挙句、永遠回帰などのワケの分からない思想に到達することになったのだが、そのワケの分からなさは今は措くとしても、ニーチェがショーペンハウアーに衝撃を受けたことと、それに対して反論せねばならぬと思ったことは、重要なことだと私は考えている。つまりショーペンハウアーの主張が極めて強力であることをニーチェは認めざるを得なかったのだ。

 先にも述べたように、反出生主義とは「この世は生きるに値しない」とか「この世は悪しき場所である」といった古くからある主張の現代的表れと見ることができる。注意すべきは、この場合の「悪しき」というのは、人間が悪さをするからということではなくて、そもそもこの世界はひどい場所だという主張である点だ。社会悪は根絶すべきだし、道徳悪は非難されるべきなのだが、それだけでなく、人間にはどうしようもないような悪――苦しみ――がこの世にはある。いかに善政が敷かれようが、社会がいかに改善されようが、人間がいかに善良になろうが、生きることは本質的に苦しみだということ。仏教やショーペンハウアーがそういった世界観を基本としていることはよく知られている。

 だが、そういった現世否定的な主張はあり得べからざるものだと反応する人は少なくない。その反応が単なる感情的な反発でないとするのなら――そのような反発こそが実は重要だったりするのだが今は措く――、問題はとりわけ、この世がそもそも悪しき場所なら、いかなる改善の努力も無意味だという結論に至る危険があるという点だろう。現世否定は現状肯定に陥りがちなのだ。ショーペンハウアーもそういった批判を受け続けている(ニーチェもそのような批判者の一人だ)。その意味で、森川氏がベネターの「反出生主義」よりもクィア思想家L・エーデルマンの「反生殖未来主義」を高く評価しているのは、政治哲学研究者としては当然なのかもしれない。ベネターのような現世否定的主張が、現状改善のための努力を嘲笑っているように見えるのも分からなくもない。

 とはいえ、ベネターとエーデルマン――あるいは現世否定と現状否定――は質の違う問題を扱っているし、両立可能な主張であるはずだ。人間の努力ではどうしようもない現世の悪をベネターは問題にしており、宗教哲学研究者の私としてはこちらの方が興味深く感じるが、政治哲学的には現状の悪を糾弾するエーデルマンの主張の方がはるかに重要だという論旨には、なるほどそういうものかと教えられるところが多かった。

(注1) その一端は、竹内綱史「生のトータルな肯定は可能か――ショーペンハウアーとニーチェから」、『現代と親鸞』第45号、2021年、233-252頁、参照。

(たけうち つなふみ・龍谷大学経営学部准教授)
訳書にバーナード・レジンスター『生の肯定――ニーチェによるニヒリズムの克服』(岡村俊史/竹内綱史/新名隆志 訳)。他論文多数。

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