親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

大根・仏教・メディア

BUMP OF CHICKEN

『フリースタイルな僧侶たち』編集長

稲田 ズイキ

(INADA Zuiki)

「稲田さんは僧侶として情報発信をされてますが」

 

 ごくたまに取材などで初めて会った方に、このように言われることがある。いつも私はこの言葉にモヤモヤする。情報発信、うん、情報発信と言えるのだろうか。わからない。

 

 もちろん、判然としない言葉で語られるのは、自分が実態の見えない活動をしているせいなのだけど、なんだか渋い気持ちがする。この渋味はなんなのだろう。

 

先日のインタビュアーの方は、単刀直入にこう言ってくれた。

 

「稲田さんって、ぶっちゃけ何をしているのですか?」

 

潔い質問である。私はぽつぽつとこのように語った。

 

「『フリースタイルな僧侶たち』という雑誌の編集をしていたり、仏教にまつわるコラムを書いたり、エッセイ、小説、漫画の原作を書いたり、今はそんな感じですかね……」

 

「なるほど。それってつまり、なんなんですかね?」

 

言葉に詰まった。あちら側もすごく言いにくそうに質問をしてくれている。

 

 自分がやっていることってなんなのだろうか。たしかに、あまりにも漠然としている。ついうっかり「情報発信」と言いそうになる気持ちを抑えながら、頭の中を必死で駆け回り、うっすらと浮かび上がったある一つのイメージを言葉にした。

 

「なんか、大根を作って渡してる感じなんですよね」

 

明らかにインタビュアーは困惑していた。見事なまでになんの伏線もない、斜め上の角度から繰り出された大根に、言葉を失っていたのだ。

 

 案の定というか当たり前だけど、この発言は原稿ではカットされていた。でも、この支離滅裂な一言が、私の一番深いところからやってきた、濁りのない言葉であったのは確かなのである。

 

 ありがたいことに、この度は「メディアと仏教」について何か書いてほしいと、お題をいただいた。そこで、今自分が僧侶として、または一人の人間として、メディアというものとどのように向き合っているのか、決して無関係ではない「大根」の真意に触れながら、書いてみたいと思う。

 
 「情報発信」の言葉がここまで当たり前のものとして受け入れられるようになったのは、言わずもがな、SNSの登場が契機となっているだろう。
 

 現実の会話と異なり、Twitter、Instagram、TikTokなどのSNSを中心としたデジタル空間でのコミュニケーションの特徴は、特定の聞き手を不在にしたままに情報が送信されることにある。ゆえに、「発信」の側面だけが、今社会で躍り出ているといったところだろうか。

 

 私が「情報発信」というスタンスに違和感をおぼえるのは、その言葉が一方的な行いを指して使われるものだからである。コミュニケーションは、発信と受信の往復、そしてその主客の交代の連続によって成立している。

 

 だとするならば、「情報発信」というあり方を自分のスタンスとして置く行為は、絶えず流れるコミュニケーションの循環に石を置くような行為と思えて仕方がない。むしろ受信こそ私がやるべき仕事のような気がするのだ。

 

 このような自分のありたい姿と、僧侶という切っても切り離せない肖像とが、ぶつかってしまった出来事として象徴的だったものがある。それは私がまだ学生時代の話で、僧侶となって一年も経たない頃のことだった。

 

 映画監督の友達と、実家のお寺を舞台にした映画制作の企画を立ちあげた。登場人物に自分を含めた称名寺の家族全員、さらには近所に住む檀家さんのほぼ一家に一人に出演してもらうなどして、『DOPE寺』というミュージカル映画を作ったのだが、とある新聞社さんがその過程を丁寧に取材してくださっていたのだ。

 

 「なぜ映画を作ったのか?」と訊かれて、私は正直に「面白い作品が作りたかった」「来年から就職で東京へ行き、お寺を離れるから、生まれ育ったお寺や檀家さんたちと思い出を作りたかった」と語っていたわけなのだが、楽しみに待っていた新聞の見出しにはこのように書かれていたのだ。

 

「進む宗教離れ 檀信徒獲得のために奮闘する若き僧侶」

 

 これには、私も家族もがっくしである。本文を合わせて読めば、そう誤読もされないような内容になっていたのだが、わざわざ“そういうことではない”と取材中にも念を押していた文脈で語られてしまうことに驚いたのだ。

 

 担当の記者の方に尋ねると、「デスクにそのように修正されてしまった」と悔しそうにおっしゃっていた。そうか、そういうこともあるのだなと納得したのだが、これは裏を返せば、このように言えるのではないだろうか。

 

 デスク担当が自己判断できるレベルで、今僧侶が何か企画を立てるということが、檀信徒獲得(寺院維持)のためのアピールと当然のように直結していて、そうした寺院を維持するための行為は社会的に見ても正しいということの証である、と。

 

 私はこの新聞の見出しと情報発信という語り口は、根源的に同じものなのではないかと思っている。すべての活動が、社会的マイノリティの立場から自らのプレゼンスを上げるためのアピールとして、評価されてしまうということである。

 

 やや考えすぎかもしれないが、世間的に僧侶という存在を語る上では、こうした一つの文脈しか存在しえない、と印を押されてしまったような虚しさがあった。

 
 私が何か作品やコンテンツを作ったりするのは、「会話がしたいから」に尽きる。今回の原稿の内容に沿っていえば、発信と受信の循環を生み出したいのである。さらに大きなことを言うならば、聞き手を不在にしたまま、それでもたくさんのものたちと「会話」をする手段として、人類は「創作」という営みを発明したのではないかとすら思うのだ。そりゃいいすぎか。
 

 先述したように、情報発信者(つまるところの“インフルエンサー”と言えるだろうか)として己のスタンスを置く行為は、自分を発信者として権威づけ、受信者を受信者のままに固定する行為につながる。

 

 一方で、「創作」という営みの末に生まれた「作品」には、そうした主客の固定を促すような性質は少ないように思う。

 

 たとえば、私の大好きなバンド、BUMP OF CHICKENのボーカル・藤原基央さんは、自らの音楽をこのように語っている。

 

「たとえばその曲と聴く人の間に10歩距離があったとすると、そのうちの5歩分しか近づいてこないような音楽。残りの5歩分は、聴く人のほうが近づいていかなきゃいけない。そして、そうやって5歩分近づいていくということに意味がある音楽だと思うんです」

(『MUSICA』2011年1月号、p. 35)

 

 聴く者が歩み寄る5歩を、「解釈」と呼ぶのか「会話」と呼ぶのかは、人それぞれだとは思うが、私はこうした開け放された公園のような、受信者の能動性を促す営みを「創作」と呼びたいのである。

 

 はじめは作り手から発信されたものだが、生まれ落ちた瞬間には手放され、受信者の心の中でうごめき、たくさんの「会話」を生み出す。そこに、発信と受信の主客を分かつ線はほとんど存在しない。創作は、まだ見ぬ誰かと私をフラットな地平に置き、主客入り混じった会話をもたらすのだ。

 
 なぜそこまでして、私が「会話」にこだわるのか。それは自分が普段から何かを力強くプレゼンするよりも、人の話を聞いてうんうんうなずいたり突然ピコーンとひらめいたりしたいタイプだからということでもあるが、何よりも、私が大切にしている仏教という存在自体が、そうした「会話」が生まれ出る願いにあふれているからに他ならない。
 

 たとえば、悟りを言葉で表してはならない「不立文字」という真髄、さらには規範であるはずのお経が「如是我聞」の文言からはじまっていること、「私の教えは、川を渡るための筏(いかだ)のようなものです。向こう岸に渡ったら、筏を捨てて行けばよい」と語ったお釈迦様の言葉など、仏教は常に「私」へ向かって投げかけられ、「私」の返答を待ってくれている。そうした解釈の余地がそれぞれに委ねられているところこそ、仏教という道のメインストリートなのだと私は思っている。

 

 言い換えるならば、仏教を伝える際も、聞き手に解釈の余地が残されていなければならないと私は思うのだ。

 

 だからこそ、『フリースタイルな僧侶たち』というフリーペーパーの編集長を引き受けたときに、まずはじめに思ったのが「情報誌にはしたくない」という決意であった。次に、漠然とカルチャー誌のように仏教を語りたい意欲に沸き立ったとき、宗教と文化とは根本的に何が異なっているのかと問いを立てた。

 

 思えば、なぜ宗教と文化の間には分厚い壁があるように感じるのだろう。

 

 違いの一つとして注目したのが、言語領域と感覚領域の割合である。編集部では、宗教と文化を構成する要素のうち、言語化され万人に等しく共有できる智慧をナレッジ、言語化されず各々の感性に委ねられている智慧をセンスと、便宜上呼ぶことにしている。

 

 別に細かに検証したわけではないが、概観すると、宗教は文化に比べ、ナレッジが占める割合が大きく、文化はセンスの割合が大きいように思う。

 

 一方、先述したように、仏教は解釈の余白が個々人に開かれていたり、思想の核を言葉では表せないがために、他の宗教と比べてセンスが占める割合が大きいとも言える。

 

 このように見ると、文化と仏教を隔てている大きな壁は、実はかなり曖昧な設計であることがわかる。センスとナレッジといった画角で両者を眺めたとき、そうした分厚い壁は飛び越えて、全く新しい地平を拝むことができる可能性が垣間見えてくる。

 

 こうした経緯があって、私が編集長としてリニューアルした『フリースタイルな僧侶たち』のコンセプトは「古今東西のセンスをサンプリングし、新しいカルチャーを作る雑誌」としている。とは言っても、あまりにも独自言語すぎるので、「宗教と文化を横断する雑誌」と、今は説明することにしているのだけど。

 

 それもすべて、なるべく支配的なコミュニケーションを避け、できるだけ会話が生まれるような雑誌にしたいという私なりの仏教観を通した編集のつもりだ。

 

 「メディア」というと、拡声器のような、声を社会に大きく届けることをイメージする人も多いと思う。私もかつてはそのようにイメージしていた。

 

 しかし、新卒で入社した企業の代表(元『WIRED日本版』の創刊編集長)が、入社したばかりの私たちに「メディアはあくまで媒体(medium)であり、場なんだよ」と教えてくださったことをいまだに覚えている。

 

「メディアとは場である」

 

 私はあまりにもポンコツすぎてその会社を一年で辞めてしまったのだが、一年目というただでさえ正気を保てず限りある期間で出会った言葉のなかで、いまだ記憶から消えていない数少ない教訓の一つである。

 
 というわけで、
 

「稲田さんって、ぶっちゃけ何をしているのですか?」

 

という質問に呼応して、脳内を駆け巡ったのは、このような雑念なのであった。

 

 「創作である!」と胸を張って言えればよかったのだけど、どうしてもその言葉を背負える自信もなく、口からこぼれ出たのは、

 

「なんか、大根を作って渡してる感じなんですよね」

 

なのである。

 

 うちのお寺の檀家さんは農家の方が多く、大根だけではなく、お野菜、お花などのおすそわけを日常的にいただいている。

 

 自分が育てた大根を他人に渡す。物心ついたときから、すぐそばにある当たり前の景色ではあるけど、決して当たり前とは思いたくない美しい景色だと常々思うのだ。人の手と大根の間にある、あのなめらかな関係性を忘れないようにしたい。そのようにいつも思っていた。

 

 そんな記憶が言葉を濾過(ろか)したのだろうか。質問をされたとき、自分が世の中に出しているコンテンツや作品も、かつて檀家さんからおすそわけしてもらっていた大根のようであってほしいと思ったのだ。

 

 自分という一人の人間の身体や、仏教という2500年続く悠久なる思想を通して、一つのまとまった“何か”が自然と実る。まずはそれを形にすることで自分自身の空っぽを満たしている。

 

 その後におすそわけとして他者の手に渡すのだが、それは私の手から他者の手へ移動しただけのことであり、大それた目的だったり、ましてや市場なんて意識しちゃいない。発信なんかではなく、それは単なるおすそわけなのである。

 

 先述したように、僧侶を主体にした情報発信は、どうしても自己のプレゼンスを高めるためのマイノリティの叫びとして消費されがちだ。

 

 もちろん、必ずしもそれが悪いというわけではないが、少なくとも社会に自らの行為の意義を奪われたり、勝手に意味づけられたりしないように、私は身の回りの大切なものを一つひとつ確かめていきたいと願っている。

 

 その点、大根はすごい。私にとっては遥か大きな存在なのだ。

 

 思い出したことがある。小学校の美術の授業で、「大きな○○」という絵のお題が出て、クラスメイトの誰もが当たり障りなく「大きな太陽」だったり「大きな笑顔」の絵を描いているなか、私は「大きな大根」を描いたのだ。

 

 なぜあのとき私は大根を描いたのか。そして先日、なぜ大根と言ったのか。それはあんまり問うても意味のないことなのかもしれないし、もしかするとそうでもないのかもしれない。

 

 最後にみなさんに、この大きな大根の不思議をおすそわけしておくことにしよう。

(いなだ ずいき 『フリースタイルな僧侶たち』編集長

 著書に、『世界が仏教であふれ出す』(集英社)など。

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