親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

『現代と親鸞』第46号

長谷川琢哉 掲載Contents

研究論文

中村 玲太 「 西山義における「帰命」解釈の多様な展開――真宗学の西山理解を契機として」

■ 第66回現代と親鸞の研究会

安藤 礼二 「鈴木大拙の浄土論」

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

三枝 暁子 「身分制から見た中世社会」

■ 「正信念仏偈」研究会・源信『一乗要決』研究会

立川 武蔵 「生命への意味付けと阿弥陀仏」

■ 第6回「清沢満之研究交流会」報告

全体テーマ:「世紀転換期の宗教思想運動――内村鑑三・綱島梁川・清沢満之」

【問題提起】

赤江 達也 「「無教会主義」の波紋――内村鑑三から塚本虎二へ」

古荘 匡義 「実験と言説――綱島梁川からの宗教思想運動」

名和 達宣 「「精神主義」運動の波紋――曽我量深を中心に」

【全体討議】

鶴岡 賀雄(コメンテーター)・長谷川琢哉(司会)

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之 「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(32)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第81号

長谷川琢哉 掲載Contents

巻頭言

本多 弘之 「新型コロナウィルスに想う」

■ 第67回現代と親鸞の研究会報告

講師 江原由美子 「現代社会とフェミニズム」

報告 宮部  峻

■ 研究員と学ぶ公開講座2021報告

藤村  潔 「『大乗涅槃経』を読む」

東  真行 「「正信念仏偈」を読む」

谷釜 智洋 「『精神界』を読む」

■ 第3回現代と親鸞公開シンポジウム報告

長谷川琢哉 「人間的行為の葛藤と〈いのち〉の言説」

中  真生 「いのちとその産み育ての結びつきと分離―「母性」、出生前診断、「赤ちゃんポスト」などを手がかりに―」

森川 輝一 「〈いのち〉と政治のパラドックス」

加藤 秀一 (コメンテーター) 中村 玲太 (開催趣旨)

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

宮部 峻 「森岡清美(1923〜2022)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第228回「喪失の「永遠のあとまわし」―『トロピカル〜ジュ!プリキュア』論―」

長谷川琢哉

親鸞仏教センター嘱託研究員

長谷川 琢哉

(HASEGAWA Takuya)

 娘が4歳になって幼稚園に通うようになると、プリキュアを見るようになった。それまでは恐竜や妖怪の人形でおままごとをしていた娘が幼稚園の友達の影響でプリキュアを見るようなったことに対しては、感慨とともに若干の寂しさを覚えたが、私が日曜朝の『トロピカル~ジュ!プリキュア』(以下、『トロプリ』。ABCテレビ・テレビ朝日系列にて放送)を娘と一緒に楽しみにするようになるまでほとんど時間はかからなかった。

 2004年から放送が始まったプリキュアシリーズは、少女が「伝説の戦士プリキュア」に変身して戦うことを軸としたテレビアニメである。『トロプリ』の敵は「あとまわしの魔女」。それに対する主人公の夏海まなつ=キュアサマーがモットーとするのは、「いま一番大事なことをやる」である。

 プリキュアをほぼはじめて見る私は、「あとまわしの魔女」がラスボスであることを知り、なるほど現代において「敵」として設定されるのは「あとまわし」といったもので、プリキュアは子供に教訓的なメッセージ(「何事もあとまわしにしてはいけません」といったもの)を与えるアニメなんだな、と迂闊にも考えていた。

 しかしその予測は完全に裏切られた。物語が進むにつれて「あとまわしの魔女」は何かを抱えているらしきことが暗示され、最終回付近になってその秘密が明らかになる。

 「あとまわしの魔女」は、もともと世界を破壊することを使命として生まれた「破壊の魔女」であった。かつて人間に危害を加えていた破壊の魔女は、人間からの抵抗を受けて痛手を負い、洞窟に身を隠した。そこで一人の少女アウネーテに出会う。アウネーテは魔女に治療をほどこし、食事を与えた。魔女は少しずつ心を開き、二人の間に友情が育まれていく。しかし傷が癒えると、魔女は再び破壊へと向かった。それがもって生まれた魔女の使命だからである。破壊の魔女が再び人間の世界へ侵攻を始めると、そこに行く手を阻む「伝説の戦士・キュアオアシス」が現れ、魔女と戦うことになる。そしてこのキュアオアシスこそが、アウネーテであったのだ。魔女は自分を助け、心を通わせた相手と激しい戦いを繰り広げるが、決着がつかなくなる。そこで魔女は「決着は明日にしよう」とオアシスに告げ、その場を立ち去ってしまう。翌日、部下からオアシスとの決着を促された魔女は、「明日にしよう」と戦いを先延ばしにする。そしてその翌日も、そのまた翌日も「明日にしよう」、「明日にしよう」とあとまわしをひたすら続けていく……。やがて人間であるアウネーテ=オアシスは寿命を迎え、対峙すべき相手そのものがこの世からいなくなってしまう。魔女と人間では寿命の長さがどうしようもなく違うのである。そして魔女はその後も「あとまわし」を続け、ついには自分自身が何をあとまわしにしているのかすら忘却するのである。あとまわしの魔女は以後も(ほとんど惰性的に)破壊活動を続けるが、実際のところ彼女が本当に成就しようとしていたのは、「永遠のあとまわし」だったのだ。

 あとまわしの魔女の物語は「大切なものの喪失」が主題となっているとみることができる。「永遠のあとまわし」とは、この世で唯一心を通わせた友人を失った魔女が、その喪失に直面することを(永遠に)避けるために生み出した心の働きであった。しかし抑圧された心的外傷は、言うまでもなく魔女を蝕むことになるだろう。彼女は絶えず気怠そうで、何か大切なものを忘却しているという感覚に苦しんでいた。魔女にはフロイトの言う「喪の作業(Trauerarbeit)」が必要だったのだ。愛情を向けるべき対象は「もはやいなくなってしまった」という事実、認めることが困難なこの事実を苦しみながら認めることが。

 作中では、夏海まなつ=キュアサマーらとの最後の戦いを通して魔女はアウネーテとの記憶を再び思い出し、それによって彼女の魂も浄化され肉体も消滅する。いわばそうしたかたちで魔女は「喪の作業」を行うのである。

 日曜日の朝、「永遠のあとまわし」というインパクト抜群の言葉と共に、『トロプリ』は私の心に強い衝撃を与えた。そして『トロプリ』終了後は見事に「トロプリロス」になってしまった。

 ところで、私の娘にとって『トロプリ』は毎週楽しみにするはじめてのテレビアニメとなったが、『トロプリ』の放送が終わることを当初なかなか受け入れることができなかった。次回作『デリシャスパーティ プリキュア』(以下、『デパプリ』)の予告が始まると、「なんで終わるの?私は次のプリキュアなんて絶対に見ない!」と何度も繰り返した。『トロプリ』喪失の悲しみが、『デパプリ』への否認となって現れたのである!この否認は彼女にとっての「喪の作業」の一貫であったのだろう。幸いにも、今では娘は毎週楽しみに『デパプリ』を見るようになった。が、私は未だに『トロプリ』への愛着を断ち切ることができず、最終回の録画をしっかり見ることを「あとまわし」にしている。

(2022年4月1日)

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今との出会い第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」
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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...
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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」
今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」
今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  私はいったいいつから哲学し出したのか、という問いに、私はこう考えることにしている。それは12歳の時、ビートルズの「A...

著者別アーカイブ

投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『アンジャリ』第41号

長谷川琢哉 掲載Contents

『アンジャリ』第41号

(2021年12月)

■ 特集「〈いのち〉という語りを問い直す」

池澤 春菜 「ヒトのイノチの先に」

岩田 文昭 「いのちの否定と肯定」

大谷 由香 「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」

■ 連載
■ Eassais(エッセイズ)

天畠 大輔 「「あ、か、さ、た、な」で能力を考える」

宮本 ゆき 「核兵器と「悪」」

山田由香里 「祈りの造形を削り出す――鉄川与助の手仕事が生んだ聖なる空間」

■ 交差点

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コラム・エッセイ
講座・イベント

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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第78号

長谷川琢哉 掲載Contents

巻頭言

谷釜 智洋 「自己を問うてくるもの」

■ 源信『一乗要決』・『尊号真像銘文』合同研究会報告

講師 梯  信暁 「源信『往生要集』の菩提心論

報告 藤村  潔

■ 研究員と学ぶ公開講座2021報告

藤村  潔 「『大乗涅槃経』を読む」

東  真行 「「正信念仏偈」を読む」

谷釜 智洋 「『精神界』を読む」

■ 第6回清沢満之研究交流会報告

テーマ:世紀転換期の宗教思想運動—内村鑑三・綱島梁川・清沢満之—

赤江 達也 「「無教会主義」の波紋―内村鑑三から塚本虎二へ―」

古荘 匡義 「実験と言説―綱島梁川からの宗教思想運動―」

名和 達宣 「「精神主義」運動の波紋―曽我量深を中心に―」

鶴岡 賀雄 (コメンテーター) 長谷川琢哉 (開催趣旨)

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

菊池 弘宣 「源空聖人の真像の銘文( 『選択集』 に関する銘文)①」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

藤村  潔 「小栗栖香頂(1831〜1905)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『現代と親鸞』第44号

長谷川琢哉 掲載Contents

研究論文
研究レポート
■ 第62回現代と親鸞の研究会

佐藤 卓己 「「ポスト真実」時代の輿論主義と世論主義」

■ 第63回現代と親鸞の研究会

橋本 健二 「現代日本の階級社会とアンダークラス」

■ 第64回現代と親鸞の研究会

伊藤  聡 「「神国日本」という語りの重層性」

■ 第1回「現代と親鸞公開シンポジウム」報告

テーマ:「〈かたられる〉死者」

【問題提起】

中村 玲太 「〈かたられる〉死者」」

【提言】

加藤 秀一 「亡き人を〈悼む〉こと、「死者」を忘れること」

師  茂樹 「「死者」はどこにいるのか―仏教の死者観と人間中心主義―」

吉水 岳彦 「極楽に住き生まれて」

【全体討議】

佐藤 啓介(コメンテーター)・中村 玲太(司会)

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(30)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第216回「井上円了のインスピレーション、あるいは熱海で夢見る哲学者」

長谷川琢哉

親鸞仏教センター嘱託研究員

長谷川 琢哉

(HASEGAWA Takuya)

 仏教と西洋哲学との類似性を提示し、妖怪現象を科学的に解明した井上円了には、合理主義者のイメージがつきまとっている。もちろん円了は、近代日本における「宗教」のあり方を探求した知識人の一人ではあったが、彼自身は(たとえば清沢満之のような)「信仰」の人ではなかったとしばしば言われる。しかしながら、円了の人生を注意深く見渡すと、その節目節目に、ある種のインスピレーション(霊感)を幾度か経験していたらしきことが確認される。そしてそのインスピレーションには一定の類型があり、それが以後の人生を決定的に方向づけてもいたようだ。

 インスピレーションの内実が最も詳細に記述されているのは、『星界想遊記』という作品内である。この書は近代日本におけるユートピア小説・SF小説のはしりとも言われるもので、「想像子」=円了が理想世界を求めて空想上の9つの「星界」を旅するという物語となっている。冒頭に付された「提言」によれば、この物語は円了が「豆洲修善寺温泉入浴中、青州楼客舎にありて、一夕夢中に現出したる空想を叙述せる」ものであるとされる。そして物語の始まりには、その際、円了が経験したであろう「精神恍惚」状態が描かれている。その一節を引用してみよう。


想像子、一日瞭然として京華を去り、遠く山間の僻邑に遊ぶ。たまたま客舎にありて余夕を送らんとす。その翌朝はすなわち、我人の数年来渇望したる明治二十三年なり。想像子、ここにおいて往を思い来をトするに、無量の思想心頭に集まり、感慨おのずから禁ずるあたわず。独座沈吟、時ようやく移り、夜ようやく深く、まさに十一時に達せんとす。四隣寂寥として、ただ係留の潺湲たるを聴くのみ。ときに想像子寝に就かんと欲し、立ちて衣を換え、座して炉に対し暫時黙思するに、たちまち精神恍惚として夢中に彷徨するを覚ゆ。すでにして心思高く飛び軽く揚がり、瞬時にして遠く蒼々茫々たる展開の中に遊ぶ…

(井上円了「星界想遊記」『井上円了選集』第23巻)


 これは一種の文学作品であり、そこには当然文学上の脚色が含まれているだろう。しかし明治22年の年末の深夜、円了は山間の寂しい温泉旅館で「往を思い来をトするに、無量の思想心頭に集まり」、「精神恍惚」とした夢想状態に入ったというのは事実であったと思われる(少なくとも、円了のメモ帳である「実地見聞集」第三篇〔『井上円了センター年報』第3号所収〕には、実際に修善寺温泉を訪れたという記録があって、それに続いて「夢中の妄想」として『星界想遊記』のアイデアがびっしりと書き込まれている)。なお、明治23年というのは国会が開設され、近代日本が一定のかたちをもって進み始めた年である。円了は日本という国の行く末を思い、まさにその理想的な国家像が哲学的な精神世界に仮託して夢想され、その結果『星界想遊記』という作品が描かれたのである。


 さて以上はあくまでも創作物に関するインスピレーションの話であるが、円了自身の人生の節目にも同様の経験があった。その一つは、円了が自ら創設した哲学館の経営を引退することを決めた、明治38年12月13日の深夜のことである(以下の記述は、井上円了「退隠の理由」『東洋大学百年史』資料編I・上に依拠する)。その前年の明治37年、ある学生の答案がきっかけとなり、文部省に認められていた無試験教員検定の資格が哲学館からはく奪されるという事件が起こる。いわゆる「哲学館事件」である。この事件の事後策をめぐって円了は学校関係者と対立した。円了はこの事件を機に、政府に頼らない「独立自活」の経営を目指したのだが、学生を集めるためには無試験検定資格の再申請が不可欠であるとの声も多かった。そうした経営上の苦労がたたり、円了は明治38年の夏頃から身心に問題を生じるようになる。医師からは「神経衰弱症」との診断を受け、円了には極めてめずらしいことであるが、「兎角悲観に沈む傾向」が見られ、12月に入ると自宅で2度ほど卒倒したという。


 そんな中むかえた12月13日、上野精養軒において、哲学館が正式に大学となったことを記念した会合が開催された。多くの人が参加したこの会合では、幼少の頃の先生であった石黒忠悳や、学生時代から付き合いのある大内青巒が演説を行い、円了は深く感動したという。おそらく両者の演説では、哲学館が創設された当時のことなどが回想されたことだろう。その夜のことだった。円了は「帰宅後百感一時に湧き出し、終夜眠ること出来ず、或は往時を追懐し、或は将来を予想し、人生の何たる、死後の如何までを、想し去り、想し来り、感慨極まりなき有様」になったという。この記述は、『星界想遊記』の「往を思い来をトするに、無量の思想心頭に集まり、感慨おのずから禁ずるあたわず」という一節を明らかに彷彿とさせるものであり、この時円了は常ならざる精神状態に陥ったものと考えられる。そして学校経営という事業に捧げてきた自らの半生を振り返り、その志はある程度は実現されたとして、今後はあらためて学問に取り組み、「精神上の紀念」となるものを形成したいとの思いを強くした。そしてそれこそが、「余が先天的の約束」、つまり自分に定められた先天的な使命であると直観したのである。


 ただし、この時のアイデアは後に修正され、円了は哲学館引退後に「修身教会」運動と呼ばれる社会教育活動に邁進することになる。円了にとってこの活動は、哲学を「実行する」営みとして位置づけられ、それこそが自分の「哲学上の使命」であるとも言われることになる。そして実際、哲学館引退後の円了の行動には凄まじいものがあった。修身教会運動は雑誌の発行と全国の市町村で行われた講演活動が軸となったが、明治39年から大正8年までの14年間で、円了はおよそ5400回の講演を行い、聴衆はのべ140万人にものぼった。多い時には136日間休まず講演することもあり、当時の移動手段などを考えると、円了は14年間ほぼ休みなく動き回っていたことになる。この活動に集中し始める前年には「兎角悲観に沈む傾向」にあったにもかからず、翌年からは超人的な活動力を示すようになった背景には、明治38年12月13日の深夜に経験した一種のインスピレーションが関わっていたのではないだろうか。


 さてここまで述べてくると、やはり気になるのは、哲学館創立の時にも円了は同様の経験をしていなかったか、ということである。これについては残念ながら、円了自身が何かを書き残していることはなさそうである。ただし、それを推察させる伝聞がのこされているので紹介しておきたい。『思想と文学』第2巻第3冊で、「井上円了博士を語る」という座談会が開催された。その席上において、哲学館出身で卒業後は哲学館・東洋大学にも関わった三島定之介が次のように語っている。


〔円了先生が〕「仏教活論序論」を書かれた時に、僕はちょっと聞いて居た。それは先生の言はれるのには、自分が肺を病んで熱海へ静養に行つて居つた時に、インスピレーションといふか、非常に感じた事があつて、この儘にして置いては日本の現在の仏教社会、僧侶社会などは全然駄目になつてしまふ。といふことを感じたので、それで自分は病気中にも拘らず、本当の必死の努力をして書いたものがあれだ、さういふ風なことを先生が茶話か何かの時に仰しやつたことを記憶して居ります。


 「肺を病んで熱海へ静養に行つて居つた時」と言われているが、これは明治19年のことを指さしている。円了はこの年の4月に大学院に入学したが、ちょうどその頃病気にかかり、入学を辞退することになった。そして1年ほど休養にあて、その間熱海には3度ほど滞在している。おそらくそのいずれかの時にインスピレーションを得たのであろう。円了はその時、日本の仏教界のこれまでを思い、これからを予想し(往を思い来をトした?)、今後自分がなすべき明確なヴィジョンを獲得したのではないだろうか。いずれにせよ、その時のインスピレーションに基づいて、明治の仏教書としては最大のベストセラーとなった『仏教活論序論』が執筆されたのである。

 この書において円了は、従来の仏教界の「習弊」を一掃して「改良」し、近代社会に相応しい「宗教」にする必要を世間に強く訴えた。彼は自分が「病を得たるは仏教改良に苦心したるによる」(井上円了『仏教活論序論』『井上円了選集』第3巻)として、「この病は果たして仏教改良のために得るところの結果なることを知らしめば、たとえ余が身、今死するも、余が真理に尽くすの精神は日月と共に万世に存すべし」(同上)とまで述べている。以後、円了にとって「仏教改良」は根本的な志願となり、晩年に至るまでその思いが弱まることはなかった。


 そして以下は想像だが、三島が聞いた『仏教活論序論』のインスピレーションが今後の日本の仏教社会、僧侶社会のあり方に関わるものであったとすれば、私立学校哲学館の創立もそこから派生したのではないか。上に引いた座談会で円了の親友であった棚橋一郎が語ったところによれば、哲学館の創立にあたって円了から次のような相談を受けたという。


僧侶が余りにどうも地獄極楽に固り込んでしまつて居つて、本当の僧侶学をやつて居らんから如何にも残念だ、だから少し哲学思想を彼等に与へたらば、余程世の中の利益になるだらうと思ふから、斯ういふものを起さうと思ふ。


 つまり哲学館は、僧侶に哲学思想を教え、新しい時代に適した人材を育成することを目指して作られたものだったのだ。そして哲学館の構想も、やはり同じ時期の熱海で練られたものだった。円了の追悼文集には、「一九年春偶々病を以て(略)此時豆洲熱海にあり。此の療養中に於いて、『哲学雑誌』の発行、『仏教活論』の整理。哲学館設立の計画は遂行せられたるなり」(三輪政一編『井上円了先生』、東洋大学校友会、1919年)という記述がある。

 円了が療養のために熱海に滞在した明治19年。その頃円了の頭の中は、新たな事業のアイデアで溢れていた。そして実際、円了は翌明治20年1月には出版社哲学書院を作り、2月には『仏教活論序論』、『哲学会雑誌』を発行する。5月には政教社の立ち上げに加わり、9月には哲学館を創立。矢継ぎ早に数々の事業を実現し、そして哲学館創立の半年後には駆け抜けるように1年間の海外視察旅行に出かけ、帰国後は休む間もなく哲学館の改良を訴えるため、全国巡講に旅立った。円了にとって哲学館創立前後の時期は、彼の人生の中でも極端なまでにバイタリティーに満ちており、常軌を逸して見える程である。そうしたすべての活動の根底には、明治19年の熱海で感じたインスピレーションがあったのではないだろうか。そのように考えると、いやむしろそのように考えた時にはじめて、井上円了という人物の人生が理解できるように思える。


 最後に関連する余談を一つ付け加えよう。哲学館を創立した明治20年の年末に円了は再び熱海を訪れた。そしてその時に見た夢をまとめたものが「熱海百夢」という文章として『哲学会雑誌』に発表されている。これは実際に円了が見た夢を客観的に分類・整理したものにすぎないが、熱海と夢という組み合わせは、円了の人生にとって大きな意味をもっていたのかもしれない。それを裏づけるように、円了は晩年、巡講の合間に毎年のように熱海に滞在し、そこで著作や事業のアイデアを得ていたようである(たとえば晩年に構想していた「哲学宗」の唱念法「南無絶対無限尊」や、「哲学和讃」などは熱海で思いついたものだった)。――熱海で夢見る哲学者。この文章を書き終えた私の脳裏に浮かんだのは、私にとっても意外な井上円了の新たなイメージであった。

(2021年4月1日)

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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」
今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」
今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi)  私はいったいいつから哲学し出したのか、という問いに、私はこう考えることにしている。それは12歳の時、ビートルズの「A...

著者別アーカイブ

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『現代と親鸞』第43号

長谷川琢哉 掲載Contents

研究論文
■ 清沢満之研究会

西本 祐攝 「「他力門哲学骸骨試稿」に学ぶ――研究の方向性」

■ 『教行信証』と善導研究会・『尊号真像銘文』研究会

金子  彰 「鎌倉仏家の注釈活動――親鸞遺文を通して」

■ 「三宝としてのサンガ論」研究会

細川 涼一 「西大寺叡尊と非人――叡尊の自伝『感身学正記』を中心に」

■ 第5回「清沢満之研究交流会」報告

全体テーマ:「井上円了と清沢満之

【提言】

長谷川琢哉 「仏教の近代化と「哲学」――井上円了と清沢満之の教育への関わりを背景として」

星野 靖二 「「合理的宗教論」と「実存的宗教論」――井上円了と清沢満之を取り巻く同時代的な文脈」

佐藤  厚 「絶対・相対の関係『大乗起信論』――井上円了と清沢満之の解釈」

【全体討議】

岡田 正彦(コメンテーター)・名和 達宣(司会)

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(29)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第74号

長谷川琢哉 掲載Contents

巻頭言

谷釜 智洋 「自分の足跡を消さない」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

講師 本多 弘之 「「無慚無愧」ということ

報告 越部 良一

■ 第64回現代と親鸞の研究会報告

講師 伊藤  聡 「「神国日本」という語りの重層性」

報告 飯島 孝良

■ 「正信念仏偈」研究会報告

東  真行 「親鸞にとって七高僧とは」

■ 源信『一乗要決』研究会報告

藤村  潔 「『一乗要決』成立にいたるまでの源信の思想史的検証」

■ 清沢満之研究会報告

長谷川琢哉 「『他力門哲学骸骨試稿』――自筆ノートの調査から見えてくる研究課題――」

■ BOOK OF THE YEAR 2020 

●『こまゆばち』(文・澤口たまみ、絵・舘野鴻)

紹介者:東  真行

●『僕という容れ物』(壇廬影 )

紹介者:谷釜 智洋

●『死の影の谷間』(ロバート・C・オブライエン著、越智道雄訳)

紹介者:伊藤  真

●『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(パトリック・J・デニーン著、角敦子訳)

紹介者:宮部  峻

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

伊藤  真 「加能作次郎(1885〜1941)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

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研究会・Interview
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「クロノスタシス」って知ってる?――野村佐紀子展“GO WEST”

長谷川琢哉

親鸞仏教センター嘱託研究員

長谷川 琢哉

(HASEGAWA Takuya)

コンビニエンスストアで 350mlの缶ビール買って

きみと夜の散歩 時計の針は0時を差してる

“クロノスタシス”って知ってる? 知らないときみは言う

時計の針が止まって見える現象のことだよ

きのこ帝国「クロノスタシス」(2014年)

 

 きのこ帝国というバンドの「クロノスタシス」という曲をたまたまインターネットで聞いたのは、昨年末のことだった。スムースなR&B調の曲が自分の好みにあっていたことからまずは惹かれたのだが、しかしこの曲が私の心に強く残ったのは、その歌詞によるところが大きかった。

 

 この曲が描いているのは、カップルが休日の真夜中に散歩をしている情景である。二人は缶ビールを飲みながら家に帰っているところで、女性の方(ボーカルが女性なのでそのように仮定しよう)は、この夜の散歩になんだか夢のような心地よさを感じている。しかしその時突然、彼女は「クロノスタシス」って知ってる?と相手に問う。そしてそれを知らなかった相手に対して、「時計の針が止まって見える現象のことだよ」と説明する。そういう曲である。

 

 「クロノスタシス」というのは、動いている時計の秒針をふと見た瞬間、その時計が壊れているかのように止まって見える錯覚のことである。これは錯覚であるから、もちろん秒針はすぐに動き出すだろう。しかしその錯覚が生じている瞬間は、時計の針が永遠に止まってしまったかのように感じられる。つまり、ほんの一瞬の中に永遠(の錯覚)を感じることが「クロノスタシス」であるとも言えよう。

 

 そしてこの曲のおもしろさは、恋愛の一場面を描写するために「クロノスタシス」というモチーフを用いているところにある。恋人同士の心地よい夜の散歩。語り手である彼女は、この幸福がずっと続くかのように一瞬感じた。しかし彼女はまさしくその瞬間に、相手に「クロノスタシス」って知ってる?と問うのである。ということはつまり、彼女は気づいていたのだ。永遠にも感じられる今この瞬間の幸福が錯覚であり、すぐに移ろってしまうものであることを。

 

 さて、この曲に私が興味を惹かれたのは、ちょうどその頃、写真家・野村佐紀子が碧南市藤井達吉現代美術館で開催した個展(「野村佐紀子写真展“GO WEST”」)に合わせたレクチャーを行う機会があったからだ。野村佐紀子は長年、荒木経惟のアシスタントをつとめた写真家であり、人物ポートレートや男性ヌードを得意としている。また、荒木の作風を受け継いでか、野村の写真の多くには、生と死を見つめる独自の視線が感じられる。例えば野村は写真家としてのキャリアの当初から、後に亡くなった男性モデルを撮り続けており、その出会いと別れが自らを作家として成長させたという。生の裏側に常に存している死。生を描くことは死を描くことでもある。ごく当たり前のこうした事実を私たちは忘れがちであるが、野村の写真を見ていると自然とそうしたことが思い起こされる。

 

 野村の個展が開かれた碧南の美術館は、ちょうど清沢満之の自坊である西方寺の目の前に位置している。それを機縁として、今回の展示で野村は清沢満之に関連するいくつかの新作を撮り下ろした。当時は不治の病であった結核を患っていた清沢満之は、文字通り血を吐きながら自身の信仰についての思索を続けた宗教哲学者である。その意味で、写真家としての野村の作風と、モチーフとしての清沢満之の相性は良いように私は感じた。展覧会で私は野村の作品を数多く見たが、直接清沢に関係する写真以外でも、深いところで何か通底するテーマを十分に感じさせるものだった。

 

 野村の個展に合わせたレクチャーでは、私は清沢満之について話すように依頼されていた。しかし写真の門外漢である私が何を話せばよいのか。レクチャーの1週間程前、ちょうどそのことを考えている頃に、たまたま私はきのこ帝国の「クロノスタシス」を聞いたのだった。何となくこの曲が頭から離れず、そしてどこか野村展のレクチャーで自分が話すべきことと関係があるような気がしていた。考えはまとまらなかったが、配布資料に歌詞の一部を引用して持参した。

 

 そして当日。私は来場した一般の方に向けたレクチャーで、主に清沢満之の生涯と思想、信仰を紹介した。数多くの挫折に見舞われながら、清沢満之がいかにして他力信仰を獲得するための思索を行ったのか。そして失意の底にあったはずの死の直前に、いかにして清沢は「「現世に於ける最大幸福」を感じる」と語りうるほどの境地へと至ったのか。そうしたことがレクチャーの主題となった。

 

 一通り話し終わった後、私は最後に「クロノスタシス」について言及した。この上なく幸福な瞬間に、しかしその幸福が実は錯覚であることに気づいていることを歌った曲として。そしてそれは逆の意味で、清沢満之の信仰にも似ているような気がするとも。私が考えていたことが参加者の方々に十分伝わったかはわからないし、私自身も完全には言語化できていなかったように思う。しかし私の話を受けてキュレーターの方が、写真という芸術の特徴は一瞬を永遠に切り取ることであって、それはクロノスタシスに似ているところがある、と補足してくださった。一瞬と永遠、絶望と幸福、あるいは生と死。その反転は際どく、ある意味では錯覚のようなものなのかもしれない。しかし少なくとも清沢満之は、不幸のどん底で現世の最大幸福を感じるという信仰の逆説が、本当に自分の身の上に生じていると確信していたのだ。そして今になって思えば、野村の写真から私が感じたのも、生の一瞬を切り取ることによって、そこに死の永遠を刻みつけるといった、写真の逆説的な営みそのものだったのかもしれない。この逆説、反転がいかなるものであり、いかにして実現されるのかということ。野村展を通して私の心を捉えていたのは、おそらくこのことだったように思う。そしてそれは、どこかクロノスタシスに似ているのかもしれない。

 

 

 ――そして現在。あのレクチャーからわずか数ヶ月の後、私たちの生活は一変してしまった。ついさっきまで健康だった人が亡くなることもあれば、安全だと思っていたことの多くが危険なものにもなった。その反転はあまりにもたやすかった。生と死は紙一重、あるいは一体であるということが、日々、現実的に突きつけられている。私たちは平穏な日常が永遠に続くものだと思いこんでいたが、しかしそれこそが錯覚だったのだ。

 とはいえ、私たちの生活が根本的に儚く移ろいやすいものであるということは、仏教が昔から説いてきたことでもある。そしてその上で、なにか確かで、永遠に続くようなものがあるとすれば、それはこの儚く移ろいやすい生活のただ中においてのみ、現れ出るに違いない。あるいはほんの一瞬、錯覚のように。

(はせがわ たくや・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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