親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

「親鸞仏教センター通信」第81号

藤村潔 掲載Contents

巻頭言

本多 弘之 「新型コロナウィルスに想う」

■ 第67回現代と親鸞の研究会報告

講師 江原由美子 「現代社会とフェミニズム」

報告 宮部  峻

■ 研究員と学ぶ公開講座2021報告

藤村  潔 「『大乗涅槃経』を読む」

東  真行 「「正信念仏偈」を読む」

谷釜 智洋 「『精神界』を読む」

■ 第3回現代と親鸞公開シンポジウム報告

長谷川琢哉 「人間的行為の葛藤と〈いのち〉の言説」

中  真生 「いのちとその産み育ての結びつきと分離―「母性」、出生前診断、「赤ちゃんポスト」などを手がかりに―」

森川 輝一 「〈いのち〉と政治のパラドックス」

加藤 秀一 (コメンテーター) 中村 玲太 (開催趣旨)

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

宮部 峻 「森岡清美(1923〜2022)」

コラム・エッセイ
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研究会・Interview

「親鸞仏教センター通信」第80号

藤村潔 掲載Contents

巻頭言

東  真行 「現代と親鸞」

■ 「正信念仏偈」研究会・源信『一乗要決』研究会報告

講師 立川 武蔵 「生命への意味付けと阿弥陀仏

報告 東  真行

■ 「正信念仏偈」研究会報告

東  真行 「「正信念仏偈」の構成について」

■ 源信「一乗要決」研究会報告

藤村  潔 「『一乗要決』における五性各別説批判」

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

菊池 弘宣 「源空聖人の真像の銘文( 『選択集』 に関する銘文)②」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

加来 雄之 「堀江 祐法(1913〜1989)」

コラム・エッセイ
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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『現代と親鸞』第45号

藤村潔 掲載Contents

研究論文
■ 第65回現代と親鸞の研究会

坂上 暢幸 「裁判員体験とは何かを考える――裁判員制度十年を見つめて」

大城  聡 「良心的裁判員拒否と責任ある参加――制度開始十年を経て」

■ 「正信念仏偈」研究会

四方田犬彦 「アーカイヴとしての『教行信証』」

■ 源信『一乗要決』研究会

梯  信暁 「源信『往生要集』の菩提心論」

■ 第2回「現代と親鸞公開シンポジウム」報告

テーマ:「生まれることを肯定/否定できるのか?――反出生主義をめぐる問い

【提言】

青山 拓央 「生まれることの悪と、生み出すことの悪

竹内 綱史 「生のトータルな肯定は可能か――ショーペンハウアーとニーチェから」

難波 教行 「「生命讃仰」言説の落とし穴――親鸞思想を通して」

【全体討議】

加藤 秀一(コメンテーター)・中村 玲太(司会)

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(31)」

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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第79号

藤村潔 掲載Content

巻頭言

藤村  潔 「「モノ」と幸せ」

■ 第66回現代と親鸞の研究会報告

講師 安藤 礼二 「鈴木大拙の浄土論

報告 田村 晃徳

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会報告

講師 三枝 暁子 「身分制からみた中世社会」

報告 中村 玲太

■ 近現代『教行信証』研究検証プロジェクト報告

講師 栁澤 正志 「日本天台浄土教と『教行信証』」

報告 藤村  潔

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

東  真行 「北橋 茂男(1900〜1966)」

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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第221回「「自由」と「服従」」

藤村潔

親鸞仏教センター研究員

藤村  潔

(FUJIMURA Kiyoshi)

吾人は自由を愛して之を求め、服従を憎みて之を厭ふ。是れ自由と服従とを以て、互に相容れさるものとなすものなり。自由と服従とは、果して然く相容れさるものなるや如何。

(「自由と服従との双運」、岩波版『清沢満之全集』巻6、29頁)


 昔、真宗学の中で清沢満之(1863 – 1903)に関する講義をしばしば受講した。専門用語や知識の範囲では学ぶことはあったが、ただそれらの諸概念がどのような背景から生み出されたのか、当時の自分の感性にはピンとこなかった。最近になってふと学生時代のノートを開き、読み返してみると、実に貴重な講義を受けていたことを思い知らされる。

 そのような私にも、今でも記憶に残る清沢満之に関する思い出がある。正確な年月は憶えていないが、清沢の専門ではない日本宗教史、近代仏教を専門とする先生の講義であった。清沢の思想を教理的に縷々(るる)説明するのではなく、むしろ彼の個性や人間性にフォーカスを当てた内容であった。特に清沢における「自由と服従」というテーマに切り込んだ話は、熱心に聞き入った。


 「自由と服従との双運」と題する短い論文は、雑誌『精神界』に収載されているため、現在ではどの時期の清沢の言説(あるいは門弟の筆録した言説)に相当するものか通説的に知り得るだろう。だが、当時受講した私はそのような背景など知らず、単に清沢が語りかける「自由」と「服従」をめぐる問題に心を傾けた。

 「自由」と「服従」――、人は決して単独に存在するものではない。常に他者との関係の中で成立する。「自由」と「服従」とは、そうした自他存立の人間関係の中から生まれてくる問題に他ならない。たとえば、自分が自由を完全に占めるならば、他者を服従の位地に陥らせて支配する。反対に他者が自由を完全に占めるならば、自分は服従せざるを得ず支配されるのである。自分の自由と他者の自由が衝突するところに、人間の葛藤があり、煩悶が生み出されていく。当時、人間関係の儚さに苦悶していた私としては、清沢が教えてくれた「自由」と「服従」の問いに深く共感した。そこには、生身の清沢の姿を感じ取れたように思う。


 万物一体の真理に目覚めれば、「自由」と「服従」とは、決して利害を相反するものではなく、同一本体の活動作用から生み出される相依相待なる道理と理解される。万物一体の真理に到達することは、我々における宗教心の根本的課題であろう。その大理想を掲げる中で、「自由」と「服従」とは、現実社会を生きる様々な人間関係に適度な緊張感を与えてくれる教示と言える。

 今日SNSなどから個々の言説が広く発信されるが、自分の自由と他人の自由が交わされる議論の場を、明治期に生きた清沢の目にはどう映るのだろうか。清沢が求めた真正の自由とは何か。これからも私はこうした彼が投げかけた「自由」と「服従」の調和を基本に据えて、自分の立ち位置を確かめていきたいと思っている。

(2021年9月1日)

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今との出会い第238回「寺を預かる」
今との出会い第238回「寺を預かる」 親鸞仏教センター嘱託研究員 田村 晃徳 (TAMURA Akinori)  学ぶ喜びは知識を得ることであるが、学びにより発見されるのは自分の無知であろう。人は無知と言われないように学ぶ面がある。「無知の知」とは古来より伝わる大切な言葉だ。しかし、この言葉には無知である自分を蔑むニュアンスはない。それどころか、無知であることに気づいた自分のことを誇ってさえいるようにも聞こえる。学びとは知識を得ることではない。知識を得ることを通じ、自分を知ることにその目的はある。    歴史を学ぶ喜びも同様である。歴史的事項を知ることはとても楽しい。しかし事項を知るだけではただの物語だろう。それが、どのように今日の自分と関わりをもつか。このことを考えることにより自身に肉薄した事実として理解されるだろう。その時に、気づくことはただ一つ。私は先人達の努力により、今ここで生きていることができているということである。    その先人とはもちろん、祖父や父も含む。しかし、寺を支えてくれた門徒の皆さんも当然入る。門徒の方を支えてくれた、そのご家族も含むだろう。さらには、信仰を伝えてくれた先人達も含まれるだろう。このように遡っていくならば、いつかは親鸞聖人や釈尊にもつながるに違いない。    そのように考えるときに、住職達がよく使う大切な言葉を思い出した。それは「お寺を預かる」という表現である。当然のことであるが、住職が「ここは自分の寺だ」などと言い出したら、そのお寺はおしまいである。そうさせない大切な発想。それが「預かる」というものだろう。つまり、私は今、預かっているお寺において、先人達により伝えられた仏法に出遇うというご縁をいただいているのだ。親鸞聖人も『歎異抄』でお釈迦様や善導大師の名を挙げて、伝えられてきた仏法に出会えた喜びを述べている。そこに浄土真宗は自分の教えだ、といった傲慢さは皆無である。親鸞聖人もいただいた法を後世に伝えられた。それが今、私にまで伝わっている。ならば私のやるべき事も同じである。法を後世に伝えることである。    寺の歴史を学ぶ。それは知的関心だけではない。一つのお寺が誕生するまでには、悠久の仏法や、人々の歴史が必要であったことを知る。それは住職としての責任感を改めて自覚させる気づきなのである。 (2023年4月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」
今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu) 「あわれ、生きものは互いに食(は)み合う」 (なんと悲しいことか、生きものはお互いに争い食らい合っている)    それは、お釈迦さまの少年時代、農耕祭に臨まれた時のことである。土の中から一匹の虫が這い出てくるところに、一羽の鳥がやって来て、ついばむやいなや、飛び去っていった。それをじっと見ておられた悉多太子(しったたいし、釈尊の成道以前の名)が、深い悲しみの中より発せられた言葉であると、仏伝は伝えている。(以上、信國淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収「「個人」と「衆生」」、26頁取意)  大谷専修学院という場の基礎を築いた信國淳先生は、以下のように、「生類相克(そうこく)」を目の当たりにした少年太子の胸中に思いをいたす。   この場合太子の胸は、すべての生きものへの同苦共感の世界に生きたのである。鳥からついばまれる虫と、虫を食っていのちを養う鳥と、そのいずれにも与することなく、そのいずれをも生き、そのいずれにおいても、太子自らが生きている生命との交感、交流を感じつつ、そこに衆生世界を感得し、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と、その如実知見を表白したのである。 (同前、26頁~27頁)   「そのいずれにも与(くみ)することなく」という一言が、私の心に残っている。食われ殺される側、食い殺す側、そのどちらか一方を支持し、正当化するというのではない。そのようなメッセージとして受け取った。思い起こされるのは、私自身の少年時代、遠足に出掛けた時のことである。一羽のアゲハチョウが、カマキリに捕まり、今まさに食われようとしている場面に遭遇した。それを見て私は、「かわいそうに。なんてひどいことをするんだ」と思い、蝶の羽からカマキリの鎌を引き離し、助けてあげた。すると、蝶はすっと飛び立っていったが、今度は、カマキリがぐったりとして動かなくなってしまった。それを見て私は、「なんてことをしてしまったんだ」とショックを受けた。カマキリは、力尽きて死んでしまったのかもしれない。どうなったのか、その顛末を見届けることはできなかった。その時のことが思い起こされてくるのである。    その時のカマキリと同じように、私自身は平生、食い殺す側になっている。自分が直接手を下さずとも、誰かに頼って、他の生き物のいのちを奪っている。他の生き物を殺して食べなければ、自身のいのちを継ぐことはできない。自分という存在は、無数の生き物たちの犠牲の上に成り立っていると言える。    さらに言えば、私は、ゴキブリやムカデなどのいわゆる害虫は、容赦なく殺してきている。害をもたらすと感じるものを何であれ、都合によって殺すような自分だから、もしも戦場に出るようなことになったら、ためらいなく人を殺してしまうのではないかと危惧している。    一方で時には、食われ殺される側に自分の身を置くということも起こり得るのかもしれない。しかし、正直に言って、食われたくないし、殺されたくない。要するに、あきらめが悪いのである。その心中は、仏陀釈尊が、『法句経』(ダンマパダ)に説かれている通りである。   一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 (中村元訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』ワイド版岩波文庫、28頁)    私自身は、自分にも、他者にも、殺されたくないのである。存在を尊重されたい、尊重したいと願っているのである。同じようにして、他者の上に私自身のすがたを見出すのであれば、他者を殺したくない、誰かに殺させたくない。その存在を尊重したいのである。  たとえ戦禍に巻き込まれたとしても、できることならば、殺されていくよりも、殺していくよりも、誰かに殺させていくよりも、どこへでも逃げ出して生き延びたいと願っている。それは、誰も皆、一人一人、仏法がはたらく器であると信じるからなのだろうか。    いま現在、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する戦争の惨状を、映像で目の当たりにしている。周辺国の脅威とも相まって、日本でも武器保有、防衛費の問題が急展開してしまっている感じがする。「敵基地攻撃能力(反撃能力)」という言葉が象徴しているように、「敵」という文字が露骨に表れるようになってきている。敵と見なされたものは、当然、警戒心、不信感を抱くに違いない。それは結局、お互いを尊重して協力し助け合うような関わり合いを放棄するという方向になるのではないか。ここにきて、守るための戦いを正当化することは、極めて危険だと感じている。日本は、かつての戦争を通して、大空襲や原爆投下による被害の悲惨、苦痛、そして加害性について、身をもって知ってきたのだから、同じあやまちを繰り返してしまわないように、メッセージを発信し続けていくべきだと考える。被害の側、加害の側、どちらにもならないように模索するということがあって然るべきだと思うのである。    仏教が重んじる精神は「不害」であると聞いてきた。私自身の在り方を振り返れば、前述した通り、それを実行できてはいない。背いてばかりであると言わざるを得ない。しかし、その精神には賛同したい。誰も、傷つけない、傷つかない解決の道がある。それを探求していったのが、少年悉多太子の仏に成る歩みではなかったか。    一切の苦悩する衆生を摂め取って捨てないと誓う、本願の光に照らされて、自己中心的に分別する、執着する心の否定をくぐる。阿弥陀如来の大いなる慈悲・浄土の光に包まれて、存在の本来性に帰る。「一つである」という道理にまっすぐ順い、現実の「食み合う」世界に責任を取って生きる。それは、本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけを聞く、信心をいただくというところに帰着する。    尊ぶべきは法である。本当に守るべきものを明らかにしたいと思った次第である。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...
飯島孝良顔写真
今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」
今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」 親鸞仏教センター嘱託研究員 飯島 孝良 (IIJIMA...
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今との出会い第235回「太った白人の家族――ネブワース2022旅行記」
今との出会い第235回「太った白人の家族――ネブワース2022旅行記」 親鸞仏教センター研究員 宮部 峻 (MIYABE Takashi)  今年の6月、常勤研究員として着任して早々、有給休暇をいただき、5年ぶりにイギリスを訪れることができた。目的は私が尊敬してやまない人物の一人である唯一無二のロックンロール・スター、リアム・ギャラガーのネブワース公演を観に行くことであった。  原油高、空前絶後の円安、そしてウクライナ情勢の問題もあり、旅行費はずいぶんと高くついた。その事実だけで私のなかにある政治不信、反戦感情はますます高まってくるわけであったが、ともかく、リアム・ギャラガーの歴史に名を残すこととなったネブワース公演を観ることができたわけである。魅了されて以来、これまでリアムとノエルのどちらかが来日すればほぼすべてを観に行った私であるが、なかでも特別なコンサートの一つとなった。  メディアの報道で見聞きしていたが、イギリスに訪れると、ちらほらマスクをしている人もいたものの、コロナ前とほとんど変わらない日常が広がっていた。コンサート会場に移動するバスでもマスクはおろか、朝からギネスを大量に飲み、歌い、騒いでいた。私も隣の知らない客にギネスを渡された。これぞイギリス流のおもてなし。  さて、二日間で16万5千人を動員したコンサートでは、両日ともにそれぞれ前座が4組ずつ出た。私が観に行った二日目には、Fat...

著者別アーカイブ

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「親鸞仏教センター通信」第78号

藤村潔 掲載Contents

巻頭言

谷釜 智洋 「自己を問うてくるもの」

■ 源信『一乗要決』・『尊号真像銘文』合同研究会報告

講師 梯  信暁 「源信『往生要集』の菩提心論

報告 藤村  潔

■ 研究員と学ぶ公開講座2021報告

藤村  潔 「『大乗涅槃経』を読む」

東  真行 「「正信念仏偈」を読む」

谷釜 智洋 「『精神界』を読む」

■ 第6回清沢満之研究交流会報告

テーマ:世紀転換期の宗教思想運動—内村鑑三・綱島梁川・清沢満之—

赤江 達也 「「無教会主義」の波紋―内村鑑三から塚本虎二へ―」

古荘 匡義 「実験と言説―綱島梁川からの宗教思想運動―」

名和 達宣 「「精神主義」運動の波紋―曽我量深を中心に―」

鶴岡 賀雄 (コメンテーター) 長谷川琢哉 (開催趣旨)

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

菊池 弘宣 「源空聖人の真像の銘文( 『選択集』 に関する銘文)①」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

藤村  潔 「小栗栖香頂(1831〜1905)」

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研究会・Interview
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「親鸞仏教センター通信」第77号

藤村潔 掲載Contents

巻頭言

本多 弘之 「パンデミックの中で法蔵願心を憶う」

■ 近現代『教行信証』研究検証プロジェクト報告

講師 本明 義樹 「『教行信証』の「現代的解釈」に向けての課題—聖教編纂を通して—

報告 藤原  智

■ 第65回現代と親鸞の研究会報告

テーマ 「裁判員制度10年を見つめて」

講師 坂上 暢幸

講師 大城  聡

報告 飯島 孝良

■ 「正信念仏偈」研究会報告

講師 四方田犬彦 「アーカイヴとしての『教行信証』」

報告 東  真行

■ 清沢満之研究会報告

谷釜 智洋 「「語られる清沢満之」という課題――雑誌『精神界』を読む――」

■ 研究員と学ぶ公開講座2020報告

藤村  潔 「救われがたき者とは— 『大乗涅槃経』を読む —」

東  真行 「親鸞を再読するという課題 — 金子大榮による戦後の思索 —」

谷釜 智洋 「大正期における「現代」と真宗 — 真宗大谷派仏教学会の取り組み —」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

東  真行 「西本文英(1920〜2006)」

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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『アンジャリ』第40号

藤村潔 掲載Contents

『アンジャリ』第40号

(2020年12月)

■ Contents

千代 豪昭 「優生学の反省と医療倫理」

松尾 剛次 「寺子屋こども大学と東日本大震災」

吉田 千亜 「言葉に敏感であることの大切さ――原発事故の加害と被害を忘れないために」

大城  聡 「「裁判員経験」と「共有」」

木村 哲也 「〈来者〉とはだれか――分断を超えるハンセン病文学の言葉」

■ 連載
■ 巻末コラム

藤村  潔 「扇の学び」

※一部のコンテンツは無料でPDF版をご覧いただけます(タイトルをCLICK)

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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『現代と親鸞』第43号

藤村潔 掲載Contents

研究論文
■ 清沢満之研究会

西本 祐攝 「「他力門哲学骸骨試稿」に学ぶ――研究の方向性」

■ 『教行信証』と善導研究会・『尊号真像銘文』研究会

金子  彰 「鎌倉仏家の注釈活動――親鸞遺文を通して」

■ 「三宝としてのサンガ論」研究会

細川 涼一 「西大寺叡尊と非人――叡尊の自伝『感身学正記』を中心に」

■ 第5回「清沢満之研究交流会」報告

全体テーマ:「井上円了と清沢満之

【提言】

長谷川琢哉 「仏教の近代化と「哲学」――井上円了と清沢満之の教育への関わりを背景として」

星野 靖二 「「合理的宗教論」と「実存的宗教論」――井上円了と清沢満之を取り巻く同時代的な文脈」

佐藤  厚 「絶対・相対の関係『大乗起信論』――井上円了と清沢満之の解釈」

【全体討議】

岡田 正彦(コメンテーター)・名和 達宣(司会)

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(29)」

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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第75号

藤村潔 掲載Contents

巻頭言

藤村  潔 「罪と救い―「阿闍世」からの想起―」

■ 「親鸞と中世被差別民に関する研究会」発足に際して

中村 玲太

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

講師 上杉  聰 「部落史研究からみた親鸞聖人の思想と時代」(前編)

報告 菊池 弘宣

■ 特別寄稿

三枝 暁子 「中世身分制研究の軌跡と展望」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

谷釜 智洋 「米沢英雄(1909〜1991)」

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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時: