親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

Interview 第2回 末木文美士氏

花園一実

国際日本文化研究センター教授

末木 文美士

(SUEKI Fumihiko)

Introduction

 東日本大震災は、日本全体を〈揺さぶり〉、〈ひび割れさせ〉、〈爆発させた〉…。文字通りの意味でも―ことに福島第一原子力発電所の事故は―そうであるし、また隠喩的意味においてもそうであるといえよう。

 宗教界もその例外ではない。地震と津波による甚大な被害、膨大な死者・行方不明者たちの存在は、「現代社会において宗教は何をなし得るか?」という問いに新たな位置づけを与え、原子力発電所の事故によって発生した放射性物質による自然環境への汚染は、世代を超えた未来に対する人間の責任という重い課題をあらわにした。そしてまた、それとともに「被災した者」と「被災しなかった者」との間には、大きな亀裂が、震災後一年半を経た今も、いまだ走ったままだ。

 震災が宗教界に突きつけた課題は、それに直面する者をたじろがせるほど大きい。しかしそれは、ある意味では現代社会において宗教が絶えず直面してきた問題であるともいえる。これまでは「見て見ぬふり」をしてきた宗教界も、さすがにもはや「見て見ぬふり」が許されないことを自覚したことは大きな前進であろう。

 末木文美士氏は、教団から距離を置いた立場から、現代の日本仏教に対して多くの鋭い提言をされている。〈3.11〉後の仏教が直面している課題について、氏からの提言をお伺いした。

(花園 一実)
(常塚  聴)
(大谷 一郎)

■現代の「再魔術化」と仏教の「近代化」

 

――近年、日本仏教はしばしば「葬式仏教」であると批判されている。

 

末木  日本の近代社会の構造は、最終的に明治30年代になって家父長的な「イエ」体制を基礎においた形で完成した。その「イエ」を形成していく中心的な象徴となったのが、墓、あるいは位牌である。「イエ」制度における家父長の義務というのは先祖の墓を守り、位牌を守ることであり、その意味で、「葬式仏教」というのは実は日本近代の社会構造の中で非常に重要な役割を果たしていたともいえる。近代仏教というものは、最初から近代天皇制国家の枠の中に組み込まれて、そのことによって経済的基盤を確保していた。そういう意味で、日本の仏教は「社会性を持たない」というどころではなく、「葬式仏教」という形で、近代社会の根本のところを支えていたともいえる。

 

――ウェーバー(Max Weber)以来、中世の「呪術の園Zaubergarten」が近代において「脱魔術化Entzauberung, disenchantment」、合理主義化するというのが社会学においては常識であった。しかし「葬式仏教」は合理性とは対極にあるのではないか。

 

末木  近代以降、日本においては公共の場では西欧以上に単純化された形での「近代的」な世界観の構築が行われてきた。その中で、仏教に対しても、表向きにはいわゆる近代的な仏教理解というものがされていった。

 近代的な仏教理解は、近代以前の仏教を「迷信」であるとして、それからの「脱魔術化」をはかり、近代の合理的な枠の中で新たに「仏教」を形成しようとした。その場合の「仏教」というものは、基本的には西欧で形成された、キリスト教をモデルとした概念としての「宗教」の枠の中にあり、逆にその枠からはみ出すようなものは本来の仏教のあり方から外れたものとして排除されていった。さらに、ブッダ、あるいは親鸞の解釈も、近代に合う形で再解釈され、それまで持っていた複合的な面、民俗的な面というものは切り捨てられていった。

 このことは、宗教というものを純粋化することによって、世俗的な倫理と宗教的な領域とが切り離され、国民国家の側から宗教の立場を守るという役割を果たしてきた。その一方で、神道非宗教論によって神道が宗教ではなく国民道徳として位置づけられた。表の側にある「個人の内面のものとしての宗教」対「道徳としての国家神道」という概念と、裏の側にある「葬式仏教」対「民俗信仰」というものが、実は一つのセットをなしている。いわば、近代において宗教は個人的な領域に活動範囲を限定することによって、近代社会の中に位置づけを与えられた。

 

――宗教界では、「葬式仏教」への批判、また東日本大震災の犠牲者を前にして、改めて「死者」とどう向き合っていけばいいのか、ということが問われている。現状は「脱魔術化」というよりもむしろ「再魔術化re-enchantment」の方向に向かっているようにもみえる。

 

末木  「死者」、あるいは「他者」の問題というのは、西欧でも特に20世紀の後半から、主にレヴィナス(Emmanuel Lévinas)の著作によって取り上げられているが、西欧においては「他者」論は、どうしてもいわゆる一神教的な「神」と常に関わる形で問題となっていくという一面がある。

 ところが日本人の場合、「他者」あるいは「死者」との関わり方という場合、一般的に西欧のような形での「他者」との関わりとは少し違ってくる。そういうものは、いわゆる近代化によって簡単に消えてしまうような性質のものではない。

 先にも述べたように、近代以降の「葬式仏教」といわれるものは近代以前のものの単なる延長ではなく、近代において新たな意味づけを与えられた。ところがそれは表側には出てこない。むしろ、「葬式仏教」を表に出さないことによって、近代的な仏教の言説というものが成り立ってきた。

 敗戦後、表向きは「イエ」制度というものは廃止された一方で、仏教の経済的な基盤は「葬式仏教」というところにいまだに置かれたままになっている。1980年代から90年代にかけてこの問題が表面化し、「葬式仏教の危機」というようなことがいわれるようになったのは、今までは過去の名残でどうにかなっていた矛盾が、この時期にはいよいよどうにもならなくなってきていたということでもある。その矛盾が震災によって一挙に表面化したともいえる。震災が新たな問題を引き起こしたというより、それまで「裏側」にあった「死者」という問題が震災によって表に引き出されたという面がある。

 

 

■浄土真宗と「社会貢献」

 

――東日本大震災以前から、「仏教の社会貢献」ということが広く論じられていたが、それに浄土真宗が参加する場合に、現場では色々と戸惑いが生じている。

 

末木  先にも述べたように、宗教の公共性が問題となってきたということは、いってみれば今まで社会の片隅の問題に過ぎなかった宗教が、もはや片隅ではすまなくなってきたということでもある。

 しかし、現在では、宗教の社会貢献はまだ現場で起こっている問題に一つ一つ対応しているというレベルから脱していないのではないか。「起こっている問題をどう解決するのか」ではなく、「どうしてその問題が起こってきたのか」という、もう一つの重要な課題があるだろう。それは問題の解決には直結はしないかも知れない。しかし、それほど現実と理論がかけ離れてしまっているとすれば、それは理論のほうが間違っているというべきではないか。

 現実のほうを理論に当てはめるのではなく、現実をどのように理解したらいいのかというところから理論が生まれてくる。今まで常識だと思われていたことであっても、現場から見た場合にはそれを逆転させて考えてみなければならない。現象面で起こってくる問題に一つ一つ対処するのではなく、その根本にある問題に立ち返って考える必要がある。


 

■伝承の見直しから新たな視点へ

 

――近代的な歴史研究が伝統の流れを断ち切ってしまったという一面もある。

 

末木  親鸞が生きていた時代の宗教のあり方は、社会や文化の中の、人間の活動のある一つの側面を受け持つというものではなく、人間の存在全体に関わるものであった。

 親鸞の伝記というものは、いわゆる「バイオグラフィーbiography(bios生物+graphia記述)」(伝記)ではなく「ハギオグラフィーhagiography(hagios神聖+graphia記述)」(聖人伝)であって、そもそも客観的な親鸞像を描き出そうという意図があってつくられたものではない。

 『御因縁』(注1)や『正統伝』(注2)『正明伝』(注3)といった、正統とはみなされてこなかった親鸞伝、あるいは親鸞の著作でも『聖徳太子和讃』(注4)や『善光寺和讃』(注5)などは近代の歴史学や教学からは排除されてきた。しかし中世の時代を生きた親鸞像を見るためには、そこは避けては通れないのではないか。

 親鸞が生きた中世という時代は、実は「身体観」に大きな変化があった時代でもある。それは「女犯偈」、あるいはそれに関連する玉日姫の伝承とも大きく関わってくる。「玉女」との性的交渉を王権と結びつける考え方は慈円の『夢想記』の中にもあり(注6)、親鸞はそのような時代の中で生きていた。近代の歴史学は「ハギオグラフィー」を排除してきた。しかし、例えば厳密に親鸞自身の、あるいは親鸞と同時代のものだけを「史実」とするとしても、そこにはすでにハギオグラフィー的な要素は入り込んでいる。現代人の目から見て非合理的な部分だけを排除するというのは正しくない。

 

――そのような、豊かな生命力を現代の宗教が取り戻すことはできるのか。

 

末木  近代以前の宗教が持っていた宗教の創造性というものが近代になって失われ、逆に個人の内面の問題という狭い領域の中に自らの活動を限定することで教団は近代社会の中で生き残ってきた。それはある意味ではやむを得ないことでもあったが、逆にいえば社会的な問題に対応するための手段を失っていくことにもなっていった。

 もちろん、近代というものを全否定してしまってよいわけではない。清沢満之にしろ、あるいは曾我量深にしろ、いずれも近代における重要な思想家であることは間違いない。浄土真宗はある意味で近代仏教のモデルとなった面がある。

 しかしその一方で、浄土真宗は「近代」という枠の中にかえって強く押し込められているのではないか。いずれにしても、宗門の枠の中にはめ込んで考えてきたということはないか。一度その枠を外して、さらに大きな思想史の流れの中において考えてみる必要がある。

 近代社会が「合理化」した親鸞像を一度離れて、親鸞が生きた時代の中に親鸞をもう一度おいてみることで、親鸞の思想の持つ普遍性、あるいは近代性というものが、逆に明らかになってくるのではないか。

(注1) 『親鸞聖人御因縁』:一巻。親鸞と、仏光寺派の祖・真仏、ならびに源海の伝から成る。親鸞伝では、九条兼実と法然の要請によって親鸞が玉日と結婚したことを伝え、坊守の成立を強調する。永正17(1520)年頃成立。

(注2) 『親鸞聖人正統伝』:六巻。高田派の良空の著。親鸞の事績を年齢順に構成し、高田派が親鸞の正統であることを明らかにしようとしたもの。正徳5(1715)年成立。

(注3) 『親鸞聖人正明伝』:四巻。高田派の良空が存覚に擬託して著作したもの。『正統伝』を存覚の筆記の形式に書き換えて刊行したもので、年代、地名などに『御伝鈔』『正統伝』などと一致しない点が多く見られ、親鸞の神秘化が目立ち、近世小説風の体裁となっている。享保18(1733)年刊行。

(注4) 『聖徳太子和讃』:『真宗聖典』(東本願寺出版部)収録の『皇太子聖徳奉讃』十一首(『正像末和讃』に収録)の他に『皇太子聖徳奉讃和讃』七十五首、『大日本国粟散王聖徳奉賛』百十四首がある。

(注5) 『善光寺如来和讃』:五首。『正像末和讃』に収録。

(注6) 田中貴子「〈玉女〉の成立と限界――『慈鎮和尚夢想記』から『親鸞夢記』まで」、『外法と愛法の中世』(平凡社ライブラリー)参照。

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Interview 第1回 中島岳志氏

花園一実

北海道大学大学院

公共政策学連携研究部 准教授

中島 岳志

(NAKAJIMA Takeshi)

Introduction

 震災の混乱もまだ冷めやらぬ2011年3月24日、東京地裁において加藤智大(ともひろ)に死刑判決が下された。事件から3年が経ってのことである。

 17名もの死傷者を出した秋葉原連続通り魔事件は、いま世間にどう映っているだろう。

 事件以後中止となっていた歩行者天国は今年から試験的に再開され、事件現場となった交差点には、枯れた花束が淋しげに置かれている。事件は確実に忘れ去られつつある。

 しかし、秋葉原事件はこのまま単に忌まわしい出来事として、記憶の底に葬られてしまってよいのだろうか。私たちはこの問題にどのように関わっていくべきなのだろうか。北海道大学准教授の中島岳志(たけし)氏のお話を手がかりに何が問題なのか考えてみたい。

(花園 一実)

 同事件について2011年8月1日中島氏にお話を伺った。中島氏は『秋葉原事件―加藤智大の軌跡』(朝日新聞出版 2011)を著し、同書で加藤という人間そのものに焦点を当て、その生い立ちから犯行に至るまでの軌跡を詳細に記している。

 

中島  現代はツイッター型の瞬発力社会。メディアは事件を次から次へとネタ的に消費していきますが、実際のところ問題はむしろ構造化していくばかり。加藤が抱えていた問題は、この三年間で解決したどころか、むしろ深まっていっているとしか思えません。

 

――事件後、ネット上では加藤の行動に共感を示す声が相次ぎ、加藤に影響を受けたと公言する模倣犯までが生み出された。加藤の抱えていた鬱屈(うっくつ)は、現代社会の表面化されない深層部分において、ある種の共通性をもっていた。だからこそ、この事件は単に加藤のパーソナリティの問題だけに還元されるべきではない。

 

中島  本を書くにあたって、内在的批評ということが大切だと思いました。加藤自身がどのように歩み、どのように思ったのか、そしてそれが自分とどこで繋(つな)がっているのか。単純に言えば、僕の中にも加藤がいるだろうと思ったのです。

 

――当時、世間ではさまざまな論客によって事件の分析がなされていた。「派遣切りにあった若者による社会への復讐」「母親の偏重教育による結果」「コミュニケーション能力の欠如による世間からの孤立」、加藤の環境や性格をめぐってさまざまなストーリーが作られた。それらの「わかりやすい」ストーリーを聞いたとき、私たちは「ああ、そういうことだったのか」と納得することがあるかもしれない。しかしその瞬間、事件は自己と切り離された問題として、加藤は環境が作り出したモンスターとして、処理され完結してしまう。

 

中島  〈わかりやすさ〉というのはAかBかという二分法に押し込めて単純化することではありません。まず人間というのは、それ自体が非合理的で割り切れない〈わかりづらい存在〉だと思うのです。僕にとっての〈わかりやすさ〉というのは、その〈わかりづらい〉ことを、仏教で言えば、世界が不可思議でどうにも捉(とら)えきれないものだということを、丁寧に説明していくことでした。そのためには何よりもまずディテールが重要だと思ったのです。大切なのは、きれいな結論を出して見取り図を作ることよりも、ディテールを追って、それが自分の中にもあるということを見いだしていくプロセス。だから加藤の細部を知りたいと思ったのです。

 

――加藤の人生を丁寧に辿(たど)っていくと、彼が決して世間でイメージされているような、「友達がいない」「コミュニケーションができない」といった性格の持ち主ではないことがよくわかる。彼には学生時代からの友人が何人もおり、彼自身、職場を転々としていく中でも、その先々で友達を見つけうまくやっていける能力をもっていた。

 

中島  だから重要なのは〈なのに孤独だった〉ということなのです。なぜ友達がいたのに彼は孤独だったのか。そこに、ただ友達がいればいいのか、という質的な問いが生まれます。社会には上司と部下のようなタテの関係、同僚や友人間のようなヨコの関係があって、それらはどちらも色々な利害関係が複雑に絡まっている。その中で利害関係の絡まない、本音で語ることのできる、タテ・ヨコどちらでもないナナメの関係というものが、実は私たちにとってはとても重要なんです。加藤は現実世界にそのナナメ関係を見つけることができなかったのだと思います。

 

――加藤にとって建前のない純粋透明なナナメの関係は、インターネットの世界に求められた。彼は「2ちゃんねる」のような不特定多数による巨大掲示板ではなく、ハンドルネームを使った特定少数による小さな掲示板を居場所とした。そこで現実世界のような煩(わずら)わしい利害関係を伴わない、純粋に自己を承認してくれる透明な人間関係を求めたのである。取り替えのきく派遣社員としての、代替可能で部品のような現実世界の自分より、ありのままの自分を認めてくれるネットの世界のほうが、彼にとっては「リアル」だった。

 しかし、そのような加藤の自己は崩れていくこととなる。彼の居場所である掲示板に、彼のハンドルネームを使い、彼になりすます者が現れだしたのだ。この「なりすまし」によって彼の実存は激しく揺さぶられることとなる。身体性を消すことによって得ることができたネットでの透明な関係性は、身体をもたないからこそ驚くほど簡単に崩れてしまう。加藤は裁判で、犯行の動機をこの「なりすまし」による掲示板の荒らしであったと証言している。

 

中島  裁判に出てきたとき、多くの人にとっては〈なんでそんなことが殺人の理由になるんだ〉と言われていたのですが、僕にとっては〈リアルだな〉と思えたんですね。自分が自分でいられると思った場所が他者から乗っ取られてしまう。それどころか、むしろ彼自身がニセモノだと疑われてしまう。その時に、彼は誰が自分で、誰が自分ではないのかが、もう区別がつかなくなってしまったのだと思います。そういう空間がネット上では簡単にあらわれてしまう。彼の実存はその時本当に崩壊したのだと思います。

 

――法廷での加藤は終始無表情であったという。被害者遺族からは、「お前が自殺すればよかった」などと悲痛な言葉が投げかけられた場面もあった。しかし、彼は顔色一つ変えることがなかった。ネット上でこれまで「死ね」などの言葉を浴びせられ続けてきた加藤にとって、それらの言葉はまったく心に響いてこなかった。

 その加藤が法廷中、二回だけ表情を崩したことがあったという。一回目は、被害者の妻である女性から「亡くなった人のために、どうか一つでもいいことをしてもらいたい」という言葉を受けた時であった。その時、加藤は顔を紅潮させ、目を潤ませた。もう一つは、加藤に刺されて重症を負った被害者男性の言葉。男性は事件の後、加藤と手紙のやり取りをしていた。手紙は「なぜこんなことをしてしまったのか。あなたの本当の気持ちを理解したい」という内容だった。その男性が証言台に立ったとき、それまで決して証言台に目を向けることがなかった加藤が、眼を背けずに男性の言葉をじっと聞いていた。そして、男性が「どうか真実を語って欲しい」と言った時、加藤は「うん」と小さく頷いたという。

 

中島  加藤は本音じゃなくて、本気で向き合ってくれる人というものをどこかで探していた。その言葉に力があって、本当だと思えた瞬間、彼は確かに反応するんです。

 

―思えば加藤に響いていた言葉は他にもあった。

 仙台の運送会社に勤務していた頃、加藤は上司の男性に軽口をたたき、説教をされたことがあった。その時、その男性は自分のこれまでの人生について包み隠さずに語り、加藤の人生について本気で向き合い言葉を交わした。加藤は自分の軽率さを反省し、号泣した。

 また、上野の駐車場で自殺を考えていた時、加藤はある警察官に職務質問を受けた。自殺を考えていると言う加藤に対し、警察官は親身に相談にのり「生きていれば辛(つら)いこともあるが楽しいこともある。君は頑張りすぎだから力を抜いた方がいい」とアドバイスをした。加藤はやはり涙を流し、その時に借りた駐車料金を返すために、再び職に就いている。

 加藤に届いていた言葉は確かにあった。

 

中島  本当の実存に届く言葉とは何なのか。彼の根源や世界を揺るがせるような熱量をもった言葉。そういう言葉を私たちは見つめる作業をしなければいけないと思います。私たちは加藤のような人間に出会ったとき、反射的に逃げてしまっているのではないでしょうか。現代ではちょっと危ない奴を見かけたら通報しようという風潮が強いですが、そこから一歩踏み込んで、そういう人たちを承認しながら、そこで自分たちは何を言うことができるのか、どういう言葉をもつことができるのか、このことを考えることが大事だと思います。

 

――おそらく、かつて多くそういう言葉をもっていたのは宗教家であった。お寺は地域コミュニティの中心として、人々がナナメの関係を構築するための大きな役割を担っていたのだろう。現在では、精神に不安があれば精神科の病院に行こうか、などと考えるのが一般的で、「お寺に行ってみよう」と思う人がどれだけいるだろうか。中島氏は、秋葉原事件は「自己への問い」として受け止められねばならないと語った。加藤は私たちの中にも存在する。私たちはそのことを認めることから始めなければならない。本当の言葉とは、きっとそのような態度からしか生まれてこないものなのだ。

 秋葉原事件は今も私たちに問いかけている。

(文責:親鸞仏教センター)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第45号

花園一実 掲載Contents

巻頭言

本多 弘之 「如実の修行と相応する」とは?

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

講師 本多 弘之 「見えざるもののはたらき」

報告 越部 良一

■ 第43回現代と親鸞の研究会報告

講師 平川 克美 「誰も知らない人口減少社会の意味」

報告 花園 一実

■ 『尊号真像銘文』試訳

内記  洸

■ 清沢満之研究会報告

講師 水島 見一 「清沢満之の真宗的意義」

報告 春近  敬

■ 『教行信証』真仏土・化身土巻研究会報告

講師 三木 彰円 「『教行信証』の諸問題―親鸞自筆・坂東本を通して―」

報告 花園 一実

コラム・エッセイ
講座・イベント
刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『現代と親鸞』第25号

花園一実 掲載Contents

研究論文
■ 第39回現代と親鸞の研究会

槌田  劭「人間知の傲慢、科学の欺瞞――大地に足して共に生きる――」

■ 『教行信証』真仏土・化身土巻研究会

大峯  顕 「末法の時代における真理とは」

■第6回親鸞仏教センター研究交流サロン

【問題提起】

土井 隆義 「「関係性」を問い直す――少年犯罪をめぐる視点から――」

【全体討議】

佐賀枝夏文(コメンテーター)

■ 親鸞仏教センター公開講演会2011

テーマ:「「言葉」のリアリティ―秋葉原事件が問いかけるもの―」

中島 岳志(講演)

花園 一実(パネリスト)

春近  敬(パネリスト)

内記  洸(パネリスト)

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(12)」

コラム・エッセイ
講座・イベント
刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第43号

花園一実 掲載Contents

巻頭言

花園 一実 「真宗と他者」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

講師 本多 弘之 「往相の回向と還相の回向」

報告 越部 良一

■ 『尊号真像銘文』試訳

内記  洸

■ 鈴木大拙『英訳教行信証』改訂版刊行記念インタビュー

武田 浩学

西村  玲

コラム・エッセイ
講座・イベント
刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『現代と親鸞』第22号

花園一実 掲載Contents

研究論文
■ 第35回現代と親鸞の研究会

大井  玄 「「事実」と「意味の世界」」

■ 第36回現代と親鸞の研究会

安冨  歩 「親鸞の思想とハラスメント」

■ 第5回現代の諸課題と対話する研究会

鍋島 直樹 「親鸞の生命観は現代に意味をもちえるか―自死問題を契機として―」

■ 第2回親鸞仏教センター研究交流サロン

【問題提起】

下田 正弘  「いのちの〈現場〉において仏教は何を語りうるか語る以前に存在すること

【全体討議】

北西 憲二(コメンテーター)

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(9)」

コラム・エッセイ
講座・イベント
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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『アンジャリ』第21号

花園一実 掲載Contents

『アンジャリ』第21号

(2011年3月)

■ Contents

福島  智 「邂逅の不思議」

服部 文祥 「幸福とはどこにあるのか-なまぐさい登山者の立場から」

片山 杜秀 「日本近代思想史の中の親鸞と日蓮」

藤原 新也 「生と死の間の一瞬」

山下 秀智 「宗教とは何か-キェルケゴールの言葉に学ぶ」

車谷 長吉 「救いのない救い」

安冨  歩 「親鸞現生利益思想の現代的意義」

■ 連載
■ 巻末コラム

花園 一実 「宗教者における「うぬぼれ」と「わきまえ」」

※一部のコンテンツは無料でPDF版をご覧いただけます(タイトルをCLICK)

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