親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

『親鸞仏教センター通信』第86号

田村晃徳 掲載Contents

巻頭言

「私にとっての「現場」」

主任研究員 加来 雄之

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

「『一念多念文意』の拝読を始めるに当たって」

講師 本多 弘之

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

「中世の狩猟文化と「野生の価値」」

講師 中澤 克明

■ 第69回現代と親鸞の研究会

「安田理深と現代―その思想の独自性をめぐって―」

講師 ポール.B.ワット

■ 第70回現代と親鸞の研究会

「核をめぐる罪と悪」

講師 西村 明

講師 宮本 ゆき

■ 第4回現代と親鸞公開シンポジウム

「宗教者にとって「現場」とは何か?」

提題Ⅰ 吉水 岳彦

提題Ⅱ 田村 晃徳

提題Ⅲ 小原 克博

■ リレーコラム

鈴木 慧淳(?〜1886)

嘱託研究員 古畑 侑亮

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『現代と親鸞』第48号

田村晃徳 掲載Contents

■研究論文
■ 清沢満之研究会

中西 直樹 「「近代仏教」再生の可能性と限界 ―新仏教と俗人登用の試みと挫折 ―

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

原田 信男 「肉食の始原と否定・工程の論理」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之 「 浄土を求めさせたもの ――『大無量寿経』を読む ―― (34)」

コラム・エッセイ
講座・イベント

刊行物のご案内

研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い第238回「寺を預かる」

田村晃徳

親鸞仏教センター嘱託研究員

田村 晃徳

(TAMURA Akinori)

 学ぶ喜びは知識を得ることであるが、学びにより発見されるのは自分の無知であろう。人は無知と言われないように学ぶ面がある。「無知の知」とは古来より伝わる大切な言葉だ。しかし、この言葉には無知である自分を蔑むニュアンスはない。それどころか、無知であることに気づいた自分のことを誇ってさえいるようにも聞こえる。学びとは知識を得ることではない。知識を得ることを通じ、自分を知ることにその目的はある。

 

 歴史を学ぶ喜びも同様である。歴史的事項を知ることはとても楽しい。しかし事項を知るだけではただの物語だろう。それが、どのように今日の自分と関わりをもつか。このことを考えることにより自身に肉薄した事実として理解されるだろう。その時に、気づくことはただ一つ。私は先人達の努力により、今ここで生きていることができているということである。

 

 その先人とはもちろん、祖父や父も含む。しかし、寺を支えてくれた門徒の皆さんも当然入る。門徒の方を支えてくれた、そのご家族も含むだろう。さらには、信仰を伝えてくれた先人達も含まれるだろう。このように遡っていくならば、いつかは親鸞聖人や釈尊にもつながるに違いない。

 

 そのように考えるときに、住職達がよく使う大切な言葉を思い出した。それは「お寺を預かる」という表現である。当然のことであるが、住職が「ここは自分の寺だ」などと言い出したら、そのお寺はおしまいである。そうさせない大切な発想。それが「預かる」というものだろう。つまり、私は今、預かっているお寺において、先人達により伝えられた仏法に出遇うというご縁をいただいているのだ。親鸞聖人も『歎異抄』でお釈迦様や善導大師の名を挙げて、伝えられてきた仏法に出会えた喜びを述べている。そこに浄土真宗は自分の教えだ、といった傲慢さは皆無である。親鸞聖人もいただいた法を後世に伝えられた。それが今、私にまで伝わっている。ならば私のやるべき事も同じである。法を後世に伝えることである。

 

 寺の歴史を学ぶ。それは知的関心だけではない。一つのお寺が誕生するまでには、悠久の仏法や、人々の歴史が必要であったことを知る。それは住職としての責任感を改めて自覚させる気づきなのである。

(2023年4月1日)

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掌(たなごころ)につつむのは

田村晃徳

親鸞仏教センター嘱託研究員

田村 晃徳

(TAMURA Akinori)

 合掌する姿は美しい。これが住職としての私の実感です。


 仏さまに向かい、お念仏を称え、手を合わせる。お寺ではよく見るありふれた光景ですが、最も静謐(せいひつ)な時間でもあります。正座をして、じっと目を閉じ、そして合掌する。私はその姿を見ながら思うのです。あの方は、今、手を合わせながら、何を思うのだろうかと。


 サンスクリット語で「合掌」の意味を持つ『アンジャリ』が創刊されたのは、2001年でした。親鸞仏教センター(以下「センター」)の機関誌として、20年以上も刊行できていることは、素直にすごいことだと思います。創刊号の執筆者は錚々(そうそう)たるものです。巻頭にはニュースキャスターの筑紫哲也さん。ここにも『アンジャリ』の、そしてセンターの基本にして基幹の姿勢が示されています。それは「現代に生きる人々と対話をする」ということでした。現代の人々との対話。しかも仏教の、そして親鸞の言葉を通じての対話です。対話を通じ、これまでの宗門ではできなかったことを始める。これがセンターの設立の趣旨です。


 センターの創立翌年である2002年に研究員として着任した私は、『アンジャリ』をはじめとするセンターのさまざまな活動に初期から関わらせていただいています。その頃のセンターは研究するテーマが限定的で、はっきりしていました。例えば「家族」「教育」「(カルト)宗教」などです。筑紫さんは「21世紀の家族」を論じています。カルト宗教の専門家である高橋紳吾さんには3「若者と宗教―カルトの現場より―」について述べていただき、5にはブレイク前?の尾木直樹さんが「今日の子どもと教育の危機とは」について述べられています。このお三方はセンターの「現代と親鸞の研究会」に講師としてもおいでいただきました。高橋先生にいたっては、ご自宅までお邪魔して事前打ち合わせを行ったのも楽しい思い出です。そこには学びがあり、私の拙い応答も含め、対話があったのです。


 当時、私は『アンジャリ』の編集が楽しくて仕方ありませんでした。それは私が「今」を、つまり「現代」を感じていたからだろうと思います。そしてその「今」を学ぶことで知ったこと。それは「今」は作られたもの、正確には過去から伝承されながらも、少しずつ変容しつつ形成されてきたものだということでした。例えば「家族」にしても「近代家族」という言葉を知った時は、驚いたものです。そして注意すべきことは、『アンジャリ』刊行後20年たった現在も、当然「今」は変容しつつ継承されていることでしょう。種と果実は異なるものだが、種には果実となる原因がすでに含まれている。このようなことを仏教ではいいます。つまり、「今」には過去の継承のみならず、変容される未来も含まれているのです。


 その点で、「今」を伝える『アンジャリ』が昨年(2021年)にリニューアルされたのは、実に象徴的です。紙面版では特集を組むことにより、私たちの問題意識がより分かりやすくなりました。さらに私が今執筆しているWEB版では、より時宜にかなった論考を配信することができます。20年の経験をふまえ、より一層「今」を伝える最適な方法だと自負しています。センターも変化を重ねながら進んでいるのです。


 しかし、その変化したという表面にとらわれてはいけません。センターの問題意識は、設立以来一貫しています。それは「専門分野が違えども、そこには人間の問題が論じられている」という視点です。この視点があるからこそ、仏教、真宗、親鸞の言葉で対話が可能となるのです。逆に言えば、センターから人間を問う視点がなくなれば、対話はただの戯論(けろん)となるでしょう。私は今後も対話を続けたいと思うのです。


 興味深いのは『アンジャリ』創刊当時の問題が、現在でもトピックとして生きている点です。家族、教育、そして宗教。世の中は窮屈になったように感じます。息苦しさが生き苦しさにつながっているように思います。それは人間に大きく影響する先述のトピック、つまり家族、教育、宗教の形が揺れているからのように感じます。それらの落ち着く場所のなさが、私たちの気持ちも安定させないのではないでしょうか。


 けれど私たちは生きることをやめることはできません。私たちは不安を感じながらも、生きることを止めることはできないのです。忙(せわ)しない毎日を多くの方が送っています。「心が亡くなる」とは言い過ぎですが、その結果、生きる上で何が大切なのか忘れてしまうこともあるでしょう。


 だからこそ、人は合掌が必要なのだと思うのです。


 例えばお寺で合掌をする。するといつもとは違う時が流れます。不思議なもので、ただ座っているよりも、胸の前で手を合わせると、より気持ちが引き締まる感じがするものです。ひょっとしたら手を合わせることにより、普段気づかない自分が大切にしている思いに気づくのかもしれません。それは「生きるとは」という問いです。死を問うてきたお寺であり、仏教だからこそ「生きている自分」が照射されるのでしょう。


 合掌を意味する『アンジャリ』。人は掌に何をつつみつつ、手を合わせているのでしょうか。『アンジャリ』は今後もそのページ毎に、人間の喜び、悲しみ、そして希望がつつまれている雑誌でありたいと思うのです。

(たむら あきのり 親鸞仏教センター嘱託研究員)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『アンジャリ』WEB版(2023年1月23日更新号)

(2023年1月23日更新号)

表紙
今、改めてメディアを問う――その過去・現在・未来、そして仏教(特集趣旨1/23)
今、改めてメディアを問う ―その過去・現在・未来、そして仏教― 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤 真 (ITO Makoto) 親鸞仏教センター研究員 宮部 峻 (MIYABE Takashi)  親鸞仏教センターでは、2001年の設立以来、雑誌『añjali』を毎年2回(6月と12月)発行してきました。  しかし2020年、コロナ・ウイルスの感染拡大による印刷、発送作業、配送などの困難のために、予定通り発行できない苦境に陥りました。そこで私たちは新たに『añjali...
表紙
哲学の言葉を編み、書くということ
哲学の言葉を編み、書くということ 編集者・文筆家 田中 さをり (TANAKA Sawori)  私は大学で広報の仕事に従事している。その合間に哲学に関わる編集と執筆の仕事も続けている。メディアで何か発信する仕事を始めたばかりの方に向けて、何か益になることをお伝えできればと常々思うのだが、なにぶん、仕事Aから仕事Bの経費を捻出しながら自転車操業でここまで来た。ノウハウというものがない。ひとまず、メディアのあり方について模索する契機となった、あの日の話から始めたい。    2011年3月11日。「東日本大震災」としてその後長く人々の記憶に刻まれることになるこの日が、まだ代わり映えのしない午後だったとき。ある駅ビルの中に私はいた。カフェの一席でノートパソコンを広げて、私は今と同じように何かの〆切に追われて書き物をしていた。前年の夏に哲学専攻の元学生たちの暮らしぶりを訪ねるインタビューを始めたばかりの頃だった。    テーブル上のコーヒーカップがカタカタと音を立てて揺れているのに気付いてすぐ、目の前の席に座っていた50代の女性と目があった。「これは危険な揺れになりそうですね」。私たちは視線で確かめ合った。遠くでグラスが床に落ちて割れる音がして、私は荷物をまとめて急いでフードコートを出た。自動ドアを出ると左手に改札口が見えた。駅舎の屋根を支える直径1メートルほどの柱が地鳴りと共に揺れていた。    背広を着たサラリーマンが駆け出そうとするも、足の置き場が定まらず、ふらふらと床に膝をつく。その様子を左手に見ながら、右手の建物脇の階段に座り込む。頭上には青空が広がっていた。そこには既に何人かの女性たちが避難していて、パン屋の白い制服を着た20代の女性が「怖い、怖い」と嗚咽していた。    その場にいた数人の女性たちと、「大丈夫よ」と彼女の背中を摩って落ち着かせ、私は携帯電話を確認した。「震源地は東北で、ここからはかなり遠いです」と皆に伝えた。しばらくその場に留まってから駅前の広場に移動するまでに、二人組の70代の女性が「こんなことは人生で初めてよ」と言った。私は頷いた。広場から駅ビルの店舗の方へ行くとスプリンクラーが作動して水浸しになっていた。曇る視界の奥にPのマークを見つけて立体駐車場へ走る。私は車を出して、息子がいる保育所に向かった。    保育所では、先生たちが部屋の真ん中で丸くなった子どもたちに頭から布団をかぶせて「大丈夫、大丈夫」と声をかけていた。子どもたちは柔らかい白煎餅を両手に持たされ、落ち着いていた。私は先生にお礼を告げて、息子を抱いて外に出た。すぐに向かいの家から、90代の女性の肩を支えた60代の女性が出てきて目があった。「大変ね、でもきっと大丈夫よ」。私たちは目を細めて頷き合った。    駅ビルから家に辿り着くまでにこうして会話したのは、7、8人の女性たちだった。多くは言葉もなく視線だけで、安全かどうかを確認し合い、誰かの世話をしている人を労った。昼下がりの住宅街、女性がいる割合が高い時間帯。「大丈夫かしら」、「怖いわ」、「こんなこと初めて」、「きっと大丈夫よ」。私たちの多くは、自分の身近な人の体に触れていて、自分より弱い人をしっかり抱き寄せていた。  高校生からの哲学雑誌『哲楽』は、この年の夏に刊行された。哲学者の生き方を取材して広めるため、編集協力委員の皆さんと制作した第1号は、家庭用のプリンターで印刷して製本した。東京のジュンク堂書店池袋本店に腕に抱えられる分だけ納品した日が正式な刊行日になった。    私たちの未来は安全なのか、この手が触れている人々と共に生き延びることができるのか、名も無い小さな雑誌を作りながら確かめたかったのだと思う。    哲学の言葉を編み、書くということは、こうして始まって、そして10年が過ぎた。「多角的に物事を捉えて伝えることは大事なことだ」と人は言う。これには完全に同意する。けれど気になることがある。多角的に物事を捉えて残されたはずの文章に、私が視線を交わしたような人々の観点は含まれているのかどうか。    さらにもっと気になるのは、私が残す文章によって、私が視線を交わさなかった人々の観点は見過ごされないのか。    人は自分と近い種類の人々を遠くからでも認識して、緊急時には視線だけでも会話ができる。「自分と自分の身近な人の安全を守って下さい」と、最近では災害が起きるたびにニュースキャスターが口にする。その一方で、自分と属性が異なる人々とは、どんなに近距離でも、どんなに危険な状況の渦中であっても、視線が交わらないことがある。ここで「自分と遠く隔たった人のことを思って下さい」と同時に言えるかどうかが、本当は問題なのだ。    かつて哲学者のジョン・ロールズは、自分と遠く隔たった人のことを考えれば道徳的知覚が混乱するから、身体的な障害をもつ人々のことを自分の理論では扱わないことを正当化した。その後、哲学者のアマルティア・センは、このロールズの言説を批判した。しかし、そのセン自身も、赤ちゃんと知的な障害をもつ人々について、自由の能動的な行使には直接関係がないと述べた。私が哲学専攻の学生だったとき、この二人への反論を考えるだけで、連ねた言葉は5万字を越えた。    「道徳的知覚の混乱」とは言い得て妙だ。何かを見たり想像したりすることで、通常の道徳的判断が不能に陥ることを指す。例えば、健康な子どもが生まれることを願っている親にとっては、それが叶わない可能性は脅威だし、自分が哀れみの念を抱いてしまうような人々とは距離を置く傾向がある。そのことがわかるからこそ、ロールズのこの言葉は抜けない刺のように胸に刺さった。    厄介なことに、どんなに著名な哲学者であっても、この「道徳的知覚の混乱」を避けるために、人間の本質を規定し、その本質を体現しない人々を自らの理論の限界に押しやる傾向がある。これが認識を歪める。そこにある間違いを見落とし、そこにいる人を除外する。自己保存の原則が、近しい者たちと集団を形成し、他者危害をもたらすように。    「道徳的知覚の混乱」を乗り越えることは、多くの分別ある大人にとって最大の課題の一つだろうと私は見ている。自分と異なる人々が危険に晒されないように、どんなメディアの形があり得るか、そのことをきちんと考えなさい。そう私はあの日の女性たちに教えられた。私たちの視線の交点からどこまで遠くに言葉を届けられるかが問題だと知ったからだ。    最近の『哲楽』は、オンラインが中心で、更新頻度もあまり高いとはいえない。読者には申し訳ない限りだ。それでも新しい試みとして、音声だけでなく、手話での哲学対話も始めた。それぞれの対話空間から、その外側を想像する力をもらっている。    哲学の言葉を編み、書くことで、その言葉を受け取った人の足元から、ずっと先まで照らせたら。こうして今日も自転車を漕いでいる。 (たなか さをり 編集者・文筆家)  高校生からの哲学雑誌『哲楽』編集人。「現代哲学ラボ」世話人。著書に『時間の解体新書――手話と産みの空間ではじめる』(明石書店、2021)、インタビュー本に『哲学者に会いにゆこう』(ナカニシヤ出版、2016)、『哲学者に会いにゆこう2』(ナカニシヤ出版、2017)など。 他の著者の論考を読む...
表紙
明治初期の錦絵新聞とフェイクニュース
明治初期の錦絵新聞とフェイクニュース 早稲田大学政治経済学術院教授 土屋 礼子 (TSUCHIYA Reiko)  近頃よく耳にする「フェイクニュース」は、ネット社会の新たな問題として取り沙汰されているが、メディアの歴史を振り返れば、それらは虚偽報道とか虚報とか呼ばれてきた類いのもので、ことさらに新しい現象ではない。たとえば、私が研究してきた明治初期の錦絵新聞というメディアには、虚報の興味深い例がいくつもある。  錦絵新聞とは、浮世絵と一般に呼ばれている多色刷り版画の一種である。新しい明治の時代を迎え、場所や時、人名を明示して時事的報道が認められるようになって新聞雑誌が発行され始めた明治7年に、江戸時代に培われた高度な木版画技術と職人組織を生かして制作された視覚的媒体である。基本的に一つの事件を一枚の絵にして、その余白に説明の文章が添えられている刷り物で、明治5年創刊の日刊紙『東京日日新聞』の発行メンバーでもあった絵師・落合芳幾が描いた錦絵版の『東京日々新聞』シリーズがその最初である。このシリーズでは、活版印刷の新聞に掲載された記事を元にリライトして錦絵新聞が作成された。ただし、本紙の記事と違い、文章には振り仮名が施され、あるいは読んで調子のよいように文章が練られ、非知識人でも読めるように、あるいは読んで聞かせて貰って楽しめるように工夫されていた。つまり錦絵新聞のねらいは、新聞の難しい文章が読めない人々にも新聞という新しいメディアの面白さを知らせることにあった。  その人気は飛び火し、明治8年には大阪でも盛んにさまざまな錦絵新聞が出版された。その中でも最も多く号を重ねたのが『錦画百事新聞』と題するシリーズで、その44号には次のような事件が語られている。子供3,4人が集まって八百屋お七の芝居をまねて、一人を木にくくりつけて焚き火をしたところ、火が燃え広がり、その子供は死んでしまった。残りの子供達はその罪を償うべく、ふるさとを後にして巡礼に出たという。紙面に描かれた水色を基調とした美しい絵では、髪を剃った坊主頭の子供3人がお遍路の姿で、袖で涙を拭っている。ところが、これを描いた当時大阪を代表する絵師・二代目長谷川貞信の回想記によれば、この錦絵新聞はよく売れたが、全くの虚報であったという。  また、同じ『錦画百事新聞』11号には、近年米国で体に帆を掛け海上を走ることを発明したホイトンという人が、フランスまで数百里の波濤を渡ったという話がまことしやかな絵で描かれている。どう考えても眉唾ものであるが、この話は東京で発行されていた『平仮名絵入新聞』27号(明治8年6月10日付)に、やはり絵入で掲載されている記事を下敷きにしており、おそらく米国の新聞雑誌の記事が元だと思われる。つまり、この頃の新聞には、伝聞や噂による記事が結構載っており、必ずしも真偽がはっきりしない内容が多くあった。現在の新聞のような、記者の取材方法や事実を確かめ裏を取るといった作業の重要性を担保する組織がまだ確立されていない、草創期のメディア事情がその背景にある。新聞も錦絵新聞も、顔は女で体は魚という人面魚を噂に基づいて描いたかわら版の類いとそれほど大きな隔たりはなかったと言えるかもしれない。  しかし一方で、錦絵新聞に内容の誤りを正した謝罪記事を出した例が見られるのは驚きである。大阪で発行された『新聞図会』21号は、大坂新町の娼妓・初花と府下師範学校の石井某が深くなじんで和歌を数多く取り交わしたという艶聞を取り上げて描いた。ところが、これについて「正誤。当図会第二十一号初花云々ハ全ク伝聞ノ誤(あやまり)也。今爰(ここ)ニ図画ヲ以テ謝罪ス」という文とともに、版元と文章の筆者が頭を下げて謝っている絵が描かれた号外が制作されているのである。師範学校あたりから苦情が寄せられたのかもしれないが、ニュース内容の真偽にも気を遣っていた証拠である。  このように、西欧から輸入し移植され始めた新聞という新メディアと、幕末から続く旧メディアが重なり合う過渡期に誕生した錦絵新聞には、当時の人々が新しいニュースの時代に移行しつつあったことが見て取れる。これらの錦絵新聞を目にした人々は、当時の人口の約9割を占めていた農民層とは異なり、都市に住む商人や準知識人層であった。村落共同体の中に主に関心が閉じられていた農民とは異なり、彼らは噂話やかわら版、芝居や絵双紙などに接して最新のニュースを得ていたが、政府の公式情報が掲げられている新聞は漢字が多くて難しく、値段も高く手が出せなかった。彼らの間には、真偽の定かでない噂を面白がったり頼りにしたりする反面、事実を知り真実を確かめることは社会にとって重要であり、またそれは誰にでも可能であるべきだという認識が徐々に広まりつつあった。それが新聞を中心とするジャーナリズムを受容し育む素地を開いていくのだが、逆にフェイクニュースが問題になる現在は、いったんマス・メディアによって作られたニュースへの信頼性が揺らぎ、噂に満ちあふれたインターネットを組み込んだ新たな民主主義的なメディアのあり方が問われているのである。 (つちや れいこ 早稲田大学政治経済学術院教授) 近年の論文に、「戦前期の国際的新聞大会にみるメディアと帝国主義」(『Intelligence』第22号、2022)など。 他の著者の論考を読む...
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掌(たなごころ)につつむのは
掌(たなごころ)につつむのは 親鸞仏教センター嘱託研究員 田村 晃徳 (TAMURA Akinori)  合掌する姿は美しい。これが住職としての私の実感です。  仏さまに向かい、お念仏を称え、手を合わせる。お寺ではよく見るありふれた光景ですが、最も静謐(せいひつ)な時間でもあります。正座をして、じっと目を閉じ、そして合掌する。私はその姿を見ながら思うのです。あの方は、今、手を合わせながら、何を思うのだろうかと。  サンスクリット語で「合掌」の意味を持つ『アンジャリ』が創刊されたのは、2001年でした。親鸞仏教センター(以下「センター」)の機関誌として、20年以上も刊行できていることは、素直にすごいことだと思います。創刊号の執筆者は錚々(そうそう)たるものです。巻頭にはニュースキャスターの筑紫哲也さん。ここにも『アンジャリ』の、そしてセンターの基本にして基幹の姿勢が示されています。それは「現代に生きる人々と対話をする」ということでした。現代の人々との対話。しかも仏教の、そして親鸞の言葉を通じての対話です。対話を通じ、これまでの宗門ではできなかったことを始める。これがセンターの設立の趣旨です。  センターの創立翌年である2002年に研究員として着任した私は、『アンジャリ』をはじめとするセンターのさまざまな活動に初期から関わらせていただいています。その頃のセンターは研究するテーマが限定的で、はっきりしていました。例えば「家族」「教育」「(カルト)宗教」などです。筑紫さんは「21世紀の家族」を論じています。カルト宗教の専門家である高橋紳吾さんには第3号で「若者と宗教―カルトの現場より―」について述べていただき、第5号にはブレイク前?の尾木直樹さんが「今日の子どもと教育の危機とは」について述べられています。このお三方はセンターの「現代と親鸞の研究会」に講師としてもおいでいただきました。高橋先生にいたっては、ご自宅までお邪魔して事前打ち合わせを行ったのも楽しい思い出です。そこには学びがあり、私の拙い応答も含め、対話があったのです。  当時、私は『アンジャリ』の編集が楽しくて仕方ありませんでした。それは私が「今」を、つまり「現代」を感じていたからだろうと思います。そしてその「今」を学ぶことで知ったこと。それは「今」は作られたもの、正確には過去から伝承されながらも、少しずつ変容しつつ形成されてきたものだということでした。例えば「家族」にしても「近代家族」という言葉を知った時は、驚いたものです。そして注意すべきことは、『アンジャリ』刊行後20年たった現在も、当然「今」は変容しつつ継承されていることでしょう。種と果実は異なるものだが、種には果実となる原因がすでに含まれている。このようなことを仏教ではいいます。つまり、「今」には過去の継承のみならず、変容される未来も含まれているのです。  その点で、「今」を伝える『アンジャリ』が昨年(2021年)にリニューアルされたのは、実に象徴的です。紙面版では特集を組むことにより、私たちの問題意識がより分かりやすくなりました。さらに私が今執筆しているWEB版では、より時宜にかなった論考を配信することができます。20年の経験をふまえ、より一層「今」を伝える最適な方法だと自負しています。センターも変化を重ねながら進んでいるのです。  しかし、その変化したという表面にとらわれてはいけません。センターの問題意識は、設立以来一貫しています。それは「専門分野が違えども、そこには人間の問題が論じられている」という視点です。この視点があるからこそ、仏教、真宗、親鸞の言葉で対話が可能となるのです。逆に言えば、センターから人間を問う視点がなくなれば、対話はただの戯論(けろん)となるでしょう。私は今後も対話を続けたいと思うのです。  興味深いのは『アンジャリ』創刊当時の問題が、現在でもトピックとして生きている点です。家族、教育、そして宗教。世の中は窮屈になったように感じます。息苦しさが生き苦しさにつながっているように思います。それは人間に大きく影響する先述のトピック、つまり家族、教育、宗教の形が揺れているからのように感じます。それらの落ち着く場所のなさが、私たちの気持ちも安定させないのではないでしょうか。  けれど私たちは生きることをやめることはできません。私たちは不安を感じながらも、生きることを止めることはできないのです。忙(せわ)しない毎日を多くの方が送っています。「心が亡くなる」とは言い過ぎですが、その結果、生きる上で何が大切なのか忘れてしまうこともあるでしょう。  だからこそ、人は合掌が必要なのだと思うのです。  例えばお寺で合掌をする。するといつもとは違う時が流れます。不思議なもので、ただ座っているよりも、胸の前で手を合わせると、より気持ちが引き締まる感じがするものです。ひょっとしたら手を合わせることにより、普段気づかない自分が大切にしている思いに気づくのかもしれません。それは「生きるとは」という問いです。死を問うてきたお寺であり、仏教だからこそ「生きている自分」が照射されるのでしょう。  合掌を意味する『アンジャリ』。人は掌に何をつつみつつ、手を合わせているのでしょうか。『アンジャリ』は今後もそのページ毎に、人間の喜び、悲しみ、そして希望がつつまれている雑誌でありたいと思うのです。 (たむら あきのり 親鸞仏教センター嘱託研究員) 他の著者の論考を読む...

『アンジャリ』WEB版1月更新分は、「今、改めてメディアを問う――その過去・現在・未来、そして仏教」のテーマのもと、23日と30日の2週連続で更新いたします。23日更新分は「メディア論」や「メディア史」を視点として、30日更新分は「仏教とメディア」を視点として、様々な角度から「メディア」を問いなおしていきます。どうぞ、30日更新分もご期待ください。

投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第82号

田村晃徳 掲載Contents

巻頭言

加来 雄之 「思想の「場」」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

講師 本多 弘之 「涅槃、本当に生きることができる場所に立つ」

報告 越部 良一

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

講師 木村 哲也 「忘れられた存在を語り直す/忘れられた存在と出会い直す―ハンセン病問題と駐在保健婦―」

報告 菊池 弘宣

■ 第7回清沢満之研究交流会報告

テーマ:近代の宗門教育制度と清沢満之

江島 尚俊 「明治前期・真宗大谷派における教育制度の特徴—他宗派との比較から考える―」

川口  淳 「メディアにみる大谷派教育と改革運動 —明治20年代の一考察」

藤原  智 「清沢満之と真宗大学(東京)の運営」

林   淳(コメンテーター)

東  真行(司会)

長谷川琢哉(開催趣旨・報告)

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

菊池 弘宣 「源空聖人の真像の銘文( 『選択集』 に関する銘文)③」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

田村 晃徳 「寺川俊昭(1928〜2021)」

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田村 晃徳

研究員の紹介

TAMURA Akinori
(嘱託研究員)

プロフィール

専門領域
親鸞聖人をはじめとした仏教思想の研究
清沢満之をはじめとした日本近代思想の研究
宗教と学問の関係についての研究
仏教をどのように子どもたちと学ぶかについての試行錯誤
略歴
1971年 茨城県生まれ
立命館大学文学部哲学科哲学専攻卒業
大谷大学大学院文学研究科修士課程修了
同研究科博士後期課程修了(真宗学)。博士(文学)。
真宗大谷派擬講。
元親鸞仏教センター常勤研究員、元大谷大学任期制講師、元武蔵野大学大学院非常勤講師
現在、親鸞仏教センター嘱託研究員
所属学会
日本印度学仏教学会、真宗連合学会

当センター刊行物への執筆

『現代と親鸞』第48号
『現代と親鸞』第36号
『現代と親鸞』第33号(清沢満之研究の軌跡と展望)
『現代と親鸞』第24号
『現代と親鸞』第16号
『現代と親鸞』第6号(清沢満之特集)
『アンジャリ』第25号
『アンジャリ』第15号
『親鸞仏教センター通信』第86号
「親鸞仏教センター通信」第82号
「親鸞仏教センター通信」第79号
「親鸞仏教センター通信」第72号
『親鸞仏教センター通信』第71号
「親鸞仏教センター通信」第68号
「親鸞仏教センター通信」第64号
「親鸞仏教センター通信」第60号
「親鸞仏教センター通信」第59号
「親鸞仏教センター通信」第57号
「親鸞仏教センター通信」第56号
『親鸞仏教センター通信』第53号
「親鸞仏教センター通信」第51号
「親鸞仏教センター通信」第50号
「親鸞仏教センター通信」第42回

WEBコンテンツの執筆

今との出会い第238回「寺を預かる」
今との出会い 第227回「大きくなったら」
今との出会い 第217回「いい話」
今との出会い 第205回「次の日常」
今との出会い 第195回「おそだて」
今との出会い 第185回「深さの次元」
今との出会い 第175回「紙芝居」
今との出会い 第165回「別れと気づき」
『アンジャリ』WEB版(2023年1月23日更新号)
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今との出会い 第227回「大きくなったら」

田村晃徳

親鸞仏教センター嘱託研究員

田村 晃徳

(TAMURA Akinori)

 保育園の園長をしていると、心配事も絶えませんが、楽しいことも常に起きます。その中でも子どもたちと会話ができるのは本当に楽しいです。ゼロ歳児から入園した子どもなどは、発語さえおぼつかなかったのに、段々と言葉を発し会話となっていく過程を見ることができます。成長とはこのことかと、我が子のように嬉しくなりますね。
 そんな子どもたちは、私に対しても時に甘え、時にぶつかって、時に思いがけない言葉で驚かせてくれます。

 例えば、こんなことがありました。内科検診の順番待ちで、子どもたちが廊下に座っていました。そんな時、3歳児クラスの子どもが私に聞いてきたのです。

「園長先生は、大きくなったら何になりたいの?」

 えっ?と少し戸惑った後、私は自信ありげに言いました。「園長先生は、立派な人になります!」と。すかさず尋ね返します。「じゃ、◯◯ちゃんは何になりたいの?」。その子は私をまっすぐ見て言いました。

「私はね、地震からね、みんなをね、助けたいの」

 園長先生(=私)は、大きくなるどころか、自分のことを小さく感じました……。

 小さく感じた理由は、子どもは立派なことを言ってくれるのに、それに対し、自分の発言の陳腐さもあったでしょう。でも、もう一つは自分の中で「大きくなったら」のビジョンがなかったこともあると思います。実際、人はいつ頃まで「大きくなったら」の自分を想像しているのでしょう。子どもの時は「将来の夢」として大きくなった自分を考えます。その夢が叶う人も、そうでない人もいるでしょう。しかし、「大きくなる=何かに就く」という発想がそこにはあります。もし、そうだとするならば人は就職したら「大きくなる」ことは終わるのでしょうか。それ以降は余生?

 大人=大きい人が、さらに大きくなるとはどのようなことでしょう。出世、安泰、裕福、……このように書いているだけで、いかに自分がこれからの自分を考えていなかったのか、発想の貧困さを思い知らされます。子どもの発言は、「日々、一生懸命生きているようにしているけれど、結局どこに向かっているの?」という問いとして、私には残ってしまったのです。皆さんなら、どのように子どもたちに答えますか。

 私には、残念ながらまだ答えが見つかりません。というよりも、今ここで早急に答えを出すことは、先の「立派な大人になります!」と同じような浅い答えになってしまうでしょう。

 仏教では人の生き方、人生を「道」で例えてきました。古から続く道、無碍の一道、白い道などです。どのような道を、どのように歩んでいくのかについての考察となりそうです。さらには、「大きくなったら」を身体的変化ではなく、内面的変化に寄せることもできそうです。そのときは、『大無量寿経』で言えば、「深く」「広い」「智慧」をいただく、とも考えられるでしょうか。いずれにせよ、子どもとの会話は、時に私を思索の世界へと誘う、大切なご縁なのです。

 このように書きながらも、文章をきれいにまとめようとする、小さな自分が見えてくるのです。

(2022年3月1日)

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今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」
今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。   真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。 (『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)    現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。    キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。   軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。 (八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)    八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。   ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。    曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。    強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。   ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。    S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。   ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。    衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。   ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。    私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。    「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。   ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。    長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。    私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。    私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。    「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。 (2024年元日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」
今との出会い第242回 「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」 「ネットオークションで出会う、 アジアの古切手」 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤 真 (ITO...
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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...
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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」
今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第79号

田村晃徳 掲載Content

巻頭言

藤村  潔 「「モノ」と幸せ」

■ 第66回現代と親鸞の研究会報告

講師 安藤 礼二 「鈴木大拙の浄土論

報告 田村 晃徳

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会報告

講師 三枝 暁子 「身分制からみた中世社会」

報告 中村 玲太

■ 近現代『教行信証』研究検証プロジェクト報告

講師 栁澤 正志 「日本天台浄土教と『教行信証』」

報告 藤村  潔

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

東  真行 「北橋 茂男(1900〜1966)」

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第217回「いい話」

田村晃徳

親鸞仏教センター嘱託研究員

田村 晃徳

(TAMURA Akinori)

 人前で話をした経験のある者は、「いい話だった」という感想を言われたいという思いから抜け出ることは難しいだろう。私は法話をする上で、いつも思い出すセリフがある。それは、とある研修会での座談会でのこと。数班に分かれて座談を行うのだが、ある担当者が次のような参加者の発言を紹介していた。

「仏教の話というのは、聞いていると明るくなるものだと思う。なのに、あんたはさっきから難しい、暗い顔ばかりして話している」

 この言葉が今でも苦笑とともに、私の胸から消えない。消えないのは、自分に思い当たる節があるのと同時に、そのような意見が間違っていないからである。

 経典を読むと釈尊の説法が終わり、集う者達が喜ぶ描写は多く見られる。


仏、経を説きたまうこと已(おわ)りたまいしに、弥勒菩薩および十方来のもろもろの菩薩衆、長老阿難、諸大声聞、一切大衆、仏の所説を聞きたまえて歓喜せざるはなし

(『大無量寿経』、東本願寺出版『真宗聖典』88頁)


 文字通りに読めば、仏教界の錚々たる方々が喜んでいるわけだから、さぞかし壮観であろう。同じく『大無量寿経』には「歓喜踊躍(ゆやく)」という言葉もある。微笑みではない。踊り出すほど全身で喜びを表現しているのである。親鸞聖人は感情の表現を緻密に行うので、「踊躍」についても「よろこぶこころのきわまりなきかたちなり」(『一念多念文意』、『真宗聖典』539頁)と述べている。親鸞聖人自身も喜びを体感していたに相違ない。


 しかし「喜び」ばかりが突出することはいけない。仏法に出会うことが「喜び」とのみリンクすると、それが仏法をきちんと聞いていることの基準となってしまう。この悩みに直面したのが唯円であった。「お念仏をしても、どうも歓喜踊躍の心とまではいかないのですが…」と師である親鸞聖人に尋ねている。唯円は師から叱責を受けることになると思っていたかもしれない。しかし師の答えは弟子が予想さえ出来なかったものであった。師は「それでいいのだ!」(趣意)と答えたのだから。詳細は省くが、『歎異抄』のこの返答は思想史上に残ると思う。唯円はこの答えで救われたに違いないが、「いい話だった」と思っただろうか?


 先の座談会の感想に戻ると、確かに僧侶は暗い顔をしがちである。それは真剣さと深刻さが混乱しているからである。深刻な顔をしながら、「人間とは愚かであり…」などと話されては、確かに受け入れがたいこともあるだろう。僧侶は伝わり方を十分に考えねばならないことは事実だ。


 ただ、私が先の感想に共感しながらも、全面的に肯定できないのは、そこに聞き手の問題が看過されているからである。聞き手があらかじめ期待している仏教のいい話とはどのような類かは問われるべきであろう。そこにお涙ちょうだいや、人生を肯定するばかりの話を期待しているのであれば、そもそも求めることが間違っている。仏法を聞いて明るさが生まれるには、闇をくぐらなければならない。経典を読んでも、『歎異抄』を読んでもそこには人々が悩み、迷う姿が丹念に描かれている。それは誇張ではなく、仏から見た、人間の姿に過ぎない。それは人間の期待する自分の姿ではない。納得することは難しい。だからこそ聞く意味があるのだ。


 仏教の「いい話」とはどのような話だろう。それは分かりやすさばかりが求められている現代において、実は大切なテーマだと私は思っている。

(2021年5月1日)

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今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」
今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。   真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。 (『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)    現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。    キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。   軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。 (八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)    八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。   ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。    曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。    強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。   ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。    S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。   ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。    衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。   ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。    私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。    「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。   ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。    長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。    私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。    私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。    「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。 (2024年元日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」
今との出会い第242回 「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」 「ネットオークションで出会う、 アジアの古切手」 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤 真 (ITO...
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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...
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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」
今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...

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投稿者:shinran-bc 投稿日時: