親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い 第219回「浄土教の現生成仏ということ」

浄土

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 「向(さき)に観察荘厳(しょうごん)仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は願心をして荘厳せりと、知るべし。略説して一法句に入るが故に。一法句とは、いはく清浄句なり。清浄句とは、いはく真実の智慧無為法身なるが故に」(天親『浄土論』)。浄土が「願心」であること、それが「仏」「菩薩」と「清浄」と「真実」「智慧」「無為」「法身」と「一」つであることが分かる。ところで法身とは仏の在り方のことで、「彼仏国土無為自然(じねん)」(『無量寿経』)であるから、「無為法身」とは阿弥陀仏のことである。「願生安楽国といふは、この一句はこれ作願門なり。天親菩薩の帰命の意なり」(曇鸞『浄土論註』)。この「作願」は「本願力回向」(『浄土論』)であるから、「帰命」(南無)は弥陀の願心である。願心は真実智慧であるから、「真実智慧無為法身」とは南無阿弥陀仏のことである。つまり、浄土とは南無阿弥陀仏である。何故に『浄土論』は著されたのか。「彼の安楽世界を観じて、阿弥陀如来を見たてまつり、彼の国に生まれんと願ずることを示現するが故なり。いかんが観じ、いかんが信心を生ずる」(同上)。これで願生の心が「信心」であると分かるから、「真実」は信心である。


 以上、親鸞『顕浄土真実教行証文類』の「浄土真実」とは「願心」であり、「帰命」であり、「信心」である。すべて阿弥陀仏である。この『教行信証』の(『涅槃経』からの)引文、「真実といふは即ちこれ如来なり」、「大信心は即ちこれ仏性なり、仏性は即ちこれ如来なり」。『無量寿経』 に言う、法蔵菩薩は「この願を建て已(おわ)りて[中略]妙土を荘厳す。[中略]建立(こんりゅう)常然(じょうねん)にして、衰なく変なし」。法然は言う、「今、二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり」(『選択集』)。善導は言う、「彼の仏、今、現に世に在(ましま)して成仏したまへり」(『往生礼讃』)。

 浄土教における、この現生往生論にして現生成仏論を、ある種の死後往生、死後成仏論と対照してみよう。


一、前者は成仏を成仏土と捉える。それは一切衆生を体とする。成仏とは根本的には「彼仏今現在世成仏」、弥陀成仏以外にない。後者は成仏を個体に付ける。

二、前者は仏(=浄土)の本体、本性を、南無阿弥陀仏であり信心と捉える。後者は仏及び浄土の本性を、万善万行の円備と捉える。

三、前者は念仏(南無阿弥陀仏)を究極目的とし、万善万行を(その円備すらも)手段とする。後者は念仏を手段とし、万善万行の成就を究極目的とする。

四、前者の個体としての成仏(弥陀成仏中に存在する個体。弥陀の化身、化仏)は、他者に存在し、「自身」(他者から化身と見られる)としては罪悪の自覚である(善導の第一深信)。後者の成仏は、罪悪(煩悩)の完全な消滅、断滅の自覚であって、自身に存在する。

五、前者の仏は、(十劫の昔より)現在仏であると同時に、穢土に対しては本質的に菩薩である(浄土中の個体もそれに同ず)。後者の仏は本質的に菩薩でない。


 浄土の思想は成仏観に革命をもたらし、一切衆生に現生成仏の道を開いてみせた。

(2021年7月1日)

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今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」
今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。   真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。 (『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)    現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。    キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。   軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。 (八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)    八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。   ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。    曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。    強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。   ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。    S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。   ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。    衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。   ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。    私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。    「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。   ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。    長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。    私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。    私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。    「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。 (2024年元日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...
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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」
今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...

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今との出会い第160回「講堂道場礼すべし」

浄土

親鸞仏教センター研究員

青柳 英司

(AOYAGI Eishi)

 去る4月8日に、親鸞仏教センター(以下「センター」と略記)新施設の竣工式が行われた。私が研究員として着任してから、1週間後のことだ。翌週には旧施設からの引越も終わり、月末の移転開所式を経て、「センター」は湯島の地で新たなスタートを切った。

 

 私自身にとっても、充実した施設で研究生活を始められたのは、願ってもないことだった。しかし同時に、「センター」へ託された大きな願いを肌で感じ、身の震えるような思いでもあった。

 

 特に印象的だったのが、竣工式の際に勤められた次の和讃だ。

 

七宝講堂道場樹

方便化身の浄土なり

十方来生きわもなし

講堂道場礼(らい)すべし

(『真宗聖典』481頁)


 これは親鸞が作った、「讃阿弥陀仏偈和讃」の一首である。宗門では竣工式などの際に、この和讃を勤めることが多いらしい。しかし、恐ろしい一首を選ぶものだと思った。ここに「方便化身の浄土」という言葉があるが、これはどこか遠くにある別世界の話をしているのではない。もちろん阿弥陀仏の浄土は、ここではないどこかとして、経典に説かれることがある。しかしそれだけが、「方便化身の浄土」なのではない。具体的なかたちをとって衆生を導く如来のはたらきを、親鸞は浄土という「場」として語っているのだ。


 特に1句目の「講堂」という言葉は、如来の教化の場を表現している。その和讃が竣工式で勤められたということは、教化の場として浄土の一部になっていくことが、「センター」には求められているのだろう。それはつまり、如来と同じように衆生の問題と向き合い、それらの問題に応える表現を探り、本願の教えを発信していく「場」となれ、ということにほかならない。重い願いを背負ったところに来てしまったと、正直思った。


 けれど、前掲の和讃の最後で親鸞は、「講堂道場礼すべし」と言っている。「センター」には教化の場であることが願われていても、そこで働く私たちが如来というわけではない。如来のように振る舞うことも許されない。むしろ私自身もまた、如来の教えを聞く者なのである。「礼すべし」という教言は、それを確認しているように、私には聞こえた。


 しかしそれは、衆生は聞法だけをしていれば良い、という意味で受けとってはならないと思う。教えの発信を怠る言い訳に、如来と衆生の分限を使ってはならない。現代の問題から目を逸らし、現代に響く表現を探す営みを止めるのであれば、真宗は死ぬだけだろう。


 ただ、現代に本願の教えを発信するという「センター」の課題は、私自身を除いて考えるべき問題ではない。親鸞は、そう言っているのだろう。「講堂道場礼すべし」という言葉は、警句として私の胸に響いた。

(2016年9月1日)

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今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」
今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。   真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。 (『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)    現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。    キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。   軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。 (八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)    八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。   ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。    曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。    強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。   ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。    S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。   ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。    衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。   ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。    私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。    「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。   ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。    長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。    私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。    私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。    「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。 (2024年元日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」
今との出会い第242回 「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」 「ネットオークションで出会う、 アジアの古切手」 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤 真 (ITO...
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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...
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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」
今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...

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投稿者:shinran-bc 投稿日時: