親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第245回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑯

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

法蔵菩薩

 先回確認した『一念多念文意』」』のこの了解は、『教行信証』「信巻」において展開されている本願成就文の了解でもある。それは、我らに発起する信心は、本願成就の信心であり、如来回向の信心であるということである。

 

 本願成就の文の中程に「至心回向」(「『無量寿経』、『教行信証』「信巻」引文、『真宗聖典』233頁)という語があるのだが、その「至心」も「回向」も、「信巻」の三一問答において、衆生の側に属する事柄ではなく、大悲の如来の側に属する事柄であることが明らかにされている。そのことを明白にするために、本願成就の文の「至心回向」以下の文を「本願の欲生心成就の文」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』233頁)と、親鸞は名付けてもいるのである。この「欲生心」は如来の大悲が発起して、衆生に「勅命」として呼びかける心心だというわけである。

 

 その理解をもって、『一念多念文意』の文の「至心回向」以下の段を読んでみよう。

 

「至心回向」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。

(『一念多念文意』、『真宗聖典』535頁)

 

 このように、本願を成就するとは、如来が不実なる凡夫をみそなわして、しかもその不実を超えて真実を恵まんとするこころが現実化する、ということだとされるのである。我らが不実の凡夫であるとは、無明煩悩を取り払うことなどできず、自我に愛着して自己主張や自己の権利要求にのみ生涯を費やしてしまう存在であるということである。愚痴に覆われ欲望が深い存在であることを、徹底的に知らされながら、しかもそういう無明煩悩が満ち満ちている衆生に、如来の大悲がどこまでも寄り添って、そういう執着の深い存在を横ざまに超えて(衆生の側の努力や意志によることなく)真実を恵むのだ、と知らされるところに、大悲願心の超越性を信ずるという教えの構造がある。


 これを善導は『観無量寿経』の三心の深心釈において、信心に「二種あり」(『観無量寿経疏』「散善義」、『教行信証』「信巻」引文、『真宗聖典』215頁)と言って、矛盾するような構造を持つ二種の信が並立していることこそが、「深心」の語で押さえられる信心であることを示されるのである。


 これによって親鸞は、煩悩具足の身の事実は変えることなどできないが、しかし、悲願成就の証しにおいて、現生の正定聚が我らの信心に与えられる利益だとされるのである。それが、「即得往生(すなわち往生を得〔え〕)」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』233頁)の語で教えられている報土得生という意味でもあるとさえ述べておられるのである。


 摂取の心光を煩悩の身に感受するとき、闇を生きている一面を忘れることなく、しかも摂取の光の暖かさに触れるのだとされるのである。深信の二面を同時に信知することが、如来回向の他力の信であるということであり、つまり大悲が名号として衆生に呼びかけているところにこの二種の信を同時に成就する作用が我らに恵まれるということなのである。


(2023年11月1日)

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法蔵菩薩

 本願の信心においては、現生の正定聚、すなわち必定して仏果に至りうるという不退転の信念を、現生の有限なる生存状態において実現できる、と親鸞は述べている。この正定聚の課題についてであるが、釈尊在世の頃には、仏弟子に「必ず成仏するであろう」と予言することが、仏陀釈尊によって為されていたとされている。しかしその後、時を経て、仏陀無き時代になって、成仏の必然性を確信することが仏道の過程において、どのようにして確保されるかということが問題になっていったのである。

 

 法蔵願心は、この問題を衆生の根本問題であるとして、十方衆生を必ず成仏させようと誓うのである。そのことを示しているのが第十一願である。そして、『無量寿経』下巻の始めに第十一願の成就が説き出されてくるのである。その第十一願成就文には、

 

それ衆生ありてかの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり。

(『真宗聖典』44頁)

 

とある。「かの国に生ずれば」とあるので、この文は明らかに此土ではなく彼土のことを述べたものとして読むべきなのであろう。法蔵願心が、自己の国土の持つ大テーマとして、一切衆生の成仏の必然性を誓っているのであるから。

 

 ところが、親鸞は晩年の『一念多念文意』において、

 

釈迦如来、五濁のわれらがためにときたまえる文のこころは、「それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。

(『真宗聖典』536頁)

 

と、原文の「生者」を「生ずれば」ではなく、「うまれんとするものは」と訓んで、本願の果である報土に生まれようとする因位、すなわち願生の位の利益として考察しておられるのである。

 

 そこでは第十一願の因果を語り出すに先立って、第十八願の成就文を解釈されている。そこに「至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」(『真宗聖典』44頁)という文を、独自の読経眼で読み解いている。詳細は『一念多念文意』に譲るが、そこでは「願生彼国 即得往生 住不退転」について、

 

「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。「得」は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。

(『真宗聖典』535頁)

 

と述べて、願生と得生を「即」の言で結んであるところに、本願の信心に「住不退転」の利益が存することを明白に説き出されている。

 

(2023年10月1日)

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法蔵菩薩

 法蔵菩薩の誓願が一如宝海から発起するということを、『大無量寿経』では「超発」(『真宗聖典』14頁)と表現している。それは、煩悩具足の凡夫に普遍的に与えられている仏性の成就、すなわち『大般涅槃経』が言うところの「一切衆生悉有仏性」(『教行信証』「信巻」、「師子吼菩薩品」引文、『真宗聖典』229頁)の成就たる成仏には、凡夫自身にはその可能性が全くないにもかかわらず、それを必ず成就させようとする大悲の必然があるのだということである。先回触れたように、ここで「超発」とされてくることを、親鸞は一如宝海より形を現し御名を示してくることとして了解した。それは曇鸞が、「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす」(『教行信証』「証巻」、『浄土論註』引文、『真宗聖典』290頁)と注釈しているからであると拝察する。

 

 法蔵願心が、誓願を超発するということは、文字や分別に執着してやまない凡夫に、その執着を突破した存在の本来性たる法性に帰らしめんがための方便を与えようということである。寂静なる法性と虚妄分別してやまない凡夫の執着との間を直接つなぐ橋は架けられない。虚妄というあり方で分別する以外には、我ら凡夫の存在了解は成り立ち得ないのである。

 

 そのことを明瞭に知りながら、それを超えて彼方から橋を架けるがごとくに、法蔵願心は本願を超発するという。そのことを菩薩として受け止めるとはどういうことなのか。龍樹が『十住毘婆沙論』で、軟心の菩薩のために難易二道を示して、大乗の菩薩に課せられた、不退転地に至るという課題に応えようとするところには、このような不可能を可能にするべく大悲の願心が超発しているということが見通されていなければならないのであろう。

 

 菩薩十地の初地は、「歓喜地」(『教行信証』「行巻」、『十住毘婆沙論』引文、『真宗聖典』162頁)と名付けられている。その歓喜の意味とは、仏道に入門し仏法を聞思してきた菩薩が、仏道の究極にある「大菩提」を、自分において「必ず成就することができる」と確信し得た喜びであるとされている。菩薩道の成就を確信する歓喜なのである。そこに「初」と言われているのは、仏道成就の確信が、「初めて」成り立ったことを表し、また『華厳経』(六十華厳)に「初発心時便成正覚」(「梵行品」、『大正新脩大蔵経』第9449頁下段)と説かれているように、初めて発心したとき、正覚を必ず成就できることとして見通されていることを示している。その可能性として表明された信念を、確実なものとする道を龍樹は求めた。「十地品」(『華厳経』)の釈論である『十住毘婆沙論』では、難易二道とされて、あたかも相対的な選びが可能であるかのごとく表現されているが、親鸞にあっては、難行は陸上の隘路のごとく、易行は水上の乗船の大道のごとくに了解されているのである。

 

 こういう展開を下敷きにして本願の意図をいただいてみるなら、曇鸞が第十一願に着目したことも、もっともだと思う。さらには、親鸞がこの願によって正定聚・不退転を真実信心の利益として、現生に「正定聚に入る」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』241頁)と確信されたことも了解できるのである。

 

(2023年9月1日)

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第241回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑫

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法蔵菩薩

 大乗仏教運動と呼ばれる大きなうねりは、果たる覚りを求める因位(いんに)の菩薩を語りだす方向と、覚りの証果を解明しあらゆる衆生に平等に届けようとする方向を生み出した。それは一方では、求道心を限りなく展開する『華厳経』となる。その場合、因分は説くことができるが果分は不可説だと見ることになる。そして、他方では果の涅槃を釈尊の個人体験に留めるのでなく衆生の獲得すべき究極の課題であるとし、また一切衆生に施与された可能性として論究していく方向を取ろうとする。それは大乗の『涅槃経』となって僧伽(さんが)の課題を究明していくことになった。

 

 この二つの方向を展望しながら、大乗仏教を代表する僧である龍樹の名で中国に伝えられたものがある。鳩摩羅什(くまらじゅう)によって翻訳された『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』(以下『十住論』と略す)である。この論は『華厳経』に組み込まれた「十地品」の解釈である。その初地の釈のなかに「易行品」があり、易行として諸仏の称名が出され、そのなかに阿弥陀の名もあり、その阿弥陀の名には本願があるとして特別に取り上げられているのである。

 

 この論に曇鸞が注目し、天親の『無量寿経優婆提舎願生偈(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)』(『浄土論』)の注釈をするにあたり、龍樹の『十住論』を通して五難(外道の相善・声聞の自利・無顧の悪人・ 顚倒の善果・自力のみで他力を知らない)を示し、それまでの仏道が時代の課題(五濁・無仏の世界)に対応していないことを指摘して他力の易行を表してきたことを語っている(『真宗聖典』167~168頁、『教行信証』「行巻」・『論註』引文参照)

 

 親鸞が判明に見出したことは、この大乗仏道のテーマの背景に『涅槃経』で取り上げられる五逆・謗法・一闡提を摂するべきという僧伽の課題があり、それらを包んで一切衆生を平等に救済しうる道が求められているということである。阿弥陀の因位の本願には様々の課題が語られており、その中心に一切衆生に開かれるべき「大涅槃」についての願(第十一願)があり、その成就のための道として称名を諸仏が勧める願(第十七願)があり、その願に応答して行者に信心が施与される(第十八願)のだが、それらの願を総合する願心の主体としての「法蔵菩薩」なる菩提心の永劫修行が語られる。いわば『華厳経』で取り上げられる菩提心の課題を受け継ぎ、その菩薩の願心のなかに『涅槃経』の課題たる三病人の救済を成就すべく、大悲の第十八願に「唯除五逆誹謗正法」と示されているのである。

(2023年7月1日)

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第238回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑨

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

法蔵菩薩

 親鸞の示す「金剛の信心」とは、大悲の不可思議なるはたらきによって、われら有限なる存在がどういう状態であるかを問わず、大いなる光明(無限大悲)が常に我等を包み摂していると信じることであるとされる。ここに有限・無限という言葉を出しているので、この二項(有限・無限)の関係を考察してみよう。

 

 仏教語の一般的表現で「無為法」と言われる場合は、対応する言葉は「有為法」である。この有為法とは、我等有限の一切の事象が、すべて時間とともにあり、時を超えて永続する物事は存在しないということであり、「諸行無常」(あらゆる存在は永続しない)であるとされている。この諸行(一切の現象)が「有限」に相当する。そこから言うなら、無為法は「無限」と言われることの内容に当たるわけである。移りゆき変わりゆく一切の現象に対し、時間的な要素を交えず、いわば永久不変なることを示す概念が、「無為法」である。

 

 この無為法という概念に相当する語が、一如・真如・涅槃・法性などと教えられ、さらには法身・実相・常楽などと転釈されていく。これらの教学用語は、それぞれに微妙な差異を生じてはいる。しかし親鸞は、それらを『涅槃経』などを依り処として、すべて同等の意味を示す概念であると了解している。これらの用語をすべて無為法なる概念の内容であるとするなら、いま考察している無限は、仏教的理念で言うと「涅槃」に相当するということになる。

 

 親鸞が、『大無量寿経』に語られている「法蔵菩薩」とは、「一如宝海よりかたちをあらわして」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)きたと了解していることは、いかなる意味になるのであろうか。文字通りであれば、時間を超越した無限であるはずの一如が、有限の生存上の名告り(これは時間的に消滅する存在になる)に成ることである。このことは普通には、矛盾そのものである。しかしながら、法蔵菩薩が大悲の心の示現であるから、矛盾を超えて、無限が有限に展現するという表現であるとされている。

 

 無限とは、内に有限の一切を包んでいる。しかるに、有限から無限を考究しようとするなら、無限なる事態は、自己の外に、いかにしても到達することなどできない極限の様態として考えられることになる。無限の立場からは、「内」とされるありかたが、その内の有限からは、「外」であるということになる。この内・外の矛盾を、清沢満之は有限と無限との「根本的撞着」と言われるのである。この矛盾が一致することを求めることこそ、宗教的実存の要求であるというわけである。

(2023年4月1日)

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第236回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑦

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

法蔵菩薩

 善導のいわゆる「十四行偈」の出だしの「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』235頁)の問題である。この偈文に、了解しにくい内容がある、と思う。菩提心が「各発」という意味であるならば、それは成就しがたくあるのに、「共発」として「金剛の志」であるなら「横超」において「四流(迷妄の生存)」を「断つ」ことができる、という偈の言葉が突然に出されているからである。そもそも発菩提心は、個人に発起する仏教的意欲(仏に成りたいという意志)を表している言葉であるし、それが「共発」として「金剛」であるように発起するということは、かなり「困難」だとも思えるからである。

 

 この点について、先回は親鸞の気づいた善導の着眼について注目し、二河譬の意味を提示しておいた。まずは西へ向かう人は貪瞋二河の前に独りたたずむものと示されるが、この譬喩が、例外なく誰においても気づかれてしかるべき譬喩である、ということである。

 

 そして、貪瞋二河を超えて彼岸として表現されているものは、その方向の前に、自分の力を頼りにして生きるあり方の無効なることを、三定死によって気づくことである。即ち、有限なる存在が、無限を求めることの不可能性の自覚であろう。この気づきは、「西に向かって往こう」という決断に導くとされる。この決断を、「能生清浄願往生心」(『真宗聖典』220頁参照)と善導は表現する。

 

 この願心は、この譬喩の了解としては、個人の意欲であると理解される。しかし、個人の意欲であるなら、いかにして「金剛」という質を確保できるかという課題が、残されることになる。そしてその個人の意志で彼岸に渡るということを、此の岸からは教主釈尊が勧めるし、彼岸からは阿弥陀如来が招喚すると表現されている。

 

 これは、「各発」の意欲として菩提心が了解されているならば、無上菩提の達成は困難であるどころか、達成不能に陥ることが、「われら」凡夫の存在に自覚され、その「われら」が「みな同じく等しく」、「共発」として「彼岸」へと帰入すべきであることが、暗示されているのであろう。

 

 そして、親鸞はこの善導の表現する「能生清浄願往生心」という「意欲」を、「能生清浄願心」(『真宗聖典』235頁参照) と表現し直して、「往生」の語を外している。ここに、「能」の文字があることと、この意欲が決定的に「金剛心」であることを根拠づけるものは、決して個人の事情や条件で発起する意欲ではあり得ないということと、その達成を可能とするものは、本願として表現されてくる無限なる「大悲」それ自体なのだ、ということであろう。

(2023年2月1日)

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第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
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第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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第235回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑥

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

法蔵菩薩

 法蔵菩薩とは、苦悩の衆生を救済しようと願う普遍的な菩提心を象徴する名である。苦悩の衆生とは、親鸞の言葉に「諸有に流転の身」とある。諸(もろもろの)とは、それぞれの宿業因縁に依って、この五濁悪世に生存を与えられているすべての生命存在ということである。「諸有」として、それぞれ異なる身体を与えられ、おのおの別々の境遇や限定を受けつつ、この五濁の世に生きているということである。それらすべての事情を超えて、普遍的にすくい取らずにはおかない、という志願を「法蔵」という名にこめて、『大無量寿経』(以下、『大経』)が法蔵菩薩の因願を語り出しているのである。


 この願心の意味を受け止めた善導は、『観無量寿経』(以下、『観経』)を解釈するに先立ち、衆生に呼びかけるについて、衆に勧めて「勧衆偈」を作っている。その初頭に、「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」(『真宗聖典』146頁)という文を置いている。

 この偈を作ることの意図が、法蔵願心の普遍的な救済意志を受け止め、その意図を経典解釈に依って明確にしていこうとしていることを見抜いたのが、親鸞であった。この偈文の意味は、文字通りには容易に受け止めがたいところがある。それは「各発」という限定を菩提心に課するのは、一面で当然のようである。宗教的要求が衆生に起こるのは、よほどの因縁に出遇うからであり、有限の関心が圧倒しているこの世においては、めったにないこととも思えるからである。その道を「難厭、難欣」と否定的に表している。それに対して「共発金剛志」と呼びかけて、そこに「横超」という語を置いていることが、いかなる意味かが明確でないからである。


 共通して金剛の志を発すとは、一体どういうことなのであろうか。「共発」という言葉には、善導の『観経』解釈の根本的な立場が秘められている。『観経』の文面には、その背景に『大経』があることにようやく気づいた善導が、まったく新たな視点から『観経』を解釈することをこの偈文で示そうとしたのであろう。親鸞は「正信偈」で「善導独明仏正意」と、善導の発見した立場の独創性を讃えている。


 実は、この「共発金剛志」とは、二河白道の前に立つ「西に向かう人」が発す西方浄土への欲生心(「能生清浄願往生心」、『真宗聖典』220頁)が暗示されているのである。しかもこの貪瞋二河の譬喩は、衆生であるなら誰であっても悩まされる煩悩としての貪欲・瞋恚が出されていて、西に向かう場合に、「孤独」の不安におびえつつ、二河の前に決定して死すべき身が知らされるということがあるのである。

(2023年1月1日)

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20231212親鸞思想の解明
第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
20231212親鸞思想の解明
第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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第234回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑤

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

法蔵菩薩

 そもそも仏法の課題は、流転の苦悩を超脱するところにある。言い換えれば、生死の迷いを超克するのである。この目的を達成すべく求道するところに、仏道が存立してきたのである。

 これは衆生の普遍的苦悩である四苦八苦の生存を出離することである。その出離生死の課題を独り超え出るのみでなく、衆生と共に歩み続けようという方向に、如来の願心を聞き当ててきたのが大乗仏道の歩みであった。その思想の依り処となったものが、如来の入滅を前になされた涅槃説法であり、そこから『涅槃経』が編み出されてきたとされる。

 その涅槃説法に「法を灯火として歩め」という語があり、その「法」(ダルマ)を尋ね当てようとする求道の思索が深められ、多くの大乗経典が生まれてきたのであろう。その「法」という根源から、あたかも泉からこんこんと水が湧き出るがごとく、無量の教言が生み出されてきたわけである。それによって、「法」の根底に大悲の願心が存する、とされるのであると思う。

 法蔵大悲の願心は、一切衆生に呼びかけんがために、「五劫思惟」という思案を通して本願の箇条を案出された。そして、その願心成就としての国土へと一切衆生を招喚するわけである。その国土の中心課題が、一切衆生に「大涅槃を証させる」というところにある、と親鸞はみられた。もちろん、そのことは曇鸞の第十一願への着眼があったからである。

 「涅槃」とは、大乗の『涅槃経』において解明されてくるように、単に生が尽きるという意味ではない。もともとは、釈尊の個人的入滅が、生死の苦悩を完全に滅した状態として、「ニルヴァーナ」(滅度・涅槃)に入った、とされた。それが言葉の語源的意味ではあろうが、大乗の『涅槃経』においては、その涅槃が、仏性(衆生の普遍的な仏への可能性)としても論じられ、さらに法性とか真如とも同義とされ、「法」として無為法を表すことともされた。それが同時に、「如来」でもあるとされてもいる。

 生死を超えるという課題は、その解決が生命の終焉にあるという理解では、生きて仏道を求める衆生に対して説得力をもたない。しかし、いかに求めて歩んでみても、生死流転を超え出る自覚は得がたいものである。それゆえに、大悲の願心は、法蔵願心の第十一願において、仏法の至極たる「証大涅槃」を、願心の国土に生まれるものの平等の利益であるとするのである。だがその平等には、利益を受け取るべき条件は付かないのであろうか。

(2022年12月1日)

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20231212親鸞思想の解明
第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
20231212親鸞思想の解明
第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
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第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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第232回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」③

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本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

法蔵菩薩

 諸仏国土の共通の善根には、阿弥陀の一切衆生を救済せずにはおかない誓願が響いている。一切衆生の無上仏道への道筋が、阿弥陀の誓願によって、平等の大道として開示されているからである。大道であるからには、衆生の条件や状況を問わず、苦悩の有情(諸有として現実に存在している生存者)がある限り、平等に歩むことができる道でなければならない。その一切衆生に平等に呼びかける方法が、「諸有の衆生が名を聞く」(聞名)という方向性において開示されているのである。

 名とは一般的には言葉であり、いわゆる名詞である。本願において呼びかける名は、単なる名詞でなく、「聞かれるべき名」として、救われるべき衆生に対し、救い得るはたらきを内に蓄えている願心の言葉である。その言葉としての名の意味が衆生に聞き届けられるとき、名の具足する意味がはたらいて、衆生に本願の功徳が施与されるのである。本願の名は単に固有のものを指す名詞ではなく、本願によって「名が行である」とされる所以なのである。

 こういうことであるから、「名」が本願の選択摂取した「行」であるということには、名の意味が衆生によって聞き届けられる必要がある。そこに、親鸞が「行・信」という課題を展開された意味があるのである。すなわち、本願の誓う行とは、有縁の衆生が自分の意欲で行う行為という意味ではなく、諸仏によって平等に讃嘆される名となった行であるとされているのである。そのことをしっかりと聞いて信じ受け止めることが、衆生の救われる条件として待たれているのである。

 天親菩薩は『浄土論』に、この本願の聞名の道理を菩薩道の道理として展開している。『無量寿経』にある法蔵願心の因果の道理を、『浄土論』における菩提心の因果に照らし合わせると、どうなるのであろうか。『浄土論』では、菩薩道の五念門(自利・利他)は、利他の「回向門」において極点に達する。このことを、論主は「回向を首として大悲心を成就するを得るがゆえに」(「回向為首得成就大悲心故」)と述べている。

 この回向の因果の展開に、浄土を建立するという『無量寿経』の展開を差し挟むわけだが、それはどういう意味なのであろうか。ここに実は、曇鸞の『論註』の解釈において、回向には、「往相・還相」の二回向という菩提心の方向性を表すが如き言葉が出される必然性がある。この回向を往還の「二回向」に展開するという曇鸞の了解をくぐって、本願の仏道を「行・信・証」として解明することができると気づかれたのが、親鸞であった。こういう次第で、親鸞の『教行信証』の著述が誕生したのである。この天親の語る菩薩道は、『無量寿経』に照らせば、法蔵願心の菩提心の展開であり、その回向成就は、阿弥陀の大悲の回向成就であるというのである。

(2022年11月1日)

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20231212親鸞思想の解明
第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
20231212親鸞思想の解明
第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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