親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

Vol.05「邪見を離れること ―『月蔵経』「諸悪鬼神得敬信品」試論 ―」

教行信証

親鸞仏教センター研究員

藤原 智

(FUJIWARA Satoru)

 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んでいる。「化身土巻・末巻」は末法という時代を通して親鸞が見いだした人間の問題(異執)が描き出されている。今回は、『日蔵経』に続く『月蔵(がつぞう)経』の引用について、「邪見」をキーワードに追っていきたい。

■ 「諸悪鬼神得敬信品(しょあくきじんとくきょうしんぼん)」第八の上

 「化身土巻・末巻」は前回の『日蔵経』に続き、『月蔵経』が七文引用される。今回は『月蔵経』の始めの二文、「諸悪鬼神得敬信品」第八の上と下を見ていきたい。

 まずその前に、前回の『日蔵経』で確かめられた点を見てみよう。『日蔵経』は「念仏三昧品」から「護塔品」にかけて魔王波旬(はじゅん)の帰伏(きぶく)が描かれていた。その「護塔品」での魔王波旬の言葉を見よう。


時に魔波旬、この偈(げ)を説き已(おわ)りて、仏に白(もう)して言(もう)さく、「世尊如来、我およびもろもろの衆生において、平等無二の心にして、常に歓喜し、慈悲含忍(じひがんにん)せん」と。

『真宗聖典』372頁、東本願寺出版)


ここで魔王が仏に帰依し讃嘆して述べた「平等無二の心」という言葉は重要である。この言葉は、法然が阿弥陀仏の願心を「平等の慈悲」(『選択本願念仏集』・『真宗聖教全書』1・945頁)と語ったことと質を同じくするであろう。『日蔵経』は魔の降伏として仏道への帰入が描かれ、そこに仏陀の精神として平等無二の心が感得されることが確かめられた。そこから問題になるのは、仏道に帰入した者がその仏陀の平等の精神に生き抜くことができるのか、という問題ではないか。それが次の『月蔵経』に展開されると考えられるのである。

 では、「諸悪鬼神得敬信品」第八の上を見てみよう。この文は『月蔵経』七文全体の方向性を決定する重要なものである。その冒頭は次の言葉に始まる。


『大方等大集月蔵経』巻第五「諸悪鬼神得敬信品」第八の上に言(のたま)わく、もろもろの仁者(にんしゃ)、かの邪見を遠離(おんり)する因縁において、十種の功徳を獲ん。

『真宗聖典』372頁


 ここにまず語られる「邪見を遠離する」ことに『月蔵経』七文全体の眼目があると考えられる。この親鸞の引用箇所は、原文ではまず「衆生平等・法平等・清浄平等・布施平等・戒平等・忍平等・精進平等・禅平等・智平等・一切法清浄平等」(『大正蔵』13・325・b)という十種の平等を具(ぐ)すべきことが説かれ、さらにそのなかの戒平等について、いわゆる十善業道であるとして「殺生(せっしょう)・偸盜(ちゅうとう)・邪婬(じゃいん)・妄語(もうご)・両舌(りょうぜつ)・悪口(あっく)・綺語(きご)・貪瞋(とんじん)・邪見(じゃけん)」(『大正蔵』13・327・b)を休息(くそく)させることだと説かれていく。そのなかから親鸞は「邪見」に関する箇所のみを選び取っているのである。それは、親鸞の問題意識が「邪見」に絞られているということに他ならない。

 このことに関連して、『月蔵経』七文引用の直後に次の一文に注目したい。


また言わく、占相(せんそう)を離れて、正見(しょうけん)を修習(しゅじゅう)せしめ、決定(けつじょう)して深く罪福の因縁を信ずべし。抄出

『真宗聖典』385頁


この文は「また言わく」と始まるが、『月蔵経』ではなく『華厳経』の「十地品」の第二地・離垢(りく)地の文(『大正蔵』9・549・a)である。離垢地で説かれる内容は「戒」であり、その「戒」の内容はやはり十善道であって、親鸞が引用したこの一文はその十善道のなかの「邪見」を離れることについての経文なのである。そうすると、『月蔵経』の初めの引文と、『月蔵経』の直後の引文が、「邪見を離れること」で呼応していることになる。それは『月蔵経』の引用全体が「邪見を離れること」で貫かれているということを意味し、ここにいよいよ親鸞が「邪見」を問題にしていたということがはっきりすると言えよう。

 「諸悪鬼神得敬信品」第八の上は、邪見を遠離することにより十種の功徳が獲られるという。その十種の功徳のなかで、文脈上、特に注目すべきは次の二つだと考えられる。


三つには、三宝を帰敬(ききょう)して天神を信ぜず。四つには、正見(しょうけん)を得て、歳次日月(さいじにちがつ)の吉凶を択(えら)ばず。(『真宗聖典』372頁


 この文と初めの『涅槃経』とを併せて考えるならば、「仏に帰依するということは<邪見>を離れることであり、それが結果として諸天神に帰依しなくなるのだ」と親鸞は述べようとしていると考えられるであろう。



■ 「諸悪鬼神得敬信品」第八の下① ~難を知ること~

 以上で見てきた「邪見」を離れるという課題が、次の「諸悪鬼神得敬信品」第八の下に展開することになる。


仏の出世、はなはだ難(かた)し。  法僧もまた難し。 衆生の浄信(じょうしん)難し。  諸難を離るること、また難し。 衆生を哀愍(あいみん)すること難し。  知足、第一に難し。 正法を聞くことを得ること難し。  よく修(しゅ)すること、第一に難し。 難を知ることを得て、平等なれば、  世において常に楽を受く。

『真宗聖典』373頁


仏・法・僧の三宝に遇うこと、信心を得ることなどについて、これを「難」の一字で押さえる文を親鸞は引用する。ここで我々は、親鸞が本願他力の教えを繰り返し「難信の法」と確かめていたことを考えるべきである。その一例として次の「正信偈」の一節が挙げられよう。


弥陀仏の本願念仏は、邪見憍慢(きょうまん)の悪衆生、 信楽(しんぎょう)受持すること、はなはだもって難し。 難の中の難、これに過ぎたるはなし。

『真宗聖典』205頁


 これは『大無量寿経』の流通分(るづうぶん)の経文に基づく文である。親鸞は、この「難信」という教えを受ける対象を「邪見憍慢の悪衆生」と記している。それは親鸞自身が、「難信」という教えを通して、自己が邪見憍慢の身であったと自覚したことを意味する。する。

 迷いの身である凡夫は、その根底に邪見を抱えている。しかしそれゆえに、その事実に気づかないのである。そして教えに出遇ったとき、自分は教えを正しく信じていると認識することになる。それは、私が信じた教えという教えの私有化へと繫(つな)がるものである。念仏の教えが、「他力の教え」であり「難信の教え」であると説かれるのは、そのような教えの私有化を破ろうとするものなのである。私が信じたという思いを、その教えは「難信の法」だと示すことによって、その私の思いが教えの私有化に他ならなかったと反省させるのである。このとき、その反省の思いと共に自覚するものこそ「邪見憍慢の身」としての自己なのである。

 『月蔵経』引用の初めに「邪見を離れること」を説きつつ、次いでこの「難」と繰り返す経文を引用するのは、「邪見を離れる」とはこの「難」の事実を知ることだというのである。そして「難を知ることを得て、平等なれば、世において常に楽を受く。」と、「難」を知ること―それは同時に一切衆生に対して平等な仏陀の公の心を知ることでもある―によって、仏法の楽を受けることになると示すのである。



■ 「諸悪鬼神得敬信品」第八の下② ~悪鬼神の因縁~

 しかし、問題はこの後に「乃至(ないし)」を挟んで引用された経文である。引用では、


かの悪鬼神(あくきじん)は、昔仏法において決定の信を作(な)せりしかども、彼、後の時において、悪知識(あくちしき)に近づきて心に他の過(とが)を見る。この因縁をもって、悪鬼神に生まる、と。略出

『真宗聖典』373頁


ここで「悪鬼神」が登場するが、それは昔、確かに仏法に対する決定の信をもった者だという。しかし彼は、やがて悪知識に近づくようになり、そして他人の過失を見るようになるのである。そこにあるのは、自分は正しく他者は間違っているという思いである。

 先の文では「難を知りて平等なれば」と説かれていた。自己を含め一切の衆生が仏法を私有化できない「難」なる存在として平等である、という地平がそこにはあった。しかし、それがやがて内省の眼を曇らし、そして自分は正しく信心をもっており、他者は間違っていると独善的に裁いていくことになる。そこに悪鬼神に生まれてくるのだと経典は語るのである。その根にあるものこそ「邪見」であると言い得るのではないだろうか。

  親鸞は、このような悪鬼神の生まれてくる世界を超えるために、邪見を離れることを説く経文を『月蔵経』引用の初めに置き、公なる仏の平等の慈悲の世界に目覚めることを勧めている。このように考えることができるのではないだろうか。

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Vol.01「教誡(きょうかい)」という言葉のもつ課題

教行信証

親鸞仏教センター研究員

藤原 智

(FUJIWARA Satoru)

 親鸞仏教センターでは2013年6月より新たに『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会を発足した。

 『教行信証』「化身土巻・末巻」は浄土教文献の引用もほとんどなく、『教行信証』全体のなかで特異な文脈であると感じられる。そのためか、これまでの『教行信証』研究の歴史でも、この「末巻」に焦点が当てられたものは少ない。本研究会では、「末巻」冒頭での「教誡」という言葉を軸に、「末巻」のもつ意義を確かめていく試みをしている。

 第一回・第二回の研究会では、まずこの言葉のもつ意味が確認された。今回はその報告である。

■ 『大無量寿経』における「教誡」

 『教行信証』には「化身土巻」の三願転入と呼ばれる文の後に、「教誡」という言葉が二度使われる。その一つが「末巻」冒頭であり、そこで次のように述べられる。

それ、もろもろの修多羅(しゅたら)に拠(よ)って真偽(しんぎ)を勘決(かんけつ)して、外教邪偽(げきょうじゃぎ)の異執(いしゅう)を教誡(きょうかい)せば、

『真宗聖典』368頁、東本願寺出版部

 この「教誡」という言葉は、元々『大無量寿経』のいわゆる三毒五悪段の三毒段の終わりと、五悪段の終わりに計二度出てくる言葉である。親鸞は『大無量寿経』を真実教と選び取ったのであるから、「化身土巻」の「教誡」という言葉もこの『大無量寿経』で説かれる「教誡」に基づくものと言えよう。

 『大無量寿経』は、始めに法蔵菩薩の発願と修行、その成就としての阿弥陀仏の浄土の荘厳が説かれる。そして、その浄土の三種荘厳が説かれた後に、三毒五悪段が展開する。そこでは対告衆が凡夫阿難から菩薩弥勒に変わり、そして穢土の衆生の姿が貪・瞋・痴の三毒や、五悪として語り出されるのである。その三毒段と五悪段のそれぞれの終わりに「教誡」の語は語られる。まず前者を見てみよう。

 釈尊は弥勒菩薩に衆生の三毒を語った最後に、

 

それ心を至して安楽国(あんらくこく)に生まれんと願ずることある者は智慧(ちえ)明達(みょうだつ)し功徳(くどく)殊勝(しゅしょう)なることを得べし。

『真宗聖典』63頁

と、至心をもって浄土を願生すべきことを説く。つまり、この「至心願生安楽国」にこそ、衆生の三毒五悪を超える智慧の獲得があることを説くのである。この仏語に対して、弥勒菩薩は、

仏語(ぶつご)の教誡(きょうかい)、甚(はなは)だ深く甚(はなは)だ善し。

『真宗聖典』63頁

と応える。世間の三毒を通して「至心願生安楽国」と説く仏語を、「教誡」として弥勒は我が身に受け止めるのである。

 『大無量寿経』が「教誡」を語るもう一つの箇所を見てみよう。釈尊は三毒段の後に五悪段を展開するが、その終わりにおいて、「吾(われ)世を去りて後、経道(きょうどう)漸(ようや)く滅(めっ)し人民(にんみん)諂偽(てんぎ)ならん」と自己の滅後を予言し、弥勒に次のように言う。

仏(ぶつ)、弥勒(みろく)に語りたまわく、「汝等(なんだち)おのおの善くこれを思いて転(うた)た相(あい)教誡(きょうかい)す。仏(ぶつ)の経法(きょうぼう)のごとくして犯(おか)すこと得ることなかれ」と。

ここに弥勒(みろく)菩薩(ぼさつ)、掌(たなごころ)を合(あ)わせて白(もう)して言(もう)さく、「仏の所説甚(はなは)だ苦(ねんごろ)なり。世人(せにん)実(まこと)に爾(しか)なり。如来(にょらい)、普(あまね)く慈(あわれ)みて哀愍(あいみん)して、ことごとく度脱(どだつ)せしむ。仏の重誨(じゅうけ)を受けて敢(あえ)て違失(いしつ)せざれ」と。

『真宗聖典』78~79頁、改行筆者)

ここで釈尊が問題にしているのは、「吾世を去りて後」と言われる「五濁の世、無仏の時」である。その仏滅後における衆生の諂偽・衆悪について、釈尊は弥勒に「相教誡せよ」と説くのであり、弥勒は釈尊に対して「仏の重誨を受けて敢て違失せざれ」と仏の教えを守ることを誓うのである。釈尊は弥勒に世間のただなかにおいて「相教誡せよ」と説くが、それを果たす智慧は、先の三毒段に説かれ弥勒が「仏語の教誡」と受け止めた「至心願生安楽国」という信念にある。そして、この「教誡」という課題を託された弥勒は、続く智慧段で釈尊に胎生(たいしょう)・化生(けしょう)の問いを出すことになる。この問題は『教行信証』では三願転入として展開していく。

 以上のように語られる「教誡」という言葉を、親鸞は「化身土巻」で三願転入の後に語っていく。『大無量寿経』が説く釈尊滅後の衆生の諂偽なる世界とは、親鸞にはみずからが身を置いた時代社会を意味すると受け止められていたに違いない。親鸞は、時代社会とそこに生きる人間の悪を『大無量寿経』三毒五悪段に聞き、それを超克(ちょうこく)する教えを「教誡」に見いだした。これを明らかにするのが『教行信証』撰述の事情ではないだろうか。

■ 「教誡」を語りうる立脚地

 以上のように見てくると、『大無量寿経』の「教誡」は「至心願生安楽国」に集約される。その「至心願生安楽国」という信念の獲得こそ、『大無量寿経』の宗致である本願の成就である。そして、その本願成就の信心について述べたのが『教行信証』「信巻」、及び「化身土巻」である。

 「信巻」には本願成就の信心が生み出す人間像として真仏弟子釈という論述がある。この論述の初めに、先に挙げた『大無量寿経』の「至心願生安楽国」の言葉が引用されている(『真宗聖典』245頁参照)。つまり、この釈尊の「教誡」を聞く者が、真仏弟子とされているのである。そうであれば、弥勒に託された「教誡」という課題を語りうるのは、本願成就に獲得される「願生浄土」の志願だけだと言えよう。
 親鸞は真仏弟子釈で、信心の人は弥勒と同じと言う。『大無量寿経』の教えによって弥勒と同じ地位を賜るということは、それに止まらず『大無量寿経』で釈尊が弥勒菩薩に託した「相教誡せよ」という使命に、『大無量寿経』の教恩を受けた者として報(こた)え、その責任を担うということがあるのではないか。ここに親鸞が「化身土巻」で「教誡」を語っていく意味があるように思われる。このような視点をもって本研究会を進めていきたい。

(文責:親鸞仏教センター)

※本報告の詳細については『現代と親鸞』第27号(2013年12月1日号)に論文として掲載しています。

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