親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

忘却に抗って

感情

シンガーソングライター

見田村 千晴

(MITAMURA Chiharu)

 「忘れる」ことに対して、漠然とした恐怖感がある。抵抗感、の方が正しいかもしれない。私は日々湧き上がっては消えていく己の感情を、できる限りその鮮やかさのまま、全て記憶していたいと強く思っている。

 

 しかし人間は、忘れていく生き物である。未来を生きていくために忘れた方が良いこともある。痛みや苦しみ、悲しみといった負の経験から身を守るために、脳が記憶を消してしまうこともあるらしい。それでも私は、痛みも苦しみも、鮮烈に覚えていたいと思うのだ。お前の経験してきた痛みや苦しみなど生ぬるいからそんなふうに思えるのだ、と言われてしまえばそれまでなのだが。

 

 では、なぜ私はこんなに「忘れたくない」のだろう。

 私は幼少期から、「誰も私の気持ちを分かってくれない」と思っていた。なぜ分かってくれないんだ、分かってくれる誰かに出会えないのはこの場所のせいだ、と完全に周囲のせいにしていた。孤独感を抱えた10代だった。

 

 そして大人になり、25歳を過ぎた頃からだろうか、過去の自分を少しずつ客観的に見られるようになった。子どもの頃の私は、言葉や態度での自己表現がとても苦手だった上に、 “優等生ぶる” ことが上手だった。どちらも自信の無さの裏返しである。端的に言えば、私は重度の「察してちゃん」だったのだ。そうやって自己分析ができてくると、昔の自分がとてつもなく愛おしい存在に思えた。時を超えて隣に寄り添って「大丈夫だよ」と抱きしめてあげたい気持ちになった。そんな愛おしい“あの子”の孤独や苦しみを無かったことにしたくない。「何も分からない子どもだったから」という言葉で片付けてしまっては可哀想だ。そうだ、「子どもは黙ってなさい」と主張を封じられ続けていたから私は苦しかったのだ。

 

 以上のような自己分析をして以来、今度は意識的に「思い出の美化禁止ルール」を自らに課している。過去の恋愛も、うまくいった仕事も、妊娠・出産の経験も、今は亡き人についても、綺麗な思い出だけではなく、苦しかったことや辛かったこと、後ろめたいことまでちゃんと覚えていたい。しかも、できる限り色褪(いろあ)せないままで。これは私なりの、過去の自分への供養なのかもしれない。

 

 さて、私はシンガーソングライターである。歌詞を書き、曲をつけ、ギターを抱えて歌っている。おそらく作詞作曲をする音楽家の7〜8割は、先にメロディを作り、後から言葉を乗せていると思う。私は残りの2〜3割、歌詞を先に書き、そこにメロディをつけていくという順序で曲を作っている。誰かから教えられたわけでも、選び取ったわけでもなく、独学で曲を作り始めたらたまたまそうなっていた。日々色々なものを見たり聞いたり考えたりする中で、曲にして残したいと思う感情や風景を頭の中で “スクリーンショット” し、丁寧に言葉に変換していくイメージだ。

 

 「思い出の美化禁止ルール」を遵守して生きていくために、音楽はとても効果的である。覚えておくのが難しい複雑な感情や、夕焼けのように時間とともに移り変わっていく感情も、楽曲に託せば半永久的に忘れないでいられるのだ。ライブで自分の曲を歌っているとき、私の目の前にはかつて見た風景が広がり、身体の内側にはかつて味わった苦しみや温かさが戻ってきている。

 

 曲を作る動機がこうなのだから、主流であるメロディからではなく、歌詞から先に作っていくスタイルになったことは私にとってとても自然な流れだ。ともすると、「忘れてしまう」「忘れたくない」という言葉が頻出(ひんしゅつ)してしまうのが悩ましいところなのだが。

 

 昔、たまたま観ていたテレビ番組で、取材されていた僧侶の方が口にした言葉がとても印象的だった。

 

「死は、準備のできた人に訪れるものなんです。死ぬのがどうしようもなく怖いうちは、まだ準備はできていないのです。」

 

 もちろん、不慮の事故など突然起こる場合もあるだろうが、死について想像するだけで眠れなくなるほどの恐怖感を持っていた私は、胸のつかえがすっと取れていくような安心感を覚えた。それ以来、この言葉をお守りのように大事にしている。

 

 「忘れる」ことを大らかな気持ちで受け入れられる日はいつか来るのだろうか。それは、必ず訪れる「死」への緩やかな準備をしているということなのだろうか。

 

「若い頃は全てがキラキラして楽しかったわ」

「大変なこともあったような気がするけれど、忘れちゃった」

 

と微笑むおばあちゃんになる未来はまだ想像できない。それまでは、このせわしない感情ひとつひとつに目を凝らし、言葉に託して歌っていこうと思う。

(みたむら ちはる・シンガーソングライター)

 自身が立ち上げた音楽レーベル「KICHIJITSU RECORDS」を主宰。アルバムに『歪だって抱きしめて』(2019)、最近のミニアルバムに、『Marking』(2021)など。

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今との出会い 第224回「「こちら側」と「あちら側」――浅い理解と深い共感」

感情

親鸞仏教センター嘱託研究員

宮部  峻

(MIYABE Takashi)

 今でこそ出会うことは少なくなったが、私の言うことにすぐに「わかる」と相槌を打ってくれる人が周りに何人かいた。皮肉屋の私は、「自分が苦労して考えてきたことや悩みに対して、そんなすぐに『わかる』という浅い言葉で済ませるとは何事か」と心の中で絶えず思い、未熟なので、ときに口に出した。もちろん、相手に悪気があったわけではないだろうが。とはいえ、こちらの考えていることは、あちらにそうたやすく理解できるわけはないだろうと思わざるを得ないのもまた事実なのである。そうであるからこそ、ときに「こちら」と「あちら」で分断が生じる。これは何も一対一の関係に限ったものではない。政治やジェンダー、人種をめぐっても「こちら」と「あちら」の分断は見られるし、SNSでも分断は生じている。どうやら「こちら」と「あちら」はわかり得ないようだ。にもかかわらず、さもわかったかのように、双方が互いを語ってしまい、双方はその語りを事実ではないと反発して、ますます分断がエスカレートしてしまうのだろう。


 アーリー・ホックシールドという社会学者が『壁の向こうの住人たち』(布施由紀子訳、2018年、岩波書店)という本で、ティーパーティーやトランプ前大統領の支持者にインタビューをして、アメリカ右派の人々が支持する政策の根底にある感情に迫ろうとしている。ホックシールドは、バークレーというアメリカでもリベラルの多い地域に住んでいることもあって、果たして、「壁の向こう」にいる右派の人々は何を心で感じているのか想像しようとした。ホックシールドは、右派の人々が心で感じている物語を「ディープストーリー」と名づけ、それに迫ろうとしている。ホックシールドが立派なのは、ティーパーティー支持者やトランプ支持者の感情を描き出したことに留まらない。決してバークレーという地域に留まることはなく、「壁の向こう」の「あちら」の街へ踏み出そうとしたことである。ホックシールドは、理性に留まらず、理性を揺るがしかねない感情の領域に迫り、深い物語へと迫ろうとしたのである。そして、それを言葉にしようとした。


 私たちは「あちら」を理解しているようで、その理解は浅いものであることが多いのかもしれない。「あちら」には、それぞれの感情に支えられた深い物語がある。その深い物語を理性で理解するのは、至極困難であろう。

 しかし、それでもなお、私たち——少なくとも私——は、「あちら」のことを頭で理解して言葉で語ろうとすることをやめられないし、やめるつもりもないだろう。身近な生活の領域で分断が生じやすい今だからこそ、「あちら側」に深い共感——ただし、安易な同調ではない——をし、その感情により揺らいだものを頭で理解し、言葉にしていく試みに救いの一手を見出したいのだ。

(2021年12月1日)

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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...
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