親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い 第212回「疫禍の師走に想う「思い出の国」の人たち」

師走

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

 今年も師走を迎えた。本文執筆時点では、清水寺で毎年発表される「今年の漢字」はわからないが、多くの人がいくつかの共通の漢字を思い浮かべているのではないだろうか。今年は歴史に刻まれる疫禍の年となった。そんな一年を振り返って思うことは多々あるが、緊急事態宣言や外出自粛などの政策により、スポーツ、コンサート、舞台、展覧会や映画などを会場で「生(なま)」で体験する機会が失われたことも大きかった。もちろん命があってのことではあるが、文化・芸術にじかに触れることで触発されるものは大きいと改めて感じる。今回は、行政の、そして自分自身の気分的な規制もようやく緩和されつつあった10月に、地元横浜のKAAT神奈川芸術劇場で観ることができた2本の舞台作品について述べたい。


 1本は同劇場芸術監督・白井晃演出の『銀河鉄道の夜2020』。25年前の作品の再演となる音楽劇だが、楽団のライブ演奏をバックに、「語り部」的な(賢治の妹トシの?)精霊・アメユキ(さねよしいさ子)の歌がイーハトーブの物語を引き出していく。原作もこの舞台作品も解釈は色々できるだろうが、脚本の能祖將夫は「亡くなった人はもちろん、生きている人の中にも、どれだけ会いたいと切望しても2度と叶わぬ人がいる……賢治は銀河鉄道を『思い出の国』に走らせたのだ」と述べている(同作品パンフレット)。『銀河鉄道の夜』には私自身の記憶と交錯する場面も多い。それが音と光の中で役者たちが躍動する舞台上の銀河鉄道に同乗してみると、本にも増して、時空を超えた感慨を呼び覚まされた。二十数年前、豪州の冬空高く輝く南十字星やさそり座を共に眺めた人たち。さらに遡れば、タイタニック号の悲劇の夜を語り聞かせてくれた生存者の英国の老婦人。鳥捕りの男がジョバンニらに雁を試食させるシーンでは、お菓子のような味だと言っているのに、なぜか番茶に浸したタラの塩漬けの一片を美味そうにしゃぶっていた(私が幼かった頃の)祖母を思い出した……。人の人生は多くの出会いと別れで紡がれているという当たり前のことを、舞台上の、そして私の心の中の「思い出の国」の人たちと出会って改めて感じた。


 もう一本の舞台作品は、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』に想を得て、「人類すべての成長物語」を構想したという谷賢一の作・演出による『人類史』。第一幕は人類が言葉や文化・芸術を生み出すまでを、イスラエルのダンサー、エラ・ホチルドがオンラインで振り付けたという身体表現(ダンス)で描き、権力の発生とその犠牲になる青年を描いた場面はギリシャ悲劇を思わせた。そして科学革命から現代までをエネルギッシュな群像劇で描く第二部はミュージカル仕立て(作品全体の音楽は志磨遼平)。200万年の時を3時間弱に詰め込む難しさは否めないが、ストーリーも演出もてんこ盛りの贅沢なこの作品で印象に残ったのは、人類が死者の追悼を始めた太古の葬送のしめやかな場面だった。村の長老と司祭を兼ねた役回りの「老人」(山路和弘)が、われわれの生は多くの死者たちの上にあることを残された者たちに語る。その意味で、壮大な「人類の成長物語」はまた、人類にとっての「思い出の国」の住人たちに対する、挽歌であり、讃歌でもあると感じた。


 席は一つ空きで会話も控えめ、当然ながら常時マスク着用、飲食も禁止だから幕間のロビーでのグラス一杯のワインもおあずけ…。そんな中でも劇場で「生(なま)」で触れることができた二本の作品が私の心身に沁み渡らせてくれたのは、私たちの今が、私たちの人生や人類の歴史を形作って「思い出の国」へと去っていった人たちと共にあるということ。疫禍に揺れた今年、そのことのかけがえのなさに力を得つつ、同時にまたその切なさをも噛みしめる師走である。

(2020年12月1日)

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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...
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投稿者:shinran-bc 投稿日時: