親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い 第180回「地涌の菩薩」をどう読むか

如来寿量品

親鸞仏教センター研究員

戸次 顕彰

(TOTSUGU Kensho)

「私は『法華』の経文を読んで、地涌の上首上行を以て提婆達多であると信ずる。私は地涌の菩薩とは『大無量寿経』の法蔵菩薩の大願海に印した「十方衆生」であると信ずる。すなはち寿量品の久遠の釈尊とは法蔵菩薩そのひとであると信ずる。」

曽我量深「地涌の人」(『曽我量深選集』第3巻)


 『法華経』本門の冒頭に位置する「従地涌出品」は、本門の中核ともいうべき「如来寿量品」への接続を考えるうえで極めて重要な意味をもつ章である。本章は、他の仏国土の諸菩薩が、釈尊の滅後にこの娑婆世界で『法華経』を広めることを願い出るシーンから開始される。ところが釈尊はその菩薩たちの要請を却下する。そこで突如として出現するのが無数の地涌(じゆ)の菩薩である。地涌の菩薩は、この娑婆世界において釈尊自らが教化した菩薩であるとされる。この出現を目の当たりにした弥勒(みろく)菩薩は、成道(じょうどう)から四十余年しか経ていないわずかな時間で、なぜこのような数えきれない菩薩を教化できるのかと疑問を抱く。この弥勒の疑問に応答するかたちで久遠(くおん)のいのちをもつ仏陀の存在を説く「如来寿量品」が開かれるという流れである。

 世間一般では、この地涌の菩薩について、身命をかえりみず一生懸命努力する人を形容する際に用いることもあるらしいが、冒頭の引用は、曽我量深の「地涌の人」という短い文章の中にあった一節である。曽我には他にも「日蓮論」(『曽我量深選集』第2巻所収)という大部の文章があり、親鸞と日蓮との対比を課題にしていた様子もうかがわれる。これは親鸞の立場から日蓮を批判した文章として見ることができるかもしれないが、実はそう単純に日蓮批判として受けとることができないところに曽我の論説の興味深い点がある。

 ところで「地涌の人」という文章中で曽我は、多くの大乗経典に登場する文殊菩薩や観音菩薩などの広く知られた菩薩たちを「天・降の大士」と呼ぶ。それは地・より涌(わ)き出たあの菩薩たちと対照させるためである。いま我々が立っているこの大地にこそ、曽我の着眼があるのであろう。

 「地涌の菩薩ばかりは八万四千の既成概念にあてはまらない」と述べる曽我の言葉は、書かれた文字だけを拠り所にし、文字の形を離れることができないような経典の読み方について再考を促している。だから地涌の菩薩の出現は「門余の大道」であるという。

 いま文献研究が問われている。曽我の警鐘に耳を傾けつつも、仏道において仏典を読むという行為の意味を考えていかなければならない。それともう一つ、曽我はなぜそれほどに日蓮を意識したのであろうか。今後も継続して考えていきたい。

(2018年5月1日)

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今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」
今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu) 「あわれ、生きものは互いに食(は)み合う」 (なんと悲しいことか、生きものはお互いに争い食らい合っている)    それは、お釈迦さまの少年時代、農耕祭に臨まれた時のことである。土の中から一匹の虫が這い出てくるところに、一羽の鳥がやって来て、ついばむやいなや、飛び去っていった。それをじっと見ておられた悉多太子(しったたいし、釈尊の成道以前の名)が、深い悲しみの中より発せられた言葉であると、仏伝は伝えている。(以上、信國淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収「「個人」と「衆生」」、26頁取意)  大谷専修学院という場の基礎を築いた信國淳先生は、以下のように、「生類相克(そうこく)」を目の当たりにした少年太子の胸中に思いをいたす。   この場合太子の胸は、すべての生きものへの同苦共感の世界に生きたのである。鳥からついばまれる虫と、虫を食っていのちを養う鳥と、そのいずれにも与することなく、そのいずれをも生き、そのいずれにおいても、太子自らが生きている生命との交感、交流を感じつつ、そこに衆生世界を感得し、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と、その如実知見を表白したのである。 (同前、26頁~27頁)   「そのいずれにも与(くみ)することなく」という一言が、私の心に残っている。食われ殺される側、食い殺す側、そのどちらか一方を支持し、正当化するというのではない。そのようなメッセージとして受け取った。思い起こされるのは、私自身の少年時代、遠足に出掛けた時のことである。一羽のアゲハチョウが、カマキリに捕まり、今まさに食われようとしている場面に遭遇した。それを見て私は、「かわいそうに。なんてひどいことをするんだ」と思い、蝶の羽からカマキリの鎌を引き離し、助けてあげた。すると、蝶はすっと飛び立っていったが、今度は、カマキリがぐったりとして動かなくなってしまった。それを見て私は、「なんてことをしてしまったんだ」とショックを受けた。カマキリは、力尽きて死んでしまったのかもしれない。どうなったのか、その顛末を見届けることはできなかった。その時のことが思い起こされてくるのである。    その時のカマキリと同じように、私自身は平生、食い殺す側になっている。自分が直接手を下さずとも、誰かに頼って、他の生き物のいのちを奪っている。他の生き物を殺して食べなければ、自身のいのちを継ぐことはできない。自分という存在は、無数の生き物たちの犠牲の上に成り立っていると言える。    さらに言えば、私は、ゴキブリやムカデなどのいわゆる害虫は、容赦なく殺してきている。害をもたらすと感じるものを何であれ、都合によって殺すような自分だから、もしも戦場に出るようなことになったら、ためらいなく人を殺してしまうのではないかと危惧している。    一方で時には、食われ殺される側に自分の身を置くということも起こり得るのかもしれない。しかし、正直に言って、食われたくないし、殺されたくない。要するに、あきらめが悪いのである。その心中は、仏陀釈尊が、『法句経』(ダンマパダ)に説かれている通りである。   一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 (中村元訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』ワイド版岩波文庫、28頁)    私自身は、自分にも、他者にも、殺されたくないのである。存在を尊重されたい、尊重したいと願っているのである。同じようにして、他者の上に私自身のすがたを見出すのであれば、他者を殺したくない、誰かに殺させたくない。その存在を尊重したいのである。  たとえ戦禍に巻き込まれたとしても、できることならば、殺されていくよりも、殺していくよりも、誰かに殺させていくよりも、どこへでも逃げ出して生き延びたいと願っている。それは、誰も皆、一人一人、仏法がはたらく器であると信じるからなのだろうか。    いま現在、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する戦争の惨状を、映像で目の当たりにしている。周辺国の脅威とも相まって、日本でも武器保有、防衛費の問題が急展開してしまっている感じがする。「敵基地攻撃能力(反撃能力)」という言葉が象徴しているように、「敵」という文字が露骨に表れるようになってきている。敵と見なされたものは、当然、警戒心、不信感を抱くに違いない。それは結局、お互いを尊重して協力し助け合うような関わり合いを放棄するという方向になるのではないか。ここにきて、守るための戦いを正当化することは、極めて危険だと感じている。日本は、かつての戦争を通して、大空襲や原爆投下による被害の悲惨、苦痛、そして加害性について、身をもって知ってきたのだから、同じあやまちを繰り返してしまわないように、メッセージを発信し続けていくべきだと考える。被害の側、加害の側、どちらにもならないように模索するということがあって然るべきだと思うのである。    仏教が重んじる精神は「不害」であると聞いてきた。私自身の在り方を振り返れば、前述した通り、それを実行できてはいない。背いてばかりであると言わざるを得ない。しかし、その精神には賛同したい。誰も、傷つけない、傷つかない解決の道がある。それを探求していったのが、少年悉多太子の仏に成る歩みではなかったか。    一切の苦悩する衆生を摂め取って捨てないと誓う、本願の光に照らされて、自己中心的に分別する、執着する心の否定をくぐる。阿弥陀如来の大いなる慈悲・浄土の光に包まれて、存在の本来性に帰る。「一つである」という道理にまっすぐ順い、現実の「食み合う」世界に責任を取って生きる。それは、本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけを聞く、信心をいただくというところに帰着する。    尊ぶべきは法である。本当に守るべきものを明らかにしたいと思った次第である。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...
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投稿者:shinran-bc 投稿日時: