親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い 第189回「普遍的な、あまりに普遍的な」

太宰治

親鸞仏教センター研究員

長谷川 琢哉

(HASEGAWA Takuya)

 先日、太宰治の『駆込み訴え』を読み返す機会があった。イエスを裏切ったユダの心情を生々しく描いたこの短編小説を最初に読んだのは、中学生くらいのときだっただろうか。当時は福音書の内容もほとんど知らなかったが、登場人物のユダが、嫉妬(しっと)や自虐(じぎゃく)に溢(あふ)れたいかにも太宰の小説に登場しそうな人物として描かれているのが印象的だった。


 しかし今読んでみると、別の感想をもつようになった。この小説では、全人類を救済しようとする高潔なイエスと、個人的な愛情からイエスに執着するユダが対比的に描かれている。つまりユダの裏切りは、イエスに対する転倒した愛情の裏返しとして解釈されている。イエスの愛が普遍的なものであるとしたら、ユダの愛は執着に結びつくような「愛着」と言えるかもしれない。いずれにせよ、この二人の「愛」の対比が、物語の基本構造となっている。


 『駆込み訴え』を読み返しながら、同様の物語の構造をどこかで見たような気がした。それは『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』というアニメ映画である。2011年に放送された「まどマギ」の、劇場版である『叛逆の物語』が公開されたのは2013年であった。このシリーズは、一見可愛らしい少女キャラたちが登場するファンタジーアニメだが、実際はシリアスで複雑な主題を扱ったハードなSFのような作品である。私自身も『まどマギ』には見事にハマって、当時受けもっていた大学の講義でそれを題材に話したりしていた。


 ネタバレを避けるために詳細は省くが、『叛逆の物語』は、すべての「魔法少女」を救済するために自分を犠牲にしようとする「鹿目まどか」と、まどかだけを愛しまどかだけに愛されることを望む「暁美ほむら」との対比を軸にした物語である。自分自身を消し去って普遍的な「概念」に等しい存在になろうとするまどかは、実際、福音書のイエスのような存在として作中で描かれている。また、まどかの崇高な試みを阻止しようとするほむらの行動は、まどかに助けられたという極めて個人的な出来事を動機としたものだ。ここには、『駆込み訴え』と同様、普遍的な愛に基づいて行動するまどかと、まどかに対する愛着ゆえに転倒した行動を行ってしまうほむらとの対比を見て取ることができる。

 ところで、今回私があらためて考えたのは、その先である。あらゆる存在を救済しようという普遍的な願いをもつ存在がいるとして、それに面した私たちの一人ひとりは、やはりどこまでも自分自身(あるいは自分の近親者たち)の救済をまずは望むのではないだろうか。さらに言えば、そもそもあらゆる存在を救済するなどといった願いを、私たちは理解することがはたしてできるのだろうか。もちろんそうした願いに触れることによって、私たちは自分自身の「有限性」に気づくのだと言うことはできるのかもしれない。しかし、その気づきを突き詰めていった先には、ユダやほむらのような生々しい愛着が現れてくるのであって、むしろそれ以外のものは存在しえないのではないだろうか。たとえそのような存在に「感謝」する場合であっても、その「感謝」は極めて個人的なものにすぎない。私たちは「普遍的なもの」を、本当には理解することができないのではないか。あるいはそれを理解しようとするや否や、普遍的なものは個別化され、個人的な欲望の対象へとおとしめられてしまうのかもしれない。『駈込み訴え』と『叛逆の物語』が描いているのは、「普遍的なもの」を垣間見た人間の悲しみなのではないだろうか。

(2019年2月1日)

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今との出会い第238回「寺を預かる」
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今との出会い第237回「本当に守るべきものを明らかにする」 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu) 「あわれ、生きものは互いに食(は)み合う」 (なんと悲しいことか、生きものはお互いに争い食らい合っている)    それは、お釈迦さまの少年時代、農耕祭に臨まれた時のことである。土の中から一匹の虫が這い出てくるところに、一羽の鳥がやって来て、ついばむやいなや、飛び去っていった。それをじっと見ておられた悉多太子(しったたいし、釈尊の成道以前の名)が、深い悲しみの中より発せられた言葉であると、仏伝は伝えている。(以上、信國淳『無量寿の目覚め』〔樹心社、2005年〕所収「「個人」と「衆生」」、26頁取意)  大谷専修学院という場の基礎を築いた信國淳先生は、以下のように、「生類相克(そうこく)」を目の当たりにした少年太子の胸中に思いをいたす。   この場合太子の胸は、すべての生きものへの同苦共感の世界に生きたのである。鳥からついばまれる虫と、虫を食っていのちを養う鳥と、そのいずれにも与することなく、そのいずれをも生き、そのいずれにおいても、太子自らが生きている生命との交感、交流を感じつつ、そこに衆生世界を感得し、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と、その如実知見を表白したのである。 (同前、26頁~27頁)   「そのいずれにも与(くみ)することなく」という一言が、私の心に残っている。食われ殺される側、食い殺す側、そのどちらか一方を支持し、正当化するというのではない。そのようなメッセージとして受け取った。思い起こされるのは、私自身の少年時代、遠足に出掛けた時のことである。一羽のアゲハチョウが、カマキリに捕まり、今まさに食われようとしている場面に遭遇した。それを見て私は、「かわいそうに。なんてひどいことをするんだ」と思い、蝶の羽からカマキリの鎌を引き離し、助けてあげた。すると、蝶はすっと飛び立っていったが、今度は、カマキリがぐったりとして動かなくなってしまった。それを見て私は、「なんてことをしてしまったんだ」とショックを受けた。カマキリは、力尽きて死んでしまったのかもしれない。どうなったのか、その顛末を見届けることはできなかった。その時のことが思い起こされてくるのである。    その時のカマキリと同じように、私自身は平生、食い殺す側になっている。自分が直接手を下さずとも、誰かに頼って、他の生き物のいのちを奪っている。他の生き物を殺して食べなければ、自身のいのちを継ぐことはできない。自分という存在は、無数の生き物たちの犠牲の上に成り立っていると言える。    さらに言えば、私は、ゴキブリやムカデなどのいわゆる害虫は、容赦なく殺してきている。害をもたらすと感じるものを何であれ、都合によって殺すような自分だから、もしも戦場に出るようなことになったら、ためらいなく人を殺してしまうのではないかと危惧している。    一方で時には、食われ殺される側に自分の身を置くということも起こり得るのかもしれない。しかし、正直に言って、食われたくないし、殺されたくない。要するに、あきらめが悪いのである。その心中は、仏陀釈尊が、『法句経』(ダンマパダ)に説かれている通りである。   一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛(いと)しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。 (中村元訳『ブッダ真理のことば・感興のことば』ワイド版岩波文庫、28頁)    私自身は、自分にも、他者にも、殺されたくないのである。存在を尊重されたい、尊重したいと願っているのである。同じようにして、他者の上に私自身のすがたを見出すのであれば、他者を殺したくない、誰かに殺させたくない。その存在を尊重したいのである。  たとえ戦禍に巻き込まれたとしても、できることならば、殺されていくよりも、殺していくよりも、誰かに殺させていくよりも、どこへでも逃げ出して生き延びたいと願っている。それは、誰も皆、一人一人、仏法がはたらく器であると信じるからなのだろうか。    いま現在、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発する戦争の惨状を、映像で目の当たりにしている。周辺国の脅威とも相まって、日本でも武器保有、防衛費の問題が急展開してしまっている感じがする。「敵基地攻撃能力(反撃能力)」という言葉が象徴しているように、「敵」という文字が露骨に表れるようになってきている。敵と見なされたものは、当然、警戒心、不信感を抱くに違いない。それは結局、お互いを尊重して協力し助け合うような関わり合いを放棄するという方向になるのではないか。ここにきて、守るための戦いを正当化することは、極めて危険だと感じている。日本は、かつての戦争を通して、大空襲や原爆投下による被害の悲惨、苦痛、そして加害性について、身をもって知ってきたのだから、同じあやまちを繰り返してしまわないように、メッセージを発信し続けていくべきだと考える。被害の側、加害の側、どちらにもならないように模索するということがあって然るべきだと思うのである。    仏教が重んじる精神は「不害」であると聞いてきた。私自身の在り方を振り返れば、前述した通り、それを実行できてはいない。背いてばかりであると言わざるを得ない。しかし、その精神には賛同したい。誰も、傷つけない、傷つかない解決の道がある。それを探求していったのが、少年悉多太子の仏に成る歩みではなかったか。    一切の苦悩する衆生を摂め取って捨てないと誓う、本願の光に照らされて、自己中心的に分別する、執着する心の否定をくぐる。阿弥陀如来の大いなる慈悲・浄土の光に包まれて、存在の本来性に帰る。「一つである」という道理にまっすぐ順い、現実の「食み合う」世界に責任を取って生きる。それは、本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけを聞く、信心をいただくというところに帰着する。    尊ぶべきは法である。本当に守るべきものを明らかにしたいと思った次第である。 (2023年3月1日) 最近の投稿を読む...
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投稿者:shinran-bc 投稿日時: