親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

哲学の言葉を編み、書くということ

哲学

編集者・文筆家

田中 さをり

(TANAKA Sawori)

 私は大学で広報の仕事に従事している。その合間に哲学に関わる編集と執筆の仕事も続けている。メディアで何か発信する仕事を始めたばかりの方に向けて、何か益になることをお伝えできればと常々思うのだが、なにぶん、仕事Aから仕事Bの経費を捻出しながら自転車操業でここまで来た。ノウハウというものがない。ひとまず、メディアのあり方について模索する契機となった、あの日の話から始めたい。

 

 2011年3月11日。「東日本大震災」としてその後長く人々の記憶に刻まれることになるこの日が、まだ代わり映えのしない午後だったとき。ある駅ビルの中に私はいた。カフェの一席でノートパソコンを広げて、私は今と同じように何かの〆切に追われて書き物をしていた。前年の夏に哲学専攻の元学生たちの暮らしぶりを訪ねるインタビューを始めたばかりの頃だった。

 

 テーブル上のコーヒーカップがカタカタと音を立てて揺れているのに気付いてすぐ、目の前の席に座っていた50代の女性と目があった。「これは危険な揺れになりそうですね」。私たちは視線で確かめ合った。遠くでグラスが床に落ちて割れる音がして、私は荷物をまとめて急いでフードコートを出た。自動ドアを出ると左手に改札口が見えた。駅舎の屋根を支える直径1メートルほどの柱が地鳴りと共に揺れていた。

 

 背広を着たサラリーマンが駆け出そうとするも、足の置き場が定まらず、ふらふらと床に膝をつく。その様子を左手に見ながら、右手の建物脇の階段に座り込む。頭上には青空が広がっていた。そこには既に何人かの女性たちが避難していて、パン屋の白い制服を着た20代の女性が「怖い、怖い」と嗚咽していた。

 

 その場にいた数人の女性たちと、「大丈夫よ」と彼女の背中を摩って落ち着かせ、私は携帯電話を確認した。「震源地は東北で、ここからはかなり遠いです」と皆に伝えた。しばらくその場に留まってから駅前の広場に移動するまでに、二人組の70代の女性が「こんなことは人生で初めてよ」と言った。私は頷いた。広場から駅ビルの店舗の方へ行くとスプリンクラーが作動して水浸しになっていた。曇る視界の奥にPのマークを見つけて立体駐車場へ走る。私は車を出して、息子がいる保育所に向かった。

 

 保育所では、先生たちが部屋の真ん中で丸くなった子どもたちに頭から布団をかぶせて「大丈夫、大丈夫」と声をかけていた。子どもたちは柔らかい白煎餅を両手に持たされ、落ち着いていた。私は先生にお礼を告げて、息子を抱いて外に出た。すぐに向かいの家から、90代の女性の肩を支えた60代の女性が出てきて目があった。「大変ね、でもきっと大丈夫よ」。私たちは目を細めて頷き合った。

 

 駅ビルから家に辿り着くまでにこうして会話したのは、7、8人の女性たちだった。多くは言葉もなく視線だけで、安全かどうかを確認し合い、誰かの世話をしている人を労った。昼下がりの住宅街、女性がいる割合が高い時間帯。「大丈夫かしら」、「怖いわ」、「こんなこと初めて」、「きっと大丈夫よ」。私たちの多くは、自分の身近な人の体に触れていて、自分より弱い人をしっかり抱き寄せていた。

 高校生からの哲学雑誌『哲楽』は、この年の夏に刊行された。哲学者の生き方を取材して広めるため、編集協力委員の皆さんと制作した第1号は、家庭用のプリンターで印刷して製本した。東京のジュンク堂書店池袋本店に腕に抱えられる分だけ納品した日が正式な刊行日になった。

 

 私たちの未来は安全なのか、この手が触れている人々と共に生き延びることができるのか、名も無い小さな雑誌を作りながら確かめたかったのだと思う。

 

 哲学の言葉を編み、書くということは、こうして始まって、そして10年が過ぎた。「多角的に物事を捉えて伝えることは大事なことだ」と人は言う。これには完全に同意する。けれど気になることがある。多角的に物事を捉えて残されたはずの文章に、私が視線を交わしたような人々の観点は含まれているのかどうか。

 

 さらにもっと気になるのは、私が残す文章によって、私が視線を交わさなかった人々の観点は見過ごされないのか。

 

 人は自分と近い種類の人々を遠くからでも認識して、緊急時には視線だけでも会話ができる。「自分と自分の身近な人の安全を守って下さい」と、最近では災害が起きるたびにニュースキャスターが口にする。その一方で、自分と属性が異なる人々とは、どんなに近距離でも、どんなに危険な状況の渦中であっても、視線が交わらないことがある。ここで「自分と遠く隔たった人のことを思って下さい」と同時に言えるかどうかが、本当は問題なのだ。

 

 かつて哲学者のジョン・ロールズは、自分と遠く隔たった人のことを考えれば道徳的知覚が混乱するから、身体的な障害をもつ人々のことを自分の理論では扱わないことを正当化した。その後、哲学者のアマルティア・センは、このロールズの言説を批判した。しかし、そのセン自身も、赤ちゃんと知的な障害をもつ人々について、自由の能動的な行使には直接関係がないと述べた。私が哲学専攻の学生だったとき、この二人への反論を考えるだけで、連ねた言葉は5万字を越えた。

 

 「道徳的知覚の混乱」とは言い得て妙だ。何かを見たり想像したりすることで、通常の道徳的判断が不能に陥ることを指す。例えば、健康な子どもが生まれることを願っている親にとっては、それが叶わない可能性は脅威だし、自分が哀れみの念を抱いてしまうような人々とは距離を置く傾向がある。そのことがわかるからこそ、ロールズのこの言葉は抜けない刺のように胸に刺さった。

 

 厄介なことに、どんなに著名な哲学者であっても、この「道徳的知覚の混乱」を避けるために、人間の本質を規定し、その本質を体現しない人々を自らの理論の限界に押しやる傾向がある。これが認識を歪める。そこにある間違いを見落とし、そこにいる人を除外する。自己保存の原則が、近しい者たちと集団を形成し、他者危害をもたらすように。

 

 「道徳的知覚の混乱」を乗り越えることは、多くの分別ある大人にとって最大の課題の一つだろうと私は見ている。自分と異なる人々が危険に晒されないように、どんなメディアの形があり得るか、そのことをきちんと考えなさい。そう私はあの日の女性たちに教えられた。私たちの視線の交点からどこまで遠くに言葉を届けられるかが問題だと知ったからだ。

 

 最近の『哲楽』は、オンラインが中心で、更新頻度もあまり高いとはいえない。読者には申し訳ない限りだ。それでも新しい試みとして、音声だけでなく、手話での哲学対話も始めた。それぞれの対話空間から、その外側を想像する力をもらっている。

 

 哲学の言葉を編み、書くことで、その言葉を受け取った人の足元から、ずっと先まで照らせたら。こうして今日も自転車を漕いでいる。

(たなか さをり 編集者・文筆家)

 高校生からの哲学雑誌『哲楽』編集人。「現代哲学ラボ」世話人。著書に『時間の解体新書――手話と産みの空間ではじめる』(明石書店、2021)、インタビュー本に『哲学者に会いにゆこう』(ナカニシヤ出版、2016)『哲学者に会いにゆこう2』(ナカニシヤ出版、2017)など。

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今との出会い 第229回「哲学者とは何者か」

哲学

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 今、ヤスパースの『理性と実存』を訳しているので、なぜ自分がこうしたことをしているのかを書いて見よう。

 小林秀雄は言う、「本当にいい音楽とか、いい絵とかには、何か非常にやさしい[易しい]、当り前なものがあります。真理というものも、ほんとうは大変やさしく、単純なものではないでしょうか。現代の絵や音楽には、その単純なものが抜け落ちています。そしてそれは現代人の知恵にも抜けていることを、私は強く感じます」(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』〔新潮社、2014〕 ※[ ]は引用者補足、以下同様)。

 本当の哲学思想もおそろしく単純なものである。その単純なものを表現するのは難しい。否定的に表現する方が簡単である。例えば、法然流に言えば、哲学者(勿論、私のことではない)とは、「名聞・利養・勝他」によって動くことはない人のことである。複雑なものとは、ただ人に向う動きである。だから法然は「人にすぎたる往生のあた[仇(あだ)]はなし」(『法然上人絵伝』)と言う。だからといって、名聞、利養、勝他から遠ざかれば、そのおそろしく単純なやさしいものに近づくのかというと、そうとは限らない。それが単なる人の動きであれば同じことである。

 だから、このおそろしく単純な事態を肯定的に表現すると、例えば、「自己自身に関わり、そのことによって己(おのれ)の超越者に関わる」(ヤスパース『哲学』)。しかし、どんな肯定的な表現も、また延々と説明できる。この表現でも「超越者」について。肯定的にして否定的に表現すると、例えばこうである。「[哲学の]語りにおいて、いつでも何か向け変えるものが存在し、その結果、存在の根拠が触れられるのは、むしろ、私がその根拠を捉えることのうちで、その根拠を名づけないことによってである。しかしこのことは再び、ただ次のときにのみある。私がその[名づける]ことを意図的に回避する――それは人為的な、単なる修辞的な文章技術である――のでなく、[この名づけないことを]全くもって意図されないものとして経験するときである。私が何に依って存在し、そして生きるのか、その何ものかを、私はただ次のようにしてのみ語ることができる。語られたものにおいて把握できる在り様ではそのものを逸し、そして、逸することによってそのものを間接的にまさに顕(あき)らかにする、というように」(『理性と実存』)。「向け変える」とは、魂を向け変えることである。名づけられるものから名づけられないものへ向け変えるのである。

 大学院(早稲田大学)での恩師、伴博(ばん・ひろし)先生は、なぜ自分がヤスパースを好んで読むのかについて、哲学思想の力というものは、論理展開の厳密さや深さといったものでは測り切れないものだ、という意味のことを言っておられた。自分も又、ただひたすら、その測り知れぬ、単純なやさしいものに関わることを願うばかりである。

(2022年5月1日)

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今との出会い第240回「真宗の学びの原風景」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。    この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。    幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。    では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。    あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。    親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。   後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば…… (『真宗聖典』616〜617頁)    親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。    このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。    安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。   本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。   (安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』 遍崇寺、2003年、66頁)    「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。    私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。 (2023年7月1日) 最近の投稿を読む...
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