親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

Vol.03「「化身土巻・末巻」の課題とは何か」

化身土

親鸞仏教センター研究員

藤原 智

(FUJIWARA Satoru)

 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んでいる。「化身土巻・末巻」は末法という時代を通して親鸞が見いだした人間の問題(異執)が描き出されている。今回からその「化身土巻・末巻」の本文を追いながら、問題となる点について研究会での議論を踏まえて報告していきたい。

■ 総論としての『涅槃経』

「化身土巻・末巻」の本文は次の記述に始まる。

 

それ、もろもろの修多羅(しゅたら)に拠(よ)って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、『涅槃経』に言(のたま)わく、仏に帰依せば、終(つい)にまたその余の諸天神に帰依せざれ、と。略出

『真宗聖典』368頁、東本願寺出版部

 

 「修多羅」とは、仏陀が直接お説きになった経典を指す。ここで親鸞は、仏陀の直接のお言葉を根拠としながら何が真実であり何が虚偽であるのかをはっきりさせて、それにより虚偽なるものに執着していく人間の問題性を教示し、誡(いまし)めようというのである。そして『涅槃経』を皮切りに、十二もの経典が引用されていくのである。特に、初めの『涅槃経』の文は親鸞の自釈に直接続けて記述されており、真偽を勘決し異執を教誡する修多羅とは、取りも直さず『涅槃経』のこの言葉なのだという親鸞の強い意識があるのだと考えられる。そしてこの『涅槃経』を総論として、「化身土巻・末巻」の論述は展開していくことになる。

 親鸞は「教誡」ということを課題に論述を進めるのであるが、ここで「修多羅に拠って」と記していることに注意しなければならない。親鸞は決して自分の考えで批判するのではなく、あくまで仏説に確かめるというのである。しかも、この経言の引用も親鸞の恣意(しい)ではない。「化身土巻・末巻」の後半には、天台宗の祖・智顗の『法界次第』から次の言葉を引いている。

 

天台の『法界次第』に云わく、一つには仏に帰依す。『経』に云わく、「仏に帰依せん者、終に更(かえ)ってその余のもろもろの外天神に帰依せざれ」となり。また云わく、「仏に帰依せん者、終に悪趣に堕せず」と云えり。二つには法に帰依す。謂わく、「大聖の所説、もしは教もしは理、帰依し修習(しゅじゅう)せよ」となり。三つには僧に帰依す。謂わく、「心、家を出でたる三乗正行の伴(とも)に帰するがゆえに。」『経』に云わく、「永く、また更って、その余のもろもろの外道に帰依せざるなり」と。已上

『真宗聖典』397頁

 

このように、智顗が三帰依について説くなかで帰依仏の証文とした経文こそ、親鸞が「化身土巻・末巻」の総論として掲げた『涅槃経』の経文である。この文は、仏に帰依するならばその他の神に帰依してはならないという、簡潔な文である。つまり、仏に帰依すると言いながら、他のものにも帰依していくその心根を「邪偽の異執」として親鸞は指摘せんとするのである。

親鸞が「化身土巻・末巻」を記したとき、念頭にあったのは何であっただろうか。「化身土巻」に「我が元仁元年」(『真宗聖典』360頁)とある記述に関連して、早く宮崎円遵が指摘していることが、この「元仁元年」に比叡山から専修念仏停止の要請が提出されていることである。そこで主張されていることの一つとして、次の事柄がある。

 

一 一向専修の党類、神明に向背する不当の事

(『一向専修停止事』・『親鸞聖人行実』95頁)

 

つまり、専修念仏の者は神を敬わないということを比叡山の僧侶は問題視しているのである。しかし、親鸞にしてみればそれこそ仏教に反する事柄に他ならなかった。「愚禿悲歎述懐」として、

 

かなしきかなやこのごろの  和国の道俗みなともに 仏教の威儀をもととして   天地の鬼神を尊敬(そんきょう)す

『真宗聖典』509頁

 

などの和讃を作っているように、天の神に帰依するということがあってはならないことだと親鸞に強く意識されている。信仰において独立者として無碍(むげ)の一道を歩んでいくのが、仏道というものではなかったか。それをごまかし、いつわりへつらいの姿をしているのは誰であるのか。釈尊はすでにして「余の諸天神に帰依せざれ」と教え、その教言を大事にしていたのは他でもない、比叡山天台宗の開祖たる天台大師智顗ではなかったか。このような思いを念頭に、親鸞は「化身土巻・末巻」の論述を展開させていったのではなかろうか。

 

■ 『般舟三昧経』の引用について

 「化身土巻・末巻」は『涅槃経』に続けて『般舟三昧経』「四輩品」からの引用が続けられる。親鸞直筆の坂東本『教行信証』を見ると、この『般舟三昧経』の引用をもって改行がされてある。恐らく親鸞はこの改行を一つの区切りとしたのではないかと考えられる。つまり、まず『涅槃経』を引用し、それを助顕するものとして続けて『般舟三昧経』を引用して、これらをもって「化身土巻・末巻」の総論としたのである。

 

『般舟三昧経』に言わく、優婆夷(うばい)、この三昧を聞きて学ばんと欲(おも)わば、乃至 自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事(つか)うることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ、と。已上 また言わく、優婆夷、三昧を学ばんと欲わば、乃至 天を拝し神を祠祀(しし)することを得ざれ、と。略出

『真宗聖典』368頁

 

内容は先の『涅槃経』とも大差ないように見えるが、いくつかの相違点も指摘できよう。まず、『涅槃経』における帰依仏が、『法界次第』と同様に三帰依として確かめられること。次に、「余の諸天神に帰依せざれ」が、『般舟三昧経』では「余道・天・鬼神・吉良日」とより具体的に説かれること。そして途中に「乃至」として引用しない箇所があるということ。その省略されている箇所は「五戒を持つ」ということが中心である。ここに親鸞のはっきりした主張があるように思われる。仏弟子であるとは、戒を持つことが問題なのではない、天を拝むか否かにあるのだというのである。

 以上の点が明らかに指摘できるのであるが、さらに研究会のなかで問題となった点を報告したい。それはここで「優婆夷」と呼びかける対象を明確にしていることである。優婆夷とは在家の女性信者を指す言葉である。ここに引用された『般舟三昧経』は「四輩品」という箇所で、比丘(出家の男)・比丘尼(出家の女)・優婆塞(在家の男)・優婆夷(在家の女)の四人に対して順番に教えが説かれていく。その最後の優婆夷に対する箇所が引用されているのである。なぜ、親鸞はこの「優婆夷」という釈尊の呼びかけの言葉をあえて残したのか。つまり「男女・老少を謂(い)わず」(『真宗聖典』236頁)という親鸞ならば、「『般舟三昧経』に言わく、この三昧を聞きて学ばんと欲わば…」と引用すればよかったのではないか、ということである。

 そこで出た意見としては、『観経』の韋提希と関連して、実業の凡夫という自覚から神を拝む必要のなきことを示そうとした。もしくはこの仏陀の言葉が比叡山の僧侶に向けられていると仮定して、女人結界に代表される神を建前とした女性蔑視観からの克服、などが挙がったが結論には行き着かなかった。

 本報告から、様々な意見が生まれることを期待したい。

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親鸞仏教センター研究員

藤原 智

(FUJIWARA Satoru)

 親鸞仏教センターでは2013年6月より新たに『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会を発足した。

 『教行信証』「化身土巻・末巻」は浄土教文献の引用もほとんどなく、『教行信証』全体のなかで特異な文脈であると感じられる。そのためか、これまでの『教行信証』研究の歴史でも、この「末巻」に焦点が当てられたものは少ない。本研究会では、「末巻」冒頭での「教誡」という言葉を軸に、「末巻」のもつ意義を確かめていく試みをしている。

 第一回・第二回の研究会では、まずこの言葉のもつ意味が確認された。今回はその報告である。

■ 『大無量寿経』における「教誡」

 『教行信証』には「化身土巻」の三願転入と呼ばれる文の後に、「教誡」という言葉が二度使われる。その一つが「末巻」冒頭であり、そこで次のように述べられる。

それ、もろもろの修多羅(しゅたら)に拠(よ)って真偽(しんぎ)を勘決(かんけつ)して、外教邪偽(げきょうじゃぎ)の異執(いしゅう)を教誡(きょうかい)せば、

『真宗聖典』368頁、東本願寺出版部

 この「教誡」という言葉は、元々『大無量寿経』のいわゆる三毒五悪段の三毒段の終わりと、五悪段の終わりに計二度出てくる言葉である。親鸞は『大無量寿経』を真実教と選び取ったのであるから、「化身土巻」の「教誡」という言葉もこの『大無量寿経』で説かれる「教誡」に基づくものと言えよう。

 『大無量寿経』は、始めに法蔵菩薩の発願と修行、その成就としての阿弥陀仏の浄土の荘厳が説かれる。そして、その浄土の三種荘厳が説かれた後に、三毒五悪段が展開する。そこでは対告衆が凡夫阿難から菩薩弥勒に変わり、そして穢土の衆生の姿が貪・瞋・痴の三毒や、五悪として語り出されるのである。その三毒段と五悪段のそれぞれの終わりに「教誡」の語は語られる。まず前者を見てみよう。

 釈尊は弥勒菩薩に衆生の三毒を語った最後に、

 

それ心を至して安楽国(あんらくこく)に生まれんと願ずることある者は智慧(ちえ)明達(みょうだつ)し功徳(くどく)殊勝(しゅしょう)なることを得べし。

『真宗聖典』63頁

と、至心をもって浄土を願生すべきことを説く。つまり、この「至心願生安楽国」にこそ、衆生の三毒五悪を超える智慧の獲得があることを説くのである。この仏語に対して、弥勒菩薩は、

仏語(ぶつご)の教誡(きょうかい)、甚(はなは)だ深く甚(はなは)だ善し。

『真宗聖典』63頁

と応える。世間の三毒を通して「至心願生安楽国」と説く仏語を、「教誡」として弥勒は我が身に受け止めるのである。

 『大無量寿経』が「教誡」を語るもう一つの箇所を見てみよう。釈尊は三毒段の後に五悪段を展開するが、その終わりにおいて、「吾(われ)世を去りて後、経道(きょうどう)漸(ようや)く滅(めっ)し人民(にんみん)諂偽(てんぎ)ならん」と自己の滅後を予言し、弥勒に次のように言う。

仏(ぶつ)、弥勒(みろく)に語りたまわく、「汝等(なんだち)おのおの善くこれを思いて転(うた)た相(あい)教誡(きょうかい)す。仏(ぶつ)の経法(きょうぼう)のごとくして犯(おか)すこと得ることなかれ」と。

ここに弥勒(みろく)菩薩(ぼさつ)、掌(たなごころ)を合(あ)わせて白(もう)して言(もう)さく、「仏の所説甚(はなは)だ苦(ねんごろ)なり。世人(せにん)実(まこと)に爾(しか)なり。如来(にょらい)、普(あまね)く慈(あわれ)みて哀愍(あいみん)して、ことごとく度脱(どだつ)せしむ。仏の重誨(じゅうけ)を受けて敢(あえ)て違失(いしつ)せざれ」と。

『真宗聖典』78~79頁、改行筆者)

ここで釈尊が問題にしているのは、「吾世を去りて後」と言われる「五濁の世、無仏の時」である。その仏滅後における衆生の諂偽・衆悪について、釈尊は弥勒に「相教誡せよ」と説くのであり、弥勒は釈尊に対して「仏の重誨を受けて敢て違失せざれ」と仏の教えを守ることを誓うのである。釈尊は弥勒に世間のただなかにおいて「相教誡せよ」と説くが、それを果たす智慧は、先の三毒段に説かれ弥勒が「仏語の教誡」と受け止めた「至心願生安楽国」という信念にある。そして、この「教誡」という課題を託された弥勒は、続く智慧段で釈尊に胎生(たいしょう)・化生(けしょう)の問いを出すことになる。この問題は『教行信証』では三願転入として展開していく。

 以上のように語られる「教誡」という言葉を、親鸞は「化身土巻」で三願転入の後に語っていく。『大無量寿経』が説く釈尊滅後の衆生の諂偽なる世界とは、親鸞にはみずからが身を置いた時代社会を意味すると受け止められていたに違いない。親鸞は、時代社会とそこに生きる人間の悪を『大無量寿経』三毒五悪段に聞き、それを超克(ちょうこく)する教えを「教誡」に見いだした。これを明らかにするのが『教行信証』撰述の事情ではないだろうか。

■ 「教誡」を語りうる立脚地

 以上のように見てくると、『大無量寿経』の「教誡」は「至心願生安楽国」に集約される。その「至心願生安楽国」という信念の獲得こそ、『大無量寿経』の宗致である本願の成就である。そして、その本願成就の信心について述べたのが『教行信証』「信巻」、及び「化身土巻」である。

 「信巻」には本願成就の信心が生み出す人間像として真仏弟子釈という論述がある。この論述の初めに、先に挙げた『大無量寿経』の「至心願生安楽国」の言葉が引用されている(『真宗聖典』245頁参照)。つまり、この釈尊の「教誡」を聞く者が、真仏弟子とされているのである。そうであれば、弥勒に託された「教誡」という課題を語りうるのは、本願成就に獲得される「願生浄土」の志願だけだと言えよう。
 親鸞は真仏弟子釈で、信心の人は弥勒と同じと言う。『大無量寿経』の教えによって弥勒と同じ地位を賜るということは、それに止まらず『大無量寿経』で釈尊が弥勒菩薩に託した「相教誡せよ」という使命に、『大無量寿経』の教恩を受けた者として報(こた)え、その責任を担うということがあるのではないか。ここに親鸞が「化身土巻」で「教誡」を語っていく意味があるように思われる。このような視点をもって本研究会を進めていきたい。

(文責:親鸞仏教センター)

※本報告の詳細については『現代と親鸞』第27号(2013年12月1日号)に論文として掲載しています。

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