親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第245回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」⑯

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

信心

 先回確認した『一念多念文意』」』のこの了解は、『教行信証』「信巻」において展開されている本願成就文の了解でもある。それは、我らに発起する信心は、本願成就の信心であり、如来回向の信心であるということである。

 

 本願成就の文の中程に「至心回向」(「『無量寿経』、『教行信証』「信巻」引文、『真宗聖典』233頁)という語があるのだが、その「至心」も「回向」も、「信巻」の三一問答において、衆生の側に属する事柄ではなく、大悲の如来の側に属する事柄であることが明らかにされている。そのことを明白にするために、本願成就の文の「至心回向」以下の文を「本願の欲生心成就の文」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』233頁)と、親鸞は名付けてもいるのである。この「欲生心」は如来の大悲が発起して、衆生に「勅命」として呼びかける心心だというわけである。

 

 その理解をもって、『一念多念文意』の文の「至心回向」以下の段を読んでみよう。

 

「至心回向」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。

(『一念多念文意』、『真宗聖典』535頁)

 

 このように、本願を成就するとは、如来が不実なる凡夫をみそなわして、しかもその不実を超えて真実を恵まんとするこころが現実化する、ということだとされるのである。我らが不実の凡夫であるとは、無明煩悩を取り払うことなどできず、自我に愛着して自己主張や自己の権利要求にのみ生涯を費やしてしまう存在であるということである。愚痴に覆われ欲望が深い存在であることを、徹底的に知らされながら、しかもそういう無明煩悩が満ち満ちている衆生に、如来の大悲がどこまでも寄り添って、そういう執着の深い存在を横ざまに超えて(衆生の側の努力や意志によることなく)真実を恵むのだ、と知らされるところに、大悲願心の超越性を信ずるという教えの構造がある。


 これを善導は『観無量寿経』の三心の深心釈において、信心に「二種あり」(『観無量寿経疏』「散善義」、『教行信証』「信巻」引文、『真宗聖典』215頁)と言って、矛盾するような構造を持つ二種の信が並立していることこそが、「深心」の語で押さえられる信心であることを示されるのである。


 これによって親鸞は、煩悩具足の身の事実は変えることなどできないが、しかし、悲願成就の証しにおいて、現生の正定聚が我らの信心に与えられる利益だとされるのである。それが、「即得往生(すなわち往生を得〔え〕)」(『教行信証』「信巻」、『真宗聖典』233頁)の語で教えられている報土得生という意味でもあるとさえ述べておられるのである。


 摂取の心光を煩悩の身に感受するとき、闇を生きている一面を忘れることなく、しかも摂取の光の暖かさに触れるのだとされるのである。深信の二面を同時に信知することが、如来回向の他力の信であるということであり、つまり大悲が名号として衆生に呼びかけているところにこの二種の信を同時に成就する作用が我らに恵まれるということなのである。


(2023年11月1日)

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Vol.04「仏に帰依するということ ―『日蔵経』試論 ―」

信心

親鸞仏教センター研究員

藤原 智

(FUJIWARA Satoru)

 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んでいる。「化身土巻・末巻」は末法という時代を通して親鸞が見いだした人間の問題(異執)が描き出されている。今回は、前回に見た総論としての『涅槃(ねはん)経』からどのような展開となっていくのか、『日蔵(にちぞう)経』に注目したい。

■ 『日蔵経』引用の眼目

 「化身土巻・末巻」は、初めに総論として『涅槃経』『般舟三昧(はんじゅさんまい)経』の教言を示し、それに続けて『大乗大方等(だいほうどう)日蔵経』『大方等大集月蔵(だいじゅうがつぞう)経』…と引用が続いていく。今回は、まずこの『日蔵経』からの三つの引用文を考察していく。

 『日蔵経』は「魔王波旬星宿品(まおうはじゅんしょうしゅうほん)」「念仏三昧品」「護塔品」の三つの文が引用される。これらの引用は一連の展開をもつものであると考えるべきであろう。そうであれば『日蔵経』の引用は、おおよそ最後の「護塔品」がその結論と推測される。その「護塔品」で説かれていることは、魔王波旬が仏法に帰依するということである。このことは「現世利益和讃」においても、

 

南無阿弥陀仏をとなうれば 他化天(たけてん)の大魔王

 釈迦牟尼仏のみまえにて まもらんとこそちかいしか

『真宗聖典』488頁、東本願寺出版部)

 

と詠(うた)われているように、親鸞が非常に注目していることである。このことから、先の「魔王波旬星宿品」「念仏三昧品」は魔王波旬が仏に帰依するに至るそのプロセスが示されていると考えられよう。親鸞が『日蔵経』の引用で問題としていることは、仏に帰依するということはどういうことなのか、ということなのである。

 仏に帰依するというときには、「魔」ということが必然的に問題となってくる。親鸞が真実教と仰いだ『大無量寿経』の序分においては、菩薩が覚(さと)りを得ることについて、

 

大光明(こうみょう)を奮(ふる)って、魔をしてこれを知らしむ。魔、官属(かんぞく)を率(ひき)いて、来りて逼(せ)め試みる。制するに智力(ちりき)をもってして、みな降伏(ごうぶく)せしむ。微妙(みみょう)の法を得て最正覚(さいしょうがく)を成る。…中略…常に法音をもって、もろもろの世間に覚(さと)らしむ。光明、普(あまね)く無量仏土・一切世界を照らし六種に震動(しんどう)す。すべて魔界を摂(せっ)して、魔の宮殿(くでん)を動ず。衆魔、慴怖(じっぷ)して帰伏せざるはなし。

『真宗聖典』3~4頁

 

と説かれ、自利と利他の両面において魔が伏することが語られる。仏の教えが真の意味で菩提(ぼだい)の言葉であると言いえるのは、それを聞く者をして降魔の事実を感得せしめるからに他ならない。その仏に帰依する内実としての降魔を、親鸞は『日蔵経』に求めたのである。


■ 「魔王波旬星宿品」の引用について

 では「魔王波旬星宿品」の引用から見てみよう。そこで説かれている内容の大部分は、佉盧虱吒(かるしった)仙人が衆生の安穏のためにさまざまな星宿や四天王などを安置したというものである。ただ、その引用の最後に次の一文がある。


その時に諸龍(しょりゅう)、佉羅坻山(からていせん)聖人の住処にありて、光味(こうみ)仙人を尊重し恭敬(くぎょう)せん、それ龍力(りゅうりき)を尽(つ)くしてこれを供養(くよう)せん、と。已上抄出

『真宗聖典』370頁


ここに光味仙人という人物が突然登場する。この光味仙人とは何者なのか。

 実は『日蔵経』原文においては、『教行信証』に引用された「魔王波旬星宿品」の大部分をなす佉盧虱吒仙人の話は、すべてこの光味仙人が諸龍に語っていたものである。引用文の「その時」とは、光味仙人が佉盧虱吒仙人について話し終えた「時」なのである。つまり「魔王波旬星宿品」引用の内容は、端的に言うと「光味仙人が諸龍に対して『佉盧虱吒仙人が星宿の法について語ったこと』を説き、そして諸龍は光味仙人は尊敬され供養するのだ」ということになる。

 この点について金子大榮は、『大集経』「宝幢(ほうどう)分」には光味仙人の星宿説に対して仏陀がこれを非法としていることを示し、


されば経中に現はるゝ占星術の如きは、これ仏説に混入せる天仙説であつて、「信用に足らざるもの」であらねばならぬ。

(『教行信証講読―真化巻』・『金子大榮著作集第八巻』364頁)


と述べる。金子の論じるように、仏陀は光味仙人の星宿説を批判しているのであり、「魔王波旬星宿品」の引用は人々がそのような外道に捉(とら)われている姿を描いたものとして理解できよう。それは、仏陀の教えに出遇わなければ天仙の説に惑わされる他なきことを示すものではないだろうか。


■ 「念仏三昧品」の引用について

 以上の事柄が次の「念仏三昧品」とどのように繫(つな)がるのか。実はこの光味仙人が「念仏三昧品」に改めて登場する。「念仏三昧品」の引用では、


この時に光味菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、仏の説法を聞きて、一切衆生ことごとく攀縁(へんえん)を離れ、四梵行(しぼんぎょう)を得しむ、と。

『真宗聖典』371頁


と、ここで光味仙人は、仏の説法を聞く光味菩薩とへと変化して登場するのである。「魔王波旬星宿品」引用の眼目を光味仙人に見いだすならば、次の「念仏三昧品」に登場するこの光味菩薩との関係を考えざるをえないだろう。そして、この「光味」という人物の「仙人」から「菩薩」への変化が、実は重大な意味をもつものであると考えられるのではないか。それは外道から仏道への帰入である。そうであれば、光味仙人から光味菩薩への変化の間に何があるのかを見なければならない。そして、その間に説かれている事柄こそ、魔王波旬の懊悩(おうのう)である。

 「念仏三昧品」の冒頭は次のように説かれている。


その時に波旬、この偈(げ)を説き已(おわ)るに、かの衆(しゅう)の中に一(ひとり)の魔女(まにょ)あり、名づけて離暗(りあん)とす。この魔女は、むかし過去において、もろもろの徳本を植えたりき。この説を作(な)して言わまく、「沙門瞿曇(しゃもんくどん)は名づけて福徳と称す。もし衆生(しゅじょう)ありて、仏名を聞くことを得て、一心に帰依(きえ)せん。一切の諸魔、かの衆生において悪を加うることあたわず。

『真宗聖典』370頁


ここで魔王波旬の娘の離闇が仏名を聞いて信心を起こすことが説かれている。当然、親鸞には『大無量寿経』の本願成就文が思われていただろう。そして魔女離闇のこの言葉を受けて、さらに五百の魔女・姉妹・眷属がみな菩提の心を発(おこ)していく。そして、


その時に魔王、この偈を聞き已りて、大きに瞋恚(しんに)・怖畏(ふい)を倍(ま)して、心を煎(こが)し、憔悴(しょうすい)・憂愁(うしゅう)して、独り宮の内に坐(ざ)す。

『真宗聖典』371頁


と、魔王は自分の部下たちが次々と菩提心を発していくのを目の当たりにして非常に恐怖したというのである。そして「この時」に光味仙人は仏の説法を聞く光味菩薩となるのである。このように見てくると、魔王波旬と光味菩薩は無関係ではない。言わば、求道者の内面にある外道への志向性を魔波旬のはたらきと理解してよいのではないか。

 『日蔵経』に戻ると、魔王が他力の信心に触れ恐怖し懊悩(おうのう)することによって、外道の法を説いていた光味仙人は仏の説法を聞く光味菩薩へと変化した。このように親鸞は「魔王波旬星宿品」から「念仏三昧品」への展開を通して、確かめようとしているのではないだろうか。そして仏の説法を聞くことにより、魔王波旬は最後の「護塔品」において仏に帰依することを宣言するのである。こうして魔王の影響下で外道に住していた者が、念仏の信心に触れて仏に帰依していくというプロセスが描き出されるのである。

 仏に帰依するとは、自己の内面の魔が降伏する事実に触れ、外道を離れることに他ならないのだ。このことを親鸞は『日蔵経』の引用を通して確かめたと言えるのではなかろうか。

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投稿者:shinran-bc 投稿日時: