親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

念仏機

信仰

親鸞仏教センター主任研究員

加来 雄之

(KAKU Takeshi)

 どのような時代でも、どのような社会でも、私たちの問題は、自分の置かれている状況や遭遇する事件を受けとめる自己をどのように実現できるのかということにある。


 人間が、事実そのものではなく、自我関心や価値観にとらわれた「思い」で作り上げた虚構の世界の中に生きている以上、人は不安から逃れることはできない。だからこそ人は、自分や他人の「思い」に左右されない依り処を与えてくれる何かに惹(ひ)かれるのだろう。その「思い」を超えた依り処として何を選ぶのか。それが、その人の生き方を決定する。


 人は、そのような依り処を与えてくれる一つとして宗教(儀礼や信仰)を求めるのかもしれない。


 例えば、毎朝の神仏への礼拝など日々の生活における儀礼的な様式や、誕生や結婚や死などの人々の人生の重要な出来事に結びつく儀礼や、大災害などとの遭遇や痛ましい事件を受けとめるための追悼や鎮霊のような特別な儀礼も、そのような要求を満たしてくれる。


 また占いなどは日々の行動の指標となり、想定外の事件の意味を神仏からの試練として教えてくれる定式化された信条などは、私たちに安定した生き方を与えてくれるだろう。


 しかしそれは本当に「思い」を超えた世界を開いてくるのだろうか。どのような儀礼も信条も、事実そのものを離れて、私たちの「思い」をかなえようとする呪術的・功利的なものにとどまるならば、真の意味で「思い」を超えた世界を開いてこないと思われる。


 かつて大谷大学の学生と共に、他力浄土教の受容の現状について調査するための研修で台湾に行ったことがある。台北にある善導流の浄土教を広めている中華浄土宗協会を訪れたとき「念仏機」なる装置を眼にした(下画像、クリックすると音声が流れます)。それは24時間、協会の指導者が「南無阿弥陀仏」と念仏する声をひたすら流し続けるという装置である。最初はとても違和感を覚えた。一つは、自分で念仏せずに装置に念仏という行を代替させるということに。もう一つは、指導者の声を繰り返し流すということに(その行為が、或るカルト的な宗教の修行方法を連想させたからであった)。


 後で調べると、この種の機械は台湾や中国などではごく一般的で、ネット上でも、それを鳴らしておくことでさまざまな利益が得られるといううたい文句で「ブッダマシーン」などと呼ばれて販売されていた。聞くところによると、交通事故の場所などにはよく置かれており、亡くなった人が成仏できるように、また鬼にならないように、さらに事故が再び起こらないようにと期待されているということであった。いわば除災招福機である。私もそのようなイメージで受けとめたのである。


 ところが協会の或る女性信者に念仏機のことを尋ねたとき、その答えに触れて深く考えさせられた。彼女は次のように語った。

「私は商売をしています。朝から晩まで忙しく客に対応しており、念仏をとなえる暇もありません。しかし念仏機を鳴らしておけば、いつも念仏の中に居ることができるし、阿弥陀仏のことを忘れないですむのです」


 そのとき私は、親鸞聖人が念仏の本質を、仏たちが阿弥陀如来の名を称えて私たちに聞かせてくれることである、と受けとめておられることを思い出した。また流れる念仏が協会の指導者の声であることについても、もし法然上人や親鸞聖人の念仏の声が今に残っていたら私もそれを聴いていたいと思うだろう、と考え直した。ひょっとすると念仏機に違和感をもった私の中には、念仏を自分の行為とし、また手柄とするような発想が残っていたのかもしれない。


 もちろん念仏機を除災招福機として使用している人も多いだろう。しかし思えば、念仏を呪術的・功利的に捉え、現世や来世の幸福を追求するための道具とする傾向は法然上人や親鸞聖人の時代も同じであった。

 私にとって、念仏のイメージが大きく変わったのは、『歎異抄』の有名な親鸞聖人の仰せと出会ったときであった。


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。

(『歎異抄』第二章『真宗聖典』627頁)


ただ念仏して、阿弥陀と名づけられる真実の意味に人生が支えられるならば、地獄におちてしまったとしても、まったく後悔するはずはない。この念仏についての仰せに出会って、私の念仏への印象や向き合い方が変わることになった。


 私はときおり不安に襲われる。欲や怒りの思いに苦しめられる。死が怖く、死後に幸せな世界があればと思う。他人の不幸と比較して自分はまだましだという傲慢な思いに囚われる。私は念仏をすれば、このような思いが解決されるだろうと漠然と考えていた。もちろんこのような不安や功利的な思いは今も私から消えてなくなることはない。しかしこの仰せを聴いたとき、できるならば除災招福の念仏ではなく、このような念仏、「ただ念仏」の仰せにしたがっていきたいと感じた。


 同じ台湾研修旅行の中で、同行した学生の一人が協会の指導者に次のような質問をした。

「あなたは、戒律を護ることができない人々を救う他力の念仏の教えを伝えているのに、どうしてご自身は出家して戒律を護るのですか」と。


 その方は次のように答えた。

「それには二つ理由があります。一つには、私自身は出家の生活が楽しく、好きなのです。もう一つには、台湾では人々に教えを伝えるのに出家の形の方が都合がよいのです。」


 この返答は、私に法然上人の有名な仰せを思い出させた。


現世のすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろずをいといすてて、これをとどむべし。いわく、ひじり(聖)で申されずば、め(妻)をもうけて申すべし。妻をもうけて申されずば、ひじりにて申すべし。〔中略〕衣食住の三は、念仏の助業也。

(『黒谷上人和語灯録』巻五「諸人伝説の詞」)


法然上人は、念仏ができるように聖という出家の形でも妻をもつ俗人の形でも都合のよいものを選べばよいとし、あわせて衣食住は念仏することを助けるための活動だと結論している。それは衣食住を軽んじてもよいという意味ではない。念仏できる人生を、そして人世を実現することを可能にする衣食住がぜひとも必要だという意味である。


 念仏は、この世の営みを否定し、この世の苦しみから逃避するための方法だろうか。そうであれば念仏の生活は次の世のための準備であって、この世において何の内実ももたないことになる。しかし念仏が、この世での営みのすべてを、この人生を深く受けとめていく縁とする場を開くのであれば、「ただ念仏」の生活ほど豊かな内実をもつ生活はない。


 「ただ念仏」というのは、決して他のことよりも念仏を優先せよ、例えば仕事も辞めろ、社会活動も止めろという意味ではない。自分のことも、他者との関係も、今の世界のあり方も、命終の後のことも、すべて如来の慈悲と智慧をとおして受けとめ直すということを意味している。


 科学技術の時代、生理や心理についての科学も発達したこの現代に、法然・親鸞という名に象徴される「ただ念仏」という仰せは必要とされているのだろうか。科学と念仏の生活は矛盾するのだろうか。


 「ただ念仏」は、科学を悪魔扱いしたり、科学のない世を夢想させたりはしない。私たちの生活は科学を必要とする。むしろ「ただ念仏」は、科学を使う人間の「思い」の迷いに気づかせ、「思い」を超えた世界に立ちかえらせる。いかなる人間の属性も状況も問わない唯一の行として選ばれた「ただ念仏」は、人の価値を問わない。そのことによって呪術的・功利的な人生観を超えていく生き方を与えてくれる。


 念仏は、一応は人生の出来事を「そのまま」受け容れる道であると言ってよい。しかし、それは無批判な現実肯定や受容を意味しない。「ただ念仏」は、如来の智慧の中でこの生を尽くしていくという私たちの宣言であり、それは出来事を「そのまま」ではなく「ありのままに」受けとめていこうとする態度表明だからである。だからこそ「ただ念仏」は、如来の悲しみにもとづいた批判が生まれてくるための唯一の場を開く。


 「思い」を離れることのできない私たちは、「思い」ではどうしても受けとめることのできない現実を、どのように受けとめればよいのだろうか。「ただ念仏」という生き方の中には、それを探求してきた仏者たちの歴史が折りたたまれている。


 台湾での「念仏機」との遭遇は、私にとって「念仏」という営みが現代にもつ意味を問い直す「契機」となった。

(かく たけし・親鸞仏教センター主任研究員)

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インドで年越し蕎麦を啜る

信仰

映像作家・文筆家

佐々木 美佳

(SASAKI Mika)

 インド・コルカタ在住、たったの数ヶ月だが、この間どれだけの宗教的なお祭りに遭遇したのかよくわからない。コルカタという土地を生きているだけで、12月のクリスマス、1月のサラスヴァティ・プジャ、2月のバレンタインデー、3月のホーリーという風に、毎月何かしらの祝祭に遭遇する。クリスマスは若者のイベントの側面もありパーティー化している様子もあるが、クリスチャンもともに暮らしているのがコルカタ。市内の中心にある教会では、クリスマスの朝、ミサが厳かに唱えられていた。サラスヴァティは、日本では弁財天として親しまれている。芸術の神様でもあるので、映画を学ぶわたしもあやかりたい神様だ。この日はコルカタの至るところでサラスヴァティの像が祀られ、道を歩けばデカデカとしたスピーカーから音楽が鳴り響く。土でできた像は、祭りの夜、フーグリー川に流される。像を運ぶのもお祭り騒ぎで、スロウなスピードのトラックが像とスピーカーを積んで、地元の男たちがその後ろを踊り狂ってついていく。


 地元だけでなく、映画学校で祝われるお祭りも負けたもんじゃない。インド各地の多様なバックグラウンドを持つ学生たちが学ぶ映画学校では、世俗主義が原則となっている。そのため、1月にインド各地域で祝われる収穫祭が「文化的な祝祭」として祝われることになった。収穫祭前日、寮のど真ん中にどでかいスピーカーが出現した。嫌な予感がする。部屋にいては1日中大音量に悩まされると判断した私は、学校を脱出し、夜の10時に戻ってきた。にもかかわらずだ。10人弱の学生が、爆音に身を浸しながらまだ踊り狂っているのだ。米軍式と書かれている耳栓をしても、音楽が耳に入ってくる。12時過ぎになってようやく音楽が鳴り終わり、ホッと胸を撫で下ろして眠りにつくことができた。社会人を経験して再び学生になった自分としては、歌と踊りで神様を祀るお祭りで若さが炸裂するキャンパスライフに少々ついていけない節がある。なんせ、若さのエネルギーでもって朝から晩まで祝いまくるのだから。生まれて育ってきた環境の違いを思い知らされる羽目になった。


 自分自身が身につけてきた信仰をもっとも意識したのが、大晦日のことだった。クリスマスを過ぎてから、街がだんだん静かになり、仕事から離れ、家族と過ごすあの時間。家をきれいに掃除して、年越し蕎麦を茹でながら紅白を見るあの平穏で特別な1日。新年を迎えた瞬間に家族に向かって「今年もよろしくお願いします」と挨拶をする。除夜の鐘を、焚き火に手を当てながら聞く。厳かな気持ちとともに新年の抱負を胸の中で唱える。自分が当たり前のように毎年繰り返してきた習慣が、クリスマスから「ハッピー・ニュー・イヤー」にかけてお祭りムードがなかなか消えないコルカタには存在しないと気がついた。しかし何もしないで新年を迎えるというのはあまりにも残念な感じがして、なんとかならないものか…と思っていた矢先、同じ気持ちを抱えた友人の日本人旅行者たちと結託して、彼らが滞在しているゲストハウスで「プチ大晦日」を決行した。時差3時間半のインドと日本、インド現地時間の8時半に、日本の大晦日を迎える。蕎麦は手元になかったが、出汁ベースのカップうどんがあったので、それを蕎麦に見立てて三人で食べた。除夜の鐘のライブ配信を待ちながら、日本時間の年明けの瞬間を待つ。PCのスピーカーから「ゴーン」という音が響き渡った。「今年もどうぞよろしくお願いします」と、厳粛な気持ちで旅の仲間に挨拶をし、日本の大晦日という儀式を完了させた。霊験あらたかな気持ち。日本でディーワーリーや、ドゥルガー・プージャーを大規模に行うインドの人々はきっとこんな気持ちなんだろうか。その祝い事を執り行わなければ、なんだか歯磨きをしていないみたいに気持ち悪く、居心地が悪くなってしまう感じ。自国から引き離されて、自身の宗教的慣習を確認することとなった。


 日本式の新年のお祝いが済んで気持ちが満たされたので、今度はインド時間の新年の出番。2023年のお祝いを2回もできるなんてラッキーなことだ。12時を迎えると、花火やら爆竹やらの音が怒号のように鳴り響く。ベランダから恐る恐る外をのぞくと、子供たちがはしゃぎまわり、近所の犬たちがギャンギャンと鳴き喚く。ああ、わたしは今インドで生きているのだな。在日邦人が100人程度しかいないコルカタという街で、自分たちの小さな儀式を取り行えた満足感は、何にも代え難い喜びがあった。


 お互いがお互いの宗教的祝祭を施せる場を設けること。信仰の権利を認め合うのが平和の秘訣であるということ。人類の歴史が証明してきたこれらの事実を身をもって体験するのが、多様な宗教が混ざり合いながら14億人の人がひしめくインドに身を寄せさせてもらって生きることの醍醐味なのかもしれない。「インドのお祭りには歌と踊りがないとダメ」と豪語する同級生のことがまだよくわからないけれど、きっと彼女だって私が大晦日に何がなんでも蕎麦を啜りたくなる気持ちもわからないだろう。お互いがお互いを傷つけあわなければ、それでいいのだ。何より、インドで食べる大晦日のカップうどんの味は忘れられない。

(ささき みか・映像作家、文筆家)

 監督作として、ドキュメンタリー映画『タゴール・ソングス』(2020)。著書に、『タゴール・ソングス』(三輪舎、2022)『うたいおどる言葉、黄金のベンガルで』(左右社、2023)など。現在、Satyajit Ray Film & Television Instituteの映画脚本コース在学中。

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