親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今、改めてメディアを問う――その過去・現在・未来、そして仏教(特集趣旨1/23)

今、改めてメディアを問う
―その過去・現在・未来、そして仏教―

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤 真

(ITO Makoto)

親鸞仏教センター研究員

宮部 峻

(MIYABE Takashi)

 親鸞仏教センターでは、2001年の設立以来、雑誌『añjali』を毎年2回(6月と12月)発行してきました。

 しかし2020年、コロナ・ウイルスの感染拡大による印刷、発送作業、配送などの困難のために、予定通り発行できない苦境に陥りました。そこで私たちは新たに『añjali WEB版』を発足させ、従来の「紙版」はデザインや構成をリニューアルして年1回発行としました。

 こうして紙版(12月発行)は41号(2021年)、42号(2022年)を、WEB版(毎年5月定期更新および随時更新)は特別企画を含めて4号をお届けしてきましたが、私たちの前に改めて問いが浮かんできました――特性の異なる「メディア」を使った紙版とWEB版は何がどう違うのか、違うべきなのか? この点いまだ試行錯誤している私たちは、今回の『añjali WEB版』「今、改めてメディアを問う」を企画し、さまざまな形で「メディア」に関わりながら活躍されている方々に寄稿していただきました。当センター職員も執筆陣に加わった本企画は2週連続更新です。

 

第1週:メディアの過去・現在・未来--メディアとは何か? どのようなメディアがこれまで何を伝えてきて、これから私たちはどのメディアをどう活用していくのか? メディア論、メディア史の視点から考える。

(いとう まこと 親鸞仏教センター嘱託研究員)

(みやべ たかし 親鸞仏教センター研究員)

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今との出会い第233回「8月半ば、韓国・ソウルを訪れて」

伊藤真

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

 8月のお盆休み中、学会発表のために韓国・ソウルを訪れた。海外へ渡航するのも、「リモート」でなく「対面」で学術大会に参加するのも、コロナ禍以来初めてだから実に3年ぶり。ビザの申請に韓国領事館前で炎天下に3時間並び、渡航前・ソウル到着時・帰国前と1週間で3度の規定のPCR検査に緊張し、日韓双方のアプリの登録や電子証明取得など、渡航は苦労の連続だったが、それだけの甲斐はあったと思う。今回は韓国で体験したさまざまな「出会い」について書いてみたい。

 私が参加したのは国際仏教学会(IABS)が3年に一度開催する学術大会で、当初2020年の開催予定だったがコロナ禍で延期され、5年ぶりに開催にこぎつけたものである。最終的には「リモート」と「対面」を併用する「ハイブリッド」型の大会となったが、世界中から集まる数百名の研究者や学生たちが直に会って仏教について論じ合い、親交を深めることにこだわった開催校・ソウル大学の皆さんに賛辞と謝意を贈りたい。私は「現代社会における仏教」という部会で「印陀羅網のメタファー再考―井上円了の思想を手がかりに」という華厳思想と近代仏教に関連する論題で発表した。休憩時間や部会終了後にも、各国の参加者の方たちと発表内容やお互いの研究について貴重な情報交換をすることができた。人と人が直接触れ合うありがたさ、コロナ禍で失われていたものの大きさを実感した5日間だった。

 今回は職場からの出張ではなく自主的な自費渡航だったため、日程は比較的自由で、寺院や博物館見学の時間も作れた。韓国最大の宗派である曹渓宗の本山・曹渓寺では、大音量のマイクで僧侶が詠唱をリードする中、本堂を埋めた信者さんたちが五体投地をする法要に出会うことができた。ソウル中心部の繁華街の一角の、生きた信仰の場であった。一方、軍事博物館である「戦争記念館」では、遥か先史時代と三国時代に始まり、同館の中心とも言える現代の朝鮮戦争の一部始終、そしてベトナム戦争への韓国軍の派兵まで、3階建ての巨大な博物館に展示室がずらりと並ぶそのスケールに圧倒された。ユーラシア大陸と地続きの地政学的な事情からも、朝鮮半島の人々がいかに歴史を通じて戦争と向き合ってきたか、改めて突きつけられる展示には重みがある。日本による植民地支配や秀吉の朝鮮出兵(壬申倭乱)には当然多くのスペースが割かれていたが、倭寇に関するかなり詳しい展示や、朝鮮戦争に国連軍として参加した16カ国の派遣部隊すべてについて、それぞれ丁寧な展示があったことも、ハッとする出会いであった。

 そして今回の旅で学会以外で一番印象深かったのは、北朝鮮との国境地帯の「非武装地帯」(Demilitarized Zone、通称DMZ)へのバスツアーに参加したことである。私はかつて北朝鮮による拉致被害者・曽我ひとみさんの夫で元米兵の故チャールズ・ジェンキンスさんの自叙伝『告白』(角川文庫)を訳出させていただいたから、ぜひ国境の「38度線」は訪れてみたかった。首都ソウルからわずか45キロ北方のDMZへは、通訳ガイドが同行する半日の大型バスツアーを数社の旅行社が毎日運行している。南北のバッファーゾーンであるDMZは「38度線」から南北それぞれ2キロの幅で朝鮮半島を東西に貫くが、板門店(パンムンジョン)付近の韓国側の一部は観光客の立ち入りが可能だ。もちろんバスに兵士が乗り込んできてパスポートをチェックしたり、大型観光バスの立ち入りは1日5台の制限があったりはするのだが(そのため各社の先陣争いでツアーは早朝6時半に出発して猛スピードで高速道路を飛ばす)。なお、板門店は残念ながらコロナ禍以来、観光客は入れない。

 ツアーではまず、北朝鮮側が囚人を動員して国境を越えて韓国側まで掘削した極秘襲撃作戦用の「南侵トンネル」を見学(高さ・幅約2メートル、全長約1.6キロ。韓国側約450メートルの半分ほどが公開)。地下75メートル、へっぴり腰の私たち見学者がコツン、コツンと次々と天井に安全用ヘルメットをぶつけるようなトンネルで、3万人の襲撃部隊を韓国側へ瞬時に送り込む目論見だったというから驚きだ。ダイナマイトで岩盤を爆破しつつ手掘りで仕上げたというそのゴツゴツした壁面を見て、囚人たちの作業の過酷さと、それを強いた者の恐ろしい執念が感じ取れるように思えた。

  続いて、北朝鮮側が遠望できる「DMZ展望台」を訪れた。デッキへ出ると、運良く快晴となった青空の下に緑の大地が北方へと続いていた(曇天だと国境の向こうは見えないという)。手すりに沿って何台も並ぶ見学用の双眼鏡で覗くと、北朝鮮側のDMZの内外に作られた国策村の家々や、DMZの向こう側の高層住宅、さらには南北融和の象徴だったが今や機能停止している開城(ケソン)工業団地の一部が遠望できた。銃声もプロパガンダ放送の音もしない、静かな美しい緑豊かな大地のわずか数キロ先に、政治的・経済的統制下で暮らすことを強いられている人々の日常がある……それを想像するのは何とも非現実的な感覚だった。57年前の厳冬の夜、「38度線」から転戦してベトナム戦争の前線へ派遣されるのではとの恐怖に、やむにやまれず徒歩で密かに国境線を越えて逃亡したジェンキンス軍曹の姿も、思い浮かべることは難しかった。見学を終え、「今晩は繁華街の明洞(ミョンドン)でどんな韓国料理を食べようかな」などと考えながら、韓国の自由のすばらしさを思ったが、その自由の裏には時が止まったように70年間も続く南北の分断と対立・緊張の現実があること、そして自由な韓国に暮らす人々の「同胞」が(さらに拉致被害者の方たちも)北朝鮮の圧政下に日々を送っていること、そんな影の部分とのコントラストを真夏の強烈な太陽が却って鮮明に感じさせる気がした。

 最後に付け加えるならば、IABSの大会初日は8月15日、日本の「終戦記念日」は韓国では日本の支配を脱して国権を回復した「光復節」だった。DMZに隣接する見学施設には日韓で論争の絶えない「慰安婦問題を象徴する少女像」もあって、初めて実際に目にして強い印象を受けた。日韓の歴史と現実に「出会う」旅でもあったが、日本をはじめ各国の研究者や観光客を温かく迎えてくれた韓国の多くの人たちに直接出会うことができたことに、心より感謝したいと思う。

(2022年10月1日)

 8月のお盆休み中、学会発表のために韓国・ソウルを訪れた。海外へ渡航するのも、「リモート」でなく「対面」で学術大会に参加するのも、コロナ禍以来初めてだから実に3年ぶり。ビザの申請に韓国領事館前で炎天下に3時間並び、渡航前・ソウル到着時・帰国前と1週間で3度の規定のPCR検査に緊張し、日韓双方のアプリの登録や電子証明取得など、渡航は苦労の連続だったが、それだけの甲斐はあったと思う。今回は韓国で体験したさまざまな「出会い」について書いてみたい。

 私が参加したのは国際仏教学会(IABS)が3年に一度開催する学術大会で、当初2020年の開催予定だったがコロナ禍で延期され、5年ぶりに開催にこぎつけたものである。最終的には「リモート」と「対面」を併用する「ハイブリッド」型の大会となったが、世界中から集まる数百名の研究者や学生たちが直に会って仏教について論じ合い、親交を深めることにこだわった開催校・ソウル大学の皆さんに賛辞と謝意を贈りたい。私は「現代社会における仏教」という部会で「印陀羅網のメタファー再考―井上円了の思想を手がかりに」という華厳思想と近代仏教に関連する論題で発表した。休憩時間や部会終了後にも、各国の参加者の方たちと発表内容やお互いの研究について貴重な情報交換をすることができた。人と人が直接触れ合うありがたさ、コロナ禍で失われていたものの大きさを実感した5日間だった。

 今回は職場からの出張ではなく自主的な自費渡航だったため、日程は比較的自由で、寺院や博物館見学の時間も作れた。韓国最大の宗派である曹渓宗の本山・曹渓寺では、大音量のマイクで僧侶が詠唱をリードする中、本堂を埋めた信者さんたちが五体投地をする法要に出会うことができた。ソウル中心部の繁華街の一角の、生きた信仰の場であった。一方、軍事博物館である「戦争記念館」では、遥か先史時代と三国時代に始まり、同館の中心とも言える現代の朝鮮戦争の一部始終、そしてベトナム戦争への韓国軍の派兵まで、3階建ての巨大な博物館に展示室がずらりと並ぶそのスケールに圧倒された。ユーラシア大陸と地続きの地政学的な事情からも、朝鮮半島の人々がいかに歴史を通じて戦争と向き合ってきたか、改めて突きつけられる展示には重みがある。日本による植民地支配や秀吉の朝鮮出兵(壬申倭乱)には当然多くのスペースが割かれていたが、倭寇に関するかなり詳しい展示や、朝鮮戦争に国連軍として参加した16カ国の派遣部隊すべてについて、それぞれ丁寧な展示があったことも、ハッとする出会いであった。

 そして今回の旅で学会以外で一番印象深かったのは、北朝鮮との国境地帯の「非武装地帯」(Demilitarized Zone、通称DMZ)へのバスツアーに参加したことである。私はかつて北朝鮮による拉致被害者・曽我ひとみさんの夫で元米兵の故チャールズ・ジェンキンスさんの自叙伝『告白』(角川文庫)を訳出させていただいたから、ぜひ国境の「38度線」は訪れてみたかった。首都ソウルからわずか45キロ北方のDMZへは、通訳ガイドが同行する半日の大型バスツアーを数社の旅行社が毎日運行している。南北のバッファーゾーンであるDMZは「38度線」から南北それぞれ2キロの幅で朝鮮半島を東西に貫くが、板門店(パンムンジョン)付近の韓国側の一部は観光客の立ち入りが可能だ。もちろんバスに兵士が乗り込んできてパスポートをチェックしたり、大型観光バスの立ち入りは1日5台の制限があったりはするのだが(そのため各社の先陣争いでツアーは早朝6時半に出発して猛スピードで高速道路を飛ばす)。なお、板門店は残念ながらコロナ禍以来、観光客は入れない。

 ツアーではまず、北朝鮮側が囚人を動員して国境を越えて韓国側まで掘削した極秘襲撃作戦用の「南侵トンネル」を見学(高さ・幅約2メートル、全長約1.6キロ。韓国側約450メートルの半分ほどが公開)。地下75メートル、へっぴり腰の私たち見学者がコツン、コツンと次々と天井に安全用ヘルメットをぶつけるようなトンネルで、3万人の襲撃部隊を韓国側へ瞬時に送り込む目論見だったというから驚きだ。ダイナマイトで岩盤を爆破しつつ手掘りで仕上げたというそのゴツゴツした壁面を見て、囚人たちの作業の過酷さと、それを強いた者の恐ろしい執念が感じ取れるように思えた。

   続いて、北朝鮮側が遠望できる「DMZ展望台」を訪れた。デッキへ出ると、運良く快晴となった青空の下に緑の大地が北方へと続いていた(曇天だと国境の向こうは見えないという)。手すりに沿って何台も並ぶ見学用の双眼鏡で覗くと、北朝鮮側のDMZの内外に作られた国策村の家々や、DMZの向こう側の高層住宅、さらには南北融和の象徴だったが今や機能停止している開城(ケソン)工業団地の一部が遠望できた。銃声もプロパガンダ放送の音もしない、静かな美しい緑豊かな大地のわずか数キロ先に、政治的・経済的統制下で暮らすことを強いられている人々の日常がある……それを想像するのは何とも非現実的な感覚だった。57年前の厳冬の夜、「38度線」から転戦してベトナム戦争の前線へ派遣されるのではとの恐怖に、やむにやまれず徒歩で密かに国境線を越えて逃亡したジェンキンス軍曹の姿も、思い浮かべることは難しかった。見学を終え、「今晩は繁華街の明洞(ミョンドン)でどんな韓国料理を食べようかな」などと考えながら、韓国の自由のすばらしさを思ったが、その自由の裏には時が止まったように70年間も続く南北の分断と対立・緊張の現実があること、そして自由な韓国に暮らす人々の「同胞」が(さらに拉致被害者の方たちも)北朝鮮の圧政下に日々を送っていること、そんな影の部分とのコントラストを真夏の強烈な太陽が却って鮮明に感じさせる気がした。

 最後に付け加えるならば、IABSの大会初日は8月15日、日本の「終戦記念日」は韓国では日本の支配を脱して国権を回復した「光復節」だった。DMZに隣接する見学施設には日韓で論争の絶えない「慰安婦問題を象徴する少女像」もあって、初めて実際に目にして強い印象を受けた。日韓の歴史と現実に「出会う」旅でもあったが、日本をはじめ各国の研究者や観光客を温かく迎えてくれた韓国の多くの人たちに直接出会うことができたことに、心より感謝したいと思う。

(2022年10月1日)

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著者別アーカイブ

伊藤 真

研究員の紹介

ITO Makoto
(嘱託研究員)

プロフィール

専門領域
中国(唐代)華厳思想、地蔵経典、日本近代仏教
略歴
1965年東京都生まれ。
京都大学文学部哲学科卒業。
佛教大学大学院文学研究科修士課程・博士課程(通信教育課程・仏教学専攻)修了。博士(文学)。
翻訳家(国際問題・現代史などの英文ノンフィクションを訳出)。
訳書に『驚くべきCIAの世論操作』(集英社インターナショナル新書)等。
現在、親鸞仏教センター嘱託研究員、佛教大学・東洋大学・大正大学・東京農業大学、各非常勤講師、東洋大学井上円了哲学センター客員研究員。
所属学会
日本印度学仏教学会、国際仏教学会(IABS)、国際井上円了学会、東アジア仏教研究会 ほか
研究業績

researchmapを参照。

当センター刊行物への執筆

『現代と親鸞』第45号
『アンジャリ』第39号
「親鸞仏教センター通信」第74号

WEBコンテンツの執筆

今との出会い第233回「8月半ば、韓国・ソウルを訪れて」
今との出会い 第223回「ブッダの中にアイはない!?」
今との出会い 第212回「疫禍の師走に想う「思い出の国」の人たち」
今との出会い 第206回「明日、生きて再び夕日をみることができるだろうか?」
『アンジャリ』WEB版(2022年5月15日更新号)
『アンジャリ』WEB版(2022年2月1日更新号)
『アンジャリ』WEB版(2020年6月15日更新号)
コラム・エッセイ
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研究会・Interview

釈尊×地蔵菩薩——忉利天宮の対話劇

伊藤真

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

■対話なき今

 オリンピックと同じく「平和の祭典」であるパラリンピックがまさに開催されていた2月末、ロシアがウクライナへ軍を進めた。開会式では国際パラリンピック委員会のパーソンズ会長が「私は平和のメッセージから始めたい……始めねばならない」と切り出した演説が話題になった。オリンピック・パラリンピック開催期間中の休戦を求める国連決議(ロシアと中国も共同提案国に含まれている)にも言及しながら、「21世紀は戦争と憎悪ではなく、対話と外交の時代」だとし、包摂的で、差別と憎悪と無知と紛争から自由な、そんな世界を希求すると述べた。異例とも言える直截的な平和の訴えだが、演説のこの部分などが(おそらくは政治的配慮から)中国国営テレビの生放送では中国語に翻訳されなかったことが報じられた。

 一方、当のロシアは停戦協議に臨んでも一方的に無理な要求を突きつけ、一向に「対話」の姿勢がみられない。そもそもウクライナとロシアは民族的にも国家としても本来一つだと言い出して対話相手の存在すら消し去ろうとしている。20世紀の両度の悲惨な大戦や冷戦などの体験を通じ、国際社会が(曲がりなりにも)構築しようとして来た対話による平和への努力の歩みを踏みにじるものだ(そしてブチャの惨事が明らかになってからは、ウクライナ側も態度を硬化させてしまった)。こうした危機を前に私たちは何らかの行動を起こすべきだろうが、ここではそれを直接論じることはしない。「対話」という問題意識の延長線上で、私の心に浮かんだ仏典の一場面について書いてみたい。

 

■対話劇としての仏典

 お経は多くの場合「如是我聞(にょぜがもん)」すなわち「このように私は聞いた」という文言で始まる。周知のように、釈尊のかたわらで長年仕えたアーナンダ(阿難)が聞き覚えていた釈尊の言葉を暗唱したことに由来し、後代に作られた大乗仏典の多くもこれを踏襲する。つまり、お経は形式上は阿難の「聞き語り」だ。しかしその内容はたいてい釈尊と誰かの「対話」という形になっている。弟子や修行者たちだけでなく、特に初期の仏典ではバラモンや学生、在俗の一般の信者との対話もある。大乗仏典の多くでは無数の比丘や菩薩や神々までもが集う釈尊の説法の「会座(えざ)」が舞台となり、釈尊の一方的なお説法といったイメージもあるかもしれない。それでも、しばしばそれは集まった「大衆(だいしゅ)」の中の誰かとの対話形式で、釈尊の対話の相手も単に教えを乞うというよりも、常に主体的な問題意識で問いかける。仏と衆生という立場の違いはあれ、やはり「対話」なのだと思う。

 特に文芸(あるいは宗教文学)的な作品として見た場合、「対話」的な結構が優れた仏典も多い。『華厳経』では無数の菩薩らに加え、竜や神々や人ならざるものも含めた衆生が曼荼羅のごとく何重にも毘盧遮那仏(釈尊)を取り囲むが、その中から仏の威神力を受けた菩薩が一人また一人と立ち上がってはみずからの理解を述べ、仏と「対話」をする。『観無量寿経』も、ドラマチックなその内容は、ビンビサーラ王妃ヴァイデーヒー(韋提希夫人)と釈尊との切実な「対話」という形を取っている。一方、有名な『維摩経』の「入不二法門品」では、ヴィマラキールティ(維摩詰)長者と釈尊の弟子たちとの哲学的ディベートが展開され、最後の文殊菩薩とのやりとりは「維摩の一黙、雷のごとし」というヴィマラキールティの緊迫感あふれる沈黙で終わる。タイプこそ違え、いずれも優れた「対話劇」と言えるだろう(ただし、これは戯曲的な作品として読めばということであって、教学的にはそれぞれまた種々異なる解釈がなされ得る)。ここでは対話劇の醍醐味を味わうことができ、今日においても多くのことを問いかけてくる『地蔵菩薩本願経』を取り上げたい。

 

■ファンタジックな対話劇・『地蔵菩薩本願経』

 この経典は9世紀以降に中国で広く信奉され、台湾などでは今でも人気の経典だが、唐末か宋代に中国で製作されたとの見方が一般的だ。やはり「如是我聞」と始まるが、「私」が聞いたという釈尊の説法の場所は忉利天宮、つまり世界の中心にそびえ立つ須弥山の頂上、帝釈天(インドラ)が住む天上の宮殿である。しかも説法の相手はここへ生まれ変わっていた釈尊の母(摩耶夫人)と十方の世界から来集したあまたの菩薩や鬼神の類。その衆生らは過去・現在・未来における地蔵菩薩による救済の対象である衆生だという、実にファンタジックな設定だ。「忉利天宮神通品」から「嘱累人天品」まで全13章の中、釈尊と文殊菩薩、摩耶夫人と地蔵菩薩などさまざまな組み合わせの対話が章ごとに展開するが、第2章の「分身集会品」では釈尊と地蔵菩薩の対話が描かれる(その一部は別の視点で『アンジャリ』第39号でも触れた)。

 「分身集会品」の冒頭もファンタジックだ。地蔵菩薩は分身の術を使い、宇宙に無数ある世界の無数の地獄に赴いて衆生を救済していたが、各地で救ったその無数の衆生と一緒に自身の無数の分身がそのまま忉利天宮にやって来る。そして釈尊が金色の腕を伸ばしてその無数の地蔵菩薩の頭を撫で、いよいよ対話ということになる。ところが開口一番、釈尊は意外なことを言い出すのだ(以下、訳は取意)。

「私はこの五濁悪世で強情っぱりの衆生を教化してきたが、10人中の1、2人はそれでもなお悪習が残ってしまう。衆生には聞いてすぐに信心を起こす者もいれば、暗鈍で長々と教えてやっと仏法に帰依する者もいるし、ついに帰依しない者もいる。そういう種々様々な衆生に合わせて私は仏の姿だけでなく、男女、天龍鬼神、比丘や比丘尼、菩薩から王・宰相に至るまで、様々に姿を変えてその前に現れて教化してきた。おまえも私が長年の間、教え導き難い強情っぱりの罪苦の重い衆生をいかに苦労して救い続けてきたことか、よく見てくれたまえ。」

 苦労を察してくれとは、いきなり何をおっしゃいますか、とは言わないものの、お地蔵さんも戸惑うに違いない釈尊の言葉である。だが釈尊は続ける……。

「私が教化しきれなかった衆生たちは、やがて地獄・餓鬼・畜生の悪しき道に堕ちてひどい苦しみを受けるだろう。そんな時におまえに思い出してほしいのだ。私がかつて忉利天で、私に代わってそんな衆生を救うようにと心を込めておまえに委嘱したことを。娑婆世界において、(私の入滅から)弥勒が仏として世に現れるまで、すべての衆生を残りなく解脱させ、永久に種々の苦しみを離れ、仏に出会えるようにしてやってほしい。」

 実は釈尊は間もなく入滅しようとしていて、最期の言葉を地蔵菩薩にかけていたのだ。


■釈尊と地蔵菩薩、最期の対話

 釈尊亡きあとに仏が現れるのは遥かなる未来の弥勒仏の世。入滅が迫る釈尊は、それまで延々と無仏の世に生きる衆生が哀れでならない。そこでどうやっても「悪趣」に堕ちてしまう衆生をみずからに代わって救ってくれるよう、地蔵菩薩に託してこの世を去って行こうとするのだ。大乗仏典における釈尊は常に高潔で超人的だ。しかしここに私は(語弊を恐れずに言えば)極めて人間的な釈尊を見る思いがする。そして地蔵菩薩もまた、地獄の衆生を助ける万能の救済者のイメージが強いが、ここでは分身を集めて元の一介の僧の姿に戻り、ぼろぼろと涙を流してこう応じるのだ。

「私は長く仏に導いていただいたおかげで不可思議な神通力や大智慧を身につけることができました。そして身を分けて無数の世界で無数の人々を仏法僧の三宝に帰依させ、生死の苦を離れて涅槃の安楽に至らせてきました。衆生の善事がたとえ髪の毛一本、涙一滴、砂一粒、塵一つのようにごくわずかだとしても、 私は徐々に解脱させ、 大いなる悟りの利益を獲得させてやりましょう。ただ願わくは世尊よ、後世の悪業の衆生のことをどうかご心配なさらずに。」

 地蔵菩薩は三度重ねて「ただ願わくは世尊よ、後世の悪業の衆生のことをどうかご心配なさらずに。」と釈尊に申し上げる。すると釈尊が次のように述べてこの章は終わる。

「よいぞ、よいぞ。私もおまえの喜びを助けよう。おまえは遙かなる昔におこした広大な誓願を成就して、広く衆生を救済し、まさに救い尽くしたならば、自分も悟りを開くがよい。」

 これはいったいどういう「対話」なのだろうか。未来の世に悪趣に落ちる衆生に思いを残して去っていく釈尊と、その思いを引き継ぐことを誓って釈尊を安心させようと泣く地蔵菩薩。そしてそんな地蔵菩薩の本願がいつの日か成就するよう、みずからはこの世を去っても支え続けようと応じる釈尊……。二人の深い信頼と励ましが往還するなんとも人情味のある別れの場面だ。それでありながら、忉利天宮というファンタジックな舞台で邂逅していることで、フィクショナルな歴史的対話に留まらない永遠性・普遍性もある。

 時空を越えるこの「対話劇」は、私たちに2つのことを問いかけてくるように思う。まず、時代は「五濁悪世」でそこに暮らす衆生の性質もさまざまだ。そんな衆生の前に釈尊も地蔵菩薩も種々の分身で現れる。それ自体は仏典では珍しくはない「方便」だが、今は教化者(仏菩薩)と被救済者(衆生)という枠を取っ払い、互いに同じレベルで理解し合う努力に基づく「対話」の象徴的な表現と捉えてみたい。一人ひとりがさまざまな価値観や世界観、種々の罪悪や善良さをも併せもつ中、人は互いにどのように信頼し合い、「対話」を進めるべきか(塵一粒ほどの「善根」をも信じるというのも見逃せない)。第二に、釈尊と地蔵菩薩とのやり取りからは、私たち自身は(地蔵菩薩が去り行く釈尊から後を託されたように)、先人たちや歴史から、何を託されていて、どのような展望のもとで未来に何を残していくのか、そんなことも問われている気がする。長引くコロナ禍でそもそも「対話」が希薄になっている中、私たちはさらに、「対話」がないがしろにされ、暴力で相手を屈服させようとする現実に直面している。ウクライナ情勢は私たちにもっと具体的な行動を要請するものかもしれないが、同時に、人や時代との「対話」ということを改めて考えてみることも大切ではないか。漢文で『般若心経』の2.5倍ほど、わずか680字の、一幕ものの優れた戯曲の小品のような釈尊と地蔵菩薩との忉利天宮での「対話」から、そんなことを思った。

(いとう まこと・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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「として」の覚悟――大乗仏教を信仰すること 浄土宗総合研究所研究員 石田 一裕 (ISHIDA Kazuhiro)  経典は読誦の対象であり、読解の対象でもある点で、読み物である。  読誦のときの経典は譜面だ。手に取った経本に記される経文を目で追いながら、声を出して一文字一文字を読み上げていく。その声は仏への祈りであり、儀礼を成り立たせる大切な要素となる。読誦は仏への真心によって成立する一つの行である。...
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「読み書きのできない者たちの中国古代史」 早稲田大学文学学術院教授 柿沼 陽平 (KAKINUMA Youhei)  親鸞は、読み書きのできない大衆(以下、無文字階層)をまえにして、仏法を説いたといわれている。たとえば『歎異抄』をみると、いたずらに学問に拘泥するよりも、むしろ「一文不通のともがら」が無心に念仏をとなえる姿をほめたたえている。また親鸞は晩年に「いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき、愚痴きわまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、とりかえしとりかえしかきつけたり」とのべ、『一念多念文意』を著わしている。こうした親鸞の教えが13世紀頃から徐々に日本に広まってゆく背景には、無文字階層の民の存在があった。おりしも鎌倉幕府が成立し、関西方面では寺社仏閣・貴族が、関東方面では武士が中心となってしのぎを削るなか、親鸞のまなざしは無文字階層の民に注がれていたのである。...
アンジャリWeb20220515
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親鸞さんのわすれもの 脚本家 今井 雅子 (IMAI Masako)  「脚本家の仕事を動詞ひとつで言い表すと?」  講演のつかみに、この質問を投げかけている。真っ先に挙がる答えは「書く」だが、書くことと同じくらい「話す」ことに時間と労力を割く商売である。三時間の打ち合わせで話し合ったことを踏まえ、三時間かけて原稿を書くといった具合だ。話すことと対になる「聞く」も欠かせない。物語のモデルになる人物や職業について取材したり、世の中の声を拾ったり。執筆には「調べる」が欠かせない。膨大な資料を「集める」のも「読む」のも取材であり、読んで字のごとく「取って来た材料」を使い勝手のいいように整理したり並べ替えたり「まとめる」までが、料理で言うところの下準備。それを「組み立てる」のが調理で、「ひらめく」のは味つけといったところか。作業には終始「考える」が伴い、何度も「直す」「磨く」を経て脱稿、納品となる。...
アンジャリWeb20220515
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You know me〜月並みに口説くな〜 アーティスト なみちえ (Namichie)  深く沈み込んでゆく。何重にも天幕が覆い被さる。この眠りは本当に永遠に続くのだろうかとゆっくり考えている…。考え続けている……。だが永遠はすぐに終わった。ヒュッと何か巻き戻したかのような感覚で時空間は歪み、その勢いで自分が自分を起こした。「ッゴホホッ」と喉の奥から大きな音を立て、むせ返り床と一体になっていた体が分離した。はっとなり起き上がり、その新鮮な体は周りを見渡す。目の前の丸いテーブルには奇妙な形をした、歪な湯呑みが置いてある。...
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いびつさの居場所
いびつさの居場所 親鸞仏教センター嘱託研究員 中村 玲太 (NAKAMURA Ryota)  そうでしたねー、と透明な相づちを打つ。自分の気持ちが透明なのだから仕方ない。今年1月に祖母を亡くした。ある時期、両親よりも長い時間を祖母と過ごしていた。ただ、親族や地元の知り合いが祖母を語る輪には入れなかった。18歳で地元を離れ、川崎で10年を過ごした。魂の故郷は川崎だと思っている。と余分な思いを挟みつつ、故郷とは割り切れないものだなと思う。好きでもあるし嫌いでもある、自分のルーツだと言いたくもあるし言いたくもない。そんな何とも言い難く、それでいて「魂の」などと形容をつける必要もなく、必然的にそこにずっと在る故郷の、故郷を象徴するような祖母の葬儀に参列していた。...
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釈尊×地蔵菩薩——忉利天宮の対話劇
釈尊×地蔵菩薩——忉利天宮の対話劇 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤  真 (ITO Makoto) ■対話なき今  オリンピックと同じく「平和の祭典」であるパラリンピックがまさに開催されていた2月末、ロシアがウクライナへ軍を進めた。開会式では国際パラリンピック委員会のパーソンズ会長が「私は平和のメッセージから始めたい……始めねばならない」と切り出した演説が話題になった。オリンピック・パラリンピック開催期間中の休戦を求める国連決議(ロシアと中国も共同提案国に含まれている)にも言及しながら、「21世紀は戦争と憎悪ではなく、対話と外交の時代」だとし、包摂的で、差別と憎悪と無知と紛争から自由な、そんな世界を希求すると述べた。異例とも言える直截的な平和の訴えだが、演説のこの部分などが(おそらくは政治的配慮から)中国国営テレビの生放送では中国語に翻訳されなかったことが報じられた。...
菊池弘宣顔写真
根源的な虚無とどう向き合うか
根源的な虚無とどう向き合うか 親鸞仏教センター嘱託研究員 菊池 弘宣 (KIKUCHI Hironobu)  新型コロナウイルスの問題に直面して、二年という年月を経てきた。私自身、コロナ以前のことを振り返るのがつらくなっている。もはや、以前のようには戻れないと感じるようになったからである。失われてきたものの大きさに、ようやく気づかされることになってきたからである。...
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流れに抗うこと——危機の時代における熟議の精神
流れに抗うこと——危機の時代における熟議の精神 親鸞仏教センター研究員 宮部 峻 (MIYABE Takashi)  気づけば、新型コロナウイルス感染拡大から2年が過ぎてしまった。「自粛」が始まった当初には「非常」として感じられた現象は、すっかり日常生活を侵食してしまった。自粛生活がルーティン化したからといって、事態がよくなったわけではない。街を少し歩いてみても、閉店してしまった馴染みの店が目につく。新型コロナウイルスの感染は、人類にほぼ等しく降りかかるリスクでありながら、その痛みは偏在する。...
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どうしようもなさを共に 親鸞仏教センター研究員 谷釜 智洋 (TANIGAMA Chihiro) お元気ですかいかがお過ごしでしょうか?こっちはさして問題もなくみんな元気でやってマウス暑いと言えば暑いのかさむいと言えばさむいような一言じゃとても言えないけどとても快適なんだよ (「彼方からの手紙」『WILD...

『アンジャリ』WEB版(2022年2月1日更新号)

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〈いのち〉という語りを問い直す
特集趣旨 〈いのち〉という語りを問い直す PDF版をDL 親鸞仏教センター嘱託研究員 中村 玲太 (NAKAMURA Ryota) ■特集の趣旨  いのち(命・生命・イノチ・寿))―の次に続ける言葉は何ですか。「大切」?それとも「矛盾」?  私たちは「いのちという矛盾」を生きているように思います。大いなる、しかし個性も名前もないいのちれたいのはに対して、いまここを生きる「私」の誕生。大切にされたいのはいのちなのか、私なのか。私という個としてのいのちと、大いなるいのちを生きつつ、ここには調和されない緊張関係があるのではないでしょうか。そして、私を生きる以上、避けることのできない罪悪、いのちがいのちを害さずにはいられない、という問題。この罪悪の私は大切なのだろうか。...
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いのちの境界線で
いのちの境界線で SF作家 飛  浩隆 (TOBI Hirotaka) ■特集を捉える[総説]   「死にたいなんて言うなよ」   「諦めないで生きろよ」   そんな歌が正しいなんて   馬鹿げてるよな  2021年の「紅白歌合戦」で流れた「命に嫌われている。」(作詞・作曲カンザキイオリ)は、この特集の冒頭の設問を繰り返すかのように、「命という言葉」と「僕らの生」とのへだたりを歌う。...
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誕生を祝うために
誕生を祝うために PDF版をDL 京都大学大学院法学研究科教授 森川 輝一 (MORIKAWA Terukazu)  誕生日おめでとう、とわたしたちは言う。家族や友人に、ときにはその日初めて会った人にさえ、わりと気楽にこの言葉を差し向ける。しかしわたしたちは、この言葉でいったい何を祝っているのだろうか。そもそも誕生とは、どういうことなのか。...
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子どもたちの幸せのために
子どもたちの幸せのために 龍谷大学経営学部准教授 竹内 綱史 (TAKEUCHI Tsunafumi) ■特集を捉える [森川輝一「誕生を祝うために」へのコメント]  森川氏の論考は短いながらも内容がとても豊富で、少子化問題やジェンダー論といったアクチュアルなテーマを視野に入れつつ、〈いのち〉の誕生をどう考えるべきかについて、複層的な思索が展開されている。大変啓発的で私としても論旨には基本的に賛成であるが、二点、気になったことを書き留めておきたい。...
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ヒトのイノチのその先に
ヒトのイノチのその先に PDF版をDL 声優、日本SF作家クラブ会長 池澤 春菜 (IKEZAWA Haruna)  わたしたちの誰もが持っていて、でも誰もそれがなんなのか本当には知らない。大事にしなければいけない、何よりも価値がある、と言われていても、何故なのかはわからない。一番身近で、でも一番謎めいているもの―命。...
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SFのSは、セイメイのS? 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤  真 (ITO Makoto) ■特集を捉える[池澤春菜「ヒトのイノチのその先に」へのコメント]  池澤春菜氏の「ヒトのイノチのその先に」では、冒頭で「テセウスの船」という命題が紹介されている。「船の部品を一つずつ入れ替えていく。すべて新しい部品となった船は、果たして元の船と同じと言えるのか。その部品でもう一つ船を作った場合、それは新しい船か、それとも元の船か」。ローマ時代のギリシャ人哲学者プルタルコスが提示し、近代の哲学者たちまでが取り組んだ問題だ。SFでは脳と体を別のものと入れ替えたり、脳をコンピュータなどに複写・転写する技術などのストーリーを通じ、「何をもって、命と、人とするのか」、さらにAIや機械が生命を持ち得るかというテーマを考えさせてくれると池澤氏は言う。私も一人のSFファンとしてルーディ・ラッカーの『ソフトウェア』(ハヤカワ文庫SF、1989年)などが思い浮かぶが、仏教的な面でも刺激を受けた。...
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いのちの否定と肯定
いのちの否定と肯定 PDF版をDL 大阪教育大学教育学部教授 岩田 文昭 (IWATA Fumiaki)  浄土教にはいのちを否定する面と肯定する面がある。自己を罪悪深重の凡夫として捉え、この世を穢土として否定する面とともに、浄土に往生する救いの法を教え、凡夫の身をそのまま肯定する面である。このような浄土教の救いの法は、時代を越えるものである。...
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「ヤー」と「イーアー」
「ヤー」と「イーアー」 龍谷大学経営学部准教授 竹内 綱史 (TAKEUCHI Tsunafumi) ■特集を捉える [岩田文昭「いのちの否定と肯定」へのコメント]  いつ頃からか、私は「いのち」という言葉が大嫌いである。「生命」とか「生」といった言葉は問題ない。平仮名で「いのち」と書いてあると、どうしても警戒してしまうのだ。なぜか。それは、「いのち」という表記を見ると、まず間違いなく「イイ話」が語られることが予想され、しかも、その「イイ話」の背後には無数の苦しみが隠れているにもかかわらず、万事オッケーであるかのような語り、万事オッケーでなければならないかのような語りになることがほとんどだからだ。そういう語りは不誠実なのではないか(注1)...
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日本仏教における「慈悲殺生」の許容
日本仏教における「慈悲殺生」の許容 PDF版をDL 龍谷大学文学部特任准教授 大谷 由香 (OTANI Yuka) ―目の前にまさにこれから大量殺人を犯そうとする者がいる。彼を殺せば多くの命が助かるだろう。しかし多くの命のために彼を殺すことは許されるのか―  釈尊が涅槃に入られてから500年ほど経った頃、釈尊が前世になさっていたような慈悲にもとづく実践を通じて、釈尊が到達したのと同じさとりを得ようというムーブメントが起こったと伝わる。いわゆる大乗仏教の興起である。前世の釈尊は「菩薩」と呼ばれていたから、大乗仏教の担い手にとって、菩薩こそ理想的な修行者像であった。菩薩として生きるためにはどうあるべきなのか、当時作られた仏典のいくつかには、その指針となる「菩薩戒」が示される。...
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先徳との「対話」を目指して 花園大学文学部教授 師  茂樹 (MORO Shigeki) ■特集を捉える  [大谷由香「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」へのコメント]    哲学者の河野哲也は「思考とは、他者から発せられる多様な声を自分のなかに取り込み、そのあいだの対立や闘争やすれ違いを取り持ち、それらの声を交渉させ、調停し、まとめたり、和解させたりして関連づける」という「本質的に政治的な活動」だと言う(『じぶんで考えじぶんで話せる―こどもを育てる哲学レッスン』河出書房新社、2018)。仏教者にとって「自分のなかに取り込」むべき「声」は、まずもって仏典に説かれる先徳たちの様々な言説ではなかろうか。...
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

SFのSは、セイメイのS?

伊藤真

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

■特集を捉える[池澤春菜「ヒトのイノチのその先に」へのコメント]

 池澤春菜氏の「ヒトのイノチのその先に」では、冒頭で「テセウスの船」という命題が紹介されている。「船の部品を一つずつ入れ替えていく。すべて新しい部品となった船は、果たして元の船と同じと言えるのか。その部品でもう一つ船を作った場合、それは新しい船か、それとも元の船か」。ローマ時代のギリシャ人哲学者プルタルコスが提示し、近代の哲学者たちまでが取り組んだ問題だ。SFでは脳と体を別のものと入れ替えたり、脳をコンピュータなどに複写・転写する技術などのストーリーを通じ、「何をもって、命と、人とするのか」、さらにAIや機械が生命を持ち得るかというテーマを考えさせてくれると池澤氏は言う。私も一人のSFファンとしてルーディ・ラッカーの『ソフトウェア』(ハヤカワ文庫SF、1989年)などが思い浮かぶが、仏教的な面でも刺激を受けた。

 今回のウェブ企画にも寄稿いただいている師茂樹氏の論考「人工知能を有情とみなすことは可能か」(『人間とは何か(Ⅱ)』、日本佛教学会編、法藏館、2019年所収)では、古い仏典に出る「テセウスの船」によく似たSFチックなストーリーが考察されている。ある旅人が鬼たちに遭遇し、腕や足、胴体から頭まで、順にすべてを引きちぎられ、鬼が持っていた人間の死骸のものと順に入れ替えられてしまう。そして鬼たちは旅人からとりはずした手足など新鮮な(?)身体をぺろりと平らげてしまう。そこで旅人はこれでもなお自分の体だと言えるのか、と悩む。やがて旅人は仏教僧に出会い、あなたは(世界の構成要素である)「四つの元素が集まったものを、自分の体だ、と思い込んでいるだけです」と説かれ、仏教の無我説に目覚めるのだ(詳細は師氏の上記論考を参照。なお、師氏が指摘するとおり、仏教的な枠組みで考える場合は輪廻への問いが欠かせないが、本稿では触れない)。

 仏教の「五蘊仮和合(ごうんけわごう)」という考え方では、私たち人間の存在を物質と精神(感覚・表象・意志的形成力・認識)の5つの要素がさまざまな因と縁によって仮に集まって構成されたものと理解する。そこに実体的な「我」は存在しない。仏典『ミリンダ王の問い』でも人間を「車」に喩え、車輪や車軸など部品に分解しても組み立てても、どこにも「我」は見当たらないと語られる。イギリスの哲学者エドワード・クレイグ氏によれば、これに対して古代ギリシャのプラトンは2頭の馬(理性と感性)に引かれた戦車(身体)を操る御者を自己に見立て、古代インドの『カタ・ウパニシャッド』では馬(感性)を操る御者(知性)に導かれた戦車(身体)に自己(アートマン)が乗っていると考えたというが、その自己は実際のところどこにいるのだろう。

 この点、池澤氏が挙げるジェイムズ・P・ホーガンの『造物主の掟』(名作『星を継ぐもの』の作者の作品。創元SF文庫、1985年)では、みずからロボットや機械類を製造して異星で資源を採掘する自律型ロボットの機械人「タロイド」たちが登場する。それらはプログラムの暴走で独自の進化を遂げ、長大な時間を経て、自我意識もあれば独裁者や宗教までもある中世的な社会を築いている。作中、自分たちの「生命」の源はどこかと疑問を抱いたあるタロイドが、「死んだ」機械を分解する。すると彼は「管や繊維や金属構造材やベアリングなどのおそろしく複雑な配列……以外には、何も見つけだすことができなかった」。そして問う——「では、魂はどこにあるのか?」。

 一方、池澤氏が紹介する別の作品、アン・マキャフリーの『歌う船』(創元SF文庫、1984年)では、主人公のヘルヴァは人間の脳がいわば「御者」的に宇宙船の船体に組み込まれて一体化した存在だが、どちらか一方だけでは本当のヘルヴァとは言えない。彼女は宇宙船であり、宇宙船であって初めて彼女なのだ。この作品から思い出すのはベトナムにもルーツを持つフランス人作家アリエット・ド・ボダールのアジアン・テイスト満載のSFミステリ作品『茶匠と探偵』(竹書房、2019年)。主人公のシャドウズ・チャイルドと呼ばれる宇宙船「マインド・シップ」も頭脳は人工知能的なものだが、船全体がひとつの有機的・人格的存在だ。彼女は過去の事故の深いトラウマを抱え、航行していないときは心を落ち着けるドラッグを調合する「茶匠」として日銭を稼ぐ。『2001年宇宙の旅』のコンピュータHALも意思や多少の感情を示したが、「マインド・シップ」は深層心理を含む感情面が大きなウェイトを占めているのが印象深い。

 脳やソフトウェアとハードウェアとの組み合わせであるどの宇宙船も機械人も、構造的にはまさに「五蘊仮和合」。しかしここに挙げたSF作品を読んでいると、(フィクションだとはいえ)そこに否定し難い「自己」的なるものが立ち現れ得る不思議に惹かれてしまう。我が身もまた、「自己」は脳の生理学的プロセスの産物に過ぎず、「無我」であると合理的に考え得たとしても、全身を捉える不安や焦燥や愛慕などを感じるとき、それはひと筋縄ではいかないのではないか……。生命はあくまでも機械に宿ると信じている機械人タロイドから見ると、人間は生命とはおよそ無縁なはずの有機的物質の奇妙な化学的構築物にすぎない。それなのに人間たちが欲望や敵意や善意を示すことに衝撃を受ける。それを「無我」だと言って、タロイドたちはすんなり納得してくれるだろうか。池澤春菜氏が紹介してくださった他のSF作品とも合わせて、考えてみるとおもしろいかもしれない。

(いとう まこと・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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『現代と親鸞』第45号

伊藤真 掲載Contents

研究論文
■ 第65回現代と親鸞の研究会

坂上 暢幸 「裁判員体験とは何かを考える――裁判員制度十年を見つめて」

大城  聡 「良心的裁判員拒否と責任ある参加――制度開始十年を経て」

■ 「正信念仏偈」研究会

四方田犬彦 「アーカイヴとしての『教行信証』」

■ 源信『一乗要決』研究会

梯  信暁 「源信『往生要集』の菩提心論」

■ 第2回「現代と親鸞公開シンポジウム」報告

テーマ:「生まれることを肯定/否定できるのか?――反出生主義をめぐる問い

【提言】

青山 拓央 「生まれることの悪と、生み出すことの悪

竹内 綱史 「生のトータルな肯定は可能か――ショーペンハウアーとニーチェから」

難波 教行 「「生命讃仰」言説の落とし穴――親鸞思想を通して」

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加藤 秀一(コメンテーター)・中村 玲太(司会)

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(31)」

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第223回「ブッダの中にアイはない!?」

伊藤真

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

 9月末、長期に及んだ首都圏一都三県への緊急事態宣言がいったん解除となったが、相変わらず生活はストレスフルである。そんな中、少しでもすっきりしたいと、雑然としたデスクの片付けを試みた。するとある小さなピンバッジがどこからか出てきた。数年前に開催された仏教学に関する学会で、記念品として一人ひとつずついただいたもので、ありがたい仏像が描かれている……のではなくて、仏教に関するジョークまたはアフォリズムのような一節などが英語で記されている。学会主催校の事務局長を務められ、ジョークの達人として知られるケネス・タナカ博士が米国から取り寄せたものだという。


 私がいただいたバッジの文言はあとでご披露するとして、学会の懇親会でほかの参加者の方々とバッジを見せ合ったとき、思わず「くすっ」と笑ってしまった例をまずご紹介したい(恐縮ながらこのピンバッジが今月の「出会い」なので、あまり「ピン」とこないかもしれないが、今回は「くすっ」と言うと同時にコロナ禍のストレスもほんの少しでも「すっ」と吐き出しながらお読みいただきたい)。さてそのバッジの文言は——


 There is no I in Buddha


 直訳すれば「ブッダのなかにアイはない」。ジョークを解説するなんて「冗談だろう?!」という読者の声は聞こえないふりをして敢えて説明すれば、”Buddha”という単語の綴りのなかに”I”という文字はない、というのが文字面(もじづら)の意味。だがオチは”I”には「私」「我(われ)」という意味もあること……。なんとも洒落た「無我」の表現である。「ユーモアは仏教の教えを伝える効果的な手段でもあるのです」と、タナカ博士は言う。

 これに類したものでインターネットでもたくさん見かける有名なジョークがある(ジョークの常として、出典や創作者は不明・匿名のまま、いま風に言えばあちこちに「拡散」されている)。


 Why can’t the Buddha vacuum clean corners?(なぜブッダは掃除機で部屋の隅っこを掃除できないのか?)

 Because he has no attachments!(彼にはアタッチメントがないからさ!)


 ここではattachment は掃除機の先端に取り付ける隙間ノズル。でももう一つの意味は……「執着」だ。私たちも心の隅々にまで掃除機をかけたいものだが、掃除機自体も心だから、そこにはどれほど、どんなノズル(attachment)が付いているだろうか。


 数年前に欧州評議会を訪れたダライ・ラマ法王のニュース映像がある(これは冗談抜きで実話です)。神妙な顔つきで居並ぶ評議会のお偉方を前にして、ダライ・ラマ法王は「私はスマイル(笑顔)が大好きです。相手が笑顔になると私もとてもハッピーになれます」と切り出した。「でも相手があんまりまじめくさった顔をしていたら、こうすればいいんですよ」と言うなり、隣に座っていた理事の脇腹をいたずらっ子のように指で「つんつん」とひと突き、ふた突き!会場は爆笑に包まれた。「神秘の国の法王」に対する評議員たちの先入観というattachmentが一気に消えてなくなったに違いない。

 そんなダライ・ラマ法王が登場するジョークもある。誕生日プレゼントをもらったダライ・ラマ法王。だが箱を開けてみれば中身は空っぽ。そこでひとこと——”Just what I wanted, nothing!”(ちょうどほしかったもの、無(む)だ!)。


 笑いは消化によい、と哲学者のカントが言ったらしいが、確かにしょうかもしれない(え?誤植ですって……?)。だが笑いは一歩間違うと恐ろしい凶器にもなる。人を軽蔑し、文字通り笑い者にして傷つけるようなジョークは許されない。そうしたジョークを聞いてどっと周囲が笑えば、それはもう集団暴力だ。ぜひ心して「消化によい」笑いを噛みしめたいものである。

 もちろん仏教は人間の深い苦悩に救いの手を差し延べるものであり、特にコロナ禍で悲しみや不安が世を覆う中、切実な思いで宗教に向かう人も多いだろう。だがそんなときにも、ちょっとした笑いが、心を一瞬でも明るくするささやかな燈(ともしび)になることもあるのではないだろうか(今回の本欄もそんな思いで書いた)。


 最後に、学会で私がいただいたバッジに何が書いてあったか。それはジョークではなかった——Outside Wise, Inside a Fool(外見は賢人、中身は愚者)。心の奥底をグサっとひと刺し。みずからの存在の真実に対し深き反省を迫られるピンバッジであった。

(2021年11月1日)

追記:ケネス・タナカ博士の著書、Kenneth Tanaka, Buddhism on Air (Buddhist Education Center発行)の第40話や、同書の一部の拙訳書『アメリカ流 マインドを変える仏教入門』(春秋社)のコラム欄で、ほかにも仏教のユーモラスなお話が紹介されています。

 ※追記

ケネス・タナカ博士の著書、Kenneth Tanaka, Buddhism on Air (Buddhist Education Center発行)の第40話や、同書の一部の拙訳書『アメリカ流 マインドを変える仏教入門』(春秋社)のコラム欄で、ほかにも仏教のユーモラスなお話が紹介されています。

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今との出会い 第212回「疫禍の師走に想う「思い出の国」の人たち」

伊藤真

親鸞仏教センター嘱託研究員

伊藤  真

(ITO Makoto)

 今年も師走を迎えた。本文執筆時点では、清水寺で毎年発表される「今年の漢字」はわからないが、多くの人がいくつかの共通の漢字を思い浮かべているのではないだろうか。今年は歴史に刻まれる疫禍の年となった。そんな一年を振り返って思うことは多々あるが、緊急事態宣言や外出自粛などの政策により、スポーツ、コンサート、舞台、展覧会や映画などを会場で「生(なま)」で体験する機会が失われたことも大きかった。もちろん命があってのことではあるが、文化・芸術にじかに触れることで触発されるものは大きいと改めて感じる。今回は、行政の、そして自分自身の気分的な規制もようやく緩和されつつあった10月に、地元横浜のKAAT神奈川芸術劇場で観ることができた2本の舞台作品について述べたい。


 1本は同劇場芸術監督・白井晃演出の『銀河鉄道の夜2020』。25年前の作品の再演となる音楽劇だが、楽団のライブ演奏をバックに、「語り部」的な(賢治の妹トシの?)精霊・アメユキ(さねよしいさ子)の歌がイーハトーブの物語を引き出していく。原作もこの舞台作品も解釈は色々できるだろうが、脚本の能祖將夫は「亡くなった人はもちろん、生きている人の中にも、どれだけ会いたいと切望しても2度と叶わぬ人がいる……賢治は銀河鉄道を『思い出の国』に走らせたのだ」と述べている(同作品パンフレット)。『銀河鉄道の夜』には私自身の記憶と交錯する場面も多い。それが音と光の中で役者たちが躍動する舞台上の銀河鉄道に同乗してみると、本にも増して、時空を超えた感慨を呼び覚まされた。二十数年前、豪州の冬空高く輝く南十字星やさそり座を共に眺めた人たち。さらに遡れば、タイタニック号の悲劇の夜を語り聞かせてくれた生存者の英国の老婦人。鳥捕りの男がジョバンニらに雁を試食させるシーンでは、お菓子のような味だと言っているのに、なぜか番茶に浸したタラの塩漬けの一片を美味そうにしゃぶっていた(私が幼かった頃の)祖母を思い出した……。人の人生は多くの出会いと別れで紡がれているという当たり前のことを、舞台上の、そして私の心の中の「思い出の国」の人たちと出会って改めて感じた。


 もう一本の舞台作品は、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』に想を得て、「人類すべての成長物語」を構想したという谷賢一の作・演出による『人類史』。第一幕は人類が言葉や文化・芸術を生み出すまでを、イスラエルのダンサー、エラ・ホチルドがオンラインで振り付けたという身体表現(ダンス)で描き、権力の発生とその犠牲になる青年を描いた場面はギリシャ悲劇を思わせた。そして科学革命から現代までをエネルギッシュな群像劇で描く第二部はミュージカル仕立て(作品全体の音楽は志磨遼平)。200万年の時を3時間弱に詰め込む難しさは否めないが、ストーリーも演出もてんこ盛りの贅沢なこの作品で印象に残ったのは、人類が死者の追悼を始めた太古の葬送のしめやかな場面だった。村の長老と司祭を兼ねた役回りの「老人」(山路和弘)が、われわれの生は多くの死者たちの上にあることを残された者たちに語る。その意味で、壮大な「人類の成長物語」はまた、人類にとっての「思い出の国」の住人たちに対する、挽歌であり、讃歌でもあると感じた。


 席は一つ空きで会話も控えめ、当然ながら常時マスク着用、飲食も禁止だから幕間のロビーでのグラス一杯のワインもおあずけ…。そんな中でも劇場で「生(なま)」で触れることができた二本の作品が私の心身に沁み渡らせてくれたのは、私たちの今が、私たちの人生や人類の歴史を形作って「思い出の国」へと去っていった人たちと共にあるということ。疫禍に揺れた今年、そのことのかけがえのなさに力を得つつ、同時にまたその切なさをも噛みしめる師走である。

(2020年12月1日)

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