親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

Interview 第12回 今村純子氏「詩をもつこと ―シモーヌ・ヴェイユと現代―」後編

今村純子

思想史・芸術倫理学者

今村 純子

(IMAMURA Junko)

Introduction

 ――労働者に必要なのは、パンでもバターでもなく、美であり、詩である。

 

 今から約100年前のパリに生まれ、わずか34年でその生涯を閉じたユダヤ系フランス人の哲学者、シモーヌ・ヴェイユ(1909‐1943)の言葉である。

 人間を「モノ化」する風潮が蔓延する昨今、多くの人々が「生きづらさ」を抱え、自らの生に希望を見いだせずにいる。そのような閉塞感ただよう現代において、ヴェイユの言葉は独特の響きをもって――決して多くはないが、しかし確実に――読み継がれている。

 ヴェイユは、失われた実在(リアリティ)が喚起されるような出来事を「詩をもつこと」と言い表すが、そこで言われる「詩」とは一体何なのか。

 長年、ヴェイユ研究に携わり、『シモーヌ・ヴェイユの詩学』(慶應義塾大学出版会)の著者として知られる今村純子氏に、その深意をうかがった。

(名和 達宣)

 

【今回はインタビューの後編を掲載、前編はコチラから】

――そのことを紡ぎだすために、著書のなかでは『千と千尋の神隠し』、『ライフ・イズ・ビューティフル』 などの映画や、現実の状況に照らして確かめられていますね。

 

今村  ヴェイユの言葉はすべて、生々しい、己れに矛盾を突きつけてくる現実から紡ぎ出されたものです。こうした言葉はふたたび現実に立ち返る性向を有しているでしょう。だからこそ、確固たる現場をもつ労働者や芸術家のあいだで、ヴェイユが深く、そして広く読み継がれているのだと思います。

 ヴェイユは「両親に宛てた手紙」のなかで、自分のなかに「純金の預かり物」が宿ってしまったことを直覚せざるを得ないが、この預かり物は硬質で緻密であり、これを受け取るのは相当な注意力が必要なので、この預かり物を受け取ってくれる根気のある人がいないのではないか、と危惧しています。実際、ヴェイユの思想に肉薄しようとすればするほど、遠心力で吹き飛ばされるような感覚をもちます。この遠心力に抗するものは、実のところ、言葉ではなく、言葉とはまったく異なる位相の光なのではないかと思いました。ヴェイユの思想の核となる言葉のひとつに「宇宙は追憶からなっている」(「ピタゴラス派の学説について」、『前キリスト教的直観』所収)があるのですが、この言葉を念頭に置くと、映画という時間芸術はヴェイユの思想と親和性があるように思われました。

 たとえば、映画『千と千尋の神隠し』では、主人公「千尋」のキャラクター・デザインは変化しておらず、一貫して、不細工でひょろひょろとした女の子として描かれています。しかし映画を観る者は、二時間の時間の流れのなかで、次第にこの同じ女の子を「美しい」と感じ始めます。観る対象が変化したのではなく、観る私たちそれぞれの心が変化したわけです。千尋は、「したい」ことではなく「したくない」労働を通して詩を獲得してゆきます。初めは、「ここでは働かないものは生きていけない」とハクに説得され、意志による克己によって、次第に、「ハクは私を助けてくれたの。私もハクを助けたい」という自(みずか)らそうしたいと思う欲望によって、労働という、十歳の女の子にとってきわめて苛酷な必然性に同意してゆく姿が見られます。それが映画を観る者の美の感情を掻き立て、それぞれの心に詩を宿すのです。

 

――今村先生は、ヴェイユのことを「イメージの哲学者」だと称します。「われイメージする、ゆえにわれあり」であると。

 

今村  人間が生きていくためには、「イメージする力」、つまり想像力が必要不可欠です。デカルトから出発したヴェイユの思想を俯瞰するならば、「われ考える、ゆえにわれあり」が「われイメージする、ゆえにわれあり」へと転回してゆきます。2010年に、詩人で経営者の辻井喬氏[=堤清二氏](1927~2013年)にお話をお伺いした際(「詩と哲学を結ぶために」、『現代詩手帖特集版 シモーヌ・ヴェイユ』所収)、産業社会が末期に向かえば向かうほど、想像力が枯渇してくる、いまは末期だと思います、と明言されました。しかし、人は想像力なくしては生きることはできない、すると、なんとかして想像力を復元しようとする「想像力の紛い物」があらわれ、それが、新興宗教の台頭やテーマパークの増設ではないかとおっしゃられました。今日現在、このことはますます切実なものとなっているように思われます。

 ヴェイユは、「想像力」という言葉をよい意味で用いることはなく、たいがい「偽りの想像力」という言い方をします。これは、「遠近法の錯覚」のことで、物理的にも、心情的にも、近くのものはよく見え、遠くのものは霞んで見えてしまうということです。たとえば、遠くの国で何十万人という大虐殺があったことよりも、一緒に働いている隣の人の給料が上がって自分の給料が上がらなかったことのほうが深刻なわけです。比較にならない事柄の大きさなのに、心のなかの比重は逆転してしまう。そうならずに、物理的・心情的に遠いもののほうをイメージしうる力とは何かをヴェイユは生涯、考え抜きました。

 

 ――今のこの閉塞的な時代だからこそ、ヴェイユの言葉は確実に読み継がれていくと思います。あらためて、現代にヴェイユを読む意義、あるいは可能性とは何でしょう。

 

今村  いつ、いかなるときにおいても、たとえ時代と社会がどれほど醜悪なものであっても、「歴史的・社会的自己」を決して手放さないということが大切なのではないでしょうか。どのような時代、どのような社会に生きているのか、その時間的・空間的な一点から自己を切り離してしまうとき、ヴェイユにかぎらず、あらゆる思想を受け取る意味がなくなってしまうかと思います。そしてこの視点さえ手放さなければ、おのずから自己自身の個性と資質が見えてきます。ヴェイユが「どんなに凡庸な人でも天才となる」と述べるのは、この一点においてのみだと思います。

 忘れてはならないのは、私たちの誰一人、シモーヌ・ヴェイユではないということです。彼女の言葉は、受け取った人それぞれの具体的なイメージで捉え直したとき、初めて生きられ感じられるものとなります。そしてそのとき、実のところ、私たちはわれ知らずヴェイユから離れ、自分自身の思想を紡いでいると言えるのではないでしょうか。

(文責:親鸞仏教センター)

後編へ続く

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Interview 第11回 今村純子氏「詩をもつこと ―シモーヌ・ヴェイユと現代―」前編

今村純子

思想史・芸術倫理学者

今村 純子

(IMAMURA Junko)

Introduction

 ――労働者に必要なのは、パンでもバターでもなく、美であり、詩である。

 

 今から約100年前のパリに生まれ、わずか34年でその生涯を閉じたユダヤ系フランス人の哲学者、シモーヌ・ヴェイユ(1909‐1943)の言葉である。

 人間を「モノ化」する風潮が蔓延する昨今、多くの人々が「生きづらさ」を抱え、自らの生に希望を見いだせずにいる。そのような閉塞感ただよう現代において、ヴェイユの言葉は独特の響きをもって――決して多くはないが、しかし確実に――読み継がれている。

 ヴェイユは、失われた実在(リアリティ)が喚起されるような出来事を「詩をもつこと」と言い表すが、そこで言われる「詩」とは一体何なのか。

 長年、ヴェイユ研究に携わり、『シモーヌ・ヴェイユの詩学』(慶應義塾大学出版会)の著者として知られる今村純子氏に、その深意をうかがった。

(名和 達宣)

 

【今回はインタビューの前編を掲載、後編はコチラから】

――今村先生は、2009年の生誕百年の際に『現代詩帖特集版 シモーヌ・ヴェイユ――詩をもつこと』(思潮社)の責任編集をされました。この書を通して多くの方がヴェイユに出会う機会を得たと思いますが、先生ご自身はどのようにして出会われたのでしょうか。

今村 大学生の頃からヴェイユを読んでいましたが、出会い直したのは大学を卒業して就職してからです。ヴェイユが「工場日記」に「疲れた、疲れた」と記しているように、日々の生活に忙殺され、自分を失ってゆくような状況において、それこそ救命ブイのようにしてヴェイユを読んでいました。その後、哲学研究の道に進むのですが、「シモーヌ・ヴェイユであったら、自分を賭けられるのではないか」というような思いでした。

――従来のヴェイユに関する書物は「聖人伝」のようなものばかりです。それに対して、今村先生の著された『シモーヌ・ヴェイユの詩学』は、どこまでも言葉をとおして「存在の美」に触れようとする哲学書で、読むと非常にヴェイユが近く感じられました。先生にとって、ヴェイユの魅力とは何でしょうか。

今村 ヴェイユの言葉は、さほど洗練されたものではないです。同時代でしたらサミュエル・ベケット(1906‐1989)のような作家たちのほうがはるかに優れているでしょう。それにもかかわらずヴェイユの言葉が私たちを魅了するのは、彼女のごつごつ、ざらざらした言葉には、間違いなく彼女自身が映し出されているからです。まったく面識のないシモーヌ・ヴェイユという人が、読み手のすぐ隣にいる。いや、読み手の心のうちに住んでいる。それは言葉の洗練さとはまったく別次元のものかと思います。

 従来の研究や評伝では、ヴェイユの過激な人生や神秘体験が取り上げられ、聖人として扱われることがほとんどでした。でも、私は彼女を聖人だと思ったことはなく、むしろ、彼女が徹底的にダメな部分をもっているところに惹かれています。ストレートにスマートに歩く人よりも、つまづいたり、転んだりする人のほうに愛着を抱いてしまう。これは私たちの心性の矛盾であり、また、ヴェイユの言葉がそうした人間のさまざまな心性の矛盾を素朴に映し出してもいます。

 ヴェイユは生涯にわたってさまざまな経験をしていますが、実のところ、あまり他人の役に立っていないんですね。一生懸命なのですが、でも結果として他人の迷惑になってしまっている。これは、彼女自身にとってどれほどの「恥辱」であり、「屈辱」であったか計り知れないでしょう。そうした経験も踏まえて、論考「奴隷的ではない労働の第一条件」(『労働の条件』所収)では、労働者、すなわち社会の最下層に置かれ、人々から「見えない存在」とされている人たちに最も必要なのは「美」であり、「詩(ポエジー)」だと述べます。そのダイナミズムに私は最も関心があります。

 私たちが真摯に向かい合おうとしている相手が、いったい何を自分の核としているのかを見据える必要があるでしょう。シモーヌ・ヴェイユという人が最も活き活きと息づいているのは、彼女自身の言葉においてです。その一点を手放してしまうと、ヴェイユに向き合っているつもりが、実のところ、ヴェイユと無関係な場所にいることになってしまうかと思います。

――ヴェイユが労働者に必要だと言う「美」、「詩(ポエジー)」には独特の響きを感じます。何を表すのでしょうか。

今村 「美」や「詩」という言葉自体は世の中に飛び交っていますね。これらは人を酔わせる甘美な言葉です。ヴェイユが述べる「美」と「詩」はこれらとは位相を異にするので、彼女がこれらの言葉を発する、いわば海底の深さにまで潜らないと、これらの言葉をつかむことができないかと思います。「労働者に必要なのは、パンでもバターでもなく、美であり、詩である」というヴェイユの言葉は、前後のコンテキストから切り離されています。ですので、この言葉をどう受け取り、どう表現するのかが問われるわけですが、これはなかなか難しいものです。しかし、そうであるにもかかわらず、たえず受け取り手自身の言葉の発語への欲求を駆り立てるのです。そして実のところ、そのことが、最も大切なことなのではないかと思います。

 ヴェイユが述べる美の裏面には「不幸(malheur)」があるのですが、フランス語の語源に遡ると、「時間 (heure) が歪んでいる (mal) 」となります。ムンクの《叫び》のようなイメージです。たしかにそこに存在しているのに、「見えない存在」ないしモノに貶められてしまった人が「不幸」なのですが、銘記すべきは、そのように他者を扱ってしまうその人自身が「不幸」だと捉えていることです。たとえば、いじめの問題で、いじめられている人が「不幸」であるだけではなく、いじめているその人自身が「不幸」なわけです。なぜなら、他者が存在しているのにそれが見えないということは、その人自身の生のリアリティを手放してしまっているからです。論考「神への愛と不幸」で、ヴェイユは繰り返し、人々から見捨てられてしまった人のありようについて記述していますが、彼女が本当に解き明かしたいと願っているのは、むしろ、表面上は幸福そうに見える人たち、あるいは、自らが暴力を振るっていることにまったく気づいていない人たちの「不幸」です。

 このことは論考「『イーリアス』あるいは力の詩篇」の主題でもありますが、蹴る、殴る、さらには殺すといった暴力は、目に見える、素朴な暴力です。しかし最も深刻な暴力とは、当の本人に暴力の自覚がない暴力であり、それは、ここに人が「いる」のに「いない」とみなすこと、あるいは、「あったこと」を「なかったこと」にすることです。この暴力性に気づかない状態こそが人間の最大の「不幸」なわけです。これはなかなか目に見えてこないのですが、美の試金石にかけると、美か醜かがはっきりする。そのことをヴェイユは「美には呼びかける声がある」(「人格と聖なるもの」、『ロンドン論集とさいごの手紙』所収)と言うのですが、呼びかけられて動かずにはいられなくなる、そこにこそ詩が生きる可能性が見出されます。

(文責:親鸞仏教センター)


後編へ続く

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『アンジャリ』第31号

今村純子 掲載Contents

『アンジャリ』第31号

(2016年6月)

■ Contents

クリス・バージェス 「国際化、多文化共生、または日本の「開国」ジレンマ」

入不二基義 「哲学的なレスリング、レスリング的な哲学」

大熊  玄 「「哲学の博物館」という矛盾」

石川 九楊 「親鸞の書――その逆接と逆説」

櫻井 義秀 「カルトからの回復――レジリアンスを手がかりに」

下園 壮太 「「必ず乗り越えられる」という言葉の力」

今村 純子 「「見ること」から「創ること」へ―映画『Peace』をめぐって」

■ 連載
■ 巻末コラム

大谷 一郎 「反知性主義の悲しみ」

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