親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

〈いのち〉という語りを問い直す

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

■特集の趣旨

 いのち(命・生命・イノチ・寿))―の次に続ける言葉は何ですか。「大切」?それとも「矛盾」?

 私たちは「いのちという矛盾」を生きているように思います。大いなる、しかし個性も名前もないいのちれたいのはに対して、いまここを生きる「私」の誕生。大切にされたいのはいのちなのか、私なのか。私という個としてのいのちと、大いなるいのちを生きつつ、ここには調和されない緊張関係があるのではないでしょうか。そして、私を生きる以上、避けることのできない罪悪、いのちがいのちを害さずにはいられない、という問題。この罪悪の私は大切なのだろうか。

 このいのちという語りは時代によって変化し、宗教、文学、科学などによっても様々に語られてきました。いのちを語り始めるとき、まずその複雑さに一度驚くべきなのかもしれません。特集では、 〈いのち〉という語りについて改めて考えていきます。

(なかむら りょうた・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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『アンジャリ』第41号

中村玲太 掲載Contents

『アンジャリ』第41号

(2021年12月)

■ 特集「〈いのち〉という語りを問い直す」

池澤 春菜 「ヒトのイノチの先に」

岩田 文昭 「いのちの否定と肯定」

大谷 由香 「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」

■ 連載
■ Eassais(エッセイズ)

天畠 大輔 「「あ、か、さ、た、な」で能力を考える」

宮本 ゆき 「核兵器と「悪」」

山田由香里 「祈りの造形を削り出す――鉄川与助の手仕事が生んだ聖なる空間」

■ 交差点

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コラム・エッセイ
講座・イベント
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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『現代と親鸞』第45号

中村玲太 掲載Contents

研究論文
■ 第65回現代と親鸞の研究会

坂上 暢幸 「裁判員体験とは何かを考える――裁判員制度十年を見つめて」

大城  聡 「良心的裁判員拒否と責任ある参加――制度開始十年を経て」

■ 「正信念仏偈」研究会

四方田犬彦 「アーカイヴとしての『教行信証』」

■ 源信『一乗要決』研究会

梯  信暁 「源信『往生要集』の菩提心論」

■ 第2回「現代と親鸞公開シンポジウム」報告

テーマ:「生まれることを肯定/否定できるのか?――反出生主義をめぐる問い

【提言】

青山 拓央 「生まれることの悪と、生み出すことの悪

竹内 綱史 「生のトータルな肯定は可能か――ショーペンハウアーとニーチェから」

難波 教行 「「生命讃仰」言説の落とし穴――親鸞思想を通して」

【全体討議】

加藤 秀一(コメンテーター)・中村 玲太(司会)

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(31)」

コラム・エッセイ
講座・イベント
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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

「親鸞仏教センター通信」第79号

中村玲太 掲載Content

巻頭言

藤村  潔 「「モノ」と幸せ」

■ 第66回現代と親鸞の研究会報告

講師 安藤 礼二 「鈴木大拙の浄土論

報告 田村 晃徳

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会報告

講師 三枝 暁子 「身分制からみた中世社会」

報告 中村 玲太

■ 近現代『教行信証』研究検証プロジェクト報告

講師 栁澤 正志 「日本天台浄土教と『教行信証』」

報告 藤村  潔

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

東  真行 「北橋 茂男(1900〜1966)」

コラム・エッセイ
講座・イベント
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研究会・Interview
投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第220回「そういう状態」

中村玲太

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態」

(平岡あみ)


 穂村弘『はじめての短歌』(河出文庫)の第一講のタイトルは、「ぼくらは二重に生きていて、短歌を恋しいと思っている」。さらにその第一節のタイトルは、「〇・五秒のコミュニケーションが発動する」。そこで紹介される短歌、「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態」にある、「そういう状態」はことあるごとに反すうしている、してしまう。ここで穂村が提示する改悪例は、「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋は散らかっている」だ。

 誤読の可能性を減らすのが目的であれば、「散らかっている」がよい文章になる。しかし、穂村はそれを短歌における改悪例だとし、「「散らかっている」と言われると、それ以上意識や感情が動かない。「散らかっている」という言葉はラベルだから、それをペタリと貼られると、心が動かない。/だけど「そういう状態」というのは明確なラベルじゃないから「え、そういう状態って?」という心が発動する」と解説する。


 穂村弘はコミュニケーションの発動に注目するが、この言葉はあえて共通理解(穂村の言うラベル)を外す、絶妙にずらすことで、ラベルを貼りつけては表現できない生の存在、リアリティとでも言うべきものが現れていると見ることも可能だろう。それは〈生きる〉ということは、この私にしか生きられない生を生きるということであり、どうしても他者からすれば共通した理解から外れた、曖昧でわかりにくい部分が存在するはずだ。こうした部分が存在することにこそ一人一人の〈生きる〉手触りのようなものが立ち現れているとも言えよう。

 先の「そういう状態」というのは、あえてわかりやすいラベルを貼るのを一歩止まることで、そうとしか言いようのない私に生きられた部屋の手触りが現れている。


 あるいは当人にしか見えないリアリティを具体的に言語化する。このような表現はまさに詩人の面目躍如と言ったところであろう。では、「散らかっている」というようなわかりやすいラベルを貼ることは間違いなのか。そうとは言えないと思う。詩や一般的なコミュニケーションレベルの問題ではなく、私たちは常日頃、そうした共通理解の得られるような何の変哲もない言葉に、意識・無意識的に自分にしか生きられない生を託しているのではないだろうか。自分にしか生きられない生を生きている以上、どう表現されたとしてもその背後には私だけの〈生きる〉手触りが隠されている。しかし、その手触りが、他者に向けた電波には乗らないのである。

 表現されたものに〈生きる〉手触りを教えられることもある一方で、ラベリングした言葉だけの世界を生きることで、いまこの世界がわかりやすい、しかし自己のリアリティから離れたものにもなる。世界が滞留していく。心を動かなくさせるのは、自分自身についてもである。


 浄土教の説く「悪」というのは、それは普遍的な「悪」なのであろう。その悪を具体的に生きるのが私たちである。ちょうど三次元立体の表面を二次元の展開図にするようなもので、森博嗣の言葉を借りれば、「展開というのは、自分にできること、自分の現実に存在するものとして、具体化すること」(『キャサリンはどのように子供を産んだのか?』、講談社タイガ)。

 悪を自覚した先達の言葉を聞き、自分以上に自分を言い当てた言葉と出会っていく。そして私もまた罪悪を表現していく。ただ、普遍的に響く教え――個人を超えた他力による言葉――は私の生においてそれが具体的な形となって展開されていくはずだ。自分にしかない罪悪の現実性がある。


 罪悪を吐露した言葉が、一種のラベルとなり、自分が属するコミュニティではわかりやすい定型句と化していく時、果たしてそれがいま・私のリアリティと乖離してはいないか。つねにズレていくものであり、そのズレを自覚し、表現されたものと私の現実性とのあいだを揺れ動かなければならないのであろう。この二重性は離れ得るものではないが、揺れ動くことでしか世界は攪拌されないように思う。

(2021年8月1日)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

『現代と親鸞』第44号

中村玲太 掲載Contents

研究論文
研究レポート
■ 第62回現代と親鸞の研究会

佐藤 卓己 「「ポスト真実」時代の輿論主義と世論主義」

■ 第63回現代と親鸞の研究会

橋本 健二 「現代日本の階級社会とアンダークラス」

■ 第64回現代と親鸞の研究会

伊藤  聡 「「神国日本」という語りの重層性」

■ 第1回「現代と親鸞公開シンポジウム」報告

テーマ:「〈かたられる〉死者」

【問題提起】

中村 玲太 「〈かたられる〉死者」」

【提言】

加藤 秀一 「亡き人を〈悼む〉こと、「死者」を忘れること」

師  茂樹 「「死者」はどこにいるのか―仏教の死者観と人間中心主義―」

吉水 岳彦 「極楽に住き生まれて」

【全体討議】

佐藤 啓介(コメンテーター)・中村 玲太(司会)

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(30)」

コラム・エッセイ
講座・イベント
刊行物のご案内

研究会・Interview
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『アンジャリ』WEB版(2021年5月15日更新号)

中村玲太 目次

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亀裂のなかで生きること
亀裂のなかで生きること 神戸大学人文学研究科講師 齋藤 公太 (SAITO Kota)  新型コロナウイルスの存在が国際ニュースの一角を占めるようになったのは、2019年の末頃だったろうか。それは当初遠い場所の出来事のように聞こえていたが、日本でも感染が広がり、人々の生活が一変するまで、さして長い時間はかからなかった。今や外出時にマスクをつけ、念入りに手指を消毒する生活にはすっかり慣れた。しかし、何か世界の位相がズレてしまったような居心地の悪さは、底流のように続いている。...
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呼びかけられる
呼びかけられる 哲学研究者 永井 玲衣 (NAGAI Rei)  遠くから、おーいと呼びかけられることが好きだった。  おーい、おーい、と声がする。風が顔を吹き付けていて、少し肌寒いと感じるあの日のことだ。西日の傾きがゆっくりと一日が終わることを示していて、放課後の気だるい空気が漂っている。おーい、おーい、とまだ声がする。周りにひとはいなくて、わたしは平坦なゴム製のグラウンドをゆっくり踏みしめて西校舎に向かっている。おーい、おーい。だんだんとその声が、わたしの聞き慣れた声であることが分かってくる。おーい、永井、おーい。わたしの名前が呼ばれる。わたしは振り返って、声のする方を見上げる。友だちが、校舎の3階からわたしに手を振っている。おーい、おーい。...
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「うったう」――共感するという希望
「うったう」――共感するという希望 シンガーソングライター 寺尾 紗穂 (TERAO Saho)  アーティストとは何だろうとよく考える。私の身の回りの音楽のアーティストを見回すと、よく聞き、よく作り、よく演奏する人々という印象だ。ことに男性アーティストの多くが、熱心なリスナーであり、そこから自らの音楽にエッセンスを取り込んで作っていくことに長けているように感じる。私はと言えば、日常的に音楽を聴くことが出来ない。音楽を聴くときは誰かから「これがいいよ」と音源を渡されたり、知り合いのミュージシャンから新作を手渡された時などだ。歌もののアルバムであれば、歌詞カードを見ながら集中して過ごす一時間弱であって、それ以外に音楽を聴くということから遠ざかっている。加えて音楽を作る時間というのは日常的にない。私にとっての作曲は自転車に乗っているとき、あるいはお風呂に入っている時、あるいは駅で電車を待っている時ふいに思いつくものであって、その場でコードや歌詞を書きとめて、後でまとめることだ。例外的に人の詩に曲をつけたり、珍しく詩だけが先にできあがっている時は、30分くらいピアノの前に座って作るけれど、それは稀にだ。そんな具合だから、意識的に聞いたり作ったりがほとんどない自分はアーティストと名のっていいのかどうか、今でも自信がない。ピアノ弾き語りという形で活動はしているけれど、似非アーティストと言われても、「はい、そうかもしれません」と答えるしかない。...
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「隔離」の残響
「隔離」の残響 現代美術家・ホーメイ歌手 山川 冬樹 (YAMAKAWA Fuyuki)  昨年から「隔離」という言葉を頻繁に耳にするようになった。  この言葉を聞いて、わたしがどうしても想起せざるを得ないのは、ハンセン病をめぐる「絶対隔離」のことである。ここ数年、ハンセン病療養所に通い、回復者たちと密に関わりながらアートプロジェクトに従事してきた身からすると、この「隔離」という言葉を聞くたびに、どこか刃物で胸を突き刺されるような痛みを感じずにはいられない。さすがに最近は少し聞き慣れてはきたものの、この「隔離」という言葉が急にマスメディアで取り沙汰されはじめた頃は、思わず熱を出して寝込んでしまうほどだった。...
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日常を永遠と。――浄土に呼び起こされる現実について
日常を永遠と。――浄土に呼び起こされる現実について 親鸞仏教センター嘱託研究員 中村 玲太 (NAKAMURA Ryota) 「もっと乱暴に、世の中の宙ぶらりんな物語を終わらせるべく襤褸の少女を派遣するというのはどうだろう。襤褸を着た少女がよたよたと歩いてきて空を見上げ「あ、流れ星」と呟くぐらいでもいいとも思う。世のありとあらゆる物語の中を渡り歩いてラストシーンを飾るというのは、大変に幸せな職業かもしれない」(高山羽根子「「了」という名の襤褸の少女」、『うどん キツネつきの』〔創元SF文庫〕所収)...
飯島孝良顔写真
テクストとしての宗教を読むということ――「語られた」像の思想史を描出する
テクストとしての宗教を読むということ――「語られた」像の思想史を描出する 親鸞仏教センター嘱託研究員 飯島 孝良 (IIJIMA Takayoshi)  いささか面映ゆいことではあるが、ごく私的な経験談から始めたい。10代の終わり、学問的な気風に接することなく過ごしてきた私にとって、恩師が示して下さった“聖書学”という分野は、ひとつのカルチャーショックであった。聖書学は、聖書にちりばめられた「奇蹟(物語)」や「超自然」を合理主義の下に排し、人間イエスの精神とその時代を出来る限り客観的に描出することに努める営為である。すなわち、イエス自身の言行と思われたものも、福音書の記述と編集の段階で弟子や原始教団の意図や認識によって創出されたものであって、史実そのもののイエスを語るというよりも、記者や編集者それぞれの問題意識を反映した〈像〉と看做すのである。このように「史的イエス」探究を軸とした聖書学は20世紀に隆盛を極め、古代史学や社会心理学や言語学(言語行為論など)を総合的に踏まえてイエスとその時代を分析する「文学社会学」的聖書学へと結実していった。...
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忘却を経てなお――森﨑東の言葉に寄せて
忘却を経てなお――森﨑東の言葉に寄せて 親鸞仏教センター研究員 東  真行 (AZUMA Shingyo)  言葉はあくまで伝えたいことの「入れ物」なのだと、ある音楽家はいう。寺尾紗穂氏が述べるように「歌」と「訴え」が相通じているとして、こんな言い換えは可能だろうか。訴えの込められた入れ物が歌だと。  切実な思いだからこそ、音に乗せるのか。親鸞もたくさんの和讃を遺している。それらは黙読される文字である以上に、読誦される言葉として今なお息づいている。読む者のみならず、勤行の会座を共にする聴聞者の心身をも文字通り震わせてきた。...
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景色がかわるとき
景色がかわるとき 親鸞仏教センター研究員 谷釜 智洋 (TANIGAMA Chihiro)  「人格ある誰かを見失うな」。山川冬樹氏のインタビュー記事の見出しである(『毎日新聞』東京夕刊2020年6月8日)。偶然みつけたこの記事をきっかけに、山川氏が「ハンセン病問題」に向き合った『海峡の歌』というインスタレーションを発表していることを知った。かねてから氏のライブパフォーマンスには常に驚かされ、その世界観に魅了されてきたが、この『海峡の歌』に込められた思いには特に惹きつけられた。...
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日常を永遠と。――浄土に呼び起こされる現実について

中村玲太

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

「もっと乱暴に、世の中の宙ぶらりんな物語を終わらせるべく襤褸の少女を派遣するというのはどうだろう。襤褸を着た少女がよたよたと歩いてきて空を見上げ「あ、流れ星」と呟くぐらいでもいいとも思う。世のありとあらゆる物語の中を渡り歩いてラストシーンを飾るというのは、大変に幸せな職業かもしれない」(高山羽根子「「了」という名の襤褸の少女」、『うどん キツネつきの』〔創元SF文庫〕所収)

 

 下に引っ張りすぎたTwitterが更新を渋っている。日常のネタ切れ。最初からそうしていればよいのだが、ようやく電子書籍に目を落とす。

 高山羽根子を読む。高山作品としては「母のいる島」「ビースト・ストランディング」が好みではある。奇想的な物語にあって細部が際立つリアルな描写、そこに抜群のユーモアが散りばめられている。この辺が読みやすい物語ではあるが、「オブジェクタム」「居た場所」のような、いびつな日常をウロウロさせ、消化不良が続き、なぜかいつまでも自分の中で生き続ける物語もある。これもまた魅力。

 

 もはや無意識的に「日常」と書いているが、過去に書いた自分の文章を読んでみても、「日常」や「生活」という言葉に高確率で出くわす。着実に「日常」が増えている。地に足つけた日常生活の重要性を、自分に言い聞かせるように書くのは、ダラダラと延々と続く日常の退屈さ、耐えられなさとの葛藤のようにも思う。

 高山は冒頭のエッセイ中に、物語を終わらせる行為の難しさを語っている。「とくに現実に近い物語であればあるほど、終わらせ方に困る。そもそも現実は終わらないものだから、物語の上で終わらせる時には違和感を法螺で注意深く塗り潰す作業のような行為が必要だと信じ、そのために手に余らせてしまう」と。現実は歯切れが悪く、どこまでもそうでありながら続く。

 

Δ

 

 日常と浄土。グダグダと延々と考えている問題だ。日常の延長が浄土なのだろうか。煩悩具足の生活を引き延ばした先が浄土ではないだろう。しかも、煩悩を本質とした生活を、自力の努力でその本質を変えることができないとすれば、我が身の想像の範疇を超えているとしか言いようがないはずだ。

 

 ここで考えるのは、浄土がこの世、穢土と隔絶しているとして、それをどう思考すべきか。穢土と浄土を並べて相対的に比較するのは、穢土も浄土も俯瞰して見る超越的視点である。果たしてこれは凡夫の範疇で成立する視点だろうか。

 しないのだと思う。この世界の否定形としてしか我々に現れ得ないのが浄土なのだと思うが、それはこの世界を超えた外側――にこちら側が立つ視点を常に奪う働きである。「今、ここでしかない」と有限性を自覚させる、外へと向かう視線を内側へとひっくり返す働きが「他力」と呼ばれる弥陀の本願力なのだと考えたい。

 

 しかし浄土教は、この世界はこの世界のままでよい、そのまま肯定されるのだ、という思想とは一線を画すものだ。それは外側から世界や〈いのち〉を丸ごと肯定する視点を剥奪するという形で、我々に現前し続けるのが浄土の働きなのだと思う。

 法然の直弟、西山義祖・證空は『散善義自筆鈔』巻一で、「具造十悪五逆、トライハ、生々世々ノ中ニ六道ニ輪廻シテ、造ラザル罪ナシ。愚痴迷惑ノ故ニ、スベテ是ヲ知ラズ。今仏願ノ不思議ナル事ヲ知ル時、無始已来ノ諸悪悉ク是ヲ悟ル事ヲ釈シ顕スナリ」(西叢二、187頁)と言う。無限の救済によって知らされる我が身は、あくまで「諸悪」、罪業を造り続けている身なのだ。それ以上ではない。ひとを傷つけ、自分を傷つけ、苦しみ呻く世界。ここにある自他の呻きの声に対して、何か超越的な視点で世界を肯定し、糊塗してしまうのではなく、悪や苦しみを「それをそれとして見る」のだ。しかし、それと同時に、人生を丸ごと否定する視点からも程遠い、いや断絶している。

 

 無限の救済に触れる我々の視点は、この世界や〈いのち〉の全肯定でも全否定でもなく、そうした視点に立ち得ない有限なる在り方の自覚ではないだろうか。我々にできるのはせめて部分肯定だけなのだと。なぜ部分肯定ではダメなのか。本来、こう問われるべきものなのかもしれない。

 いずれにせよ、無限の救済に触れる我々の現実は単なる現実ではない、外側のなさと同居した現実であり、それは無限の浄土に裏打ちされた現実なのである。

 

Δ

 

 5才のよつばの日常を描く漫画、あずまきよひこ『よつばと!』(電撃コミックス)15巻を読み直しながら、『親鸞仏教センター通信』第77号(2021年6月発行)の「あとがき」の校正をしている。自分で執筆したものだが、そこには相も変わらず「日常」と書いている。「帰るべき日常などというものは本来ないのかもしれない。日常は今までに想いを馳せ、新しさに驚嘆しながらちょっとずつ作られていていく――作っていかなければならないのだろう」と。

 全肯定/全否定のケジメをつけられない歯切れの悪い私の日常は、常に点検が必要だし、これはまあまあいい経験をしたと喜び、拭えぬ退屈さからSNSに逃避しては現実に巻き戻される。

 

 本来的に帰るべき、という形容がし難いのが日常なら、それを超えた浄土こそ帰るべき存在の本来的世界だとも言えようか。帰るべき世界からの呼び声に耳を傾けて、ふと現実に巻き戻されるだけではなく、そもそも我々にとっての現実とは何かを延々と考えていくべきなのだろう。

 

※本稿は、第2回「現代と親鸞」公開シンポジウム(テーマ:生まれることを肯定/否定できるのか?――反出生主義をめぐる問い)の問題提起を受けるものである。報告記事参照のこと。

(なかむら りょうた・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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『アンジャリ』WEB版(2020年6月15日更新号)
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「親鸞仏教センター通信」第75号

中村玲太 掲載Contents

巻頭言

藤村  潔 「罪と救い―「阿闍世」からの想起―」

■ 「親鸞と中世被差別民に関する研究会」発足に際して

中村 玲太

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

講師 上杉  聰 「部落史研究からみた親鸞聖人の思想と時代」(前編)

報告 菊池 弘宣

■ 特別寄稿

三枝 暁子 「中世身分制研究の軌跡と展望」

■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」

谷釜 智洋 「米沢英雄(1909〜1991)」

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い 第209回「順接か逆接かそれとも超越か」

中村玲太

親鸞仏教センター嘱託研究員

中村 玲太

(NAKAMURA Ryota)

 雨が重い。この重さは実際には主観の域を出ないくらいのものだ。特に何の想いもなくなるようななだらかな雨の日に、思い出す言葉があるのだが、少し回り道をしながら遠出もしよう。

 

「間違って降りてしまった駅だから改札できみが待ってる気がする」

(鈴木美紀子)


 この短歌を穂村弘は、「こちらも間違いがもう一つの世界を開くパターンの歌。「だから」で一瞬混乱する。でも、合っているのだ。正しい「駅」には「きみ」はいないのだから。偶然の間違いによって、パラレルなもう一つの人生に踏み込んだ感覚がときめきに繫がっている」と解説する(『ぼくの短歌ノート』〔講談社文庫、2018〕、「間違いのある歌 その2」より)。

 穂村弘の指摘通り、「だから」で、順接で確かに合っているのだ。しかし、ここで焦点を合わせるべきは「ときめき」なのだろうか。勿論、間違いに踏み込むその一瞬にときめきが雪崩れ込んでくる感覚はわかる。しかし、正しい駅にはきみはいないという叶わぬ、もしくは終わった何かを懐いた日常感覚が逆接的に前景化している一首なのではないかと考える。


「雨が好きなんです。晴れているとみんながキラキラしているように感じて、それがなんとなくグサッて心に響いたり。私が泣くときは、雨が降っている日が多いんです(笑)」

(平手友梨奈、『Numero TOKYO』2020年3月号より)


 ここには順接も逆接もない。「私が泣くとき」は、文脈上どのように位置づけられるのかが少し難しい。晴れの日がグサっと心に響く、「だから」。ならば、(反対に)価値あるものとして「私が泣くとき」を意味づけ、そのときである雨の日が好きなんだとわかりやすい。それはきっと違うような気がする。順接も逆接もなく、雨が好きだし、晴れの日はグサって心に響くし、私は雨の日に泣く。どれもシームレスにつながっていて、意義の地平としては同じところにあるのではないかと思う。


――私は悪人、だが、救われるのだろうか。それが真に信じられるかは別にして、この逆接はわかりやすい。私は悪人、だから、救われるのだろうか。諸仏も見捨てた罪悪を抱える凡夫を、正覚成就の場として選んだ弥陀の本願をこのような順接として捉えることは可能かもしれない。

 しかし、「悪人」ということ一つとってもそれが如来にとってどのような意味があるのか、わかり得るものであるのか。先の問いは正確には、如来にとって私は悪人、だが/だから、ということになる。ここにある如来の範疇としての意味連関を凡夫が認識できるとは思えない。凡夫が想定し得る道徳的な因果律との断絶を示すのが弥陀の本願ではないのだろうか。


 そこにあるのは、悪人(私)は救われる、というたった一つの事象ではないか。それだけで十分なはずだ。しかし、だが/だから、と右往左往せねばわからないのが凡夫である。その順接逆接を行き来しながら、「だが」と卑下せず、「だから」と開き直らない世界を聞かなければならないのだと思う。

(2020年9月1日)

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