親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第249回「存在の故郷」④

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

一如

 菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀如来はその果を確保する手がかりとして、それらを一切の衆生に与えんと、大悲をもって誓っている。阿弥陀如来は、衆生の存在の故郷として仏土を建立するのだが、この国土において衆生に涅槃の超証を必定とする正定聚の位を与えようと誓うのは、菩提という課題を成就するためだとされるのである。


 ところで、阿弥陀如来の願心に不退転が誓われていることは、大涅槃に至るという究極的な目的から再考してみると、いかなる意味を持つと言えるだろうか。親鸞はこの内実を、凡夫である自己にとってどのようなことと受けとめたのであろうか。そして、大涅槃が存在の故郷であることは、それが衆生という存在にとって究極の目的であるということにとどまるのであろうか。


 ここに、親鸞が『大無量寿経』を「真実の教 浄土真宗」(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』初版〔以下、『聖典』〕150頁)と捉えて顕示されたことの意味をしっかり確認しなければなるまい。その問いに向き合う時、親鸞が法蔵菩薩の意味について「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり」(『一念多念文意』、『聖典』543頁)と了解されていることが思い合わされる。『大無量寿経』は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』「教巻」、『聖典』152頁)と押さえられているように、法蔵菩薩の本願を説き表している。その経説が「一如」から出発している教言であると言うのである。一如は、法性や仏性など、大涅槃と同質・同義であるとも注釈されている(『唯信鈔文意』、『聖典』554頁参照)


 法蔵菩薩がこの一如からかたちをあらわした菩薩であるということは、大涅槃が究極の終点ではなく、菩薩道の出発点であるということを暗示していると見ることもできよう。


 そもそも我らの生存は、時間的にも空間的にも重々無尽(じゅうじゅうむじん)の因縁関係の中に与えられているのではないか。そして仏陀の教意には、このことを衆生に気づかせようとすることがあるのではないか。釈迦如来が五濁悪世に降誕し無我の覚りを開いた背景には、すでに無窮というもいうべき菩提心の歴史的な歩みがあったと、仏陀自ら聞き当て衆生にもそのように説いてきた。このことは、『大無量寿経』における法蔵菩薩の求道の歩みの、背景が五十三仏の伝承として押さえられていることにも窺うことができる。


 かくして、仏法においては無始以来の生命の歴史とも言えるような求道心が教えられ、その教えをしかと受けとめた時、その者は三世諸仏の伝承に入れしめられるとして語られるのであろう。

(2024年4月1日)

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