親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

とんちと風狂の「虚実皮膜」―現代にあらわれ続ける一休像―

とんちと風狂の「虚実皮膜」

―現代にあらわれ続ける一休像―

嘱託研究員

飯島 孝良

(IIJIMA Takayoshi)

 一休宗純(1394~1481)は、知名度という点では群を抜いている。たとえば、「一休さん、一休さん、はなおかの一休さん、ともしび灯す心~」という仏壇店のCMソングに耳馴染みのある方が、信州あたりにはおられるのではないだろうか。このテレビCMは長野県に展開する「はなおか」がはじめのようであるが、それ以外にも、米永(石川県)、かじそ(福井県)、ほこだて仏光堂(宮城県)、大黒堂(福島県)、開運堂(山梨県)などの仏壇店も、一休とタヌキ・ウサギが登場する同じフォーマットでCMを展開している。一見すると不思議な現象であるが、はなおかは「一休さん」の商標登録権を所有しており、同じCMを各社も利用しているということのようである。この一休のCMを用いている各社は、社名に「一休さんの○○」と冠するほど、そのイメージを定着させている。

 

 一休は、やはり「とんち坊主」の親しみやすいイメージが強いようである。「あわてない、あわてない」のセリフで一世を風靡したアニメ『一休さん』は、中国やタイでも人気が高い。とはいえ、放送されていたのは1975年~1982年のことであり、いまの世代は絵本などで触れることが多いようだ。このため、最近の講義で一休のことを取り上げると、受講者の感想に「一休が実在したとはじめて知りました」というものが、年を追うごとに増えている気もする。

 

 こうした現象は、歴史上で著名な存在をめぐってしばしばみられるものでもある。つまり、いつともしれず逸話や俗伝の類が追補されていき、或る部分が極大化することもあれば、或る部分が曲解されて伝わっていくこともある。そうして、虚像がどんどん拡大し多層化するのである。ときには、その実在すらわからなくなる、というわけである。

 

 その一例として興味深いのは、真宗において、一休が本願寺中興の祖・蓮如(1415~1499)と親しく交流していたと伝えられてきたことである。これは、一休が修行した祥瑞寺と、蓮如が一時期活動拠点としていた本福寺とが、ともに堅田(滋賀県大津市)で向かい合う位置にあったことにも起因するものに思われる。ただ、これが単に逸話として伝わるのみならず、真宗教学でも言及されるようになっていく。その一例が、敬信『浄土真宗流義問答』(正徳六年[1716]刊)である。その巻三下には、徳川期の儒学者・永田善斎(ながた・ぜんさい、1597~1664)の漢文随筆『膾餘雑録』(かいよざつろく、承応二年[1653]刊)を引用しつつ、一休について言及している。永田が一休を「実に大悟明眼の一異人」であると評価していることに追補する形で、一休にはその世話をしていた尼の森侍者(森女)がおり、その師である華叟宗曇(かそう・そうどん、1352~1428)は大津堅田の祥瑞寺に蟄居して尼と漁業を営んでいたことから、華叟と一休はともに肉食妻帯していたと記している。そして、その肉食妻帯について今も昔も誰ひとり批判する者がなかったのは、その徳が高かったゆえである、と述べるのである。この記述が示すのは、大津堅田で真宗門徒に近いところにいた華叟や一休も肉食妻帯をしており、有徳であることから誰も咎めることがなかったことを強調する意図である。それは翻って、親鸞や蓮如以来、肉食妻帯をいとわぬ教えを受け継いできた真宗の在り方を改めて意識させるものといえる。ただし、華叟は正長元年[1428]に示寂していることから、応仁の乱(1467~1477)のときまで堅田に蟄居していたということは誤りであり、尼僧が傍らにいたかもはっきりとはしない。こうした一休像を提示するのは、ことによると、真宗側の牽強付会ともみえてくる。

 

 もうひとつ興味深い事例は、徳川期の戯作である。山東京伝『本朝酔菩提全伝』(ほんちょうすいぼだいぜんでん、文化六年[1809]成立)には、一休が楽器を演奏する骸骨とともに酒宴を楽しみ、遊女との一夜を味わう姿が描かれる。「風狂」一休の面目躍如というべき場面であるが、その着想の源のひとつとなっているのは、『一休骸骨』(奥付は康正三年[1457])である。一休と思しき僧が墓場に迷い込み、そこで骸骨どもが呑めや歌えの大騒ぎを楽しむところから始まる本書では、人間が欲望におぼれ最後は虚しく没していくさまが、一貫して骸骨の姿で描かれる。内容的には「空」の思想など仏教の基本的な考えを示すものである(が、一休自身の真筆というわけではなく、一休の名を冠した入門書といった性格がある)。ここに描かれる骸骨の姿は、まさに『本朝酔菩提全伝』に描かれるものと重なる。この場面のもうひとつの典拠というべき徳川期の『一休関東咄』(いっきゅうかんとうばなし)第七「堺の浦にて遊女と歌問答の事」には、一休が「地獄といえる遊女」と歌の応酬をする逸話が伝わる。地獄太夫の姿を前に、一休は「聞きしより見て怖ろしき地獄かな」と上の句を示すと、地獄太夫は「しにくる人のおちざるはなし」と返すのである。己の生そのものを「地獄」と認識している太夫は、欲望のままに――つまり肉欲にあふれて――自分の元にやってくる男どもなど、空の何たるか、仏の何たるかがわかるまい、と批判するかのように挑みかかって来る。しかし、地獄太夫はそうした自身の生こそ、男どもを自らの煩悩に向き合わせる仏道そのものと捉えていたようにもみえる。ただし、地獄太夫の逸話は一休自身の手で書かれた漢詩集の『狂雲集』や『自戒集』、或いは一休の弟子たちによる『一休和尚年譜』などにはみられない。一休の「風狂」と相まって、そうした強烈なキャラクターが後代に創作されたものと考えられる。

 

 いま、真宗での言及と山東京伝の描出を例にとったが、これらが全くの捏造であると言いたいのではない。むしろ、そうした像は一休が『狂雲集』『自戒集』といった著作類で述べる考え方に何らかの形で重なり、どこかで実像を髣髴とさせるものでもある。先ほど『浄土真宗流義問答』で言及のあった森侍者(森女)にしても、『狂雲集』で森女との純愛を詠い、生々しいまでのエロスを赤裸々に描いているのである。これは室町禅林文学ではもちろん、それまでの漢文学でも類をみないものとなっている。また『狂雲集』によれば、文明二年[1470]11月14日、一休77歳のときに住吉神社の薬師堂で森女と出逢ってその艶歌を聴き、翌年春に住吉の雲門庵で再会して、互いの思いを確認したという。また、『真珠庵文書』の「祖心紹越酬恩庵根本次第聞書案」には、文明七年[1475]、一休82歳の時に酬恩庵内に敷地を買い取ることになったが、資金の一部を森侍者の衣服を売って用立てた、などと記載がある。森女が、一休の周辺にいたのは確かなのである。

 

 こうして、一休は虚と実が入り乱れつつ、その魅力と毒気(!)を現代にまで伝えているように感じられてくる。いわば、一休像の虚と実が連鎖していきながら、我々にさまざまなことを考えさせもするのである。近松門左衛門は、「虚実皮膜論」(きょじつひにくのろん)といわれる次のような一節を開陳している。

 

芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜の間にあるもの也。成程今の世、実事によくうつすをこのむ故、家老は真の家老の身ぶり口上をうつすとはいへ共、さらばとて真の大名の家老などが、立役(たちやく)のごとく顔に紅脂(べに)白粉(おしろい)をぬる事ありや。又真の家老は顏をかざらぬとて立役がむしやむしやと髭は生(はえ)なり、あたまは剝(はげ)なりに、舞台へ出て芸をせば慰になるべきや。皮膜の間といふが此(ここ)也。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也。【中略】それ故に画そらごとゝて、其像(すがた)をゑがくにも又木にきざむにも、正真の形を似する内に又大まかなる所あるが、結句人の愛する種とはなる也。趣向も此ごとく、本の事に似る内に又大まかなる所あるが、結句芸になりて人の心のなぐさみとなる。

(穂積以貫「難波土産」発端に所収)

 

 つまり、ウソとマコトが紙一重のような表現を以て、舞台上の演出は迫真のものとなるという。言い得て妙である。

 

 どうやら一休の像も、虚と実が「皮膜」のようになって、我々の前にあらわれ続けているようである。最近は、可愛らしい小坊主ではない一休を描き出そうと『オトナの一休さん』(Eテレ、2016~2017)が制作され、本作の作画を担当した伊野孝行氏の『となりの一休さん』(春陽堂書店、2021)が刊行されるなど、「風狂」「破戒」というべき一休の実像がより一層着目されてきている。こうした破天荒な一休の姿を知ったとき、受け手のリアクションは「そんな姿に却って興味をそそられた」というものと「可愛らしい一休さんとのギャップにがっかりした」という真逆のものになりもするのである。一休像にどのような反応を示すかで、自らが重んじる価値観に気づかされることもあろう。いわば、一休像は自己の「合わせ鏡」として機能するものでもあるのかもしれない。

 

 室町期の在世当時から、同時代の形骸化を批判しつつ女犯も厭わぬ言動で世をアッと言わせた一休は、果たして今なお「なやましい」存在といえよう。

(いいじま たかよし・嘱託研究員、花園大学国際禅学研究所副所長)

著書に、『語られ続ける一休像―戦後思想史からみる禅文化の諸相』(ぺりかん社、2021)など。

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隙間だらけの一休年譜――入水未遂事件をめぐって

一休

親鸞仏教センター嘱託研究員

花園大学国際禅学研究所専任講師

飯島 孝良

(IIJIMA Takayoshi)

 これまで、世界中でどれくらいの人びとが接したかわからないが、少なくとも自分には福音書は読むごとに不可解な衝撃を与える書である。そもそもは大工の息子で律法学者でないイエスが、数多くのたとえ話でユダヤの常識やルールを根柢から見つめ直すよう促していく。更にイエスは病を癒し、悪鬼に憑かれたとされる者を解放し、差別される者たちに寄り添おうとした。そうした行動が多くの支持者を集めつつあることはユダヤ当局から危険視され、最終的には無惨に十字架上で殺されるに到る。そうして、付き従っていた者どもは悉くイエスを見棄て、果ては最も身近で信頼していた筈の弟子たちが、自らの師の下から逃亡していったのである。イエスはというと、刑死に際して「我が神よ、我が神よ、どうして私をお見棄てになるのですか」(マルコ伝十五:34、マタイ伝二十七:46)と絶叫するほかなかったのだという。


 だが、現代にまで伝えられる福音書によれば、その弟子たちはイエスとの死別の後、イエスの生涯を読み直し、やがて躓(つまづ)きから立ち上がってイエスからの教えを受け継ぐ道へ進むことになったという(使徒行伝二:14-36ほか)。師を見棄てた弟子たちが、むしろ師の言行のなかに「神の全能」を見出して集団を形成し、最終的には殉教するまでに及ぶのである。この経緯からは、イエスの弟子たちが自分たちの師を真に理解するまでに深刻な「隙間」があり、その「隙間」を埋めようとし続けたことが見受けられる。そして、福音書には現代的な視座からみて「隙間」と思えるものも残されている――例えばペテロなどの弟子が、イエスを裏切ってからどのようなプロセスをたどって再び起ち上がったのか、新約聖書からは充分見出しにくい。むしろ、マルコ伝十六章の補遺部分(9-19)を読むと、イエスを死に追いやった直後のペテロら11人の弟子たちはイエスが「復活」したという報告を聞いてもすぐには信じられなかった、という報告さえ記録されている。そうした点を踏まえると、イエスを裏切ったことと再起したことの間には、よほどの苦悶や懊悩(おうのう)があったのではないかと推察される。だが、その詳細な経緯は語られず、いつの間にか再起しているようにみえるのである。


 その意味では、弟子たちが師の言行を崇高なものとして書き記していく行為そのもの、そしてその結実たる言行録や年譜といったメディアそのものが、描ききろうとしても及ばない「隙間」を多く含有せざるを得ない。聖書学者の大貫隆がいわゆる「隙間だらけ」という表現は、言い得て妙である(大貫隆『隙間だらけの聖書――愛と想像力のことば』教文館、1993)。


***


 一休宗純(1394~1481)の行実を伝える『一休和尚年譜』も、じつはそうした「隙間」だらけの代物といえる。多くの日本人にはすっかりお馴染みの「とんち」の小坊主・一休さんを求めてこれを手に取ると、読者はたちまち肩透かしを食らうことだろう。というのも、『一休和尚年譜』には20代はじめまで記録が非常に稀薄であり、幼少期から青年期にかけての足跡があまりみえてこないからである。


 とくに印象的なのは、21歳の一休が大津の石山寺にほど近い瀬田川の唐橋で入水未遂に到る応永21年[1414]条である。この年末、慕っていた恩師の謙翁宗為(けんのうそうい、?~1414)と死別した一休は、前年には師から「わしの持てるものはもうおぬしに傾けつくした」と認められてはいた。だが、謙翁は貧しい暮らしを徹底し、師の無因宗因(むいんそういん、1326~1410)からの印可証明(法を嗣いだことを示す証書)もなかった――なお、『一休和尚年譜』では謙翁が敢えて証明を辞退したと付記している。葬儀をする費用も無いほどだったという一休は、そのまま修行を続けることに懊悩していたようである。師と死別したために清水寺で参拝者が断食誦経する「参籠」を試みるが、清水寺のしきたりで大晦日から正月15日までは出来ないこととなっており、思い屈して母の下に話をしに向かう。再び清水寺を参詣したあとの一休について、『一休和尚年譜』応永21年[1414]条の記述を現代語に直して引用すると――

 

大津の宿に出ると、周建(一休の当時の名)が、よれよれの僧衣でしおれた青菜のような顔色だった(「黲納勃窣(さんのうぼっそつ)にして面(おもて)は菜色(さいしき)を挟む」)ので、地元民のひとりから「小僧さんどうなすった、お師匠に叱りとばされたか、それとも継母にいじめられたんかね」と言われるほどで、歳末にどこでもこしらえる餅がたまたま出来ていたのでいくつか食わせてもらった。そして石山寺で参籠し、ひたすらに自分の修行が堅牢な信念に基づいたもの(「道念堅勁(どうねんけんけい)」)になるよう観音像に黙祷し、7日間参籠した。或る日、そこを出発してさまよい歩き、瀬田川の橋に到り、「ここで水中に身を投げ、死なずにおれば観音菩薩の御加護の疑いないのがわかるが、惜しくも魚の餌にでもなっても来世に志は貫徹できるだろう。観音菩薩がお見棄てになるわけはない」(「吾、身を水中に投ぜん。若(も)し命の全(まった)からんことを得ば、則ち大士の加被(かひ)、疑い無からん。否なれば則ち魚腹に委(ゆだ)ぬと雖(いえど)も、他日必ず所志を遂げん。大士、豈に我を捨てんや」)と入水しようとした。その時、母の使いの者が抱きかかえてとどめ、「これで身をお棄てになっては親不孝ではありますまいか、いずれお悟りになられる日もございましょう、もう遅いとはお思いなすってはなりません」と説得した。一休は止むを得ず、京都におられる母の下へ戻ったのである――。

 

 こうした入水未遂の経緯を国際的に知らしめたのは、ひとつは川端康成(1899~1968)のノーベル賞受賞演説「美しい日本の私」(1968)であろう。川端は、芥川龍之介(1892~1927)や太宰治(1909~1948)の自殺を取り上げたあと、一休の自殺未遂にも詳細に触れている。「もの思ふ人、誰か自殺を思はざる」と述べて、一休が親しみやすい僧のようで「実はまことに峻厳深念な禅の僧」であったとする。


天皇の御子であるとも言はれる一休は、六歳で寺に入り、天才少年詩人のひらめきも見せながら、宗教と人生の根本の疑惑に悩み「神あらば我を救へ。神なくんば我を湖底に沈めて、魚の腹を肥せ。」と、湖に身を投げようとして引きとめられたことがあります。【中略】そして『狂雲集』とその続集には、日本の中世の漢詩、殊に禅僧の詩としては、類ひを絶し、おどろきに肝をつぶすほどの恋愛詩、閨房の秘事までをあらはにした艶詩が見えます。一休は魚を食ひ、酒を飲み、女色を近づけ、禅の戒律、禁制を超越し、それらから自分を解放することによって、そのころの宗教の形骸に反逆し、そのころ戦乱で崩壊の世道人心のなかに、人間の実存、生命の本然の復活、確立を志したのでせう。

(『美しい日本の私』講談社、1969、19~20頁)


これは日本文学史において卓抜した死の表象を川端独自の視点から語ったものであって、更にはエドワード・サイデンステッカー(1921~2007)という類まれな翻訳家によって英訳されたため、数多くのメディアで知られるものとなった。こうした一節は演説を終えてまもなくおとずれる川端の自殺をも想起させるが、何よりも一休の禅と文学をきわめて高く評価しているところが印象的である。


 ただ、先に紹介した『一休和尚年譜』応永21年条の一節を、ここで改めて想い起して頂きたい。入水未遂に至る21歳当時の一休は、「黲納勃窣にして面は菜色を挟」んで餅の施しをもらうほどに憔悴しきっており、自分の「道念の堅勁なること」を石山寺の観音像に黙祷していた。たとえ恩師と死別したとはいえ、21歳の禅僧としてはいかにもひ弱で情けない姿ではないか。ただ、こうした姿が昨今のニュース報道のように広く目撃されたような傍証はない。当時これほど「情けない」姿であったと伝えるのは、まずは『一休和尚年譜』なのである。本来、年譜というものは師の優れた行実を記録する性格があるから、これを記述した直弟子の祖心紹越(そしんじょうえつ、?~1519)や没倫紹等(もつりんじょうとう、?~1489)が殊更情けない師匠の〈像〉を記録するというのも、俄には考えにくい。


 そう考えると、このときの一休が「情けない」姿だったと知っているのは、外ならぬ一休自身だけではないのだろうか。ともすれば、一休は師を喪った絶望を、このような「情けない」自己として弟子たちに敢えて語って聞かせたのではないか。そうした師・一休の語りが、直弟子の受け取ったそのままの〈像〉として『一休和尚年譜』に記述されている、ともいえよう。それは、大死一番の問いに到るまでの青臭く「情けない」姿と、自分たちが深く関わってきた恩師の姿とを隔てる「隙間」があったことを意味するのではないか。その「隙間」を、直弟子たちは敢えて粉飾することなく示した――そのような推察も思い浮かぶ。とはいえ、こうした『年譜』の成立過程や記述意図はあくまで推察である。一休と弟子たちのあいだのみならず、『年譜』とその読者の我々とのあいだにもまた、「隙間」が残されているというほかない。


 ここで、『一休和尚年譜』にある「隙間」は埋めるべきだ、と強弁したいのではない。その埋め方には、さまざまな方法があろう。「これほど弱弱しくなったとしても、最終的にはあれほど破天荒で卓抜した禅僧になったのだ」「助平な坊主として知られている一休にも、若い頃の挫折があったのか」などなど……。ただし、一休を極度に規格外で破天荒な禅僧と描くことを急いてはならないのではないか。後代の創作で「情けない」「人間くさい」姿が「立派な」姿として読み替えられることもあり得るが、その〈像〉の造型が過度に進めば、一休の実像からは否応なく乖離していくこととなる。そうしたアプローチの繊細さこそ、〈像〉の難しさであり面白さでもある。こうした「隙間」の埋め方そのものが、ひとつの文学として後代のメディアを賑わせもする。その点で、水上勉(1919~2004)の次の一節は、その代表例として今なお読ませるところがある。


誰しも21歳の一休の自殺未遂ときいて、あの和尚がと、不思議がらぬものはないだろう。だが考え直してみるとよくある話ではないかとも思う。よく人は青年期に急に死にたくなるような一日をもつものだ。一休和尚もぼくらと同じようにやわらかな心をもっておられたのだと思えばいいか。

母の使者なる人は誰であったかしらぬが、ずぶぬれの一休がたどりついた嵯峨野の庵では、母が待っていてくれていただろう。一休と母はどういう会話をしたろうか。簡略すぎる『年譜』の行間に、現代人のわれわれは勝手な想像を羽ばたかせるしかないが、いつの世も親にしてみれば自殺未遂の子の心理は不可解であったろう。いまの世の親たちもめぐりあう風景だ。

親に先立とうとした子をあわれまぬ母がどこにいよう。一休の母は烈婦でもあったから、やさしく説ききかせたか、それとも叱りつけたか。

(『一休を歩く』集英社、1991、60頁/初版はNHK出版、1988)


 ここで「簡略すぎる『年譜』の行間に、現代人のわれわれは勝手な想像を羽ばたかせるしかない」と述べる水上は、正直である。水上の指摘通り、当時としては――いや、現代でも――立派な「大人」というべき年齢の一休を前に、実母は何か語り得るものがあったのだろうか。惨めに挫折した息子にかけるべきことばを探しあぐねる親の心境は、そうしたメディアを目にする我々に共感や自省をもたらしもするだろう。


 少なくとも、『年譜』の記録に従えば、それからほどなく、一休は華叟宗曇(かそうそうどん、1352~1428)の祥瑞庵(いまの滋賀県大津市)に入門した。挫折を経て改めて求道に立ったのは確かである――それが母のことばで奮起した故かは、わからないことではあるが。


***


 或る卓抜した存在を語る文献を前に、その行動と末路が劇的であればあるほど、ひとつひとつの因果関係を「隙間」なく埋めなければならないと思わされてしまう。しかし、そうした「隙間」はムリヤリ埋めないことにこそ、ひとつの解釈可能性が見出されていくかもしれない。これは何も文献に限らず、ひととひととが互いを理解する際にも生じ得る「隙間」なのではなかろうか。


 現代のようにメディアが接しやすいものになればなるほど、そのスピード感が速まれば速まるほど、そこに解釈の余地が見出されにくくなっていく。単純な理解を無理やりにでもつなげて、時間をかけて実態を捉えるよりも即断即決で対象のことを決めつけることもみられがちになろう。しかし、そこに拙速に埋めるべきでない「隙間」があり得ると意識しておくことは、はかならぬ我々自身が何者であるかを判断するうえでひとつの猶予をもたらし、定まりきらぬ将来の自己の〈像〉をより肯定的に探し求めていく契機にもなるような気がしてくる。

(いいじま たかよし 親鸞仏教センター嘱託研究員・花園大学国際禅学研究所専任講師)

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今との出会い 第225回「「一休フェス〜keep on 風狂〜」顛末記」

一休

親鸞仏教センター嘱託研究員

飯島 孝良

(IIJIMA Takayoshi)

 京都市中を南に数十キロほど下った地域は、古くから南山城と呼ばれてきた。京都・大阪・奈良をまたぐことから、昨今は「けいはんな」とも称され、学園都市も形成されている。ベッドタウンとなっているが、やはり緑豊かな山郷という様相もみせている。

 この地域に位置する京都府京田辺市には、酬恩庵一休寺がある。一休寺は、その前身を妙勝寺という。鎌倉時代末期に元弘の乱で荒廃していたところを、室町時代に一休宗純(1394 – 1481)に寄進されて修復されたものと伝わるのが、いまの開山堂である。そしてここに祀られているのが、大応国師(南浦紹明、1235 – 1309)の木像である。この大応国師あってこそ、日本臨済宗は鎌倉時代から近現代にまで受け継がれてきたといえる。しかも、この酬恩庵のように、鎌倉時代から遺されている寺院自体、京都では貴重なものとなる。というのも、京都市中は応仁の乱を期に灰燼に帰したわけであり、京都においては「先の戦争」――即ち応仁の乱――を乗り越えられた遺構が数少ないからである。

 

 開山堂は、檜皮葺きの屋根という伝統工法が取られている。だが、これは貴重でありながらも痛みがはやく、維持が非常に難しいものであった。開山堂が老朽化するなか、大応国師が未来に継承され、開山堂を令和に息づくような文化財とする試みが求められていた。そうして、棟梁の木下幹久氏の下、その屋根をチタンにより葺き替える修復プロジェクトが立ち上がった。このチタン葺きは、今では金閣寺(京都府京都市)や浅草寺(東京都台東区)でも採用されて定評がある。

 このプロジェクトを盛り立てるため、テレビアニメ『オトナの一休さん』(Eテレ)や『となりの一休さん』(春陽堂書店)で一休に取り組んでこられたイラストレーターの伊野孝行氏が腕をまくった。そうして、2021年11月に「一休フェス~keep on 風狂~」と銘打ち、一大イベントを立ち上げることとなった。「フェス」とは突拍子もない呼称ではあるが、こうしたタイトルを付してなぜか収まりがつく仏者も、一休以外にはそういないのではないか――そうした感想を、幾度か耳にしたものである。デザイナーの上浦智宏氏によるポスターも、まさに逸品というべきものとなった。画面の中で躍動している小僧は、もちろん伊野氏の描いた一休さんである。

 

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 伊野氏は、一休を評して「こういうめんどくさい人がぼくは好きです」(『となりの一休さん』)とおっしゃる。確かに、この禅僧は矛盾的な行動を辞さず、相当に面倒くさい人格である。自らの境地を高らかに誇りながら、その一方で酒肆婬坊へ出入りするような破戒も表現する。山中(宗門)と市中(俗世)のあいだを行き来し、奇矯な言動や開けっぴろげなエロスも辞さない「風顛太妖怪」(酬恩庵一休寺蔵「一休像」賛文)と自称した。宗門を強烈に批判しながらも、その伝燈を担うことを自負し続けもする。その実相は、なかなかに掴み難い。伊野氏は、そうした一休の顔をガムテープで創ってみせた。「型破り」とはこのことであろう。

 さらに伊野氏は、「三乗十二分教、皆な是れ不浄を拭う故紙なり」(『臨済録』)にちなんだトイレットペーパーも創作された。

 あるいはまた、一休にちなんだとんち菓子「通無道」が誕生した。これは奈良の老舗菓子補御三家のひとつ・萬々堂通則とのコラボレーションであり、一休寺との連動は一層活発になっている。

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 そうしたなか、11月14日にはトークイベント「語られ続ける一休」が催された。伊野氏に加えて、芳澤勝弘氏(花園大学国際禅学研究所顧問)と矢内一磨氏(さかい利晶の杜学芸員)、そして不肖飯島が登壇し、一休との出逢いや印象を語り合うものとなった。このなかで焦点が当たったのは、一休が伝統を残すということをいかに考えていたのかである。

 一休は、自らの頂相(禅僧の肖像画)に付した賛文で、己の無能を恥じつつも、エロスと酒に酔うような振舞いが大燈国師(宗峰妙超、1282 – 1337)以来続く日本臨済宗の伝燈を「滅却」すると述べている。ただ型を大事に護持するのではなく、「藞苴(らそ)」(泥臭いが規矩に縛られず破天荒であること)でこそ教えを徹底できると表すのである。それは、臨済義玄(? – 866)以来重視されていた「滅してこそ興す」という姿勢そのものであった。

 一休が繰り返すのは、「伝燈」(禅宗の法燈を伝えていくこと)への強烈な意識と「破戒」による形骸化の批判であったともいえる。つまり、伝統を担おうとする意識が強いあまり、現状におもねるようなものを認めず、むしろ自らが拠って立つ傍若無人なまでの活力を前面に押し出すのである。こうしたことで、一休はいわば伝統の再活性化を図ったともいえる。そういう再活性化は、同時代には煙たがられることもあろうが、「リフォーム」を企図するときにはそのように疎んじられることも少なくない。そうして、このような振る舞いに、「風狂」とみなされる所以があろう。

 

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 令和の時代に、本当に遺していくべきものは何かを問い直し、各分野の職人が集うこのプロジェクトは、我々の心に大きな揺さぶりをかけるものであった。痛んだ遺構をただ漫然と維持するというのではなく、それをきっかけにしてまた新しい何かを生み出そうとすること――それこそ伝統の再活性化といえないだろうか。

 この12月、一休寺開山堂の修復プロジェクトの一環として計画されたクラウドファンディングも、1,000万円という目標額をものともせず、見事に達成された。未来へつながる伝統の再活性化は、まだ始まったばかりである。

(2022年1月1日)

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今との出会い第244回「罪と罰と私たち」
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」 親鸞仏教センター嘱託研究員 繁田 真爾 (SHIGETA Shinji)  2023年10月、秋も深まってきたある日。岩手県の盛岡市に出かけた。目当ては、もりおか歴史文化館で開催された企画展「罪と罰:犯罪記録に見る江戸時代の盛岡」。同館前の広場では、赤や黄の丸々としたリンゴが積まれ、物産展でにぎわっていた。マスコミでも紹介され話題を呼んだ企画展に、会期ぎりぎりで何とか滑り込んだ。    実はこれまで、同館では盛岡藩の「罪と罰」をテーマとした展示会が三度ほど開催されてきた。小さな展示室での企画だったが、監獄の歴史を研究している関心から、私も足を運んできた。いずれの回も好評だったようで、今回は「テーマ展」から「企画展」へ格上げ(?)したらしい。今回は瀟洒な図録も販売されたが、会期末を待たずに完売。若い来訪者も多く、「罪と罰」に対する人びとの関心の高さに驚かされた。    展示をじっくり観覧して、とくに印象的だったのは、現在の刑罰観との違いだ。火刑や磔や斬首など、江戸時代には苛酷な身体刑が存在したことはよく知られている。だがその他にも、(被害者やその親族、寺院などからの)「助命嘆願」が、現在よりもはるかに大きく判決を左右したこと。「酒狂」(酩酊状態)による犯罪は、そうでない場合の同じ犯罪よりも減刑される規定があったこと。などなど、今日の刑罰との違いはかなり大きい。    現在の刑罰観との違いということでは、もちろん近世の盛岡藩に限らない。たとえば中世日本の一部村落や神社のなかには、夜間に農作業や稲刈りをしてはならないという法令があった。「昼」にはない「夜の法」なるものが存在したのだ(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』)。そして現代でもケニアのある農村では、共同体や人間関係のトラブルの解決に、即断・即決を求めない。とにかく「待つ」ことで、自己―他者関係の変化を期待するのだという。この慣習は、人が人を裁くことに由来するさまざまな困難を乗り越える一つの英知として、注目されている(石田慎一郎『人を知る法、待つことを知る正義:東アフリカ農村からの法人類学』)。    「罪と罰」をめぐる観念は、このように時代や場所によって大きな違いがみられる。まさに“所変われば品変わる”で、今ある刑罰観が、確固とした揺るぎない真理に基づいているわけではないのだ。    だとすれば私たちは、いったい人間の所行の何を「罪」とし、それを何のために、どのように「罰する」のだろうか。そして罰を与えることで、私たちはその人に何を求めるのだろうか(報復?それとも改善?)。そのことがあらためて問われるに違いない。そして「罪と罰」は、おそらく刑罰に限らず、社会規範・教育・団体規則・子育てなど、私たちの社会や日常生活のさまざまな場面にわたる問題でもあるだろう。    それにしても江戸時代の盛岡では、なぜ酒狂の悪事に対して現代よりも寛容だったのだろうか。帰宅後に土産の地酒を舐めながら、そんなことに思いをはせた。   (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」
今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。   真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。 (『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)    現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。    キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。   軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。 (八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)    八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。   ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。    曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。    強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。   ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。    S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。   ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。    衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。   ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。    私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。    「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。   ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。    長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。    私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。    私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。    「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。 (2024年元日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...

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今との出会い 第201回「演じる―山崎努と一休に寄せて―」

一休

親鸞仏教センター嘱託研究員

飯島 孝良

(IIJIMA Takayoshi)

 或る時期までの俳優には、どこか思想家のようなところがあったと評したのは、名うてのテレビ批評家・ナンシー関だった(『何をいまさら』角川書店、1993、42頁)。自分自身が憧れた三船敏郎や勝新太郎は、「男たるもの、かかる野性味溢るる渡世人たるべし」と思わせるスタアそのものだった。その一方で、岸田森や成田三樹夫のように妖艶なまでの表現者に魅かれもした。そうした名優がずば抜けた「色気」を呈していた所以は、もしかすると徹底した洞察と思索の結晶として人間を表現してみせた、その姿にあったのではないか。狂気に近いほどに人間の業を見せつけてくるその演技は、どこまでも深く人間と世界と歴史を理解しようとした結果として顕れたものと感じられてくるのである。

 

 山崎努氏は、まさにそうした思想家の如き俳優の面目を教えてくれる。山崎氏について直ちに思い浮かぶのは、何といっても黒澤明監督の『天国と地獄』(1963)での名演である。「地獄」と表すべき貧しい生い立ちと社会格差への拭い難き怨念を絶叫するその姿は、観客の胸を掻きむしってくる。この作品については自身でも思い入れは相当あるようで、「へただなあ、今ならもっとうまくやるけどなあと思いつつ、でもあの若僧の青臭いうっとうしさや稚拙な虚勢の張りようはあの時の姿であってもう絶対に再現できない、演技とはすぐに腐ってしまう生(な)まものなのだ、いや腐ってゆく「状態」そのものなのだとあらためて感じたりした」(山崎努『柔らかな犀の角』文藝春秋、2012、154頁)。お察しの通り、この『柔らかな犀の角』という書名は、釈尊のことば――「犀の角の如くただ独り歩め」(『スッタニパータ』)に由来しており、「何をするにも自信がなく、毎日が手探り及び腰、そのくせ鼻っ柱だけは強く、事あるごとにすぐ開き直る。そんな臆病な若造」(前掲書、9頁)だった山崎氏は、この「犀の角の如くただ独り」の一句が気に入っていたのだという。と同時に、多くの演劇作品や朋友や書物との旺盛な交流を通して、山崎氏は静謐な洞察と思索を深めてこられた。

 

 山崎氏に関して、もうひとつ印象に刻まれたものがある。山崎氏は、何とも美味そうに食うのである。伊丹十三監督『タンポポ』(1985)でのラーメンにせよ、滝田洋二郎監督『おくりびと』(2008)での焼き白子にせよ、こちらが喉を鳴らすほど美事に食ってみせる。その演技ほど、食が人間の生の根源に接する契機だと実感させるものはない。そうして、食を共にすることの歓びも、そこには漂っている。「美食家は生活を楽しんでいる。対人関係において懐が深い」(前掲書、214頁)という山崎氏には、確かに食への並々ならぬこだわりが感じられる。

 

 山崎氏から自分が再認識させられたのは、我々が人間を洞察し思索しようとし、そして日常へと関わろうとすれば、そのどこかで或る「振る舞い」をせざるを得ないのではないか、ということである。社会の中で自らを定位しようとすれば、赤裸の自己などというものを立てることは極めて難しい。いわば、「自己とは何か」を不可避的に考え、表現せざるを得ないのではないか。そう考えれば、ことは狭義の演劇論に留まらない。「演じる」ということそのものが、歓びも悲しみもする我々の生と死には不可分であるように思われてくるのである。

 

***

 

 一休宗純は、或る久参の居士を「十一面、那个(なこ)か正面」と評した(一休宗純賛「宝岩祐居士肖像」京都・酬恩庵蔵)。『臨済録』の句を借りて「十一面観音のごとく、どの顔が本当の顔かわからん」というのである。実はこの句こそ、一休その人を自ら評したものとも思える。というのも、一休は自らの悟道と伝統を担う矜持を表明しながらも破戒を繰り返し強調するなど、自らの矛盾と時代の堕落を真っ直ぐ見据えて生きた多面的な性格がみえるからである。一休は、自己と他者の在り方を決して妥協することなく追究し、そのために独立不羈であることを辞さなかった(これについては、芳澤勝弘「一休の墨蹟」〔『別冊太陽 一休』平凡社、2015、121頁〕を参照)。

 

 人間ならば、どんなに親しい間柄であっても、その「正面」はそうたやすくみえるものではない。ことによると、その「正面」は十面も二十面もあるかもしれない。もし「正面」がひとつだけだとしたら、人間は何と単調で味気ないことか。「あんな人だと思わなかった」などということばが聞かれるけれども、結局は周囲がみえるところしか眼を向けていなかった、というに過ぎない。我々の人格としての「自己」が他者との関係性のなかに存在していると述べたのは、精神病理学者の木村敏氏である(『関係としての自己』みすず書房、2005)。言い得て妙である。

 

 我々が関わる「場」において、公人として、家庭人として、さまざまに「正面」をみせる。そしてそのどれもが自己である。その意味で、生と死をごまかさず考え抜く山崎氏のことばに、只々謹聴する次第である。


そもそも人間はなーんにもわかっていない生き物なのだ。【中略】まごついているうちに寿命が尽きてきて、そろそろご臨終かとなる。これがふつうの人生パターン。この最後に直面する臨終が、最大の難事のようだ。まあ僕などはかなり図々しくなっているから、こと最期に関しては案外あっさりと受け容れてしまうような気もするが、しかしこれとてその場になってみなければわからない。いずれにしても人間のプロなんていないのだ。 (前掲書、318~319頁)


 演技を生業としていない者であっても、世界と歴史と人間の只中に自らを定位すること=「演じる」ということを、自身の生の営みとして観照/鑑賞せねばならないのであろう。そのとき、まさしく『スッタニパータ』58番目の韻文にいう如く、学識豊かで真理をわきまえた高邁明敏な友と交わりつつ、犀の角の如くただ独り歩んでいくのではないか。

(2020年2月1日)

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繁田
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」 親鸞仏教センター嘱託研究員 繁田 真爾 (SHIGETA Shinji)  2023年10月、秋も深まってきたある日。岩手県の盛岡市に出かけた。目当ては、もりおか歴史文化館で開催された企画展「罪と罰:犯罪記録に見る江戸時代の盛岡」。同館前の広場では、赤や黄の丸々としたリンゴが積まれ、物産展でにぎわっていた。マスコミでも紹介され話題を呼んだ企画展に、会期ぎりぎりで何とか滑り込んだ。    実はこれまで、同館では盛岡藩の「罪と罰」をテーマとした展示会が三度ほど開催されてきた。小さな展示室での企画だったが、監獄の歴史を研究している関心から、私も足を運んできた。いずれの回も好評だったようで、今回は「テーマ展」から「企画展」へ格上げ(?)したらしい。今回は瀟洒な図録も販売されたが、会期末を待たずに完売。若い来訪者も多く、「罪と罰」に対する人びとの関心の高さに驚かされた。    展示をじっくり観覧して、とくに印象的だったのは、現在の刑罰観との違いだ。火刑や磔や斬首など、江戸時代には苛酷な身体刑が存在したことはよく知られている。だがその他にも、(被害者やその親族、寺院などからの)「助命嘆願」が、現在よりもはるかに大きく判決を左右したこと。「酒狂」(酩酊状態)による犯罪は、そうでない場合の同じ犯罪よりも減刑される規定があったこと。などなど、今日の刑罰との違いはかなり大きい。    現在の刑罰観との違いということでは、もちろん近世の盛岡藩に限らない。たとえば中世日本の一部村落や神社のなかには、夜間に農作業や稲刈りをしてはならないという法令があった。「昼」にはない「夜の法」なるものが存在したのだ(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』)。そして現代でもケニアのある農村では、共同体や人間関係のトラブルの解決に、即断・即決を求めない。とにかく「待つ」ことで、自己―他者関係の変化を期待するのだという。この慣習は、人が人を裁くことに由来するさまざまな困難を乗り越える一つの英知として、注目されている(石田慎一郎『人を知る法、待つことを知る正義:東アフリカ農村からの法人類学』)。    「罪と罰」をめぐる観念は、このように時代や場所によって大きな違いがみられる。まさに“所変われば品変わる”で、今ある刑罰観が、確固とした揺るぎない真理に基づいているわけではないのだ。    だとすれば私たちは、いったい人間の所行の何を「罪」とし、それを何のために、どのように「罰する」のだろうか。そして罰を与えることで、私たちはその人に何を求めるのだろうか(報復?それとも改善?)。そのことがあらためて問われるに違いない。そして「罪と罰」は、おそらく刑罰に限らず、社会規範・教育・団体規則・子育てなど、私たちの社会や日常生活のさまざまな場面にわたる問題でもあるだろう。    それにしても江戸時代の盛岡では、なぜ酒狂の悪事に対して現代よりも寛容だったのだろうか。帰宅後に土産の地酒を舐めながら、そんなことに思いをはせた。   (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」
今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。   真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。 (『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)    現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。    キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。   軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。 (八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)    八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。   ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。    曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。    強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。   ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。    S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。   ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。    衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。   ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。    私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。    「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。   ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。    長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。    私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。    私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。    「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。 (2024年元日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」
今との出会い第242回 「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」 「ネットオークションで出会う、 アジアの古切手」 親鸞仏教センター嘱託研究員 伊藤 真 (ITO...
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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」
今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...

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投稿者:shinran-bc 投稿日時: