親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」

ヤスパース

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 私はいったいいつから哲学し出したのか、という問いに、私はこう考えることにしている。それは12歳の時、ビートルズの「A Day in the Life」に出会った時であると。

 大学教授であったカール・ヤスパースが、高齢になって大学を退職した後、自身の仕事場とした大学というものを回顧してこう述べている。「大学の理念というものを、大学入学以来、真剣に受け止めてきた一人の男が、この理念がほとんど通用していなかったドイツの大学企業体に入り込んだのだった」(ヤスパース『運命と意志』)。

 精神的なものを求めて動いてゆきながら、精神を窒息させる状況に入り込む。精神の開放を求めて動いたのか、精神を閉じ込めるために動いたのか、わけがわからない。どこにでもあることだ。だから人は、その動いた初心を忘れないようにしなければならない。

 次の表現は、こうした初心を示そうとしているのだと、私は見る。

「状況の中で状況と共に絶えず流転しながら、私がまだ存在しなかった暗闇からもはや存在しない暗闇へと、私は流れ落ちていく。[中略]流れ落ちてゆくにまかせながら、何かを掴まなければ、その何かは永遠に失われてしまうと考えて私は脅えるが、その何かが何であるのかがわからない。私は単に消滅するのでない存在を求める」

(ヤスパース『哲学』)

 単に消滅するのではない存在、つまり永遠的なるものに遭遇する在り方を、ロック・ギタリストのロバート・フィリップ(キング・クリムゾン)は、音楽家にふさわしく、次のように表現する。

「音楽家が得る唯一の報酬は音楽である。音楽がわれわれを覆い、われわれにその秘密をあかすとき、音楽の現前のただ中に立つという恩典である。同じことが聴衆にも言える。この瞬間に、他のすべての物事は色あせ、力を失う。音楽の中にいるこの者たちにとって、これこそ、人生が現実になる瞬間である」

(キング・クリムゾンの4枚組ライブCD『The Great Deceiver』の

ブックレット中のフィリップの文章)

 初心とは、形式的に表せば、自らにとってAの報酬がAである、そうしたAに出会った心である。だが、こうした心をもってしても、人は、Bの報酬がCである、Cの報酬がDである、Dの報酬がEである…、というきりのない状況に、相変わらず絡めとられる。だからこの持続する状況を、Aの報酬がAであるという事態でもって突破してゆくこと、それが「希哲学」(philosophyの最初の訳語)たる哲学の、不断の課題となるのである。

(2023年6月1日)

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キルケゴールとニーチェの何が同じなのか――ヤスパース『理性と実存』を読む一視点

キルケゴールとニーチェの何が同じなのか

―ヤスパース『理性と実存』を読む一視点―

親鸞仏教センター属託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 ヤスパースの『理性と実存』は、5つの講義から成り、その最初の講義でキルケゴールとニーチェをいわば同じ仲間として論ずる。しかし、この2人の何を同じだとしているのか、捉えるのは易しくない。ヤスパースの見る、2人を結び付けるものは、言葉を越えてゆくものなのだから。

 

 ニーチェの思想を見る場合、永遠回帰とか超人とか力への意志とかに、キルケゴールでは、実存の三段階や絶望や不安などに眼をつけて、彼らの思想を捉えようとする、そうした仕方は普通にある。ヤスパースはここで、そうしたことへ深入りするそぶりが全くない。驚くべきことである。だがこの姿勢は、この2人の根本思考に厳密に忠実なのである。

 

 「どこにも、有限性にも、意識的に把捉される根源にも、規定的に捉えられる超越者にも、歴史的な由来にも、最終的な支えは、彼らにとってはない」(ヤスパース『理性と実存』、越部良一訳、リベルタス出版、2023年。以下、引用はすべてこの拙訳から)。

 

 ヤスパースが心底、眼を奪われているのは、彼らの規定されうるような諸思想ではなく、それらを越え包む何ものかである。

 

 だから彼らの思考のいわば形、形式に、彼らの生き方、生きた形に眼をつける。例えばこうである。

 「彼らにとって、ここでまた驚くべきことは、まさに彼らのできそこないの在り様それ自身が、彼ら特有の偉大さの条件であるということである。というのも、この偉大さは、彼らにとって、偉大さそのものではなく、時代状況に、その状況に固有なものとして属する、一回きりの偉大さなのであるから。注目すべきことは、いかに両者が、彼らの本質のこの側面に対しても、似たような比喩に思い至っているかである。ニーチェは自らをこう譬える、「でたらめな文字、見知らぬ力が、新しいペンを試すために紙の上に書く」。彼の病気の積極的な価値は、彼の絶えざる問題である。キルケゴールはしばしば思う、「神の暴力的な手によって抹消され、失敗した試みのように消し去られる」。彼は自らをまるで缶のふちに当って押し潰されるいわしのように感じる。彼に次のような思いが浮かぶ。「いつの代にも、他の人々の犠牲になり、ひどい苦悩のうちで他の人々に役立つものを……発見せねばならない2、3の人間がいるものだ」」。

 

 この2人は現代ヨーロッパという時代と場所の「いわば代表的運命であり、犠牲者」なのである。しかも自ら進んで。「そのような犠牲なしでは決して気づくことはなかったであろう何ものか」、その前面には「何か途方もないこと」がある。ヤスパースは言う、「今の人は、過去の教説の全てを、書冊の意味では、以前の大哲学者たちの或る者が識っていたであろう以上に、ひょっとすると識っているかもしれない。しかし、教説に関する、そして歴史に関する、単なる知に変貌しているという意識、生それ自身から、そして事実信じられていた真理から解き放たれているという意識は、この伝統がいかに偉大であり、そして大きな満足を作り出してきたし、今も作り出していようとも、この伝統を、その究極的な意味において疑わしいものにしてきたのである。[中略]というのも、西洋の人間の現実のうちに、ひそかに、何か途方もないことが起っているからである。すなわち、あらゆる権威の崩壊、理性に対する溌剌たる信頼の徹底的な消滅、すべてを、全くもってすべてを可能にするように見える、結び付きの解消」。

 

 実際上の無信仰のうちで、見かけ上何かを信じている風にすごしているという現代の状況、この状況の内にあって、「一方はキリスト教の信仰性をもち、他方は無神性を強調するという、まさに見かけ上は完全な本質相違性をもつから、それだけに彼らの思考の類似性は、ますます際立つものとなる。あたかもすべての過去のものがなおも存立しているかのような見かけのもと、実際は無信仰に生きているこの反省の時代において、信仰の拒否と自己を信仰へ強制することとは互いに属し合うものとなる。神なき者が信仰的に見え、信仰者が無信仰的に見えうる。両者は同じ弁証法のうちに立っている」。

 

 現代の状況に沿いながら、その実、彼らが目指すものは、その状況がもつ、見かけ上の信仰と実際上の無信仰を、突破することなのである。この突破は、時代を超え、世界を超える。彼らは共に命がけの人間である。「彼らは一つの道を行くが、この道は、彼らにとっては、超越的な支えなくしては歩み通され得ない。というのも、彼らが反省するのは、平均的な現代性がするように、生命欲と生命関心という自明の限界をもってしてではないから。すべてか、しからずんば無か、それが問題である彼らは、限界のないことを敢えて行う。しかし、このことを彼らが行うことができるのは、ひとえに、彼らがはじめからあのものに根ざしているがゆえであり、それは、彼らにとっては同時に隠れているのである。すなわち、両名とも彼らの青年時代に、知られぬ神について言及している」。

 「彼らの現存在の孤立無援、できそこなってあるものにして偶然的なもの、そうしたものと、彼らのもとで大きな対照をなしているのは、彼らを見舞うあらゆる出来事の意味、意義、必然性についての、人生が進むにつれ深まりゆく彼らの意識である。キルケゴールはそれを摂理と呼ぶ。彼は次のような神的なものをそこに認識する。「ここで起き、言われ、進行する等々すべてのことは、前兆であるということ、事実的なものは、それが何かはるかに高いものを意味するように、いつでも変貌するということ」」。

 

 だからヤスパースは、彼ら自身では意識することが不可能な事実的なもの、彼らが40代でもう彼らの人生の突然の終りを迎えたこと等の、彼らの人生行路の共通性を指摘する。「まったく理解の無い反響に面するという運命も、彼らに共通であった」。彼らは、「この時代にとって、単に一つのセンセーションにすぎなかった」。「こうして彼らの影響力は、彼らの本質の、そして思考の意味に反して、限界なく崩壊させるものとなった」。彼らの交わりの追求は、だから、生前においてのみならず、死後もその趨勢において挫折した。

 

 ヤスパースが見ようとするのは、彼らを包んでいる、知られぬあるものである。普通の、つまり、ただの人間的な見方では、例えば病気が「偉大さの条件」とされたりはしない。ここでは人間的視点を越えるものこそが、大なるものなのである。それが彼らを真に結び付ける。彼らが同じであることに驚くということは、そうしたものに、その者がふれているということであり、その知られぬものから問いかけられ、返答を迫られるということなのである。『理性と実存』という書物は、その返答の試みの書である。

 

 この試みは、彼らの、掴みうるようにされた思想に従うことではあり得ない。彼ら自身がそのことをはねつける。「彼らは我々を立ち去らせる。我々にいかなる目標も与えず、いかなる規定された課題も立てはしない。個々の誰もが、彼らによって、自分自身であるものに成れるだけである」。

 

 彼らを読むとは、そして彼らに対峙するこの書を読むこともまた、根本的に、その知られぬものに、自分自身が向かうということである。

(こしべ りょういち・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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今との出会い 第229回「哲学者とは何者か」

ヤスパース

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 今、ヤスパースの『理性と実存』を訳しているので、なぜ自分がこうしたことをしているのかを書いて見よう。

 小林秀雄は言う、「本当にいい音楽とか、いい絵とかには、何か非常にやさしい[易しい]、当り前なものがあります。真理というものも、ほんとうは大変やさしく、単純なものではないでしょうか。現代の絵や音楽には、その単純なものが抜け落ちています。そしてそれは現代人の知恵にも抜けていることを、私は強く感じます」(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』〔新潮社、2014〕 ※[ ]は引用者補足、以下同様)。

 本当の哲学思想もおそろしく単純なものである。その単純なものを表現するのは難しい。否定的に表現する方が簡単である。例えば、法然流に言えば、哲学者(勿論、私のことではない)とは、「名聞・利養・勝他」によって動くことはない人のことである。複雑なものとは、ただ人に向う動きである。だから法然は「人にすぎたる往生のあた[仇(あだ)]はなし」(『法然上人絵伝』)と言う。だからといって、名聞、利養、勝他から遠ざかれば、そのおそろしく単純なやさしいものに近づくのかというと、そうとは限らない。それが単なる人の動きであれば同じことである。

 だから、このおそろしく単純な事態を肯定的に表現すると、例えば、「自己自身に関わり、そのことによって己(おのれ)の超越者に関わる」(ヤスパース『哲学』)。しかし、どんな肯定的な表現も、また延々と説明できる。この表現でも「超越者」について。肯定的にして否定的に表現すると、例えばこうである。「[哲学の]語りにおいて、いつでも何か向け変えるものが存在し、その結果、存在の根拠が触れられるのは、むしろ、私がその根拠を捉えることのうちで、その根拠を名づけないことによってである。しかしこのことは再び、ただ次のときにのみある。私がその[名づける]ことを意図的に回避する――それは人為的な、単なる修辞的な文章技術である――のでなく、[この名づけないことを]全くもって意図されないものとして経験するときである。私が何に依って存在し、そして生きるのか、その何ものかを、私はただ次のようにしてのみ語ることができる。語られたものにおいて把握できる在り様ではそのものを逸し、そして、逸することによってそのものを間接的にまさに顕(あき)らかにする、というように」(『理性と実存』)。「向け変える」とは、魂を向け変えることである。名づけられるものから名づけられないものへ向け変えるのである。

 大学院(早稲田大学)での恩師、伴博(ばん・ひろし)先生は、なぜ自分がヤスパースを好んで読むのかについて、哲学思想の力というものは、論理展開の厳密さや深さといったものでは測り切れないものだ、という意味のことを言っておられた。自分も又、ただひたすら、その測り知れぬ、単純なやさしいものに関わることを願うばかりである。

(2022年5月1日)

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今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。   真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。 (『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)    現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。    キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。   軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。 (八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)    八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。   ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。    曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。    強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。   ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。    S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。   ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。    衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。   ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。    私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。    「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。   ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。    長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。    私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。    私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。    「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。 (2024年元日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...

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今との出会い 第208回「超越すること――もしくは、調子が外れること」

ヤスパース

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 ヤスパース全集(Schwabe出版)作品第8巻の編者注で、ヤスパースの手紙が紹介されている。学生が質問に来た時のことが書かれている。「超越すること」とは何か。こう答えたと。「とても簡単なことだ。こう言い換える、超越するとは「踏み越える」。我々自身の人間行為に当てはめると、「調子が外れる(überschnappen)」。もしあなたが私自身しているように調子が外れないなら、哲学は決してわからない」。そしてこう言ったと、「いろいろな科学が、何か堅実にして健全なもの、実用に役立つ生活だ」。

 ヤスパースにあっては「科学」は「哲学」とは違うものとして対比される。überschnappenを辞書で引くと「1(錠などが)カチンと音をたてて外れる。2 (a)(声が)調子外れになる、きいきい声になる。(b) 理性を失う」とある(『独和大辞典』小学館)。


 これで学生がわかったかどうか、心もとないから、私が実例で説明してみよう。


【実例その1】

 ジョン・レノンのソロになってからの、つまりビートルズ解散後の最高作は、あまり言う人はいないけれども、小野洋子と一緒に作った『Sometime in New York City』(1972年)である。この中のベストの曲は、誰も言わないかもしれないが、小野洋子の曲である。


「We’re all water」

「私たちはみんな水、違った川から流れ来る。だから出遭うのは簡単。私たちはみんな水、この広い広い海の。いつの日か一緒に蒸発するの」

(越部訳、原歌詞は英語)


 曲の後半はほぼ叫んでいる。私の二枚持っているCDの一つでは、残念なことに途中でフェードアウトする(何てこった!)。もう一つでは(おそらくこれがオリジナル)、天空からこの世のものでない小野洋子の声がキーと響いてきて、最後は演奏が止み、「What’s the difference?」と呟いて終わる。西洋哲学の始源から発し(タレス)、あらゆる凡百の平等表現を踏み越える究極の平等ソングである。

【実例その2】

 ジミ・ヘンドリックス『Are You Experienced? 』(1967年)の中の曲「I don’t live today」。


「明日、生きているだろうか、わかりゃしない。だけど確かにわかる、今日、生きていないということは」。そのあと、言う、「何て恥ずかしい、こんな風に君の時を無駄にしてしまって」。


 この曲の私の比喩的イメージはこうである。戦場で塹壕の中に坐っていると、雨が降ってくる(チャップリンの傑作『担え銃』のように)。そして天を仰ぎ、ギターを手にして(なぜに戦場にギターが?)歌うのだ。「Rainy day, dream away」(ジミ・ヘンドリックス『Electric Ladyland』、1968年)。

 今のありのままを歌うだけである。危うく、傷を負い、利得なき、天を仰ぐ生活。こうして哲学は始まる。正直の報酬は正直である、と新渡戸稲造(『武士道』)は言う。私は言う、正直の報酬は超越することだと。

(2020年8月1日)

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繁田
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」
今との出会い第244回「罪と罰と私たち」 親鸞仏教センター嘱託研究員 繁田 真爾 (SHIGETA Shinji)  2023年10月、秋も深まってきたある日。岩手県の盛岡市に出かけた。目当ては、もりおか歴史文化館で開催された企画展「罪と罰:犯罪記録に見る江戸時代の盛岡」。同館前の広場では、赤や黄の丸々としたリンゴが積まれ、物産展でにぎわっていた。マスコミでも紹介され話題を呼んだ企画展に、会期ぎりぎりで何とか滑り込んだ。    実はこれまで、同館では盛岡藩の「罪と罰」をテーマとした展示会が三度ほど開催されてきた。小さな展示室での企画だったが、監獄の歴史を研究している関心から、私も足を運んできた。いずれの回も好評だったようで、今回は「テーマ展」から「企画展」へ格上げ(?)したらしい。今回は瀟洒な図録も販売されたが、会期末を待たずに完売。若い来訪者も多く、「罪と罰」に対する人びとの関心の高さに驚かされた。    展示をじっくり観覧して、とくに印象的だったのは、現在の刑罰観との違いだ。火刑や磔や斬首など、江戸時代には苛酷な身体刑が存在したことはよく知られている。だがその他にも、(被害者やその親族、寺院などからの)「助命嘆願」が、現在よりもはるかに大きく判決を左右したこと。「酒狂」(酩酊状態)による犯罪は、そうでない場合の同じ犯罪よりも減刑される規定があったこと。などなど、今日の刑罰との違いはかなり大きい。    現在の刑罰観との違いということでは、もちろん近世の盛岡藩に限らない。たとえば中世日本の一部村落や神社のなかには、夜間に農作業や稲刈りをしてはならないという法令があった。「昼」にはない「夜の法」なるものが存在したのだ(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』)。そして現代でもケニアのある農村では、共同体や人間関係のトラブルの解決に、即断・即決を求めない。とにかく「待つ」ことで、自己―他者関係の変化を期待するのだという。この慣習は、人が人を裁くことに由来するさまざまな困難を乗り越える一つの英知として、注目されている(石田慎一郎『人を知る法、待つことを知る正義:東アフリカ農村からの法人類学』)。    「罪と罰」をめぐる観念は、このように時代や場所によって大きな違いがみられる。まさに“所変われば品変わる”で、今ある刑罰観が、確固とした揺るぎない真理に基づいているわけではないのだ。    だとすれば私たちは、いったい人間の所行の何を「罪」とし、それを何のために、どのように「罰する」のだろうか。そして罰を与えることで、私たちはその人に何を求めるのだろうか(報復?それとも改善?)。そのことがあらためて問われるに違いない。そして「罪と罰」は、おそらく刑罰に限らず、社会規範・教育・団体規則・子育てなど、私たちの社会や日常生活のさまざまな場面にわたる問題でもあるだろう。    それにしても江戸時代の盛岡では、なぜ酒狂の悪事に対して現代よりも寛容だったのだろうか。帰宅後に土産の地酒を舐めながら、そんなことに思いをはせた。   (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」
今との出会い第243回「磁場に置かれた曲がった釘」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)  西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。   真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。 (『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)    現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。    キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。   軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。 (八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)    八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。   ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。    曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。    強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。   ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。    S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。   ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。    衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。   ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。    私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。    「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。   ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。    長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。    私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。    私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。    「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。 (2024年元日) 最近の投稿を読む...
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今との出会い第241回「「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 青柳 英司 (AOYAGI Eishi) 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる) (「正信偈」『聖典』206頁)  「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。  その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。  では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。  梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。  そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。  これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。  さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。  すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。  彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。  その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。  しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。  侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。  ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。  また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。  この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。  では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。  梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。  武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。  ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。  その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。  悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。 最近の投稿を読む...

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