親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

ボードゲーム『即身仏になろう!』に寄せて

ボードゲーム

親鸞仏教センター嘱託研究員

青柳 英司

(AOYAGI Eishi)

 ある日、SNSで1つの投稿が目に留まった。

【本日発売】『即身仏になろう!』 新感覚即身仏体験ゲーム!

 うほっ!? 思わず、変な声が出てしまった。

 

 『即身仏になろう!』は、神戸を拠点にするクリエイター集団「グループSNE」が製作したボードゲームである。ゲームというと、「ゲーム機やスマートフォンを使ってするもの」というイメージが強いかもしれないが、駒やカードを使う非電子型のゲーム(これを本稿ではボードゲームと呼ぶ)の人気も根強い。たとえば、囲碁や将棋、トランプや花札、双六や麻雀などは、遊んだことのある人も多いだろう。

 

 さらに近年、従来とはまったく違った新たなボードゲームが次々と世に出ており、その中には仏教を題材としたものもあるのである。その1つが、本稿で取り上げる『即身仏になろう!』だ。

 

 では、そもそも即身仏とは何なのか? これは簡単に言えば、ミイラ化した僧侶のことである。即身仏を目指す者は、山に籠って身体を酷使すると共に、穀物の摂取を断つ。受戒した僧侶は、そもそも肉や魚を食べることができない。そのため、穀物を断つと口にできるのは、木の実や樹皮などに限られてしまう。また、臓器の腐敗を防ぐために、人体に有害である漆を飲むこともあったという。

 

 こうして体中の脂肪を落とし、骨と皮だけになった後は、「土中入定」と呼ばれる段階へと進む。木棺に入ったまま、地下約3メートルの深さに造られた石室に降ろされ、弟子たちが入口を塞ぐのである。

 

 真っ暗な土の中で、即身仏を目指す僧侶は水すら飲まずに、ひたすら読経を続ける。地上との繫がりは、換気用の竹筒1本だけである。その外で、弟子たちが決まった時刻に鐘を鳴らし、土中の僧侶も鳴らし返すことで生存確認を行う。音が返って来なくなると、それは修行の完成である。僧侶は即身仏と成り、永遠の禅定に入ったと見做される。

 

 すると、弟子たちは竹筒を引き抜いて穴を完全に埋め、遺言で定められた日数が経った後に掘り起こす。そこで遺体が朽ちていなければ、法衣を着せられ、厨子の中に安置されることになる。

 

 この即身仏の思想的淵源は、真言宗の開祖・空海(774-835)の即身成仏説にあるとされる。しかし、上述のような即身仏を目指す修行は、真言宗の中でも一般的なものではなく、基本的には近世の東北地方に見られる現象であった。その理由は様々に考察されているが、一説には、飢饉に苦しむ民衆の救済を願うものであったとされている。

 

 さて、話をゲームの方に戻そう。

 『即身仏になろう!』を初めて見た時、正直、「これは売れるのか?」と思った。

 筆者は、通っていた小学校の図書室になぜか即身仏の漫画があり、なぜか筆者はそれを読んでいたので、即身仏の存在については幼いころから知っていた。しかし、一般の人は即身仏に関心など無いのではなかろうか。そう思ったのである。

 

 だが、それは杞憂だったらしい。初版はすぐに完売したようで、現在はルールを少し修正した第二版が発売されている。そこでここでは、第二版の内容に沿いながら、『即身仏になろう!』の概要を紹介してみたい。

 このゲームは、100枚ほどのカードを使って行うカードゲームであり、トランプのように2人から5人で遊ぶことができる。ゲームの流れとしては、以下の3つのフェイズを各自で進めていくことになる。

 

(1)五穀集めフェイズ:修行に入る前の、最後の食事をするフェイズ。五穀(米・粟・麦・大豆・黍)のカードを集めることを目指す。

(2)五穀断ちフェイズ:五穀に対する未練を断っていくフェイズ。手札の五穀カードを全て捨てることを目指す。このフェイズでのみ、「漆茶」を飲んで身体を浄めることができる。

(3)土中フェイズ:土中の石室に入る最後のフェイズ。全ての煩悩(手札)を捨てて、即身仏になることを目指す。このフェイズでのみ、「入定」を実践することができる。

 

 この3つのフェイズを通して、プレイヤーは菩薩点(勝利点)を集めていく。菩薩点を獲得する方法は様々で、「最も早く次のフェイズに進む」「最も多くの漆茶を飲む」「最も多く入定する」などがある。最終的に、最も多くの菩薩点を獲得したプレイヤーが勝者だ。

 このゲーム、各フェイズによって目的が変わるため、様々なジレンマを抱えることになる。「五穀集めフェイズ」であるにもかかわらず、五穀カードをまったく引かないこともあるし、「五穀断ちフェイズ」であるにもかかわらず、五穀カードばかりを引いて、断ちがたい食への執着を痛感させられることもある。また、「手札の上限枚数は7枚」というルールがあるため、序盤に「漆茶」や「入定」をたくさん引いてしまうと、五穀を揃えるために捨てざるを得ないという局面にも遭遇する。

 

 さらに、他のプレイヤーに自分の手札を1枚押し付けることもできるため、もう少しで成仏というタイミングで、思わぬ妨害が入るということもある。ただ、この点は第二版になって、「「土中フェイズ」でのみ手札の同名のカードは同時に何枚でも捨てられる」、という仕様に変更となったため、初版の時の面倒臭さはかなり軽減された。

 

 このように『即身仏になろう!』というゲームは、実際の即身仏修行の雰囲気を存分に残しつつ、競技としても十分に楽しめるものとなっている。

 

 もちろん、仏教をゲームにしてしまうことに、抵抗を覚える方もいるだろう。しかし、仏教が一般の人々にとって、敷居の高いものになって久しいのも事実である。特にこのゲームは、我々は煩悩によって苦しむという事実を、ゲームシステムとして再現している。即身仏は、近世のムーブメントのようなものであるとも言えるし、現代において即身仏を目指すという人はいないだろう。けれど、現代の日本人にも、仏教的な「何か」に魅かれるところがあり、『即身仏になろう!』というゲームは、その端的な表象であると見ることもできるように思う。筆者は、その「何か」を丁寧に掘り起こしていきたい。そして、もっと変な声を出したい。このゲームから、そんなことを考えさせられた。

(あおやぎ えいし・親鸞仏教センター嘱託研究員)

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今との出会い 第178回「仏教とボードゲーム」

ボードゲーム

親鸞仏教センター研究員

青柳 英司

(AOYAGI Eishi)

 近年のゲームは、コンピュータを相手にするのが一般的だ。

 けれど非電子型のテーブルゲーム(俗に言うアナログゲーム)も、決して馴染(なじ)みがなくなったわけではない。たとえば囲碁や将棋、麻雀などは幅広い年齢層に楽しまれているし、トランプや双六(すごろく)、『人生ゲーム』(タカラトミー社)なども、遊んだ経験がある人は多いだろう。

 しかし近年、ドイツを震源として、まったく新しいボードゲームが次々に生み出されていることは、あまり知られていない。


 その先駆けとなったのが、1995年に発売された『カタンの開拓者たち』(Die Siedler von Catan、コスモス社)だ。これは未開の島の開発をモチーフにしたゲームだが、プレイヤーの選択肢が極めて広い。交易路を長く延ばすもよし、たくさんの都市を築くもよし。あるいは盗賊を利用して、他のプレイヤーの妨害をすることもできる。この独特なゲームシステムは大人でも十分に楽しむことができ―むしろ小さな子どもには難しい―、世界中で高い評価を受けた。

 また、ドイツ産のボードゲームには、この他にも斬新なものが多い。そのため日本でも今、これらに触発されるかたちで、さまざまなボードゲームが新たに開発されている。しかもそのなかには、仏教を題材にしたものが少なくない。


 その代表は、第1回東京ドイツゲーム大賞を受賞した『枯山水』(2014年、New Games Order,LLC)だろう。「枯山水」は禅宗のなかで発達した庭園様式で、水を使わず、石や砂だけで山水の風景を表現したものだ。このゲームでもプレイヤーは、枯山水の造営を通して禅の精神を表わすことを目指す。そのため各プレイヤーは自分の手番に、「庭をいじる」だけではなく「座禅をする」という選択肢を採ることができる。単に砂を引いていくだけでは、美しい庭は造れない。禅の精神を表わす洗練された枯山水を造るためには、参禅することが必須となるゲームシステムになっているのだ。

 もちろん、『枯山水』をプレイしても、禅宗の教えに直接触れられるわけではない。しかし、禅の雰囲気に触れるきっかけにはなるものだろう。


 次に紹介する『曼荼羅(まんだら)』(2015年、New Games Order,LLC)も、東京ドイツゲーム賞で特別賞を受賞したものである。プレイヤーは曼荼羅―仏教的宇宙観を表現した絵画―を描く絵師となり、より広大な仏の世界を表わすことを目指す。ただ、そのために必要なのは座禅や瞑想(めいそう)ではなく、六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)を経廻(へめぐ)ることである。広大な仏の世界を表現するためには、六道の苦海に深く沈潜することが必須の条件になっているのだ。

 衆生の苦と隔絶したところに仏の世界があるのではなく、苦の衆生を見そなわし、包んでいく存在こそ仏陀である。このような仏教観が、『曼荼羅』のゲームシステムには表現されているように思う。


 ただ筆者は寡聞(かぶん)にして、これらのゲームの作者がどのような方かを存じあげない。

 しかし現在、僧侶の側にもボードゲームを通じて仏教を発信しようとする試みがある。その第一人者が、臨済宗妙心寺派陽岳寺の副住職、向井真人(むかい まひと)氏だ。氏はすでに『御朱印集め』『檀家―DANKA―』、『WAになって語ろう』などの作品を世に出している。これらは教義を解説するためのものではなく、あくまでも僧侶や寺院、仏教のある生活が、身近に感じられることを目指したものである。またゲームと言っても、子どもだけを対象としたものではない。大人も充分に楽しむことができる洗練されたものとなっている。

 さらに向井氏は現在、江戸時代に作られた「浄土双六」を現代風にアレンジし、仏教的世界観をペーパークラフトで立体的に表現したゲームを開発中だ。こちらは仏教の基本的な考え方に、触れることができるものになるだろう。


 もちろん、仏教をゲーム化することに、抵抗のある人もいるかもしれない。しかし、寺院や仏教は敷居が高いと言われて久しいのも事実である。従来とは異なる仏教の発信方法を、積極的に模索していく必要があることは間違いない。その点でボードゲーム化という試みは、新しい仏教の表現・伝達方法を切り開くものだと言えるだろう。

(2018年3月1日)

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