親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

サイケデリック・ブッダ——ロックと仏教の歴史・序

サイケデリック・ブッダ

――ロックと仏教の歴史・序――

嘱託研究員

宮部 峻

(MIYABE Takashi)

 「どんなジャンルの音楽を聴くのか」と問われたら、「ロック、とくにUKロック」と答える。どこか屈折した歌詞と哀愁漂う曲調に惹かれる。

 

 曲だけを楽しんでいるというよりもバンドやミュージシャンの態度が好きなのかもしれない。インタビューや人前でのパフォーマンスでは挑発的な姿勢を見せながら、書き上げた曲はアイロニカルでありながらも繊細であり、社会のなかでもがき苦しむ自我の葛藤を描き出す。私が理解するUKロックの歴史とは、素直に自己を表現できず、社会に対して皮肉めいた発言を繰り返しながら悩み苦しみ続けている、捻(ひね)くれ者の表現の歴史である。ザ・スミスのボーカリスト、モリッシーがその極北だ。

 

 そんなこともあり、CDやレコード集めだけでなく、ロックに関する雑誌記事や本を読むのが日課である。そうすると、断片的にロックと仏教に関するエピソードを読んだりする。

 ファンのあいだでは有名なエピソードだが、ビートルズの代表曲の一つである「Tomorrow Never Knows」にも仏教に関する逸話が残されている。『Rolling Stone』誌の記事を踏まえつつ紹介しておこう。

 

 ビートルズは活動前半期、ライブバンドとして世界各地でアイドル的な人気を誇った。しかし、やがて熱狂ゆえの混乱・暴動に巻き込まれる。その苦悩ゆえか、ラブソングが中心であった初期の歌詞・曲調が一転し、哲学的・文学的表現を取り入れた歌詞や高度な芸術表現を追求する。その象徴的な曲の一つが1966年発表のアルバム『Revolver』に収録される「Tomorrow Never Knows」である。

 

 「Tomorrow Never Knows」の歌詞は抽象的で難解である。その歌詞に影響を与えたとされるのが、『チベットの死者の書——サイケデリックバージョン』(ティモシー・リアリー、ラルフ・メツナー、リチャード・アルパート著、1964年刊行、1994年邦訳)である。この書では、8世紀の仏教書をもとに、ドラッグによる自我の喪失と再生の理論が説かれている。この時期、ビートルズがLSDを使用していたことはよく知られているが、ジョン・レノンは、LSDで得た体験とこの書で説かれる理論を結びつけ、曲作りをしたとされる。

 

 曲調も多くのテープループ素材やそれを逆再生したものが用いられており、幻想的な世界観が表現されている。ジョン・レノンは、プロデューサーのジョージ・マーティンに曲作りに際して抽象的な要望を出すことが多かったと言われているが、この曲についても、「ダライ・ラマが最も高い山頂から歌っている」ようなサウンドに、「たくさんの僧侶がお経を唱えているようなイメージで」とチベット仏教の世界観を表現しようとしていたとされている。

 

 こうしたエピソードからわかるように、サイケデリック期のビートルズを象徴する曲に、ジョン・レノンが理解した仏教的世界観が影響している。自我の喪失と再生を説くものとしてジョン・レノンは仏教にインスパイアされたのであろう。どうやらロックの世界には、自我の再生のためにドラッグの使用を勧める「サイケデリック・ブッダ」と呼ぶべきブッダがいるらしい。しかし、仏教の歴史は、ドラッグの使用による救済を説いてはいない。どうもロックの世界に生きる仏教は、現代に再創造されたもののようである。

 

 自我の喪失と再生を説く、ロックの世界に存在するブッダ——謎多き存在である。ロックの歴史には、たびたびこのような再創造された仏教が登場する。仏教の哲学には納得がいくと言う無神論者を標榜するロックスターもいれば、内気な仏教徒と大量虐殺の比喩を用いて自分が抱えた痛みがいかに大きなものであったのかを歌い上げるロックの詩人もいる。さらには、響きがいいからという理由でバンド名を涅槃とした者もいる…ロックスターに仏教解釈のことについて尋ねれば、きっとこう答えるのであろう——「かくのごとく、我聞けり」と。ロックスターたちが体得した仏教の教えとは何なのか。その歴史を辿るにはまだまだ謎が多いので、「序」として留めておくことにしよう。

(みやべ たかし・嘱託研究員、立命館アジア太平洋大学助教)

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

今との出会い第239回「Aの報酬がAであるという事態」

ビートルズ

親鸞仏教センター嘱託研究員

越部 良一

(KOSHIBE Ryoichi)

 私はいったいいつから哲学し出したのか、という問いに、私はこう考えることにしている。それは12歳の時、ビートルズの「A Day in the Life」に出会った時であると。

 大学教授であったカール・ヤスパースが、高齢になって大学を退職した後、自身の仕事場とした大学というものを回顧してこう述べている。「大学の理念というものを、大学入学以来、真剣に受け止めてきた一人の男が、この理念がほとんど通用していなかったドイツの大学企業体に入り込んだのだった」(ヤスパース『運命と意志』)。

 精神的なものを求めて動いてゆきながら、精神を窒息させる状況に入り込む。精神の開放を求めて動いたのか、精神を閉じ込めるために動いたのか、わけがわからない。どこにでもあることだ。だから人は、その動いた初心を忘れないようにしなければならない。

 次の表現は、こうした初心を示そうとしているのだと、私は見る。

「状況の中で状況と共に絶えず流転しながら、私がまだ存在しなかった暗闇からもはや存在しない暗闇へと、私は流れ落ちていく。[中略]流れ落ちてゆくにまかせながら、何かを掴まなければ、その何かは永遠に失われてしまうと考えて私は脅えるが、その何かが何であるのかがわからない。私は単に消滅するのでない存在を求める」

(ヤスパース『哲学』)

 単に消滅するのではない存在、つまり永遠的なるものに遭遇する在り方を、ロック・ギタリストのロバート・フィリップ(キング・クリムゾン)は、音楽家にふさわしく、次のように表現する。

「音楽家が得る唯一の報酬は音楽である。音楽がわれわれを覆い、われわれにその秘密をあかすとき、音楽の現前のただ中に立つという恩典である。同じことが聴衆にも言える。この瞬間に、他のすべての物事は色あせ、力を失う。音楽の中にいるこの者たちにとって、これこそ、人生が現実になる瞬間である」

(キング・クリムゾンの4枚組ライブCD『The Great Deceiver』の

ブックレット中のフィリップの文章)

 初心とは、形式的に表せば、自らにとってAの報酬がAである、そうしたAに出会った心である。だが、こうした心をもってしても、人は、Bの報酬がCである、Cの報酬がDである、Dの報酬がEである…、というきりのない状況に、相変わらず絡めとられる。だからこの持続する状況を、Aの報酬がAであるという事態でもって突破してゆくこと、それが「希哲学」(philosophyの最初の訳語)たる哲学の、不断の課題となるのである。

(2023年6月1日)

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