
カウンセリング

親鸞仏教センター嘱託研究員
大谷 一郎
(OTANI Ichiro)
私はあるところで、カウンセリングの相談員をしている。実際現場での相談の多くは幼い時に親から受けた虐待のトラウマや、精神疾患の苦しみの訴えなのだが、最初から問題の核心を語ってくれるわけではない。何回も話を聴いて、信頼関係ができてくるとぽつりぽつりと本当のことを話してくれるようになる。根気のいる仕事である。
現実に苦しんでいる人の話を聴いていると、その人にとっての「救い」とは何なのかを考えさせられる。
苦しみから解放されることが救いなのか。人間は、「我」という「自分の思い」のなかで生きている。それを超えて生きることはできない。誰しも健康で長生きしたいと願うが、老いて病んで死んでいかざるを得ない現実がある。自分の思いと現実とのギャップに苦しみが生まれる。目の前の苦しみの原因を取り去っても、また違う原因が苦しみをもたらすだろう。生きている限り苦しみから解放されることはない。
個人的な話で恐縮だが、私は今僧侶として働いているが、この世界に入ったのは16年前、39歳の時である。大学を卒業して十数年、ある企業で成果主義、効率主義を信条に必死で働いていた。その頃は景気も悪く、企業もリストラの嵐だった。人事関係の仕事だったので、その対応に心身共にかなり疲れていた。その時、たまたま父は縁あって一寺を建立しようとしていた。私はこのまま企業人として定年まで勤めるか、あるいは父を支えて僧侶としていきていくか迷ったのだが、結局今の道を選んだ。後から考えるとストレスフルなビジネスマンとしての生活から逃げ出したかった時に、たまたま真宗という逃げ道があり、後先を考えずにそこに逃げ込んだといってよいのかもしれない。妻と幼い子供2人を抱え、経済的なことを冷静に考えたら、とても選べる道ではなかった。
とりあえず僧侶にはなったものの真宗は本当に難しかった。それまで学んできたものと質的に違うのだ。もちろんある程度知識も必要だが、それだけでは届かない。それ以上に自分の人生に対する態度が問われているように感じた。しかし学んでいくうちに気付かされたのは、親鸞の教えの底には比叡山での求道の経験と、その上での救われない身の自覚に立った人間の愚かさに対する深い悲しみがあり、人間存在のもつ罪業性への深い共感の上にすべての人を受容していくものだということだ。この広く深い価値観に触れたときには、自分がどれだけ狭い価値観で生きていたのかを気づかされた。本質的なものに触れた喜びを感じ、「ああ大丈夫だな」「何とか生きていけるな」という肌感覚があった。私自身、本当に真宗に救われたと思っている。
自分の思いよりずっと深い価値観に触れたとき、自分の思いが相対化され、それに縛られていた自分が見えてくるのかもしれない。
誰しも自分自身の中に、根源的な欲求、つまり、より良く生きたい、生きる意味を見出したいという意欲があるのだと思う。しかしなかなかその意欲と向き合うのは難しい。毎日仕事や家事で忙しいし、街中やネット空間には情報があふれ、それを現実に処理するだけで大変である。ある意味それを言い訳にしながら生きている。しかし、自分が本当に追い込まれた時や絶望の淵にいる時、無意識に自分の中のその欲求と向き合わざるを得なくなるのかもしれない。
ここまで考えてきて、以前に読んだ森岡正博さんの『無痛文明論』(トランスビュー、2003)の一説を思い出した。
私がどうして戦わなくてはならないのか。その答えはひとつだ。私は、この有限な一度限りの人生を悔いなく生き切りたい。そしてより良く生き、より良く死にたい。だから私は戦うのだ。[……] 私は生きる意味を問い続けるのだ。なぜなら、いくら無痛化によって目隠しされていたとしても、眠りの心地よさにひたっていたとしても、これが私のいちばん納得する人生ではないということを、私は意識の奥底ではっきりと認識しているからだ。「生命の力」が残存している限り、この点をごまかすことは、ほんとうはできないのだ。/ほんとうは、知っているんだよ。誰もが知っているんだよ。これが嘘の人生だということを。そしてそれを知りつつも、知らないふりをして自分をごまかしているのだということを。 (135頁)
先日、カウンセリングで相談に乗っていた時のことだが、その方は途中で何度も「生きていけるかしら……」とひとりごちのように小さい声でつぶやいていた。この言葉は裏返せば「より良く生きたい」ということだろう。精神的にギリギリの所で踏みとどまりながら、自分の深いところにあるこの欲求と正直に向き合っているのだと思う。
生きている限り苦しみから離れることはできないが、自分の根源的な欲求をごまかさずに、それでも何とか生きていける、と思える時がその人にとっての救いなのかもしれないと思う。
(2020年3月1日)
最近の投稿を読む

著者別アーカイブ
-
- 今との出会い第236回「想いだされ続けるということ――「淵源(ルーツ)」を求めて」
- 今との出会い 第225回「「一休フェス〜keep on 風狂〜」顛末記」
- 今との出会い 第214回「二十年前、即今に在り」
- 今との出会い 第201回「演じる―山崎努と一休に寄せて―」
- 今との出会い 第191回「「寝業師」根本陸夫―「道」を求めし者たちが交わらせるもの―」
- 今との出会い 第181回「 “We shiver and welcome fire” ―シカゴ印象記―」
- 今との出会い 第171回「無知を「批判」的に自覚する契機―「浪人」ということについて―」
- 今との出会い 第162回「遊ぶ子どもの声きけば」
-
- 今との出会い第234回「「適当」を選ぶ私」
- 今との出会い 第230回「本願成就の「場」」
- 今との出会い 第222回「仏教伝道の多様化にいかに向き合うか」
- 今との出会い 第221回「「自由」と「服従」」
- 今との出会い 第218回「思惟ということ」
- 今との出会い 第220回「そういう状態」
- 今との出会い 第211回「#Black Lives Matter ――差別から思うこと」
- 今との出会い 第210回「あの時代の憧憬」
- 今との出会い 第207回「浄土の感覚」
- 今との出会い 第202回「「救い」ということ」
- 今との出会い 第200回「そもそも王舎城で―マガダ国王・頻婆娑羅(ビンビサーラ)考―」
- 今との出会い 第199回「曖昧なブラック」
- 今との出会い 第198回「一瞬の同時成立」
- 今との出会い 第196回「ともしびとなる日々」
- 今との出会い 第194回「星の祝祭を手のひらに」
- 今との出会い 第192回「「共感」の危うさ」
- 今との出会い 第190回「再び王舎城へ―阿難最後の願いと第一結集の開催―」
- 今との出会い 第186回「人生、なるようにしか……」
- 今との出会い 第184回「ひとりの夢を」
- 今との出会い 第182回「遺伝性の疾患等の理由で強制不妊手術が行われていたという報道に触れて思うこと」
- 今との出会い 第180回「地涌の菩薩」をどう読むか
- 今との出会い 第176回「自分との対話」
- 今との出会い 第174回「そしてハイシャはつづく」
- 今との出会い 第172回 「劉暁波氏の訃報にふれて思うこと」
- 今との出会い 第170回「現代へのまなざし」
- 今との出会い 第166回「独り立つ「人」」
- 今との出会い 第164回「誰かと生きる時間」
- 今との出会い 第163回「市場経済とペットの命」