親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第96回「〈願に生きる〉ことと〈場所〉の問題」⑫

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」 (『真宗聖典』626頁)、この『歎異抄』冒頭の言葉を手がかりにして、「時熟(じじゅく)」ということを考察されたのが、安田理深先生であった。今回は、その課題について小生も少し考察してみたいと思う。先に大阪大学の鷲田清一さんから「成熟の意味」という問題をいただいた。このことと合わせて現代の情況において、宗教的な「時」をもつことの意味について考察してみたい。

 鷲田さんの問題提起は、現代には人間の「成熟」ということが欠如してきているのではないか、というところにあった。成人式ということは残ってはいるが、一昔前の「元服(げんぶく)」という言葉で表現されているような、「一人前」の人間の覚悟ということはなくなったのではないか、というのである。そして、このことは、自分のこととしても、また一般的な風潮としても、何か痛いところを突かれた、という感じがする。このことは、日ごろ私たちが生きて生活しているとはいっても、無方向に時間を浪費しているに過ぎないのではないか、という現代都市生活者の生きざまへの問題提起でもある。

 この人間における成熟の欠如をもたらしている要因について述べるとき、日本における現代の一般市民の生活を成り立たせている条件を考慮せねばなるまい。その要因の一つを挙げてみると、第二次世界大戦の敗戦によって、日本人の精神の支えとなる生活規範が、取り払われたということがある。たとえば、家制度という言葉でまとめられるような、個人を越えた価値体系によって個人の意味が規定されるようなことが否定されたということである。これによって、個人の自由がさまざまな分野に与えられたと言える。しかしこのことによって、個人の人格の存在している意味は、社会的な規定を自由に選んだ後で与えられてくることになる。それを自分の選択で選び出すまでの浮き草のような状態を、不安感とともに耐えて後に、職業や結婚や住居の決断を取って、ようやく社会的な一人前の責任が背負わされるのである。それまでの宙ぶらりん状態を、自分で引き延ばす自由もあるというわけである。

 職業選択や居住・結婚相手等、一応開かれていて、自由といえることで、自己をどういうかたちで成就するかを自分で決めていかなければならない。そこに、自分がどういう人生を生きていけばよいかの迷いも深まるし、なかなか成熟した自己を責任主体として感じ取ることができないということも生ずるのであろう。だから、精神科医の土居健郎さんが指摘するように、「甘えの構造」にいつまでも依存しておきたいということにもなるのである。
この自分の「成熟」を引き延ばそうとする精神構造は、生存の危機が切迫して感じられない安定した状態でこそ許される。戦乱や飢饉(ききん)・伝染病等が生活を破壊する状態であれば、この甘え状態はいわば吹き飛ばされるであろう。その意味では、今回の東日本大震災のショックは、人間の「成熟」への契機と成り、日本の文化的価値基準を変革する可能性があるかもしれない、と感ずるのである。

(2011年6月1日)

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第95回「〈願に生きる〉ことと〈場所〉の問題」⑪

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞にとっての師・源空は、「愚(ぐ)にかえる」ことにおいて「仏の本願に依」って往生することができると教えた。「愚かさの自覚」たる信念によって浄土往生を得るのだと。そして、師の教えにあっては、「三心(さんじん)」「四修(ししゅ)」を努力で勤めるのでなく、本願の信を得れば、それらは「おのずから具(そな)わる」のだと言う。それにもかかわらず経に「諸行」が勧められているのは、実はそれらを捨てさせるためだ、と言われる。このことは、一応はそういうものかとも思えるのだが、努力の集中のごとき精神態度が、ひとりでに成り立つとはどういうことなのか。それにつけても、『浄土論』の「五念門」のことはどう理解すべきなのか。

 「愚かさの自覚」ということなら、おそらく親鸞は師の前に深く納得したであろう。この師にして、生きてあることの「愚かさ」を深く悲しむのみならず、それだからこそ「順彼仏願(彼〈か〉の仏願に順ずる)」(『真宗聖典』217頁)のゆえに、称名による往生を得られるのだと言われるのだから、それを心底から信じようと。これについては、親鸞は「雑行(ぞうぎょう)を捨てて本願に帰す」(『教行信証』、『真宗聖典』399頁)のだと決断しているのであった。しかし、それにもかかわらず自己の「愚かさ」の自覚には、どうしても「三心・四修」が具わって来ないという感覚を、おそらく困惑しつつ見つめ続けたのではないか。

 自力の努力意識を消して無心になっていくという方向には、その一時的体感はあったにしても、決定的で持続的な安心感は与えられない、ということが親鸞の求道(ぐどう)の帰結だったのではないか。だから、後に「一念・多念」の論争とか、「有念(うねん)・無念」の問題ということが収まらないことに対して、親鸞は懇切な仮名聖教(かなしょうぎょう)を書いていくのである。その論点の中心は「真実信心」を深く自覚するという方向にある。本願力が摂取不捨の誓いを呼びかけているのだから、我ら凡夫は大悲に信順するのみだということを繰り返し述べるのである。煩悩の身のままに、本願力を信じていこうと言われるのである。

 このことは、親鸞自身が「愚かさ」を自己に徹底するには、「本願を信ずる」こころの底に残留する自力のよどみを明白にする必要があった。「罪福信」といわれるような問題は、教えを素直に受けとめていると思っている自己の意識の底に、自我の思いの成就することに執着する自分がいる。自我の思いの成就のために本願力をも利用しようとするような「自力の執心(しゅうしん)」が動く。これを親鸞は、信心の内なる「疑惑の罪」として意識の明るみに持ち出そうとしたのである。

(2011年4月1日)

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第94回「〈願に生きる〉ことと〈場所〉の問題」⑩

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 五念門行を菩薩道の実践道程として、天親菩薩は自己の願心を成就した。その成就した信念を「世尊我一心(世尊よ、我、一心に)」(『真宗聖典』135頁)と教主世尊に呼びかけて「神力(じんりき)を乞う」(『論註』、『真宗聖典』203頁)ことによって、獲得した一心を偈(げ)のかたちで表白(ひょうびゃく)する。この偈の主体はどこまでも論主天親である。ところが、それを論主自身が解釈する解義分(げぎぶん)においては、「善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)」が五念門を実践して論主と等しく、菩薩道を成就できるかのごとくに語られている。この内容を、善導も『往生礼讃(おうじょうらいさん)』において、そして、源信も『往生要集(おうじょうようしゅう)』において、自己の実践内容としての、往生浄土の行であると理解しているのである。

 『浄土論』の五念門とは、「礼拝(らいはい)・讃嘆(さんだん)・作願(さがん)・観察(かんざつ)」の自利の四門と、利他の「回向門」(『真宗聖典』138頁参照)とされている。一方で善導は浄土の正行とは「読誦(どくじゅ)・観察・礼拝・称名・讃嘆供養」(『真宗聖典』335頁参照)という言葉を、『観経』三心釈(さんじんしゃく)で出している。善導のこの解釈では、「回向」の行が外されている。これは、浄土の行ではないものを「雑行(ぞうぎょう)」と名づけ、雑行は「回向」を用いてのみ、浄土への行となることを得るのだ、と註釈していることがあるからであろうか。

 ともかく、いずれも行者(ぎょうじゃ)が実践して功徳を積むことによって、浄土往生を得るとしているのである。ところが、源空は称名のみが「正定業(しょうじょうごう)」であるという善導の言葉に触れて、『大無量寿経』三輩章の「一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ)」(『真宗聖典』44頁)という語をよりどころとして、「選択本願(せんじゃくほんがん)」による「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」を打ち出したのであった。しかし、選択本願による専修念仏を語りながらも、善導の解釈によって、「三心章(さんじんしょう)」「四修章(ししゅしょう)」をたてて、浄土への行者の態度については、善導の行者としての姿勢と精神を受け継いでいるのである。

 真摯に称名念仏に「自行化他(じぎょうけた)」共に専注された師の姿勢を、親鸞は間近にいただきつつ、浄土の行として天親が、「回向を首(しゅ)として大悲心を成就する」(『真宗聖典』139頁参照)と述べられる「利他」の課題をどう受けとめるべきか、という疑念を払拭(ふっしょく)できなかったのではなかろうか。

 多分この疑念を懐(いだ)いて聞思する間に、『選択集』付嘱というかたちで、源空の深い信認を受けたのではなかろうか。源空は「正しく往生浄土を明かす教」として、「三経一論」を掲げ、浄土の三部経に「天親の『往生論』」を加えることを明言しているのである。ここでおそらく、師弟の間に「回向」の了解と「五念門行」についての解釈を巡って、話し合いがあったに相違ないと、筆者は拝察するのである。このことを外して、黙って『選択集』を相承(そうじょう)することは、親鸞にはできなかったに相違ないからである。

(2011年3月1日)

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第93回「〈願に生きる〉ことと〈場所〉の問題」⑨

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「自利利他」の同時的な成就を菩薩道の目的に掲げた大乗の仏道は、『華厳経(けごんぎょう)』において「善財童子(ぜんざいどうじ)」や「普賢菩薩(ふげんぼさつ)」の物語に見られるように、菩提心をもって歩み続ける人間像を教えている。この人間像は、念々に菩提心の確認がなされつつ、どこまでも歩み続ける願心を求めて止まない姿として描かれている。

 そして、一方で衆生がさとりを開こうが開くまいが、増えることもなく減ることもない真如・一如・涅槃(ねはん)というような内容をもった「法身(ほっしん)」としての如来を語る『涅槃経』が、大乗の「大経」として学びの中心に置かれてきた。その日本における学場の中心であった比叡の山で、一乗思想を自己に具現すべく求道していた親鸞は、この『華厳経』の人間像と『涅槃経』の理念とを自己自身のうえに合致させるべく悪戦苦闘していたと思われるのである。後に『教行信証』に引用される膨大な文献の読み込みからすると、その課題を、浄土教によって成就することができるかもしれないというところまでは、尋ね当てていたのではないかと拝察されるのである。

 このたゆまぬ菩薩道を成就しうるという確信が定まるのを、「不退転」とか「正定聚(しょうじょうじゅ)」という言葉で呼びかけ、成仏の必然性が自ずから確定されるようなはたらきを、浄土という場所のもつ功徳として語りかけることが、法蔵菩薩の本願の内容に成っている。そして、その必然性は「必至滅度(ひっしめつど)」の願のもつ大切な意味であると明らかにされたのが、曇鸞の『論註』の仕事であった。先月触れた龍樹・天親も願生せずにはおれなかったということには、この必然性を自分の自力の努力では確信できないという、菩提心自身の隘路(あいろ)にぶつかっていたということがあったと拝察されよう。

 『浄土論』において天親菩薩が、五念門というかたちで菩薩行をまとめて、その行の成就をもって阿弥陀の浄土に往生して、阿弥陀仏を見たてまつることを得るのだと語りながら、その五念門行の果に「五功徳門(ごくどくもん)」(『真宗聖典』144頁)を開いて、第五回向門の果徳としての第五の功徳門を「園林遊戯地門(おんりんゆげぢもん)」と名付け、煩悩の林に遊び、生死の園(その)に入って、衆生を仏道に導く「利他」の仕事を自由自在にできるようになることを語っている。つまり浄土という場所は、自己存在の成就が同時に、一切衆生を解放しようとする願心が歩み続ける場所なのである。この『浄土論』の形式は、『華厳経』の語ろうとする行願を、『無量寿経』を通して成就しようとするものだ、ということである。

 しかし、親鸞にとってはそこに大きな謎が残っていた。それは、愚かな凡夫に「専修念仏」をもって「必ず往生する」と説く法然上人の教えが、どうしてこの『浄土論』の五念門行に相応すると言えるのか、ということである。選択本願(せんじゃくほんがん)の念仏なるがゆえに、念仏をもって「正定業(しょうじょうごう)」だとする善導・法然の教えと、『浄土論』の五念門とはいかなる関係になるのか、ということである。

(2011年2月1日)

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第92回「〈願に生きる〉ことと〈場所〉の問題」⑧

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「自利利他(じりりた)」とは、大乗菩薩道における重要課題の端的な表現であると言えるのだが、現実には人間関係は「自害害彼(じがいがいひ)」として現象することが多く、真に自他ともに平穏で満ち足りた命を感じつつ生きることは至難である。だから、この課題は、言うは易く実行は困難至極となるのである。それにもかかわらず「自利利他して速やかに無上菩提を成就しよう」(趣意、『真宗聖典』194頁参照)とすることはいかにして可能なのであろうか。この難問の前で、龍樹も世親も一般の自力の仏教の教え方をはみ出して、「本願力」の場たる阿弥陀の浄土を要求せざるをえなかったのだ、というのが曇鸞(どんらん)の見方である。

 そのとき曇鸞は「自利利他」というが、「利他」というのは衆生には当てはまらず、如来においてこそ言うことができるのだ、という注釈を加えている。衆生からすれば「他利」とは言える、と。つまり衆生にも他の衆生が利益を得るように願うことはできるが、本当に他を救済することができるのは無限なる大悲のはたらきのみなのだ、というのである。「他利」とは「他が利益される」ということであり、利益するのは「大悲」のはたらきなのだ、というのである。ソクラテスの言うところの教育と同じような関わりである。教育するのは、真理それ自身であって、師匠はそれの縁になる。水の縁(ふち)まで連れて行くことはできるが、水を飲むのは本人に、水を飲む能力やその意欲がもよおすしかない。「真実」に気づくのは真実それ自体のはたらきかけを感ずるしかないということである。

 この真実からのはたらきかけを、自力を超えた「他力」からの増上縁(ぞうじょうえん)であると教えているのである。そして、この増上縁の開示される場を「阿弥陀の浄土」として語るものが、『無量寿経』の物語であり、法蔵菩薩の本願の開示なのである。この物語の意味を親鸞は、「一如宝海(いちにょほうかい)よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて」と仮名聖教(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)で語っている。色もましまさずかたちもましまさぬ法性(ほっしょう)を、「願心荘厳(がんしんしょうごん)」の浄土というかたちで説き表して、一如から衆生への「利他」の願心を、「方便法身(ほうべんほっしん)」のかたちで知らしめるのである。これによって、意識の事実としてはいかにしても人間に体感できない「自利利他」具現の状態を、本願他力が開く場への参入というかたちで、一挙に万人共通の存在の故郷とするというのである。

 ここへ来たれ、と呼びかけ続ける意欲を「如来招喚(しょうかん)の勅命」(『真宗聖典177頁』)と表現して、これを存在の根底からの持続力として、衆生が利他の願心を受けとめるまで歩むことができるのであることを示すのであろう。

(2011年1月1日)

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第91回「〈願に生きる〉ことと〈場〉の問題」⑦

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「『五濁(ごじょく)の世、無仏の時』において仏道を求むるを難とす」(取意、『真宗聖典』167頁参照)と曇鸞(どんらん)は言う。我ら末代濁世を生きる者には、この時代的な難を突破できる条件はますます欠落して来ている。合理的発想によって生きる場を物象化していく方向が、顕著だからである。つまり、すべてを合理的に計算できる価値に換算し、さしあたって計算できないものは見捨てていくような視座が一般化することにより、生命連鎖を成り立たせている大きな生命空間が忘れられていっているのである。

 菩薩道が課題とする「自利利他」ということは、生命の本来のあり方が「自利利他」において満足が与えられることから来ているのだと思う。存在の根源において大なる慈悲で包んでいる生命連鎖が忘れられ、人間の生活に都合の良い合理的な場所を追求することで、「我利我利(がりがり)」の欲求肥大の組織が幅をきかし、結局は人間自身も孤独な空間へと退化させられていっているのである。

 曇鸞が五濁における五難(ごなん)を出して、最後に「ただこれ自力にして他力の持(たも)つなし」(『真宗聖典』168頁)と言うのだが、その場合の「他力が持つ」はたらきとは、この合理的な人間理性の眼には見えない生命空間の背景のようなものをいうのであろう。古くは「天命」というような言葉で呼びかけてきた人間を超えたところからの大きなはたらきは、あらゆる生命存在の背後にある大きな見えない空間のごときものを表すのであろう。これは理性の感覚には映らない生命連鎖の深みとでもいうしかない事柄なのではないか。こんな言い方をするからといって、小生は心霊学のような神秘的なものを主張するのではない。我らが生きている事実は、決して自己の理解している範囲の関係や圧力や条件だけで成り立っているのではないことを言うのである。

 端的に言うなら、生まれるのも、死んでいくのも、合理性の枠には入らない。生きている自己の精神力も、周囲との関わりと無関係に起こるものではない。現代社会のあらゆる組織の中での一番切実な問題は、やはり人間同士の関係の難しさだといわれている。この人間関係を支えている精神空間が、「自利利他」という課題を生み出し、またその方向において人間の使命感とか存在の意味とかが、生きている人間存在を大きく支えたり、励ましたりするのではないか、と思うのである。

 人間の関係も、集合体としての組織同士の関係も、いつでも融和的であるとは決して言えない。常に闘争や奪い合い、時には殺戮(さつりく)に至るような紛争が絶えない。それは根底には生きるということが孕(はら)んでいる「自害害彼(じがいがいひ)」の罪悪性を脱出できないからなのではないか。このことを自他ともに自覚しつつ、本来の方向たる「自利利他」を取り戻すべく、自他ともに自己教育の道を歩んでいこうではないか、と呼びかけられているのだと思うのである。

(2010年12月1日)

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第90回「〈願に生きる〉ことと〈場所〉の問題」⑥

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 天親菩薩の「五念門」(礼拝〈らいはい〉・讃歎〈さんだん〉・作願〈さがん〉・観察〈かんざつ〉・回向〈えこう〉)は、先の四門は自利の行であり、第五番目の回向門が利他であるとされている。つまり、菩薩道の課題である「自利利他」の行が、「五念門」として語られているのである。その自利利他という課題の実践について、「自利」と「利他」とが、「自利にあたわずしてよく利他するにはあらず」、「利他にあたわずしてよく自利するにはあらず」(『真宗聖典』193頁)であって、同時交互の成就なのだと、論主(ろんじゅ)天親が言っている。これは『無量寿経』の法蔵願心の物語における「兆載永劫(ちょうさいようごう)」の修行とその成就を、論主天親が引き受けて五念門という独自の形式として表したのだ、と親鸞はいただいた。だから、その大悲の「回向」成就に由って、衆生に「一心」が発起するのだ、と読み取られた。それによって我ら群生が「一心」によって「済度」される道が開かれて来た。それを「為度群生彰一心(群生を度せんがために、一心を彰す)」(「正信偈」、『真宗聖典』206頁)と親鸞は表現されたのである。

 さらに、信の内に大悲心の「回向」を受けていることによって、我ら凡夫のこころに起こっている信心が「金剛心」であるとも言う。この金剛心の生きる場は、じつは「生死罪濁(しょうじざいじょく)の群萌」(『真宗聖典』280頁)のところである。願によって金剛であることと、その生きてはたらく場が「五濁悪世」であるということが、一体不二であるところに、「愚禿(ぐとく)」の身の自覚が歩みを止めることがないという必然がある。

 このことを、善導の二河譬(にがひ)の「群賊悪獣(ぐんぞくあくじゅう)」の釈をとおして、曽我量深が「群賊悪獣とは十方群生海、すなわち五蘊所成(ごうんしょじょう)の自己自身である」と言われたことがあった。一応は、道を求めて「西」に向かう修行者に対して、それを妨げたり、誘惑したりする「悪友・悪知識」と「群賊悪獣」とは、外部からはたらくもののように考えられるのであるが、善導はこの「群賊悪獣」は「衆生の六根・六識・六塵(ろくじん)・五陰(ごおん)・四大に喩(たと)」(『真宗聖典』220頁)えているのだと言っている。つまり、我らの存在を構成している身体や意識のありかたそのものが「群賊悪獣」なのであると喩えているというのである。それによって、「群賊悪獣」が我らの存在の構成要素である「身体・環境」を保持する根本主体、唯識のいう「阿頼耶識(あらやしき)」それ自身の喩えでもあると考えられるのである。

 すなわち、「群賊悪獣」とは「十方群生海」でもあり、すなわちこの私自身でもあるのである。この確認によって、「衆生貪瞋煩悩中能生清浄願往生心」(衆生の貪瞋〈とんじん〉煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむる)(『真宗聖典』220頁)とは、群賊悪獣の中から「白道(びゃくどう)」を発見して歩み出す「本願成就の信心」が、「五濁悪世」を生きる衆生にとっての真実の新しい主体の意味をもつのであるということなのではなかろうか。

(2010年11月1日)

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第89回「〈願に生きる〉ことと〈場所〉の問題」⑤

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「欲生」(生まれんとおもえ)と、本願が衆生に呼びかける。この呼びかけが人間存在の根源への大悲からの深い信頼の表現であり、衆生が本来の自己自身を取り戻すようにという誘引のささやきなのである。これを我らの分限において表層的に受けとめると、自分が要求する場所へ「願生」(生まれたいと願う)するということにしてしまう。その場所を自分で願うことが、大悲に応えることだと考えてしまう。それが一般的な「願生浄土」のこころだとされてしまっているのである。

 しかし、表層的な心理として動く「願生」は、個人個人によって異なる事情、違う状況で意欲が動くことであるから、千差(せんじゃ)の業因を超えられない。つまり、人間の宿業因縁の色を映した「方便化身の浄土」を求めることになると、親鸞聖人は言われるのである。言葉を換えるなら、如来の「勅命」である「欲生」を自己の「自力の意欲」としての「願生」と受けとめてしまうから、「自力」のこころ、つまり、衆生の心理としての「意欲」で如来の大悲を理解してしまう過(あやま)ちを超え出ることができないというのである。

 大悲が「欲生」と呼びかけるということは、苦悩の衆生を救済したいという大悲が、衆生の存在の根源に「回向心」を通して、本来の自己自身を回復したいという「存在の意欲」とでもいうべき深層の意欲を呼びかけているということなのであろう。それは我ら衆生の表層的意欲を起こせということなのではない。我らの生存に根源的に埋め込まれている一如法海(いちにょほうかい)への帰還の意欲を自覚せよということなのである。一如平等への本来的な信頼なのである。これを我らに呼びかけて、我らを立ち上がらせようとするとき、我らは「一心」として大悲への信順をたまわるのだ、と親鸞聖人は受けとめた。

 「回向心」の背景には、法蔵願心の「兆載永劫(ちょうさいようごう)」と語られる質の無限大悲の修行がある。そのご苦労が「欲生」として我らの存在の根底で動き出すとき、我らの表層的意識を破って、大悲のご苦労に対して感謝せずにはいられない、それに「帰命せずにはおれない」という、存在の深層からの謝念を賜るのである。これを天親菩薩は「五念門(ごねんもん;礼拝門・讃嘆門・作願門・観察門・回向門)」を通して、「回向」を成就して、「一心」に立ち上がるのだと表現されているのだが、親鸞聖人はこの「五念門」こそ『無量寿経』が語る法蔵菩薩の永劫の修行であると読み取られて、それによって我ら群生(ぐんじょう)が「一心」によって「済度」されるのだ、と信受されたのである。

(2010年10月1日)

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第88回「〈願に生きる〉ことと〈場所〉の問題」④

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 親鸞は「欲生心成就(よくしょうしんじょうじゅ)」を大悲の如来の「回向心」成就として明らかにしている。「欲生」を「回向心」であるとしているから、その成就は「回向心」の成就だということである。すなわち、成就文の「至心回向」の内容が、「願生彼国 即得往生 住不退転 云々」(『真宗聖典』44頁)であるというのである。それによって、「現生」に「不退転」、すなわち「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」が与えられるとするのである。それを「行巻」では「絶対不二の機」(『真宗聖典』200頁)という。

 このことを別の角度から考察したい。法蔵菩薩の本願の中心が、「念仏往生の願」と名付けられた第十八願にあることは、『無量寿経』の了解の歴史から明らかにされたことである。そのことは、法然もこの願を「王本願」であると言っていることからも伺えよう。しかしこの願には、「至心信楽欲生(ししんしんぎょうよくしょう)」という言葉がある。この願が「念仏」の願だといえるのは「乃至十念(ないしじゅうねん)」という語があることによるのである。善導は本願文からこの「至心信楽欲生」を外して「乃至十念」を「下至十声(げしじっしょう)」と変換した。それが「設我得仏 十方衆生 称我名号 下至十声 云々」(『真宗聖典』175頁参照)という『往生礼讃』の文である。これを曽我量深は「本願復元の文」だと言われたのである。

 この文を親鸞は、法然からその真影の讃に書いていただいている。「仏の名号」の選択が、確かに法蔵願心の大悲によるのだということは、29歳の入門の時に親鸞は、はっきりと納得したに相違ない。しかし本願に「至心信楽欲生」とあることについては、外して良い言葉をなぜ本願に誓うのかという疑問が残っていたのではないか。そのことと、『観無量寿経』の「三心」の了解に潜(ひそ)む謎とが重なってきて、『教行信証』「信巻」の開設になったのではないか、と推察されるのである。

 つまり「自力の三心」を翻(ひるがえ)して「他力の一心」に帰していくという展開を、この謎解きによって解明したのであろうと思う。そして、「行の願」は「讃歎」を語る「諸仏称揚(しょぶつしょうよう)の願」(第十七願)であることを確信して、「至心信楽欲生」の言葉には、真実信心を衆生に誓う大事な意味があることを明示できたのである。信心の中に「三」という契機があり、これが「真実信心」にとって特別な意味があることを、「信巻」の三一問答(第十八願の三心と『浄土論』の一心との関係を明らかにする問答)において解明されたのである。

 そういう親鸞のご苦労が背景にあることにおいても、さらに我らにとってはこの「欲生」がなぜ問題になるのかということを少し説明しておかねばならない。それは、もしこれが衆生に対する要求であって、衆生がそれを引き受けて自分で「願生」するのであるとするなら、「願生」の質に衆生の意識の状況からくる「雑毒雑心(ぞうどくざっしん)」の影を排除することができないのではないか、という問題があるからである。

(2010年9月1日)

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