親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 17 「悲しみを秘めた讃嘆」

 本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。

 この信仰空間を我らが信心において獲得するところに、それまでの平面的で日常的な生存に、立体的ともいうべき願心の生活空間が与えられるということである。その宗教的実存を念々に確保することが、「信の一念」として開示された「時の先端」の生存が成り立つことである。この時の先端においては、「時剋の極促」(『真宗聖典』239)と表現された「時」の意味が感得される。この「時の先端」とは、いわゆる時間の経過とか瞬間とかとしていわれるような、刻々に移りゆくこの世の時間ではない。むしろ時を突破した時であり、時の経過を突き抜いて継続する時、すなわち現在に永遠を映す時とでもいうべき時である。こういう時が、超越的に常時に持続することが、本願力との値遇としての「横超」によって成り立つということである。

 こういう時を生きる実存を、本願の行者という。本願の行者には、煩悩具足の凡夫という自覚が常時に付帯している。平面的な生活に感じられる煩悩の闇を突破してくる本願の声なき声は、煩悩の闇を妨げとしない。むしろ闇あればこそ、声が慈悲のはたらきとなり、智慧のささやきともなる。そして闇を照らす光明の明るみにもなって、苦悩の衆生に生きる意味を与えてくるのである。

 こういう信心の時には、一面で苦悩の闇からの解放ということがあり、同時に闇へと生き抜いて行こうとする意欲が発起する面がある。このことを親鸞は、一念の「前・後」として開示した。それは、この世の時間的持続の意味の前後ではない。この世的平面を「竪」(自力)とするなら、「横」(他力)ざまに突き破ってくる願心との出遇いの一念の前後である。この出遇いの時を、「この苦悩の生存に死して、大悲の仏陀の国土に生きる」という「往生」の実存的意味としたのである。

 親鸞が晩年に「悲歎述懐和讃」を作るのは、たとえ信心歓喜の生活であっても、この日常的生活には煩悩の闇が厳然としてのしかかっているからである。にもかかわらず信心の事実は、その闇夜を貫く光明として、感じられてくることを表していく。どこまでも、日常的生活を離れず、願力成就の事実を生きるところに成り立つ信心による立体的空間を語っているのである。(了)

(2022年7月1日)

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20231212親鸞思想の解明
第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
20231212親鸞思想の解明
第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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第228回「悲しみに秘めた讃嘆」⑫

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 17 「悲しみを秘めた讃嘆」

 我らの現実の生存において、宗教的実存を求めてこれを成就するとは、どういうことであろうか。本願の仏教では、阿弥陀如来の本願を信じ、自己の有限なる生存をそのままにして(煩悩具足と信知して)「浄土」に往生し、阿弥陀如来の苦悩の衆生を摂取せんとする志願に随順して衆生済度の志願を輔翼することである、と教えられている。この願心に随順することによって、阿弥陀如来と平等なる仏陀(諸仏)になる、と願われているのである。

 その願心の表現には、様々な内容が取り上げられてくる。親鸞正依の魏訳『無量寿経』では、四十八願として展開された願が教えの基本になっている。その本願の因果を深く信じて、その因果に随順する身となることが、我ら凡夫における「宗教的実存」であるということになる。

 この因果を自己に受け止めるということは、我らの現実の生存にとって、言葉で説明するほど容易なことではない。我らは迷える苦悩の生存を、間違いなく自己の現実であると疑うことなく生きているからである。自己におけるこの生存理解を、自己の永い迷いの「宿業」の歴史であると信知することが、本願の仏道を信知するためには、絶対に必要な条件なのである。

 この信知を善導は深心釈において、「決定して深く、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と信ず」(『観経疏』、『真宗聖典』215頁)と表現している。このいわゆる機の深信と、阿弥陀の本願の真実が我らに向けられているという法の深信とが、同時交互に成り立つとされているのである。この願心は、我らの迷妄の歴史がいかに永く深かろうとも、必ず我らの迷妄の意識を転じて願心の信知へと勧め入らしめる、とされるのである。

 この本願と我らの意識との関係は、横と竪という空間的表現によって教示されている。我らの自力の意識のあり方を「竪」、本願の作用を「横」として、この苦悩の生存を突破するについて、二つの方向があると教示されているのである。

 『無量寿経』に「横截五悪趣」(『真宗聖典』57頁)という語があり、善導が「横超断四流」(「十四行偈(帰三宝偈)」、『真宗聖典』146頁)と語ることを手がかりに、親鸞は「即横超截五悪趣」(「正信偈」、『真宗聖典』205頁)と言われる。この直前に置かれてあるのは、「獲信見敬大慶喜」(同上)という偈文である。明らかにこれは、他力回向の信心において、「迷妄の生存」(六道流転の生死)を「超截」できることを宣言しているのであろう。

 このような「信」こそ、まさに「宗教的実存」と呼ばれるべき事柄だと言うことである。この「断截」は、空間的な表現によるなら、横と竪の立体的な人生観というべきかと思う。竪なるこの世への自己の立て方に足場を置きながら、横からその立場を「截断して」来る風に目を覚まされていく、とでも言うべきか。あるいは、一方の足を現世におきながら、もう一方の足は彼土とされる願心の国土に置くとでも言うべきか。

(2022年6月1日)

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20231212親鸞思想の解明
第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
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第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
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第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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第227回「悲しみに秘めた讃嘆」⑪

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 17 「悲しみを秘めた讃嘆」

 願生の意欲は、菩提心であるとされている。『大経』下巻の三輩往生において繰り返されている「発菩提心」の語によって、曇鸞も源信も往生の意欲すなわち願生心が菩提心であるとしている。しかし、これをそのまま認めるなら、源空の菩提心不必要の考えはどうなるのであろうか。『選択集』にある「菩提心等の余行」の語によって、菩提を求める意欲は諸行であるから、「廃立」という判別において「廃」されるべき心ということになるのか。本願による行として専修念仏が選び取られたのであるからには、凡夫の往生はそれによって成り立つのであろうが、仏道の根本問題である大涅槃を成就するという課題はどうなるのか。

 こういう疑難を聖道門の側から投げかけられたと受け止めた親鸞は、これに教学的に納得するべく、答えとして見出したのが、「真実信心こそ菩提心である」ということであった。本願の因果をたずねれば、真実信心を因として必至滅度(証大涅槃)の願果を得るのだからである。この本願の因果にとって、機の三願にわたって呼びかけられた「欲生我国」はいかなる意義をもつのか。

 曇鸞の指示は、「畢竟成仏の道路、無上の方便」(『真宗聖典』293)である。生存するものにとって、その環境との関わりは、重要な意味をもつ。環境に適応できないものは、この世から消滅するのだから。環境が大悲の仏智によって荘厳されたからには、そこで生きるということは仏智に随順することになることは道理であろう。

 そうしてみれば、そこへの「往生」は、「そこに往って、生きる」ことであろう。その場合、穢土の身体は消失して、「虚無の身、無極の体」(『真宗聖典』39)という平等の身体が、浄土で生存すると言うほかあるまい。そして、その生活は仏陀の願心を所依として、仏法を荘厳するということになる。

 本願成就文の「願生彼国 即得往生〈かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て」(『真宗聖典』44)を、『愚禿鈔』(『真宗聖典』430頁参照)では、「本願を信受するは、前念命終なり」とし、「即得往生は後念即生なり」と言ってある。願生の意欲に触れれば、そこに穢土の関心から仏土の願心への転換が起こる。それを生命の臨終たる「前念命終」に喩えたと見ているのである。その場合、臨終の一念は、宗教的回心の一念に相当する。そうなると宗教的回心は、「死して生きる」と言われていることと成る。生死無常の生存から、畢竟の依り処を願に置く生存へと転成するからである。

 かくして、願生浄土の意味が、「厭離穢土 欣求浄土」という心情的妄念の残滓を払って、「信に死し、願に生きる」という純粋なる本願に依る生存の意味となるのである。

202251日)

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20231212親鸞思想の解明
第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
20231212親鸞思想の解明
第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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第226回「悲しみを秘めた讃嘆」⑩

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 17 「悲しみを秘めた讃嘆」

 菩提心の歩みは、大悲の菩提心として「法蔵菩薩」の物語を掘り起こし、その願心の因果を構築してきた。この物語には、この背景に仏道の伝承があったことが語られている。それが、『大無量寿経』の「乃往過去 久遠無量 不可思議 無央数劫」(『真宗聖典』9頁)に始まる五十三仏の伝承である。

 この伝承とは、文字通りの歴史的な伝承を語るものではない。この無央数劫という時間は、法蔵菩薩を生み出す根源を表そうとしている。すなわち法蔵願心の因位の大悲が、個人を超越して、しかも個人を包まずにはおかない問題を発掘してきた深みなのである。釈尊をも突き抜けて、釈尊を生み出してきた菩提心の深みを表そうとするものであると思う。

 この伝承を担った願心が、法蔵菩薩の名のもとに、真実の功徳を普く衆生に恵むための思惟に入るのである。その思惟は「五劫に思惟して摂受」したと言われている。「超世無上に摂取し 選択五劫思惟して 光明寿命の誓願を 大悲の本としたまえり」(『真宗聖典』502頁)と、親鸞は『正像末和讃』でこの間の事態を表現している。名号の選択の根底に、光寿二無量の願を置いて、いわばその上に名号が乗っているようなイメージであろうか。

 かくして、法蔵願心の物語が、光明・寿命の功徳をもった名号として、我らに届けられてくるのである。しかし、これが衆生にすんなりと受け止められるのではない。人間の邪見驕慢(じゃけんきょうまん)なる意識には、この物語は荒唐無稽のことであるとしか映らない。大悲弘誓と教えられても、それが一向に響かないのである。仏道をこの世の範囲内で思考しようとする世俗的知恵は、対象や目的を設定されれば、動き出す傾向が顕著なのである。

 そもそも仏陀が言語を超えた体験を、言葉を用いて表現したのは、この世俗の知恵を見通して、因縁として説き出したのである。目には見えない無量無数の因縁の中から、はっきりと見えるような因縁を取りだして言葉に定着させたのである。仏法は超世の事柄だと言われるのは、この一応は見える因縁のことのように語られていても、実はその背景には無量無数の因縁があるからであろう。

 浄土は三界を超えて、「勝過三界道〈三界の道に勝過せり〉」(『浄土論』、『真宗聖典』135頁)であると荘厳されているのは、人間が経験できる範囲(それを三界という)を超過しているということであろう。したがって、語られた言葉の意味を解釈することに関わるのみなら、それは世俗の学びではあり得ても、仏道を学ぶことにはならないのである。我らの学びが、世俗の発想に常に引き戻されるのは、我らの立つ場所が、世俗世間にあるからにはやむを得ないのだが、学仏道は常にそれを自覚的に乗り越えてこそ成り立つのであろう。

(2022年4月1日)

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20231212親鸞思想の解明
第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
20231212親鸞思想の解明
第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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第225回「悲しみを秘めた讃嘆」⑨

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 17 「悲しみを秘めた讃嘆」

 大乗菩薩道として求められた仏教は、『華厳経』を生み出し、限りなく求道していく菩薩たちの物語となっている。求道の完成を求めながら、完成することのない求道の展開なのである。これは換言すれば、成仏した諸仏が仏果に止まらずに、菩薩に位を降りて衆生済度の行を実践するという求道の方向の大転換の物語にもなる。

 たとえ自利の道であっても、自己の内に煩悩の在処を掘り下げていけば、意識の根に末那識相応の自我に関係する煩悩、我痴・我見・我慢・我愛というような、深層意識に潜む煩悩が見いだされてくるのである。

 まして、利他の方向になるなら、他が無限に広がるから、個人的な求道心などで対処できる話ではなくなる。こういうことから、大乗(一切衆生を対象にして救いを与えようとする立場)を標榜するなら、物語か神話を要求せざるを得ないことになろうと思う。衆生を済度する物語が生まれてくるならば、求道心自身の限界の自覚が起こって、しかし諦められない深い願心が動いたのに相違あるまいと拝察するのである。

 法蔵菩薩の物語が、かくも仏道の歴史に大きな影響を与えたのには、何かこのような「悲願」と言わざるを得ないものがあったのであろうと思う。そういう物語を本願の展開として言語世界に定着させるとき、願と現実の苦悩との角逐が、次々に新たな願心とならざるを得ない。そのとき、その中心に失うことができない支柱となる願が立ち上がってくる。それが、悲願が名を求め、願に答える名号が一如宝海から立ち上がった、というイメージなのであろう。

 諸仏と阿弥陀とは、果位の仏智は平等であるとされる。しかし、因位の求道過程が各々異なるところに、諸仏の名の異なる所以があると言われる。その諸仏と阿弥陀の関係は、仏と仏とが相い念ずるという「仏々相念」があるのみでなく、諸仏が阿弥陀を讃嘆せずにはいられないとされている。それは阿弥陀における平等の仏果を誉めるのではなく、因位のご苦労を忍ぶのであろう。その因位とは、衆生救済の願心の甚深広大なることである。

 そこに親鸞が、『涅槃経』の阿闍世救済の物語と、『観無量寿経』の韋提希の苦悩とを重ね合わせて、「逆謗闡提を恵まんと欲す」(『教行信証』、『真宗聖典』149頁)と押さえる意味があろうと思う。広大無辺という空間的表現が、量的な大きさではなく質的な深みとしていただかれる時、現に受けている我が身がたとえ滅び尽くしても消えることのない罪悪深重性が、大悲の阿弥陀の光明によって、「汝を救わずには自分は仏にならない」と誓う願心に摂取されるのである。

(2022年3月1日)

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20231212親鸞思想の解明
第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
20231212親鸞思想の解明
第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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第224回「悲しみを秘めた讃嘆」⑧

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 17 「悲しみを秘めた讃嘆」

 時代状況のもつ困難性を自覚的に表現するということには、時の面は念々に移ろいゆくけれども、自己自身の面(これを機という語で押さえられている)には、移ろいゆく状況を貫いて生きていくところに、自己と他人に共通する事柄がある。その事実が時代を超えて、「先に生きて今は亡き存在に、苦悩を超える課題についての智恵を学ぶ」という学習が意味をもつのであると思う。

 今、私たちは地球上の大地から見上げる空間のみでなく、宇宙空間から地球を見るという情報技術を与えられている。物理的な実質空間のみでなく、情報技術が作り出す空間において、人間の一般的理知では空想することさえ不可能な空間が構想されてもいる。マクロの世界もミクロの空間も、人間の知覚できる範囲をはるかに超えて、ますます技術の作り出す空間が横溢(おういつ)してきているのである。

 そういう状況に直面していることが、宗教的体験を空間表現によって記述したり、空間的表現から宗教的時間を再現したりすることのもつ困難性ということに、私たち二十一世紀に生きるものは直面しているのだと言えよう。

 そこで宗教的体験とはいかなる事実であるのか、特に仏教者が獲得するべき宗教体験とは、いかに表現され得るのかということが、大問題となるであろう。その問題に直面して、先に歩んでその道を書き遺してくださった先達によって表現されていることを、私自身において温故知新して、しっかりと吟味し直し、再表現されなければならないと思うのである。

 仏教における基本的な体験の事実としては、「無我」による体験と表現されてきた事柄がある。私たち人間存在は、自分が生きていることを知ると同時に、自分自身に執着している事実があることを教えられている。自分の立場とか、自分の過去へのとらわれや未来への不安に、四六時中悩まされて生きているということがある。

 すなわち、自分が「煩悩具足」の自己として、ここに今、生きているということである。この自己のあり方を「有我」的自己であり、この悩ましい自己から脱出したあり方を、「無我」的自己だと言うのであろう。

 一方、大乗仏教が見る基本的あり方からするなら、人間存在は「菩薩」として菩提心に立って、与えられた生存を「自利利他」の成就へと歩みつづける存在であるべきだとされる。この場合は、自分が無我に立つことと、自分以外の一切衆生、すなわち「他」が「無我」に成ることとを同時に成就するべく、人生を尽くして「自利利他」を実践しようとすることだという。

 かくして、仏教における基本の体験とはいかなることかは、個人の条件に与えられる個人的体験を、おのおのが自己の人生を尽くして、求道的に求めることしかないのかとも思われる。ここにおいて、善導が「自覚覚他 覚行窮満」といわれた言葉が重く響くのである。

(2022年2月1日)

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20231212親鸞思想の解明
第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
20231212親鸞思想の解明
第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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第223回「悲しみを秘めた讃嘆」⑦

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 17 「悲しみを秘めた讃嘆」

 大乗仏教の思想的深化ともいうべき展開は、インドから遠い日本に生まれ、二千年後の世に生をうけた我らにとっては、想像することすら難しい事柄である。そのなかでも、浄土の教え、しかもその中心に本願力の因果をもつ教えは、考察することも、それにおいて仏道を見いだすことも、実に「難中之難」であると思う。

 曇鸞は、難行道となる因縁に「五難」を出されたのだが、その五番目に「ただこれ自力にして他力の持つなし」(『真宗聖典』168頁)ということがあった。曇鸞はここに「難」の根本問題があるとして、天親菩薩の『浄土論』によって、この問題に応答しようとしている。

 そういう事情がいろいろと仏道の歩みを困難にする場合も、一応は考え得るが、こういう諸事情による困難性を超えて、より本質的な「難」が、教えと我ら凡夫との間に挟まっていることに気づいたのが、親鸞であった。

 親鸞がこの教えにおいて、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海〈如来、世に興出したまうゆえは、 ただ弥陀本願海を説かんとなり〉」(「正信偈」、『真宗聖典』204頁)と記されたことは、実にこの「難」をくぐって値遇し得た感動があったからであろう。この場合の「如来」は、一応は本願を説いている『大経』の教主、釈迦牟尼世尊とすべきところであろうが、親鸞は、この「如来」を「諸仏」であると述べられる。晩年に著された『尊号真像銘文』に「和朝愚禿釈の親鸞が正信偈の文」として、十行二十句を「正信偈」から取り出す中で、この言葉を注釈して、繰り返し「諸仏」の出世本懐は「弥陀本願海」を説くことにあると記述されているのである(『真宗聖典』531頁参照)。

 このことは、本願念仏の教えを「大乗の至極」であると評価していることとも重なって、それは単なる個人の偏見か独断ではないかとも見えるかもしれないが、親鸞にとっては先に述べたように「難中之難」をくぐって、仏教の真理に出遇い得た感動の表白なのであった。

 その「難」とは、ここに今、自己が存在していることの不思議な事実への目覚めに始まり、種々の求道の要求に挫折したにもかかわらず、同じ時代を生きて本願力に帰入している師・法然との値遇に恵まれ、そして何よりも自己自身が罪障深き煩悩の身として、それをも摂取して捨てないという、広大な慈悲による救済に値遇することができたということ。そういう因縁の深さには、どう考えても出会えるはずがない自分という「難」がある。

 だから、親鸞『教行信証』総序の「遇いがたくして今、遇うことを得たり。聞きがたくして、すでに聞くことを得たり」(『真宗聖典』149頁)という表白は、難中の難を超えて今、ここに不思議な事実として仏法を生きる自己が存在しているということを表しているのである。

(2022年1月1日)

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20231212親鸞思想の解明
第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
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第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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第222回「悲しみを秘めた讃嘆」⑥

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 17 「悲しみを秘めた讃嘆」

 親鸞は、『教行信証』「行巻」に『論註』を引用されるについて、この曇鸞の「二種の道」から文章を引き始め、易行道を選ぶについて時代の困難性に「五種の難」があることに触れている。その五番目に、「ただこれ自力にして他力の持つなし」(『真宗聖典』168頁)とあり、その自力を「陸路の歩行」に例えている。これはいかなる事情を困難であると見たのであろうか。

 曇鸞の生きた時代が中国において王朝を開くものが次々に変わり、三国六朝と呼ばれる時代のただ中であった。インドの状況も、内には「五種の難」の中に「外道」とされている思想として、古来、インドの神々の信仰があるのみならず、西の文化圏からの宗教が入ってきていた。静かに座して内観反省することを主とする仏教の方法には、それを実践して成仏するまで歩む「不退転」の信念を確保することが、困難な状況が襲って来ていたのではなかろうか。

 そして曇鸞の言葉の中に、「無仏の時」という言葉がある。釈迦牟尼を求道の対象として追慕してきた仏教の僧伽(サンガ)に、釈尊滅後の数百年の時の経過により、求めるべき仏陀が極端に理想化され、神話的要素が加わって、もはや人間のモデルとして求めることが困難になっていったのである。それを「無仏」と表現したのではないか。

 そういう時代状況の大きな変化の中で、「ただこれ自力にして、他力の持つなし」と曇鸞が記述するのは、人間社会に信頼できる指導者もなく、自分の生きる目的も自分中心になっていくという、現代状況にも似たような危機感があったのではないか。その中に、「「易行道」は、いわく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば、水路に船に乗じてすなわち楽しきがごとし」(前同)とある。それに加えて、親鸞が引用する『論註』に、『論』の題名のことがある。そこには、「『無量寿経優婆提舎』は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり」(前同)とあり、いわゆる大乗仏道の極致であって、不退転を開く道として、風を頼りに海路を航行することが示されている。

 これらのことは、天親による『論』の示すところを、『無量寿経』の称名による「正定聚」・「不退転」にあると見定めているということである。唯識思想の大家たる天親の、自利利他円満への願心は、大悲の如来・阿弥陀仏の本願に支えられてこそ、成就し得るということなのであろう。

(2021年12月1日)

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20231212親鸞思想の解明
第248回「存在の故郷」③
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第248回「存在の故郷」③  流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、いわば異郷に流離する旅人のようなものだと喩えられているのである。  それに対して「存在の故郷」を求めようとする意欲を、仏教は求道心と言い、菩提(さとり)を求める心だから菩提心とも言う。その意欲によって、日常の意識に映る存在は、迷いの情念(無明)によって闇の中に在るのだと教えられる。その闇は無明の黒闇とも言われ、その存在は闇の中で藻掻いているような状態だとされる。その暗中模索の状態を求道心によって突破して、光明海中に浮かぶような生き方をしようと求めることを、菩提心の目的として大涅槃を開くまで努力せよと教えるのである。  求道心によっていわば存在の本来性を回復することが、無明に覆われた存在を転じて明るみを生きる存在へと転換するというわけである。その転換された在り方を、「存在の故郷」に帰るのだと表現するのである。そして、その故郷とは、生死流転を超えた一如であり、大涅槃であるとされる。衆生が迷える意識を翻転することができるなら、その生存の在り方が、光明海と表現される明るみとなり、その存在はそこを場として立ち上がるのだとも教えられる。  存在の故郷とは一如宝海と教えられ、その一如が涅槃でもあると、親鸞は『涅槃経』によって押さえている。その究極である一如、すなわち大涅槃と、それを求める菩提心とは因果であるとされるが、因位にあることは、果位に対して常に待ち望む状態にあるということである。それが、異郷にあって故郷を渇望し、帰りたいという意欲に喩えられる在り方である。  我ら衆生が自らの意欲で帰郷を果たすことを望む場合、流転を真に突破することは難しい。有限なる衆生は、状況に巻き込まれ流転していて、因から果へ、状況を超えて一如・涅槃へは、とてもたどり着くことができないであろう。そこに呼びかけてくるものがある。本来からの呼び声が、迷える我らの現存在に、「存在の故郷」へ帰れと呼びかけていると教えられているのである。  この呼び声が、阿弥陀の大悲本願の呼びかけとして示され、その本願の呼びかけを信ずるなら、その信心は因でありながら、果を必然としてはらむのだと語られている。その場合の信は、衆生から起こるのではなく、如来の大悲より発起するところだとされる。親鸞はそれが如来の回向によって、衆生の上に成就するのだと、教えているのである。だからして、その信は如来の質を保持しているとされる。その信が因でありながら果を必然とすることができるのは、如来回向の信心だからだ、というわけである。 (2024年3月1日) 最近の投稿を読む...
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第247回「存在の故郷」②
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第247回「存在の故郷」②  故郷という言葉が迫力をもって訴えてくるのは、異郷に居て孤独の寂しさを感じるときであろう。異郷では、自己の存在を暖かく見つめる親兄弟や友人も居ないし、自己の感情を言葉で表現するときも方言や母国語が通じなかったりする。そういった言葉の違いは特に強く異郷にあることを意識させる。感情を表現しても理解されないと感じてしまい、孤独感を増幅させるのだと思う。    このような感覚や情景を内包する「故郷」ということに関連して、仏教が「正覚」という言葉で示している「大涅槃」のあり方を「存在の故郷」(安田理深)として考察してみようと思う。この「存在の故郷」という言葉は、人間存在の在処を迷いの境界であると教え、そのあり方に目覚めさせて覚醒へと歩ませる要求を、望郷の情念に託して「願生浄土」の要求として表現した「帰去来(いざいなん)、魔郷には停(とど)まるべからず」(『真宗聖典』284頁)という善導の『観無量寿経疏』「定善義」の言葉に依っている。浄土とは、大涅槃を仏の本願によって象徴的に表現したものであり、衆生を大涅槃へと誘う教えの言葉であるからである。    今、「願生浄土」の意味を「存在の故郷」という言葉を通して考察しようとしているのだが、「存在」ということを仏教ではどう考えているのであろうか。現代語で「存在」という言葉は、辞書的に言えば、現実にそこにあると感じられること、あるいは人間のことといったように理解されるだろう。この語感には、現代人の人間の生存を肯定的に捉えているところがある。さらには、人間を生き物の中で最も高位にある者とする欧米由来の感覚が、現代日本人に沁み込んでいるとうことにも関わっているのではないかと思う。    これに対し、仏教の存在了解には、生きとし生けるものは平等である、という感覚がある。その中で、人間に生まれるということは、仏教徒の基本的なあり方を示す三帰依文に「人身受け難し」(『真宗聖典』中表紙)と示されているように、「有り難い」(有ることが難しい)ことなのだという感覚があるのである。    この感覚をたどると、その背景にはインドの思想に見られる輪回転生の生存了解があるとされる。仏教の六道流転の生存理解は、インド古来の生命観に由来すると言われる。現在の生存の背景には、遠い過去の時間があり、それが生々流転とも言われる。現在の生存は自分の意志や意欲で選んだのではなく、過去の深く遠い因縁の重なりや蓄積が現在にまで来たものなのであろう。    この因縁の重なりや蓄積が日常の自己を取り巻く事情となることで、自分の思うようにならない事件や出会いが生じてしまうと感じるのである。このことは、運命論とは異なるとされる。運命論の前提には、存在を決定づける必然性は自分の外部にあるという理解があるからである。それに対して六道流転してきた自己という理解には、現在の自分の思いのままにはならないとはいえ、自分が今ここに存在しているのは、曠劫以来の自分の過去があるからだという感覚がある。   (2024年2月1日) 最近の投稿を読む...
202305
第246回「存在の故郷」①
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第246回「存在の故郷」①  「故郷」という言葉は、生まれ育った場所を離れて生活する場合に、帰りたい場所への切望と共に用いられることが多い。この語に伴って、懐かしい人々、その人々との生活、祭りや市場など、さまざまな想い出や情景が脳裏に浮かんで、そこへ帰りたいという欲求が強烈に呼び起こされるのである。    ところが現代の多くの人々には、そういう情緒や情念を呼び起こす機会すら失われ、帰郷するべき場所を喪失しているようである。会社勤めなどの経済活動に忙しく、故郷喪失者となった人々が群れとして集合しているというのが現代の多くの都市生活者の状態であろう。    筆者の場合は、故郷となるべき場所が、現在は隣国である中国の領土となっている。言うまでもないことだが、日中戦争の発端となった「満洲(まんしゅう)」なる場所のことである。清国の王朝の出自たる中国東北部のことなのだが、ここに日本が武力で進出して、清朝最後の皇帝であった溥儀を新たに皇帝に立てて建ち上げたのが、いわゆる傀儡(かいらい)国家とされている満洲国なのである。    筆者はこの満洲国時代の開拓集落(弥栄村)に生まれて、幼少期をそこで過ごし、敗戦によって引揚者となったのである。だから、生まれ故郷はどこかと問われたら、異国の土地の、現在はそこに帰ることができない場所を指し示さざるを得ないことになるのである。このことに縁って、私は現在、世界でたくさんの方々が難民状態に陥っている事実や、その人々が懐いているであろう故郷喪失感に同感・同情を覚えずにはいられない。    この故郷喪失という情念を、或る特定の状況のこととしてではなく、現代の時代社会の大多数の方々にも妥当することとして、考察してみたい。現代社会は、便利さと快適さにおいては、いままでのいかなる時代にもまして、優れていると言うべきであろう。しかし、その便利さと快適さの中にどっぷりと浸かっていることにより、他の時代と比較してではなく、当今の現在において生きることの意欲が減退し、自己存在の深みという意味が欠落しつつあるのではないだろうか。    このことを、故郷喪失による自己の意味喪失として考えるなら、この故郷喪失の問題は人間存在の深みを問い直す契機として、大切な事柄であると言えよう。すなわち、存在の根底に、そこへ帰郷するべきであると言うことができる真の故郷を持つことができていないということ、そのことは自己自身の信頼すべき根拠を喪失しているということを意味しているのであり、その喪失感に由来する自己喪失感、すなわち自己自身への不信感とも言うべき事柄なのではないか。 (2024年元日)   ※「満洲国(まんしゅうこく)」の正式表記は「洲」を用いるため本稿でも正式表記にならっております。 最近の投稿を読む...

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投稿者:shinran-bc 投稿日時:

第221回「悲しみを秘めた讃嘆」⑤

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

Series 17 「悲しみを秘めた讃嘆」

 易行の要求に対し『十住毘婆沙論』は、一旦それを「怯弱下劣」な者の要求として退け、大乗菩薩道の菩提心にまい進するように励ますのだが、どうしても易行の道を要求するなら仕方ないと、「易行」の方法を説き出している。これでは論主龍樹の意図は、どう見ても菩提心の強いことを優位にしているとしか思えまい。ここを主にしてこの論を見るなら、法然が言うように「傍らに往生浄土を説く論」だと見るのも、当然だと言えよう。

 だからこそ、親鸞がこの『十住毘婆沙論』を「行巻」に浄土の行を説いた論として扱うのはどうしてか、いかなる思索過程から出てきたものか、という疑問も起こるのである。

 この論を「行巻」に取り上げるという取り扱い方は、実は曇鸞からの視点である。天親の『浄土論』の解釈を始めるに当たって曇鸞は、「謹謹んで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるに」(『真宗聖典』167頁)と、龍樹の名を出してくる。そして続いて、「菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり」(同前)と、大乗の菩薩道にすでに「二種の道」があることを龍樹が説いていると言うのである。その「二種」とは、「難行道・易行道」であるとする。それはすでに曇鸞の時代において、「五濁の世、無仏の時」であるから、阿毘跋致(不退転と漢訳される)を求めるのは困難至極であるからだ、と言う。

 そもそも、曇鸞は龍樹系統の論を中心にした四論の学匠だったのだから、菩提心に立って仏道を求めることに疑いをいだいたわけではなかろう。しかし、翻訳を通しての論の解釈と、仏陀の教えそのものとの隙間のようなものへの、デリケートな疑惑の陰を感じていたのではないか。釈尊没後、すでに千年に及ぶ年月があり、インドの僧伽に、いわゆる「大乗仏教」と呼ばれ